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片野勧の衝撃レポート太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑫ 3/10 東京大空襲から 3/11東日本大震災へ<上>

   

 片野勧の衝撃レポート

 

太平洋戦争<戦災>311>震災

 

『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか
  3/10 東京大空襲から 3/11東日本大震災へ<上>

             片野 勧(フリージャーナリスト)

 

「押せ押せできた」戦後67

 

東日本大震災に遭遇し、自然の脅威に無力感を抱いた作家は少なくないだろう。その中の一人、古井由吉さんは自宅で激しく揺れた「3・11」の時のことをこう表現している。

「空襲も地震も、特定の一点が狙われるわけではなく、あまねく襲われる。逃れようのない恐怖という点では同じだった」(『蜩の声』講談社)

 

古井さんは東京生まれで敗戦を経験している。その時、8歳。疎開先の岐阜では空襲も体験した。防空壕の中の異様な静寂。激しい爆音に交じる犬の遠吠え。男たちの叫び……。幼少時の聴覚を通して刷り込まれた記憶を重ねながら、長い文章を綴っている。

「視覚は距離を置いて対象を把握できるが、耳から入った記憶はより直接的で浸透力も強い。生きていくために普段は想起しないようにしているけれど、記憶の底には残っている。われわれは決して安泰な世界に住んでいるわけではない」(同)

さらに続ける。

「安泰が続くとみんなが同じ現実を共有していると思い込んで意思疎通も短い言葉ですませてしまう」(同)

言葉の衰退は圧倒的な力に襲われることもなく、「押せ押せできた」戦後67年の安泰な歴史と無関係ではないと、古井さんは見る。

 

東京の空は真っ赤だった

 

私は3・10東京大空襲と、3・11東日本大震災の両方を体験した人を求めて、被災地・東北地方を回った。なかなか該当者が見つからない。しかし、ある日、偶然にもその人に会った。福島県石川町に住む三森たか子さん(91)だ。2012年11月24日。

彼女は地元の中学校教師(理科と社会科)を退職後、町立歴史民俗資料館に勤務。第2次大戦中、国産原子爆弾用ウラン鉱石が同町にあったことから陸軍が原爆開発計画を実施。三森さんはその実態を調査していた。そのリポートが46ページの小冊子「石川における希元素鉱物研究の歴史と原爆研究」である。

 

私は幻に終わった日本の原爆開発について話を伺っていたところ、三森さんは突然、こう言い出されたのである。

「実は私、3月10日の東京大空襲で焼け出され、その3日後の3月13日、東京・深川から父の実家の石川町へ父と母と私の3人でやって来ましたのよ」

三森さんは当時、22歳。旧深川区立明川高等小学校に勤務していたが、焼け出されて石川町の宮本小学校に転勤。住まいはバラック建てでランプ生活だった。

話は幻の国産原爆開発から東京大空襲へ。ビュンビュン、シュルシュルシュル。戸外一面、火の粉の雨。這うようにして息をのむ。

 

「周りは強制疎開で家は壊され、常盤国民学校だけがポツンと残っていました。そこが避難所になっていたけど、私たち親子3人は清澄庭園に逃げて助かりました」

強制疎開とは空襲による火災の被害を少なくするため、建造物などを強制的に壊し、他の安全な地域へ移動させること。清澄町1丁目に住んでいた三森さんは待避所の清澄庭園に逃げて、かろうじて一命を取りとめたのである。

「夜が明けたら、焼けただれた人がゾロゾロ歩いていました。清澄庭園近くを通ったら仏像が飛んできました。しかし、よく見ると仏像ではなく、人間の死体でした。お墓も燃えていて、黒焦げの人が大勢いました」

 

清澄庭園を一歩出た。石塀の陰には逃げ場を失った人々が折り重なって悲惨な最期を遂げていた。初めて見る焼死体。燃えてしまって、わが家はない。一面、焼け野原だった。

 

2時間半で10万人が死んだ

 

アジア太平洋戦争の末期、日本の諸都市はB29の猛爆撃にさらされたが、とりわけ深刻な人命の犠牲を出したのが、東京だった。(以下、東京空襲を記録する会編『東京大空襲・戦災誌』第1巻を参考にする)

――1945年3月10日零時8分。米軍325機のB29は北北西の強風をついて、深川地区に侵入。木場2丁目に焼夷弾を投下し、最初の火災が発生した。風速12・7メートル、瞬間最大風速25・7メートル(中央気象台調べ)にあおられ、さらにB29の波状攻撃によって深川全域は火炎に覆われた。

 

深川地区は一夜にして見渡す限りの焼け野原となった。その夜の深川地区の被害は死者3万名、負傷者1万7000名、罹災者14万8800名。ついで2分後の零時10分。火災は隣接した城東区にも発生。さらに焼夷弾の豪雨は本所区を南北に縦断。江東ゼロメートル地帯を包囲した。浅草区や日本橋区にも広がり、わずか半時間たらずのうちに下町全域は火の海となった。

 

東京の下町は山の手と比べ、土地が低く、川が多い。隅田川、荒川放水路、江戸川から東京湾に流れ込む埋立地にマッチ箱のような人家が密集し、B29はそこを狙ったのである。

 

B29は、この町の周囲を巨大な火の壁で包囲しておいて、その後しらみつぶしに人家の密集地区に向けて、ナパーム性のM69油脂焼夷弾のほか、エレクトロン、黄燐などの各種焼夷弾約33万発(1665トン)を投下した。

炎は一瞬のうちに激流のように流れた。業火は不気味な轟きをあげて、川を渡り、町を走り、人々をなめた。水面から首だけ出していた人は一瞬に髪を焼かれて死んだ。一酸化炭素中毒で死んだ人も数多くいた。凍死、溺死もあった。

 B29の爆撃は10日午前2時37分の空襲警報解除の前に終了したが、燃えさかった猛火は容易に消えることはなかった。10日の明け方までえんえんと燃え続けた(これについては後述するように、約30時間、燃え続けた説も)。

被害は東京の下町地域に集中し、本所区(現在の墨田区)、深川区、城東区(以上江東区)、浅草区(台東区)の4区はほとんど全滅。約2時間半の爆撃で10万人が死んだのである。

 

なぜ、これほどの犠牲者が出たのか。要因の一つは昭和18年(1943)に改正され、法8条ノ3条項に違反すると罰則が科せられた「防空法」にあった。空爆が起きたとき、隣近所の住民同士がグループで消化に当たることを法律で義務づけ、現場から避難することを禁じていたからである。

空襲で火災が広がっても逃げることは許されず、一丸となって消火に当たらなければならなかった。それもバケツで水をかけたり、水で濡らした“火たたき”で叩いたり。焼夷弾が落ちた瞬間にすぐに避難していれば、こんなに多くの犠牲者は出なかったはずだ。

 

震災と311東京大空襲の情景は同じ

 

2011年3月11日夜、私は東日本大震災の惨状をテレビで見た。津波で街が全部、さらわれていくエネルギーを目の当たりにして、私は言葉を失った。その時、瞬間的に思い出したのは、写真で見た3・10東京大空襲の焼け野原の情景だった。倒れた電柱。崩壊したビルの残骸。荒涼たる虚しい風景……。

 

もちろん、東京大空襲の場合、焼け野原といっても、東北の津波の跡のような状態ではなく、東京中ががれきの山だった。しかも、東京に残っていたのは女性と高齢者と子どもたちばかりで、がれきの山を片付ける人がいなかった。

 「3・11」直後、テレビをつけたら、そこに一人の男が叫んでいる映像が映し出されていた。その男は石巻市在住だったと思う。

「俺は東京大空襲に遭い、そしてまた今回の震災だよ」――。

私は、その声の主を求めて石巻市を訪ねた。大震災から4カ月半が過ぎた2011年8月半ばだった。まず市役所へ行って該当者を尋ねたが、知らないという。仮設住宅も何件か当たってみたが、分からないという。途方に暮れているところへ、埼玉県新座市に住んでいる友人の川柳作家・千葉朱浪さんから携帯が鳴った。千葉さんは現在、各地で川柳教室「創琳」を主宰している。

「東京空襲を体験した人が宮城県の登米市にいますよ」

窮すれば通ず。救いの神は意外なところにいた。その方は千葉さんの川柳教室の生徒の一人だった。名前を高橋とし子さんという。大正15年2月生まれの86歳。私は、さっそく登米市へ飛んだ。

 

――今から67年前、東京が空襲されたとき、どこに住んでおられましたか。

「結婚して千葉県の習志野市にいました。主人は習志野連隊にいました。習志野にも焼夷弾がパラパラ、落ちてきました。怖くて、いまだに忘れられません」

高橋さんは習志野市から3月10日の東京大空襲の様子を見ていた。

「東京の空は真っ赤に燃えていました」 

夜空に探照灯が交錯し、敵機が落ちたと思って、歓声が上がった。しかし、落ちたのは友軍機とわかった。その後、東京・下町の焼け野原を歩いた。その時、今も目に焼きついて離れないのが、葛飾橋を渡った時のこと。あたりは焼け出された人の死体の山だった。

空襲が激しくなると、残された妻や子供たちは地方に疎開した。高橋さんも昭和20年7月、習志野から登米市へ疎開した。その時、上野駅で目にした情景。

「浮浪者がたくさんいて、みな、寝転んでいました。食べるものも、住むところもない子供たちが大勢いて、本当に可哀想でした。戦災孤児もいました」

上野駅から見た街は一面、焼け野原。はるか彼方に日劇がポツンと建っているだけだった。

 

「今も目に浮かびますけども、焼けた東京の街は悲惨でした。狂気の沙汰でした」

東京の街は焼き尽くされて一望千里。あるのはがれきの山だけ。

――生活はどうでしたか。

「皆、飢えていました。その中、肩を寄せ合って生きてきました。未来に希望をもって生きてきました」

――終戦後は?

「戦争が終わって、主人は登米市の実家に帰ってきました。しかし、仕事はありません。ある日、岐阜の友だちから『瀬戸物屋をやってみないか』と言われて、瀬戸物屋を始めました。モノが不足していた時代でしたから、これがうまくいって、工場も建てました。縫製もやり、町会議員もやりました」

――今回の震災の被害は?

「おかげで、うちは何もありませんけども、被災者は大変です。宮城県の人たちは避難のために山形へ行ったり、東京へ行ったり……。戦争中、私たちが疎開した時と同じように苦労が多いと思います。地震も戦争もあってはなりません。特に戦争は人間が起こすことだもの、一番いけません」

 

川柳に時代を詠む

 

2012年の春、高橋とし子さんはこれまで詠んできた川柳を一冊の本にまとめて出版した(時事川柳創琳『あゆみ春』講評・千葉朱浪氏)。その中から三首を紹介する。

 「寅年に千人針が浮上す」

<戦争中は出陣する人に「千人針」が贈られた。千人の女性が1針ずつ縫って結び目を作った布を身につければ弾よけになる、とされていた。しかし、寅年の女性は年齢の数だけ縫うことができた。寅年の2010年は不況で荒廃した戦時中に似ており、千人針が流行るかもしれない>

 「鳩ポッポ歌の文句に遠すぎる」

<「鳩ポツポ が欲しいかそらやるぞ」ではなく、言行不一致は連日、宇宙人ともくされた得体の知れぬ御仁である>

 「沖縄の縄も取替え頃になり」

<長い日米同盟の中で普天間基地の移転先を2010年5月末までと鳩山由紀夫総理が言明。発言内容も大ブレで総理の支持率が急落。縄よりも総理を変える方が、より簡単かもしれない>

 

高橋さんは今も国会中継を欠かさず、見ているという。東北の一地方から政治や経済、時事ネタを通して、皮肉や自嘲、憂いを込めながら川柳をつくっている。庶民の詠み手には、さぞや、総理といえども、頭が上がらないに違いない。

 

 

                                                           つづく)

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