片野勧の衝撃レポート太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑮ 3/10 東京大空襲から 3/11東日本大震災へ<下>
2015/01/01
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑮
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』
3/10東京大空襲から3/11東日本大震災へ<下>
片野勧(ジャーナリスト)
あいまいにする国家の戦災処理責任
国家が引き起こした戦争でありながら、旧軍人には戦災死者と公的に認知しているのに、なぜ空襲死者は認知されないのか。母を含め4人の家族を東京大空襲で亡くされた斎藤亘弘氏はこう書いている。
「国家の戦災処理責任をあいまいにし、その戦争責任を糊塗する機能を担う危険性を伴っています。……(中略)また、これは、戦災死の史的証拠を改ざん、隠蔽、抹殺する機能をも果たし、死者の霊を冒涜することにもなってしまいます。それは、また、国際法上許されない、非戦闘員の人的資源を抹殺する明瞭な意志をもって遂行された空襲という大虐殺を、国家として黙認・荷担し、自国の戦争責任を不問に付す無責任行為にもつながり、その意味で、遺族・罹災者にとっては、道義的にけっして容認できない許すべからざる行為といえるのです」(『歴史評論』2001年8月号)
軍は「国民の生命と財産を護るため、自衛のための戦争だった」という。しかし、軍は、東京が世界最大の空襲の惨禍を浴びているにもかかわらず、情報をひた隠しにしたため、その後も東京をはじめ全国都市への空爆、6月の沖縄戦、8月の広島・長崎の原爆投下へと続き、死者が拡大した。
その上、戦争に反対すれば、投獄、拷問にかけられ、空襲の惨状を語るだけで特高警察に逮捕。こうして国民は軍の横暴にさらされてきたのである。
東京初空襲
私は3・10東京大空襲と、3・11東日本大震災の両方を体験した人に会うために福島県南相馬市を訪れた。2012年11月25日。訪れた先の、その人の名前は鈴木丑太郎さん(85)といった。終戦時、18歳。彼は「日記」をめくりながら、当時を振り返った。昭和18年4月18日の「日記」にこう書いてあった。
「起床5時30分。今日は忘れもせず4月18日、わが国初の空襲のあった日である。当会社、空襲を受けて一箇年を過ぎた今日は、その記念日にて殉死された人々の慰霊祭があった」
「忘れもせず4月18日」というのは東京が初空襲された昭和17年(1942)4月18日のこと。日本本土東方1317キロの海上にある空母ホーネットから飛び立ったB25中型爆撃機16機による空襲だった。これは隊長の名をとって「ドゥリットル空襲」と呼ばれた。開戦から4カ月目の空襲で日本空軍は手も足も出なかった。
鈴木さんは昭和17年3月30日、福島県飯舘村から学徒動員で東京へ出て、軍需工場で働いていた。3・10東京大空襲の時は川口の工場にいて難を逃れた。鈴木さんの証言から。
「私は昭和2年7月に生まれ、昭和の子供として、改訂教科書(昭和7年改訂)によって教育されました。世に言う『サイタ サイタ』『ススメススメ ヘイタイススメ、ヒノマルノハタ バンザイ』と軍国日本を担って立つ教育を受けて育ちました」
鈴木さんは小学2年の時、2・26事件が起き、やがて昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋での衝突から中国と全面戦争に突入し、昭和13年には国家総動員法が制定。昭和15年には大政翼賛会が設立された。
「私たちはこのような中で成長し、そして遂に昭和16年12月8日、米英開戦となり、20年8月15日の終戦まで塗炭の苦しみを味わったのです。忘れることのできないのは、多くの先輩たちが学徒出陣でほとんど帰ってこなかったことです」
終戦の8月15日。鈴木さんは俳句を数句、詠んでいる。そのなかの1句。
「死んだ夫よみがえり泣きくずれ」
3・10東京大空襲で10万人以上が死んだ。しかし、死んだものは生き返らない以上、生き残ったものは何をなすべきか。戦争を知らない次の世代に再び、同じ過ちを繰り返させないために悲惨な過去を語っていくことだと鈴木さんは思う。
原発事故は人間の心を蝕んだ
「南相馬はみんな人間性がいいところだったのに、東電のおかげでめちゃくちゃにされました。それが一番、悲しいです」
こう語るのは南相馬市原町区国見に住む大槻千鶴子さん(75)だ。福島第一原発から20キロ圏内。放射能に汚染されている同地区は除染しないと住めない。ところが、自分たちの命は自分たちで守るのが基本なのに、何でも東電頼み。大槻さんは東電の相談室へ乗り込んで行って、こう言った。
「東電はお金さえ出せばいいと思うかもしれないけど、南相馬の人々の人格をダメにしたんですよ。お金さえもらえればいいと思うから、仕事しなくなったのよ。そういう町にしてしまったのが、原発事故です。人間の心を蝕みました」
2011年3月11日金曜日、午後2時46分。大槻さんは病院のベッドから起き上がろうとした時に大きな揺れを感じた。その3日前に子宮がんの手術をしたばかりで、まだ抜糸もしていない。やがて津波情報が流れ、病院内は大騒ぎ。
トイレは止まる。水は止まる。夜になって、みんなで避難するから「下に降りてきて!」 といわれた。しかし、歩けない。そのまま大槻さんは病院に残ったのである。ところが、13日に病院を閉鎖するという。
「私は家族4人とともに各地を転々としました。まずは飯舘村を通って、川俣へいきました。そのあと福島市や栃木の小山市へ行きました」
まだ抜糸は取れていないので、車で走っていると、傷あとから水が出てくる。こんなことが10日間ぐらい続いた。福島の病院で抜糸した。今でこそ国から医療費は出ているけれども、当初、東電はその医療費は出せないと言った。証明書もないし、原発事故とは関係ないからと。
「でも、証明書といっても、誰が証明してくれますか」
南相馬市には一人暮らしのお年寄りは多い。証明書を書けないお年寄りも多い。
「同じ原発事故に遭っているのに、どうしてなの?」
被災者に対する東電のやり方に疑問が晴れない。大槻さんは小山市の姉夫婦のところに6カ月間、お世話になった。その間、自治医大に週2回、通った。抗がん剤も射った。
終戦時、大槻さんは国民学校1年生だった。3・10東京大空襲は直接、体験していない。当時、神奈川県の逗子市に住んでいたからである。しかし、東京の空が赤く染まっていたことは鮮明に記憶しているという。
「3月10日の明け方、父が帰ってきて、父の実家の原町に疎開することになりました。私は3月下旬、終業式を待たずにランドセルを背負って、着の身着のままで汽車に乗りました」
上野駅近くに来たとき、息をのんだ。あたり一面、焼け野原で人々は為すすべもなく虚ろな目をして彷徨っていた。子どもを背負った母親が、防火用水桶の中に頭を入れて亡くなっている姿を見て、足がすくんで動けなくなった。
「本当に生きた心地がしませんでした」
東京に住んでいた長姉も3・10東京大空襲の時、幼い3人の子のうち1人を背負い、残る2人の子の手を引いて防空壕に入ったが、胸を強く打ち、肋膜を患って、この世を去った。大槻さんは言う。
「いつの世も、戦争で傷つくのは弱者です。子供や女性、老人です。次の世代に戦争の悲惨さや、平和の尊さを語り継いでいくことが、大勢の戦争犠牲者の基に生きてきた私たち世代の責務ではないでしょうか」
戦時中、不気味なサイレンが連日鳴り響き、人々は風呂にも入れず、食事も満足に食べられない。夜は寝入りばなを叩き起こされ、洋服を着たまま横になる。いつ、どこで、だれが空襲にあうかわからないという、毎日が恐怖の連続。それが地震と違う空爆の恐ろしさだろう。
サイパンが陥落
昭和19年(1944)6月24日。米軍はサイパン島などマリアナ諸島を占領した。サイパンは戦争遂行上、絶対確保すべき「絶対国防圏」の中心だった。同年11月、サイパン島から飛び立った米軍のB29が東京を爆撃し始めたが、日本は敗北の連続だった。
大本営陸軍部第20班(戦争指導班)は「速やかに戦争終結を企図すべき」と主張した。しかし、総辞職した東条英機首相のあとを継いだ小磯国昭、鈴木貫太郎両首相は米軍に一矢報いて対米講和を優位に進めたいとの「一撃講話論」を主張し、戦争を続けた。
そして翌1945年3月10日の東京大空襲に始まる大都市への爆撃は名古屋、大阪、神戸と続き、川崎は4月15日に空襲を受けた。8月6日には広島、9日には長崎に原爆が投下された。戦地では特攻、玉砕が続いていた。「硫黄島の戦い」では約2万人の日本兵が死んだ。
誰が見ても敗戦はサイパン陥落で明らかだった。この辺で終戦にすべきだったのに、なぜできなかったのか。歴史家・家永三郎氏(故人、東京教育大学名誉教授)がいうように戦争目的が単なる侵略戦争でなく、「国体護持のための戦争」だったからである。
今、1票の格差で先の衆院選は「違憲状態」と判断した最高裁判決があるのに、ひたすら先延ばししようとする政治家の姿は、終戦の決断ができずに惨禍を拡大させてしまった大日本帝国とどこか重なり合う。
昭和史を眺めても、戦前の統帥権を握っていた日本の天皇が中央政府をただせず、軍部の暴走を食い止められなかった。その時、暴走した官僚や軍人をクビにすべきだったのに、先送り。その結果、状況はますます悪化の一途を辿り、尻拭いに追われ、うやむやに処理してしまった。
ただ、生涯で3回、天皇が軍と対立して勝っている例がある。第1回目は張作霖暗殺事件で長州軍閥の長である田中義一首相のクビを斬ったとき。第2回目は2・26事件のとき。第3回目は敗戦で軍隊全部を斬りすてたとき(松浦総三『「天声人語」の天皇と戦争』蝸牛新社)。
官僚各省は国益よりも省益を優先
戦後の政治体制もこの構造に変化はない。戦犯は公職復帰し、解体した財閥は息を吹き返した。戦争責任を隠蔽し、ごまかした。それを一貫して擁護したのが大新聞、TVだった。
戦前の軍部官僚と同じように、官僚各省は国益よりも省益を優先し、各省庁の分捕り合戦を展開する。これは戦前、陸海軍がことごとく対立し、最後まで一体的な作戦を組めなかったのに似ている。日本が戦争に負けた大きな要因の一つは陸軍と海軍の縦割り意識の強さにあったことはいうまでもない。
その結果、政府は膨大な国債を発行し、借金の山を築く。いまや1千兆円という返せる見込みのないところまで膨んだのに、誰も責任を取らない。安倍(晋三)政権は国土強靱化を名目に10年間で200兆円ともいわれる公共事業をやろうとしている。
もちろん、国民の命と財産を守るための社会資本整備という国の役割に、予算が正しく使われるのなら国民も納得がいくだろう。しかし、日本の行政組織は隙あらば、自分たちの都合のいいように予算を使う傾向がある。
憲法改正や集団的自衛権の行使容認を掲げる安倍政権の狙いは、どうも予算を正しく使いそうもない。戦前の軍事国債発行と同じ過ちを繰り返すように思えてならない。五十嵐敬喜氏(法大教授)も『日刊ゲンダイ』(2012/12・27付)で大要、こう述べている。
「他国が攻めてくるのだから、軍艦を造らなければいけない。同じように、必ず首都圏を大地震が襲うのだから、四の五の言っていられない。すぐに国債を出して公共事業をやるしかない。そんな中、政治家=族議員と官僚、財界が再び、トライアングルの三角同盟を築く可能性もないわけではない。
もちろん、公共事業で老朽化した施設を改善することは必要だろう。再生エネルギーも大事である。しかし、風力や太陽光発電などは結果が出るまで時間がかかる。参院選までに短期間で景気回復を演出したい安倍政権はやはり、土建屋を潤そうとしているように見える。必要のない公共事業に使われることになると思う」
国民を人質に自らの延命を図る
太平洋戦争の教訓はトップの決断である。無為に引き延ばしを続けたために、東日本の復興も経済の低迷も外交の停滞も続いたことは周知の通りである。国民生活を人質に取り、自らの延命を図る――。いつの時代も権力者は自分の都合を考えて、国民をないがしろにするものなのかもしれない。
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
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