日本リーダーパワー史(687)『北朝鮮行動学のルーツ②』ー150年前の「第一回米朝戦争」ともいうべき 1866(慶応2)年9月、米商船「ジェネラル・シャーマン号」の焼き討ち事件(20人惨殺)の顛末を見ていく。<事大主義と小中華思想、中華思想=エスノセントリズム (自民族中心主義)のギャップ、対立が原因>
2016/03/16
日本リーダーパワー史(687)
『北朝鮮行動学のルーツ(下)』ー150年前の「第一回米朝戦争」とも
いうべき 1866(慶応2)年9月、
米商船「ジェネラル・シャーマン号」の焼き討ち事件
(20人惨殺)の顛末を見ていく。
<事大主義と小中華思想、中華思想=エスノセントリズム
(自民族中心主義)のギャップ、対立が原因>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
前坂俊之(ジャーナリスト)
この朝鮮のかたくなな拒絶の背景には最後の将軍・徳川慶喜と八戸順叔のデマが関係しているといわれる。
それは名草杜夫『右翼浪人登場―岡本柳之助の光と影』(草風社刊 昭和1980年刊)の183-186Pによると、概略こうである。
江戸時代、幕府は対馬藩の宗氏を通じて対韓外交を進めていた。ここに問題があった。というのは、朝鮮国にすれば対馬藩には常に恩恵を施している。その外交、貿易も許してやっていたと自負心をもっており、対馬藩は朝鮮国に従属したものと考えていた。
事実、その外文書にしても、朝鮮国よりもらった「島主図書印章」を使用していた。幕閣はそれを知らなかった。長崎の出島にオランダ商館があるように、釜山の草梁に「倭館」と称する対馬藩の出張所もあり、多くの対馬人、居留民もいたが、果して幕府がどの程度それを把握していたかは疑わしいのである。
明治新政府が樹立された時、朝鮮政府に対し、幕府は廃止されて王政復古になったことを通告する必要があった。そこで、新政府は今までの対馬藩の特殊権益を認めた上で、その家役として「日韓外交管掌」(日韓の外交交渉所)を命じている。
明治元年12月、対島藩主・宗義連は家老・樋口鉄四郎を大修大差使正官(外交官)として、釜山に派遣した。その時の文書は対馬藩京都留守兼公用人大島友之允らが朝廷の外国官と協議の上、原案を作成した。
その時に外国官から下付せられた新印「平朝臣義達章」はその文書である「大修大差使書契」(外交文書)に初めて使用した。
12月21日、朝鮮側の倭学訓導・安東唆と樋口鉄四郎とが倭館で会見しているが、「大修大差使は規外(これまでの慣例とは違う)であり、書契中違格(書式の違う)文字の多い」ことを理由にこの外交文書の受理を拒否された。
朝鮮側は従来より島主(対馬藩主)に与えてある鋳造の印章を使用せず、しかも宗義連は今回は左近衛少将対馬守平朝臣義連と勝手に名乗って、皇室奉勅云々の字句があるのは『驕慢至極である』というのである。
この時の書契は単なる王政復古の外交文書で極めて友好的なものである。
なぜ朝鮮側は新政府との外交関係を結ぼう
としなかったのか。
李王朝大院君の度の過ぎた対日姿勢に根本的な問題があるが、その理由の1つに、慶喜が徳川十五代将軍であった慶応3年3月13日、朝鮮からの書状が対馬藩を経て慶喜のもとに送られてきたことがある。
両国間において慶賀弔慰は勿論、国内に重大問題があればお互に知らせ合う取り決めがあった。1858(安政5)米英仏露蘭5国との修好通商条約が締結されたとき、対馬藩を通じて朝鮮が日本側に通報してきた。
その内容は、「今次の洋夷は巨艦によって、大洋を航行するものであるから、いつ日本に出没する危険がないか予測し難い、隣誼の上から見ても最近経験した詳細を日本に通告し、その警戒を促す」という意味のものであった。
しかし、徳川幕府としては当時フランスとは一番仲が良かった。フランス公使ロッシュ は慶喜を尋ねて「仏国政府は来春を待って韓国を征服する」ことを告げ、暗に日本がフランスと朝鮮との仲介に立ってくれれば、将軍の顔を立てて応ずる素振りを見せたのである。
アメリカも『ゼネラルシャーマン号』の虐殺事件で朝鮮にその罪を問わんとする意のあることを知っていた慶喜は、隣国の誼でもあり、自分の手柄ともなるので、かつて十年前までは日本も鎖国政策であったが、今は開国して彼等と条約を結んでいる。先輩国として朝鮮に忠告し、又その仲介役を買って出ようとしたのである。
慶喜は既に外国奉行平山図書頭を朝鮮追使として決定し、米・仏の調停に立つ準備を進めていたが、大政奉還となり、中止せざるを得なくなったのである。
もう1つの事件は日本人の八戸順叔なる人物が香港で、
1866清国同治5年(慶応2)12月、地元の漢字新聞に
日本のデマ情報を投書したのである。
それは中浜万次郎が上海で蒸汽船80隻を製造し、帰朝の上、江戸で諸侯会合し、朝鮮征伐の企てあるというデマ記事を書いた。これが、翌同治六年(慶応三)2月15日には李王朝に報告された。
この結果、李王朝の鎖国政策と明治新政府の外交政策とが対立し、パーセプションギャップ(思い違い)、コミュニケーションギャップがエスカレートしていった。日本側にもその責任がありとするならば、この八戸順叔の香港新聞の記事であり、又、対馬藩をして外交所管させたことである。
対馬藩は元々、私的な外交と密貿易によって利益を得ており、新政府と朝鮮との国交は望んではおらず、朝鮮に対しては臣従の姿勢をとるダブルスタンダード〈二重基準〉の仲介役だったのである。
『中華思想による属国『小中華』の朝鮮の事大主義』
中華思想を一言で結論づければ、漢民族の伝統的信条である中華思想と朝鮮の両班(やんばん・知識階級)たちのもつ文化的優越感に由来する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
古代支那で発達した高い文化、宗教、思想、技術ほ、朝鮮半島を経由して日本に伝えられたことは誰でも知っている。
日本にとって、いわば支那は師父の国であり、朝鮮は文化の先輩に当たる。江戸時代に信者が朝鮮を高く評価していたのはそのためである。
その古代支那人の問で芽生えたのが中華思想である。「中」とは世界の中心、「華」とはずば抜けて高い文化をさす。周辺の文化の低い未閑人を東夷(とうい)、北狄(ほくてき)、西戍(せいじゅう)、南蛮(なんばん)とし、我のみ中華の民なりと自負した。
日本はさしずめ東夷 つまり東方の未開人できわめて文化は低く見られていた。朝鮮も日本を弟の国と見下していた。
西欧列強は中国、日本の門戸を開いた後は、一斉に極東最後の国朝鮮を目指した。ところが、朝鮮の鎖国政策はどこよりも厳重であった。
開国を求めてきた各国と朝鮮の対立の歴史をみるとー
1862年、イギリス、フランス、ロシアが朝鮮との交渉を求めるが拒否される。
1866年、9人のフランス人宣教師が裁判の結果、処刑され、1万人以上の教徒の大虐殺をおこなった。
折から英仏連合軍が北京を占領した後だったので、フランス東洋艦隊のローゼ提督はただちに七隻の東洋艦隊をひきいて、江華湾に攻めよせ、江華山城をおとし入れ、銀塊40万と、書庫の国宝の古文書を戦利品として奪い去った。
震え上がった大院君は、慶応二年(1866)秋、日本に救援をもとめたが、徳川慶喜が第十五代将軍職について間のない幕府滅亡一年前のことなので、救援軍をおくる余裕など全くなかった。
仕方なく大院君は、全国から虎狩の猟師800人を呼び集めて、旧式の銃で武装し城中に伏せておき、ゆだんしているフランス軍を攻撃、多数の死傷者が出た。ローゼ提督は、一時的に撤退し軍艦をひきあげた。これが「朝仏戦争」で「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」ともいわれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AF%85%E6%B4%8B%E6%93%BE
ところが、大院君はあのナポレオンのフランス軍が退散したと勘違いした。フランスといえば、朝鮮の宗主国の清国さえ手も足も出なかった軍事大国である。「その強大フランスが、見よ!ウリ(我が輩の朝鮮語)の作戦には歯が立たず尻に帆かけて敗走した」と意気あがった大院君は、ソウルのメイン道路(鐘路)に一大戦勝記念碑をたてた。
「洋夷侵犯。非戦即和、主和売国」(「洋夷侵犯す。戦うにあらざれば、すなわち和す。和を主とするは売国なり」)。
これを機に、鎖国を維持し排外に徹する朝鮮の基本外交政策が確立した。この二年後に、明治新政府が修交をもとめたって応ずるわけがなかったのである。
さらに、大院君を図にのらせた事件が続いた。
1866(慶応二)年9月、アメリカの冒険商人を乗せた「ジェネラル・シャーマン号」が朝鮮との交易を求めて米国国旗を掲げて、朝鮮側官憲の拒絶を無視して強引に大同江を遡航したが、地理不案内のため浅瀬に乗りかげて立往生した。
朝鮮側は、薪を満載した多数の小舟に火を付けて川上からシャーマン号目がけて流し、同号を火攻めにして沈没、船員20名全員が虐殺されたが、米国は、当初この事件を知らなかった。
翌年、フランス海軍から事件を知らされた米海軍は激怒し、謝罪と通商を求めてジョン・ロジャーズ司令長官率いる米東洋艦隊5隻を派遣し江華島に向かい明治4年(1871)6月11日、激しい砲撃戦を展開した。
フランスの侵攻以来、朝鮮では80門の大砲をそなえて待っており、650人の米海兵隊が上陸、朝鮮側の抵抗にあったが、米軍が広城鎮を制圧した。朝鮮軍は240人以上が戦死、米側の被害は少なかった。
米側は江華島を占領したものの、通商条約を締結する意思がないことを確認してひき上げた。「朝鮮は日本、中国ほどの経済的、地政学的な利用価値がなく、日本よりも厳重なる鎖国なり」と北京在住のロウ駐清大使は米国務長官あてに報告していた。これが、「米朝戦争」「辛未洋擾」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E6%9C%AA%E6%B4%8B%E6%93%BE
ところが、朝鮮は、もう一度アメリカが反攻してくるものと、必死で防御していたが一向にその気配がない。
「これは足腰のたたぬほど、ぶちのめされ、アメリカが敗北したのだ」とフランス戦同様に手前みそに解釈し勝利の祝賀祭を大々的に行った。
アジアでは日本も含めて西欧列強の圧力にすべての国が屈し、開国を余儀なくされたのに対して、唯一朝鮮のみが大院君の名采配で仏、米を追っ払ったとうぬぼれ『朝鮮は世界一』と勘違いした。
こうした時期に、事情を知らない日本の使節か修交条約を結びにいったのだか、余りにタイミングが悪すぎたのである。
「近事、貴国の使節の乗ってくる船、きてくる着物をみるに、在来の倭風と違って、夷狄(いてき)の物である。かくの如きは日本人とはいえない」
純粋の日本は古い修交国だが、夷狄化した国とは、修交の歴史もなく、その希望ももたぬ、寄りついたら打ち殺すぞ」とまで、威猛々しく修交を拒否した。
結局、このすれ違いが、征韓論の原因となったのである。
今度は日本側からも日朝修好条約の締結に向けての行動を見ていく。
明治維新とともに新政府は最初に朝鮮との修好関係を結ぼううと使節を派遣したが、このようなさんざんな目にあった。
明治元年(1868)11月、明治新政府は王政復古の内容を通告して朝鮮に修好を求めた。だが、文書のなかに「皇」「奉勅」などの文字が入っていたことに朝鮮側は驚き、会見を謝絶し、国書を突き返した。「皇」は中国皇帝にしか使われない漢字で、そのため天皇が朝鮮国王の上に立つことを意味することになり、日本が朝鮮支配の野心を持っているものと誤解した。
明治3年10月、外務卿の代理が交渉に行ったが、朝鮮政府は引見を拒否した。5年3月にも代表を送って返事を催促したが、これまた回答を先延ばしした。
おとなしい太政大臣(首相に相当)三条実美までもが朝鮮側の態度は『無礼である』と腹をたてて征韓論を主張して、明治6年7月に閣議に諮った。
木戸孝允、大久保利通らは岩倉使節団として外遊中だったが、西郷隆盛を全権大使として談判のために朝鮮に派遣することが閣議で決まった。これが「征韓論」といわれるものである。
韓国の日本への執拗な謝罪要求は事大主義と小中華思想が理由
http://www.news-postseven.com/archives/20131211_230802.html
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