前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『各国新聞からみた東アジア日中韓150年対立史①』●131年前の日韓第一次戦争(1882年の京城事変、壬午軍乱)

   

 『各国新聞からみた東アジア日中韓150年対立史①』

 

131年前の韓第一次戦争1882年の京城事変、壬午軍乱
の日本側の「読売」「郵便報知」の報道の内容①

 

最近の日中韓の対立のコジレをみていると、日中韓の150年戦争史の既視感(レジャビュ)がよみがえります。あと5年(2018)後は明治維新(1868年)からちょうど150年目に当たります。この間の三国関係を振り返ると、過去100年以上は対立、紛争、戦争の歴史であり、仲良くしていた時期はこの最近3,40年ほどの短いものであり、単に「近隣関係、近隣外交は仲良くしなければ」という建前論からではなく、その対立、戦争のとなった原因までさかのぼって客観的に調べなければ、何重にもモツレた歴史のネジレを解いて真の善隣友好関係は築くことができません。その意味で、150年前の対立、戦争となった事件の各国の報道をたどってみたいと思います。(前坂俊之)

 

当時の新聞が報道した京城事件とは<けいじょうじへん【京城事変】>のことです。
朝鮮の壬午軍乱(1882)甲申政変(1884)に対する当時の日本での呼称。両事件とも京城(ソウル)で起きたので,このように呼んだ。京城とは城壁で囲まれた京(みやこ)という意味で,当時の正式名称は漢城Hansŏngである。【原田 環】http://kotobank.jp/word/%E4%BA%AC%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E5%A4%89

 

·         じんごぐんらん【壬午軍乱】  

1882(壬午の年)7月に朝鮮の首都,漢城(ソウル)で起きた軍人暴動。1873年に大院君(興宣大院君)から閔(びん)氏に政権が移ると,軍隊の待遇は悪化し,新たに新式軍隊の別技軍が設けられて優遇された。その結果,旧式の軍人たちの不満が給米の不正支給によって爆発し暴動となった。大院君はこの暴動を利用して,閔氏政権の転覆と日本公使館の襲撃を図った。彼は,1880年代に入って開始された閔氏政権の開国政策を覆し,鎖国攘夷政策に戻そうとしたのである。

http://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E8%BB%8D%E4%B9%B1?dic=sekaidaihyakka

  

  読売新聞附録(明治十五(1882)年七月三十日)

 

   京城事件 突発

 

去る二十三日、朝鮮国の府兵数百人が不意に起りて、京城に在る我が公使館を取囲み小銃を打掛け四方より襲ひかかりたり、固より我には兵備なきうへ不意を打たれしものなれば、花房公使、近藤領事をはじめ陸軍士官警察官等、勇をふるって漸く一方を切り抜け、朝鮮の王宮に到り、扶助を請はんとせられしも、

 

官門を堅く鎖して入れざれは、辛うじてひとまづ仁川港へ避けられしが、此処にもまたまた一隊の兵起りて小銃をつるべ放つ中を、漸くにして一条の血路を開き、済物浦まで逃げ来り、幸ひ浦辺に繋ぎ在りし小船に皆皆取り乗り、風にまかせて押遥の方へ出られたるを、英国の測量船がはるかに之を見付け

 

、船を近づけて一同を救ひ揚げ懇切なる取扱ひに、はじめて九死を出で昨日長崎港へ着されたり、との電報が同所より其筋へ達しましたが、此騒動に付負傷者は多けれど、即死は巡査二名、陸軍佐官何某と其配下の兵士八名は生死の程、未だ分らぬよし、此暴挙を企てたる者は多分鎖国党にして、我が公使館を襲ひたる後は王宮を始め同国の諸官庁をも襲撃せしとの事、猶委しくは聞込み次第報道すべし。

 

 

  ●郵便報知新聞(明治十五(1882)年八月十日)報道

 

  京城事件 詳報

 

頃は明治十五年七月二十三日、朝鮮の京城何となく騒々しく、人民東西に奔走し、窃かに兵器を携へ、そこここに屯集する兵士などありと伝ふるより、わが領事館は穏かならぬ事と警吏を走らせて事の次第を探らしめしに、委しき事は分らねど、

 

一揆にてもあらん、如何にも常ならぬ有様なれば、兼ねて親しくなす韓人に嘱して、なはその内情を聞かしめ、多分斥和党の頑民らが兵隊と合して、日本公使館を襲撃せんとの企てなるべしとの事を知りしは、同日午後二時頃なりしかは、領事館よりその趣を公使館へ急報し万一のため防禦の準備あって然るべしとの注意したりしが、

 

かかる騒ぎは朝鮮の弊習にで珍らしからねば、何程の事があらんと差して心にも留めざる所へ、訓練下部藍(これは陸軍中尉堀本礼造を聴して、泰西の兵制を伝習する練兵所なり)の領官より使を走らせ一書を公使に呈す、

 

日く、乱民党を作り、いま兵隊(これは洋式訓練の兵隊ならん)と相闘へり、日本諸公を干犯せんと欲するの意あるに似たり、若し公館を侵聾するあらは、放銃揮剣、自防の計を煩はす云々。ここにおいて公館始め一同容易ならざる事とし、かれこれ評する時、公館雇ひの韓人外より帰りきて、只今乱民教育、大闕を犯し、また関台鏑、閲謙鏑の邸を襲ひ家臣を破壊せり、

 

それらの急を公使に報ぜんがため、下部藍に寄寓する陸軍語学生岡田、池田、黒沢の三名が駆けつける途中、南大門の辺において多勢の暴徒に取り囲まれ、必死の争闘なれば変速かに救ひの者を差し向けられよと、聞いて驚く猶予もなく、川上、本田ら三巡査に兵器を授けて応援に赴かせしが、後、遂に乱民重囲の中に陥りたるか、

 

更に音信なければ、人々大に気遣ふ折柄、差備官(下部塩の吏官)李承膜が自身にて走せ来り、貴官ここに在りては危ふし、速かに後山に避けよと促がせしも、若し乱民ありてわが公館を犯さんと欲せば、政府宜しく兵を派し護衛をせらるべし、速かにこの尊皇京畿観察使に告げよと、李氏を返して間もなき午後五時五十分頃、公館の内外事大の往来繁きを疑ふ折から、公館の背後にあたり、

 

どっと揚げたる鯨波の声、山も崩るるばかりなるに、スワ寄せたりと人々が驚きながらも期したると、力を合せて追ひ戻せと、戸外に出でて見あぐる裏手の山上に、数は定かに分らねど、雲なす暴民群がりよせ、棒もて大地を打ち叩き、勢ひなして雨霞-公館目がけて射下す羽矢と、投下する礫(つぶて)に交へて打ち出す弾丸、銃先きさがりに地の理を得たれは、さすがに猛き人々も向ひ近づく虚を得ざりしが、水野陸軍大尉、岡二等警部が人々を指揮して要所を守り、侮られては危ふしと特に正門を開き、その聞入を待って殺せんと静まり返って待つと知るや知らずや、

 

暴徒等は入らず、とかくする間に暴徒等は風の強きを幸ひに、火を公館後の一民家に放ち、ついで館内なる伴接館出張所の門を焼払ひ、差備官の詰所を焼立てにぞ、延焼して館舎に及ばんとす、この時小林巡査らが短銃を以てその放火せし者数人を斃せしかども、益々俄んにして之を防がんにも僅かにある一個の井戸は水洞れて用を為さず、

 

四隣の民家尽く火となりしが、幸ひに清達関(待遇所)と公堂は火を被らざりしかは、一時公堂に会し方略を議し、公使の決に依って正門より突出し、大路を経て京畿観察使の邸に走り、この急を告げて守衛を乞はん、彼また術の施すべきなければ、王宮に到り請ふ所あるべしと。

 

   国旗を翻へし脱出

 

一同門内に整列して各々番号を定む、その現員二十八名岡、浅山を先駆とし千原、水島をしんがりとす、各々死を決して火を公堂に放ち、国旗を翻へし各自剣を揮ひ、吶威一声、門外へ突進せしはその夜も更けて十二時なりし、これより先暴徒は門前に樹を設け

 

、一人も余さず虐殺せんと囲みをりしも公館、既に火となりたるを見て、残らず焼殺したりと思ひつるにや、この時、柵を越えて近く進み、その門外に屯集し警(いまし)めをゆるめて、火の消滅するを待つ体なる所へ、俄然突進し、佐川中軍医が正宗の一刀を以て立ちどころに暴徒数名を斬捨てし勢に乗じ、

 

いずれも奮ふて切り立てたぎ立て、見る間に二十余名を斬倒せしかは、自余の奴等は慌てふためき逃げ惑ひ、刃向う者のあらざるより一条の血路を開き大路に出づ、賊、畏縮敢て近かず、只遠きより瓦礫を投げるのみ、ここにおいて整列点呼するに、佐川が左腿に中傷を受けしのみ、それより徐歩して観察使の邸に至れば小門開けり、入りて大門内に及べば、四五名の韓入門の楼上にありて瓦を投ず、

 

短銃を放ってこれを迫ひ、一人を斬り進んで三門を過ぎ、宣化堂観察使いの正堂に至るに、寂として人影なし、案ずるに債も亦王宮に参ぜしならんと、直に王宮なる南大門に至り扉を叩き呼べど、鉄扉固く鎖して答ふな者なし、

 

折から烈しく雨の降り出でければ又もや暴徒に会せば難儀なるべし、早く仁川府へ赴き後図を議するに如かずと歩を転じ、楊草津に達せしは二十四日の払暁にて、雨益々烈し、同所の鎮営に拠り京城の消息を聞かんと欲せしも、鎮将微弱頼むに足らず、依って一書を裁して鎮将に托し、同文司経理事並びに京畿観察使に寄す

 

その大意は、前日来の景況を略述し、政府の派兵保護を待てども一兵も来らず、王宮は南天門を開かず、已むを得ず避けて仁川府に赴かんとす、只望む、貴政府速かに乱民を鎖圧するの計を為せ云々なり。

 

                                 つづく

 

 - 戦争報道 , , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
  日本リーダーパワー史(774)『金正男暗殺事件を追う』―『金正男暗殺で動いた、東南アジアに潜伏する工作員たちの日常 』●『金正男暗殺事件の毒薬はVXガス マレーシア警察が発表』★『金正男暗殺に中国激怒、政府系メディアに「統一容認」論』●『  金正恩は金正男暗殺事件の波紋に驚いた? 「国際的注目を浴びるはずない」と考えた可能性も』

  日本リーダーパワー史(774)『金正男暗殺事件を追う』   金正男 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(324)★『日露300年戦争史』(7回連載)-『鎖国・平和一国主義の徳川時代の日露関係 /日露交渉の発端から侵略へ』★『こうしてロシアは千島列島と樺太を侵攻した』★『露寇(ろこう)事件とは何か』★『露寇事件」はロシアの大植民地主義者のレザノフの対米、対日植民地化戦略の一環として生まれた』

  日露300年戦争(1)-『徳川時代の日露関係 /日露交渉の発端の真 …

『オンライン講座/日本国憲法制定史①』★『吉田茂と憲法誕生秘話ー『東西冷戦の産物 として生まれた現行憲法』★『GHQ(連合軍総司令部)がわずか1週間で憲法草案をつくった』★『なぜ、マッカーサーは憲法制定を急いだか』★『スターリンは北海道を真っ二つにして、ソ連に北半分を分割統治を米国に強く迫まり、トルーマン米大統領は拒否した』★『憲法問題の核心解説動画【永久保存】 2013.02.12 衆議院予算委員会 石原慎太郎 日本維新の会』(100分動画)①

  2016/02/27 日本リーダーパワー史(675)『日本国憲法公 …

『オープン講座/ウクライナ戦争と日露戦争①』★『ロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」がウクライナ軍の対艦ミサイル「ネプチューン」によって撃沈された事件は「日露戦争以来の大衝撃」をプーチン政権に与えた』★『児玉源太郎が指揮した日露戦争勝利の秘訣は軍事力以上に外交力・インテリジェンス・無線通信技術力・デジタルIT技術にあった』

  ウクライナ戦争でロシア侵攻作戦の要であるロシア黒海艦隊の旗艦・ミサ …

no image
日本リーダーパワー史(810)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、リスク管理 、インテリジェンス㉕ 『日英同盟の核心は軍事協定で、そのポイントは諜報の交換』★『日露開戦半年前に英陸軍の提言ー「シベリヤ鉄道の未完に乗じてロシアの極東進出を阻止するために日本は一刻も早く先制攻撃を決意すべき。それが日本防衛の唯一の方法である。』

 日本リーダーパワー史(810)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦争に勝利』した …

no image
日中北朝鮮150年戦争史(20 )尖閣問題で一触即発!『尖閣事態、米国識者は日本の国家危機とみている』●『中国の脅威で必要性高まる改憲 アジア専門家が指摘 古森義久』●『「尖閣諸島」…中国の傍若無人ぶり強い姿勢で報道する』●『中国はなぜ尖閣で不可解な挑発行動をエスカレートさせるのか』●『米外交専門誌「尖閣で日中衝突なら中国が5日間で勝つ」』

   日中北朝鮮150年戦争史(20 ) 尖閣問題、中国の主張には2つの誤りがあ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(254)/『国葬にされた人びと』(元老たちの葬儀)『伊藤博文、大山厳、山県有朋、松方正義、東郷平八郎、西園寺公望、山本五十六、吉田茂の国葬はどのように行われたか』

    2018/01/26 &nbsp …

『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座】㉝」★『120年前の日露戦争勝利の立役者は児玉源太郎、山本権兵衛』★『日露開戦4ヵ月前、前任者が急死したため児玉源太郎は二階級(大臣→参謀次長)降下して、決然として立ち、日露戦争全軍を指揮した』★『わが戦略が失敗すれば、全責任を自己一身に帰して、内閣にも、参謀総長にも分たず、一身を国家に捧げる決意で取り組む」と決意を述べた』

  児玉源太郎副総理(内大臣、台湾総督)は二階級(大臣→参謀次長)降下 …

no image
『リーダーシップの日本近現代興亡史』(229)/『坂の上の雲の真実!』ー「日本海海戦を勝利に導いた天才参謀・秋山真之のスゴサは?ー山梨勝之進大将の証言』★『敵艦見ゆの発見電文の戦略内容に付けくわえた』★「マハンから「米海軍大学校へ入らんでもよい。お前は戦史を読んで、ひとりで考えれば、海軍大学校にはいる以上だ。それで日本大使館にある万巻の書をすべて読破した』★『 ロシアで極秘中の極秘の一等戦艦の図面を見せられたが、1,2分の間にすべてを頭に叩き込み、出てきてトイレに入りその設計図のすべての寸法を見事に再現した』

 2011/01/04  クイズ『坂の上の雲』記事 …

no image
まとめ 『日本最強のリーダーシップー西郷隆盛』 ●『尾崎行雄の傑作人物評― 『西郷隆盛はどこが偉かったのか』 ●『近代日本二百年で最大の英雄・西郷隆盛を 理解する方法論とは・ ●『廃藩置県の大改革ができたのは西郷の一言、 大度量によってのみ』

まとめ 『日本最強のリーダーシップー西郷隆盛』  ●『尾崎行 …