片野勧の衝撃レポート(30)太平洋戦争とフクシマ③『悲劇はなぜ繰り返されるのかー』
太平洋戦争とフクシマ③
≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー
★「ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」➌
片野勧(ジャーナリスト)
激しい爆風に襲われた
あれから68年――。福島第1原発事故時、原発から半径20キロ圏内に広島、長崎の被爆者4人が住んでいた。4人の被爆者たちはさまざまに生き抜いていた。私は彼らに会うために南相馬市原町区を訪ねた。2012年8月20日午後――。
その中の一人、長崎で被爆した永尾大勝さん(80)。当時、国民学校5年生。11歳だった。永尾さんは爆心地から4・5キロの自宅の庭にいた。長崎市中小島――。
B29の機体がはっきりと見えた。何かピラピラしたものが落ちてくる。米軍機がまくビラではないか、と思った。彼は被爆体験談集『私も証言する―ヒロシマ・ナガサキのこと』(「原水爆を考える原町市民の会」編)という本の中に「キラキラとゆっくり落ちてきた原爆のパラシュート」という文章を書いている。
それによると。彼はビラなら安心だと思って、家の中に入った。1分ぐらい後、突然、青い閃光が走った。1945年8月9日午前11時2分――。強烈な激しい爆風に襲われた。
「私は塀に吹き飛ばされてしまいました」
爆風で瓦などが飛んだ。幸い、塀に囲まれ、怪我することはなかった。家具は倒れ、めちゃめちゃになった。おばあちゃんと母と姉の4人で裏山のお墓に避難した。
お墓から長崎駅の方を眺めると、駅の向こうに巨大なキノコ雲が見えた。火薬の大爆発か、工場の薬品でも大爆発したのか、と思った。キノコ雲はだんだん大きくなって、なかなか消えない。
「私たち4人は、そのお墓のところで寝たりしていましたが、自警団の人がやってきて、『夜にアメリカ兵が上陸してくるかもしれん』というので、夜の11時ごろ親戚を頼って30キロ離れた諫早に避難しました。一晩中、歩きました」
長崎の爆心地付近を歩き回る
翌10日。電電公社に勤めている人に連れられて、長崎の家に引き返した。父と兄に連絡をとるためだ。幸い、父も兄も無事で家に帰っていた。永尾さんは親戚の人や、近所の人を捜すために、それから約1週間、リヤカーを引いて爆心地付近を歩き回った。私は永尾さんに聞いた。
――爆心地はどんな様子でしたか。
「山里町を中心に歩いたのですが、やけどをした人、死んだ人たちの間を捜して歩きました。道に倒れている人、防空壕の中で死んでいる人、浦上川に浮かんでいる無数の死体……。そんな中をリヤカーを引きながら捜し回りました。こんな死に様が、人間の世界にあってよいものかと思いました。全部で約20人の親戚や知人の死体を見つけました。その死体をトタンの上に並べ、倒れた家から木を集めて火をつけ、焼きました」
永尾さんには忘れられないことがある。それは、やけどをしたり、けがをした人々があちこちに倒れていて、その人たちが「水を飲ませてくれ、水をください」と言って、足に抱きついて離そうとしない。
父からは「水をやったら死ぬから絶対に飲ませてはならない」と厳しく言われていた。しかし、あれほど水を飲みたがっているのに、と考えて、その人に水筒の水を飲ませてやった。すると、本当にその人は死んだ。
「そのことが今でも心に引っかかっているというか、気になって忘れられないのです」
しかし、このような極限状況の下、「水を飲ませた」からといって、そのことを批判する資格は誰にもない。原爆は人々を相互に切り離し、人間が人間でなくなる地獄を作り出すのだから。
被爆者に残る「心の傷」――。その深さ、重みを受け止めて、その意味を理解する。証言を聞き取り、その意味を探求しようとする私自身もまた、被爆という事実の前には襟を正さざるを得なかった。
地の底からのうめき声、水をくださいとうめく人は1人や2人ではない。永尾さんの「水を飲ませて死なせてしまった」という罪悪感と、それを自覚するに至った「心の傷」は何にもまして重く、深い。
上京しタクシー会社に勤務
8・15。戦争が終わり、その後、永尾さんは長崎商業高校の新制中学に入学、新制の長崎市立商業高校に進んだ。卒業後、長崎の食糧運送会社を経て、昭和26年(1951)に上京し、タクシー会社に勤め始めた。再び、永尾さんの証言。
「若かったので、がむしゃらに仕事をしました。原爆による放射能の後遺症なんか全く考えませんでした」
永尾さんの体に異常があらわれたのは、昭和40年(1965)ごろからである。
「どうも体の調子がおかしいのです。病気にかかりやすく、治りにくい。特に風邪をひいて寝込むことが多くなりました」
しかし、妻・マサ子さん(73)には「疲れから来たのだろう。心配しなくていいよ」と言った。しかし、一抹の不安がよぎった。翌日も鼻血が出た。続いて吐き気、目まい、下痢。原爆症特有の症状が頻繁に起きるようになった。ちょっと力仕事をすると、手足がしびれて、ご飯茶碗も持てないほどだった。
“もしや”――。病院へ駆けつけた。
「放射線によるものと思われるが、詳細は不明」
医師の所見だった。
ピカ(閃光)やドン(爆風)に遭った、いわゆる外部被曝者は早かれ遅かれ、急性症状が現れ、鬼籍に入った者は多い。しかし、原爆の爆発時に市内にいなかった者に、どうしてピカやドンに直接、遭って死んでゆく被曝者と同じ症状が現れるのか。漠然とした疑問が、永尾さんの脳裏に大きく膨れ上がった。
体の外から放射線を浴びる「外部被曝」と、体の中から放射線を浴びる「内部被曝」――。内部被曝とは、空気中や水中にある微量な放射性物質が口や鼻、皮膚から体の中に入って、体の中から放射線を体に出し続けることをいう。
永尾さんは「8・9」長崎原爆投下の翌日、先に書いたように、親戚の人や近所の人を捜すために、約1週間、リヤカーを引いて爆心地付近を歩き回った。その時、内部被曝したのである。
――それから25年後の昭和45年(1970)12月、長崎の兄弟たちに勧められて被爆者健康手帳を交付してもらう。それまでは痩せ我慢で「被爆者健康手帳なんかもらうのはいやだ」と拒否していた。
昭和50年(1975)、東京で知り合った人から「南相馬は空気がいいし、温暖で住みやすい」と誘われ、福島県南相馬市へ引っ越した。しかし、体はだるく、疲れやすい。ひどい時には1カ月のうち20日間ぐらい寝ていた。
職を捜しに職安にも何度か行った。しかし、仕事を見つけるのは容易でない。「長崎出身です」というと、「原爆じゃだめ」と言われ、自殺まで考えたこともあった。また軽い仕事があるというので、大熊町の原発へも職を求めて行った。
しかし、健康診断で高血圧ということで断られてしまった。そんな中、借家暮らしで妻・マサ子さんが働きに出て、家計を支えた。実は、永尾さんは南相馬市に来たとき、近くに原発があることを知らなかった。
健康不安を抱え、生活は決して楽ではない。しかし、2人の子供にも恵まれ、平和な生活を送っていた。10年ほど前、中古住宅も買って、ずっと南相馬市で住み続けようとしていた。その矢先に悲劇が起こった。
妻は地震で大腿骨を骨折
その時、永尾さん夫妻は家にいた。2011年3月11日午後2時46分――。「グラッ」。東日本大震災が襲う。大きな揺れが続いた。マサ子さんは必死に椅子につかまって耐えていたが、耐え切れなくなって倒れ、大腿骨を骨折してしまい、動けなくなった。
事故後、医師たちは放射能を恐れ、町を去った。マサ子さんは診察を受けられなかった。そうこうするうちに、福島第一原発1号機が水素爆発し、大量の放射能を放出した。永尾さんの家は福島第一原発から23キロ。警戒区域で避難しなければならない。
原発事故から1週間後の3月18日。永尾さん夫妻は南相馬市が手配したバスで群馬県のホテルに向かった。避難先のホテルに着いたが、マサ子さんの腰の痛みは強まるばかり。相談しても「手術する病院は自分で探してください」と言われ、途方にくれた。
「お母さん、埼玉の病院に来て!」
埼玉県川越市の病院で看護師として働く娘からの電話だった。娘と同じく埼玉県に住む息子が数日後に迎えに来た。3月23日、マサ子さんは川越市の病院に入院した。ところが、東電の計画停電で手術はできない。マサ子さんの症状は悪くなる一方だった。
3月29日、マサ子さんはようやく手術を行い、人工骨をつけてもらった。永尾大勝さんは入間市の息子の家から約3カ月間、病院に通った。永尾さんは語る。
「そのころからです、まっすぐ歩けなくなったのが……。長崎の原爆のことが思い出されて、心と体がおかしくなりました」
「原爆と原発」2度も国策に翻弄されて
私は永尾さんに原発について聞いた。
「原発は全面廃止にしてもらいたいです。長崎の原爆は一気に爆発してパーッと放射能を散らしました。しかし、福島の原発事故は風に流されてジワジワと広がっていきました」
永尾さん夫妻は2012年6月、避難先の埼玉県から自宅へ戻った。しかし、放射能に脅かされる生活は以前と変わらない。この怒りをどこへぶつけたらいいのか。永尾さんは今も東電の名前を聞くと、気分が悪くなるという。東電社員に怒りを込めて、こう言い放った。
「あんたたち、少しでも原発の怖さを、放射能の怖さを知らないのか。今はなんともないようでも、2年、3年たって風邪を引いたり、吐いたり、よろけたりすんだぞ」
しかし、東電には通じない。国に対しても恨みは晴れない。再び、永尾さんの証言。
「私は原爆を落とされ、被爆しました。また原発事故で被曝しました。しかし、十分な救済をしてもらえません。事故が起きた後もちゃんとした対応もとってくれません。官僚は自分のことばかり考えて行動し、政治家は権力争いばかりで、その場しのぎ。我々のことなんか何も考えていません」
原爆と原発――。2度も国策に翻弄され、放射能に汚染された被害者がいて国を恨んでいるというのに、国は何をしているのか。真剣に考えてほしいと、野太い声で鬱勃と語った永尾さんの、その表情は痛憤に歪んでいた。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。永尾さんは肩で息を吐くと、タオルで顔を拭いた。さらに小さくたたんで、もう一度、拭いた。永尾さん宅を出ると、日はすでに西に傾いていた。時折、肌涼しい風が林を吹き抜けて過ぎた。もうすぐ夜の森に本当の夜が訪れる。
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
続く
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