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地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座(51)』★『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテジェンス⑦』★『ルーズベルトの和平講和工作―樺太を占領せよ』★『戦争で勝ち、外交戦で完敗した日本』

   

日露戦争は日本軍の連戦連勝のほぼ完勝に終わったが、その裏には、川上操六前参謀総長、大山巌参謀総長、児玉源太郎参謀次長らが緻密に築き上げてきたクラウゼヴィッツ戦略の応用と、伊藤、山県、大山、松方らの政略が見事に一致し、一糸乱れぬ統制のもとに、戦争目的が達成されたことが挙げられる。

一方、ロシア側はどうだったのか。

日本とは正反対に戦略と軍略とも全くバラバラで、皇帝の下に総司令官と軍司令官とが並立し、軍令が二チャンネルとなった上、その互いの権限は曖昧なままで、指揮命令系統が乱れてバラバラだった。

ロシア皇帝ニコライ二世は、極東の実情を全く理解していなかった。開戦当時、皇帝によってロシア総司令官に任命されたアレキセーエフは生粋の海軍軍人で、陸軍は一度も指揮したことがなかった。しかも海軍でも軍令畑で、実戦経験はない。戦争中も陸軍と共に第一線に行かず、奉天の総司令部の贅沢な書斎におさまっていただけだった。

ロシア皇帝はアレキセーエフの任官後一カ月も経たぬうちに、今度は陸軍大臣クロバトキンを新たに軍司令官に任命した。この結果、総司令官と軍司令官という権限の重なる二つのポストができあがり、極東に派遣されたロシア軍の混乱は一層増幅された。

クロバトキン軍司令官は出発の前夜に、ウィッテ(首相)にこう作戦を説明した。「われわれはこの戦争に何らの準備もしていなかった。したがって十分に準備をした敵と戦う兵力を集めるには、今後数カ月を要する。私の計画はわが兵力が必要なる程度に増加するまで、ハルビンを目標に後退する。

ところが、クロバトキンが後退を命令しようとすると、真っ先に反対したのはアレキセーエフで、積極的に攻勢に出ることを命令した。もともと開戦当時から、ロシア側には、「日本軍など取るに足らない、敵ではない」との驕りと蔑視があった。とくにその中心が、ロシア宮廷を牛耳っていたベゾブラゾフ (宮廷顧問官でニコライ二世の信任も厚い)一派の主戦派で、皇帝の対外侵略、膨張政策を強力に推進し、日露戦争では反対派のウィッテを排斥して開戦へと突き進んだ。

ベゾブラゾフを寵愛していた皇帝はロシアの勝利を楽観していた。クロバトキンが「予定の退却」を続けながら、意気阻喪する将兵に向かって「忍耐あるのみ」と説いている間にも、アレキセーエフは、「旅順を救援すべし、日本兵を撃退せよ」と相反する命令を下して、作戦はいずれも矛盾し混乱、敗北に終始した。

  • ルーズベルト大統領は日本に樺太占領を進言す

六月七日に金子にルーズべルト大統領から再び呼び出しがあった。

大統領は「いよいよ講和談判になるものとみて、君に忠告することがある。ロシアに対しこれまで何度も講和談判を促したが、ロシアの領地はどこも日本軍は占領しておらぬからと言って拒絶した。

そこで、今から二個旅団の軍隊と砲艦二隻をもってロシア領の樺太(サハリン)を占領しなさい。講和談判に入る前に、今のうちならばよいから、早く樺太を取れと君から日本政府に連絡したまえ」と話した。金子は六月八日にその旨を政府に通報した。金子が講和成立後に帰国して、当局者より聞くと、そのころ、政府は樺太を取るかどうか議論していたが長らく決まらずル大統領の一声もあり、七月八日に混成旅団一個、砲艦二隻を派遣して樺太に上陸、占領した、という。ちょうどルーズベルトが金子に忠告した約一カ月後のことである。 

六月下旬、ルーズべルト大統領は本格的に仲裁に乗り出した。ロシア皇帝・ニコライ二世は米大統領の仲裁を受け入れて日本と講和談判を開く決意をし、交渉の全権大使を誰に選任するかが問題となった。
 ラムスドルフ外相は、「この難局に当たり、談判を良好の結果に導ける者はウィッテの他にはいない」と奏上し、ウィッテを嫌っていたニコライ皇帝も六月二十九日、しぶしぶ任命した。皇帝は「和議の成立を希望するが、どこまでもロシアの体面を守るものでなければならない。いかなる場合でも一ルーブルの賠償金も、一握りの領土も譲渡してはならない」と厳命した。
一方、ルーズべルト大統領は金子と相談しながら講和会議の場所を検討した。ロシア側はヨーロッパのパリを提案、日本側は山海関(万里の長城の東端にある要塞)と言い、ル大統領はハーグ(オランダ)がよいと、なかなかまとまらなかったが、最終的には米国・ボストンから北約八十キロのポーツマス軍港と決まった。
  • 「戦争とは外交の手段である」

クラウゼヴィッツの『戦争論』の中に「戦争とは外交の手段である」という有名な言葉があるが、軍事力による戦が「戦争」であり、言葉による戦が「外交」である。あくまで外交と軍事力の有機的、戦略的な展開が勝利には不可欠で、外交インテリジェンスこそ、軍事力にも劣らぬ破壊力を秘めている。戦争は軍事力だけでやれるものではない。戦争を始めるのも終わらせるのも「外交力」なのだ。

また講和談判は、その国の外交インテリジェンスが最も試される知恵の戦でもある。伊藤は金子堅太郎を密使として米国に派遣し、ヨーロッパには末松謙澄を派遣して、世論工作は成功をおさめた。しかし、日露戦争全体を総括すると、たしかに日本は、軍事力でも、外交力でも勝利をおさめたが、戦争の総決算であるポーツマス講和会議は、ロシア全権セルゲイ・ウィッテの巧妙なメディア戦略によって、完全にやられてしまった。

日本は初体験だった国際外交の大舞台で、対外交渉能力、異文化コミュニケーシション能力の低さを露呈してしまった。金子のように、個人でそうした能力を持ちあわせている人が出てきたときはよいが、そうでないときは、集団として経験の少ないところが弱点となってしまう。

九合目までは勝ち上がりながら、最後の一歩で五合目あたりまで転げ落ちてしまった。今も日ソ間の懸案である『北方領土問題』は、さかのぼれば約百年前のこのポーツマス講和会議に突き当たる。

日本が派遣する講和全権大使は当初、伊藤博文元老が候補に上ったが、小村寿太郎外相となった。ハーバード大出身の小村は金子堅太郎、ルーズベルト大統領と同窓生であり、米国メディアからは歓迎された。次席には高平小五郎駐米公使、佐藤愛麿駐オランダ公使、随員は山座円次郎外務省政務局長、本多熊太郎(外相秘書官)らで、外国人は外務省顧問デニソン一人という布陣で、メディア関係者は一人も含まれなかった。

  • ロシアが圧倒した外交テクニックと新聞工作

一方、ロシア全権ウィッテ(ロシア蔵相、首相)は政府関係者、陸海軍トップに加えて、世界的公法学者マルテソス、国際政治評論家デイロン、前ロンドン・タイムス政治部長、フランスの新聞記者ら三人を加えたメディア重視の布陣で臨んだ。

「アメリカは民主主義、世論の国であり、新聞を味方につけた方が勝つ」との戦略から新聞工件に積極的に取り組んだ。ウィッテ一行は豪華客船でパリから六日間かけて大西洋を渡り米国に入ったが、船内では講和会議で勝つための戦略を練りに練って五つの基本方針を決めた。

  • ① どんなことがあっても、ロシアが講和を望んでいるような態度を見せないこと。
  • ② 自分は大国ロシアの全権代表者であると大きく構えて、ロシァは最初からこんな戦争を 重要視していないから、その勝敗については少しも痛くもかゆくもないとの態度を示し、相手を威圧すること。
  • ➂アメリカは新聞王国なので、記者に最大限、情報を提供して味方につけること。極端に民主的である米国の世論を味方に付けるために、少しも尊大ぶる態度を示さず、オープンマインドで米国市民と接して人気を博すること。
  • ④ 米国、特にニューョークでユダヤ人と新間の勢力が強大なことを計算して、彼らの不快を招くような行動をい一切しないこと。

――などを固く誓った。

それと、もう一つウィッテは日本全権一行のウイークポイントをつく戦術をとった。
「日本人はヨーロッパ各国の大官たちがとるような尊大な態度は示さなかったが、その秘密主義と閉鎖体質、陰気な態度で開放的な米国人の人気は得ることができない」と見破って、その弱点を攻める作戦を実行した。

ウイッテ自身は、小村全権が日本公使としてサンクト・ペテルブルクに在任していた当時から知っていた。彼は政治家としては極めて優秀だが、その貧弱な体格(身長一五四センチ)はさえなかった。ウィッテが知っている伊藤博文、山県有朋、栗野慎一郎(ロシア公使)らは、ョーロッパ人と比べても遜色のない容貌や態度を持っていたが、小村全権はこの点が欠いていた、という。

小村全権の到着後数日にしてウィッテ一行がニューヨークに到着した。その大歓迎ぶりは小村のときの何倍もあった。ウィッテの乗船がニューヨーク港に入るやロシア人と、新聞社は数十そうの小さな蒸汽船を出して海上に出迎え歓迎した。多数の新聞記者が船中に乗りこむとウィッテは「アメリカ人の同情に訴える」という印刷物を配布して、「自分は昔からロシアと親交を続ける米国を訪問できたことを最上の悦びと感じている。また不断に有益で強力なニュースを発信する米国の新聞に対して全幅の敬意を表する」と全米にアピールした。

世界最大の外交大舞台に立ったウィッテはスターのようにふるまう演技を実践し、お世辞と愛嬌と庶民的な親しみやすい態度で新聞記者や大衆を魅了した。ウィッテの一拳手一投足を連日新聞で大々的に報じられ、人気が沸騰した。

  • 一方、日本側に新聞対策はなかった。

小村外相は有名な新聞嫌いで、日本側はメディア工作(情報操作)などまるで頭になかった。日本の新聞はもちろん外国メディアの取材にも一切応じなかった。この両者を比較して『大阪朝日新聞』(十月二十日付)はこう嘆いている。

「『われわれはポーツマスへ新聞の種を作るために来たのではない。和平談判するためだ』とは小村男爵の言葉なり。一方、ウィッテはポーツマスで大勢の新聞記者を集めて『今回、平和の講和成立を見ることができれば、それは新聞記者諸君の力なり』」とリップサービスしていたことが報道されている。

七月二十日に小村全権一行がニューヨークに到着した。金子は早速、今後の方針を協議した。「戦争が終ればぼくの任務は終った。君が講和談判委員として来たから、米国は君に引渡してぼくは帰国したい」と告げた。
  小村は「君に帰られては困る。講和談判では私は表面の舞台で働くから、君はニューヨークにいて始終ルーズベルトと往復して、ルーズベルトの意見を聞いてぼくに暗号電報で知らせてくれ。ぼくのすること君を通してルーズベルトに内報してもらいたい。これは元老も閣僚もみなの希望である。」と反対した。

  • 大統領に条約案をみせて相談、ー『償金やめて払戻金に』

「わかった。ルーズベルトにも了解をとるよ。肝心の講和会議への日本の要求、受諾条件はどうなのか」と金子は聞いた。

小村は「今度はぜひとも講和条約を締結して帰らなければならぬ。なぜなら満洲において日本陸軍は総出している。もうこれ以上は兵隊がいない。兵器、弾薬も使い果たした。それだからどうしても今度は講和和平をしなければならない。」

「そのための条件とはなにか」(金子)

小村は機密書類を見せながら 「条件はこれだけれども、樺太も償金も譲歩してよいが、平和回復条約だけはぜひ成立させたいというのが政府の決定だ。」

書類に目を通した金子は「それならば講和談判は朝飯前に済む。しかし日清戦争のとき三国干渉があったさい、軍人がやかましかったがその方は大丈夫か。」

「軍部は反対しないので、その方は安心し給え。ぼくは樺太と償金の二件はぜひとも主張したい。」(小村)

「この二件についてはすでにこれまでルーズベルトとたびたび協議した結果、大統領は日本が現在占領している樺太は当然日本が占有すべきものといっているが、償金はなかなか困難とみている。ルーズベルトに相談しよう。」と金子は了解し、ルーズベルトに会いに行き、日本側の条件文を見せた。ルーズベルトは熟読した後、金子に手紙を送っていろいろ忠告し、小村の条約案文の何ヵ所かを修正した。

その修正箇所は、償金を小村がIndemnity(インデムニーティ)と書いていたのを「Indemnityは賠償金で多少懲罰の意味を含んでいる。ロシア皇帝は一文も払わないと言っているからこの懲罰的な文字はロシアの感情を害するので、Reimbursement(レインバースメント)=「払戻す」の意味で賠償金ではない。)と修正した方がよいとアドバイスした。

 

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