Z世代への遺言「東京裁判の真実の研究②」★『敗戦で自決した軍人は一体何人いたのか』★『東京裁判ではA級戦犯の死刑はわずか7人、BC級裁判では937人にものぼり、下のものに圧倒的に重罰の裁判となり、「復讐の裁判」との批判を浴びた』★『戦陣訓』で、捕虜になるより自決を強制した東条英機の自殺失敗のお粗末、無責任』
『リーダーシップの日本近現代史』(124)ガラパゴス日本『死に至る病』
「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の内幕——
このガラパゴス日本『死に至る病』は、いまも[3・11原発事故]に対して責任を取ったものが1人もいないという「無責任国家体制」の悲劇に続く
- 終戦で自決した軍人はいったい何人にのぼったのか。
- 「自決―終戦殉国者の記録」永松浅造著(自由アジア社、1962年)によると軍トップの神風特攻隊を創設した大西瀧治郎(海軍中将)、阿南惟幾(陸軍大将)、杉山元元帥夫妻(陸軍)、田中静壱陸軍大将らのほか合計で自決将兵527人の名前、階級などをあげている。内訳は大将5人(すべて陸軍)、中将11人、少将6人、大佐16人で全体の7%である。
- 東京裁判でのA級戦犯容疑の多数は免責され、不起訴になった。しかも、判決ではA級戦犯での死刑はわずか7人、BC級裁判では何と937人にものぼり、下のものに圧倒的に重罰の裁判となり、「復讐の裁判」との批判を浴びた。
以下は徳富蘇峰の『終戦後日記』の一節である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
明治、大正、昭和戦前までの3代にわたって民本主義者、新聞記者、歴史家として、時の権力者のご意見番として活躍した日本最大の言論人・4徳富蘇峰は昭和戦前期には天皇制イデオロギーを鼓舞して、日中、大東亜戦争でも戦争の旗ふり役(日本言論報国会会長)に徹し、A級戦犯に指定された。1945年8月、敗戦直後から毎日書いていた『敗戦の責任』についての一項目である。
『日本軍人と降伏』【徳富蘇峰)
陸軍海軍の元老ともいうべき人々、またその中堅ともいうべき人々は、如何なる心底を以て、今日の状態を見ているか。彼等は最も年齢の若き者、最も位地の低き者を、十二分に、若くは十五分に煽り立て、死地に就かしめた者である。
しかるに彼等自身には、戦争が済んだからとて、平気でいるは、如何なる意見であるか。中には海軍側では、大西〔滝治郎〕中将が自決したが、陸軍側では、未だその話を聞かない。陛軍側では、陸軍大臣が自決したが、海軍側では、今尚お平気である。双方共に拾い上げたらば、暁天の星の如く、若干は有ろうが、まことに蓼々たるものである。無条件降伏、武装解除などという事は、他国の軍人ならいざ知らず、日本の軍人としては、無上の恥辱である。従来日本の軍人には、降参がないという事が、原則になっていた。
しかるに今度は、降参が原則となって、誰れ一人これを怪しむ者はなく、さらに今度はその軍隊が、武装を解除するばかりではない。軍そのものが消滅するのである。神武天皇の御東征に随従したる、物部、大伴、佐伯等の祖先以来、昭和の現代に至って、初めて日本には、軍そのものが、絶対的に消滅したのである。これは軍人としては、実に未だ曽て有らざる事件といわねばならぬ。しかるにこれを平気で見送り、依然恩給生活を継続しているなどという事は、実に日本武人として、この上なき不面目の至りではないか。
聯合軍も、上陸する以前は、定めて若干の事件を、予期したことであろう。しかるに余りに無事太平で、飛礫(つぶて)一つ聯合軍に向って、投げ付けた者がない現状を見ては、余りに日本の軍人のおとなしきに、肝玉を抜かれたか。否、むしろ見掛けによらぬ野郎共であると、見くびったであろう。この際、生存しても、別段惜しき命でもない将官以上の人々は、申合せて一堂に集まり、切腹でもしたら、せめて日本武人は、戦争は下手であったが、気骨だけは持っていたという事を、世界に証明せられたであろう。
北条高時
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E6%99%82
が鎌倉で切腹した時にさえも、その一類二百八十三人は、我れ先にと腹切て、館に火をかけたという事がある。而して尚おその周辺に腹を切たる一切を挙ぐれば、八百七十余人という事である。
また斉(中国)の田横http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A8%AA
が死んだ時に、同時に自ら首をはねたる者が、二百余人あるという事である。しかるに我が陸海軍の滅亡に際し、これに殉ずる将官が、殆ど数うるに足らぬ程とあっては、昭和時代の陸海軍大将以下は、高時の一類よりも、田横の客よりも、劣り果てたる臆病者といわれても、申訳があるまい。
自分は陸軍の将官中で、最も感心しない一人が、杉山〔元〕元帥であった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
この人は陸軍のあらゆる要職に就き、あるいは軍政を司り、あるいは軍務を掌り、あるいは閣外の任にあたり、あるいは戦争の機務に当り、殆ど蜜蜂の花から花に飛ぶ様に、陸軍のあらゆる要職を飛び廻った。而して敗軍の将でありながら、罰をも受けず、元帥までにも立ち昇った。
自分は彼には面識さえも無い。しかし心窃かに、世間が彼を称して「ダラ幹」とか、「グータラ」とかいう事の、必ずしも不当でないと信じていた。しかるに彼は、その副官が「誠にお立派である」と言った通り、四発までも短銃を射ち込んで、立派に死んだ。而してその夫人も亦たその報を聞くや否や、立派に死んだ。この事だけで未だ必ずしも、杉山元帥に対する評判が、一変したとはいわぬが、世間も実は意外に思った。意外というは、杉山としては、出来が良かったという事である。
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『戦陣訓』で、捕虜になるより自決を強制した東条英機の自殺失敗のお粗末、無責任
これに反して東條大将は、世間は皆な誰よりも先きに、自決するであろうと考えていた。しかるに彼は自決せず。しかも九月十一日、彼を米国側から召喚に来るや否や、自決した。しかるに不幸にして急所を外れた。彼れの部屋には、白紙の上に短刀が置いてあった。しかし彼は、切腹の法は知ているが、それで死せざる時は、失態であるから、殊更にピストル自殺をしたと語った。
しかるにそのピストルが、急所を外れたのである。杉山さえも四発放ったといえば、東條も今一発射つ位の、余裕はあってしかるべきであるが、遂に一発でおわり、その為めに、彼を知らざる者は、東候は故らに急所を外して、狂言をしたのである、などという濡衣を、彼に被するに至った。
自分は東條とは面識があるばかりでなく、若干知っている。人間であるから、欠点はあるとして、勇気だけは、誰れにも劣らぬ漢(おとこ)と考えていた。また一度決心したら、必ずそれを突き徹すだけの、徹底力ある漢と考えていた。しかるに彼は米国の医者に治療せられ、米国の陸軍病院に移され、遂に元の健康を取戻した。
英国あたりでは、婦人さえも、婦人参政権運動の時には、獄庁に入て、不食同盟(ハンガーストライキ)をした事がある。東條程の男であれば、死のうと思えば、死することは、絶対不可能とは言われまい。しかるに彼が食事をなし、入浴をなし、薬用をなしている事を見れば、彼もまた死する事を諦めたものと思う。
初めから死なぬ積りで、敵の法廷に引出され、堂々とその所信を陳述するも、また一の方法である。ただ彼が如く、その中間を彷徨したる事は、少くとも杉山元帥に比して、すこぶる見劣りのする事を、遺憾とする。せめてこの上は、自ら法廷に出て、立派な振舞をして貰いたいものと思う。(昭和二十年十月六日午後、双宜荘にて)
「敗戦での将軍たちの責任の取り方」についてはーー
「将星はかくして自決した」森山康平(太平洋戦争研究会)「ドキュメント日本帝国最期の日」新人物往来社(1995 年)によると、こう記している。
阿南陸相や大西瀧治郎(終戦当時軍令部次長)の自決は、東条元首相の自決未遂や近衛文麿元首相の自殺とともによく知られている。
宇垣纏海軍中将(終戦時第五航空艦隊司令長官)が、八月十五日の終戦の詔勅を聞いた後、九機の艦爆機ととき最後の特攻に出撃し、自爆した事実もよく知られている。
開戦時の参謀総長であり、終戦時の第l総軍司令官であった杉山元元帥は九月十二日拳銃四発を心臓にぶちこんだ。杉山の自決はさまざまな事情で延び延びになった。。
最初の予定では八月十五日だった。しかし、阿南陸相が早々と自決したので、陸軍の長老としては敗戦に伴う混乱の収拾に当たる必要から延期された。次の予定日は八月二十九日であった。その日がミズーリ号上での調印式に予定されていたからである。しかし、その日は台風の襲来で九月二日に延期され、自決も延ばされた。
ところがその九月二日、米第八軍司令官アイケルバーガー中将からの出頭命令が届いた。自決はまたもや延期された。命令の内容は「第一総軍司令官として、日本軍を米軍の指定する地域に指令の日時までに完全に隔離、整理せよ」というものであった。杉山としては無視するわけにはいかなかった。
三度目の自決決行目は九月十二日が選定され、実際この日が命日となった。前日に東条元首相が逮捕されたので、逮捕を免れたいとするギリギリの日時だったと思われる。妻・啓子は司令部から自決の報を電話で知らされると、その直後に仏間に入り短刀で自決した。啓子夫人は敗戦直後から夫の自決を望んでいたといわれる。
杉山のもとで副司令官をつとめていた吉本貞一大将は杉山夫妻の葬儀をすました九月十四日、司令部の自室で割腹のうえ心臓を拳銃で撃ち、絶命した。
大将、中将クラスの自決としては陸軍三十名、海軍五名の計三十五名であるが、主な人物を拾ってみると、
本庄繁大将・・・満州事変勃発時の関東軍司令官
安藤利吉大将-ムロ湾総督、台湾軍司令官
安達二十三中将-ラバウルの第十八軍司令官
浜田平中将-タイの第十八方面軍参謀副長
上村幹男中将-関東軍第四軍司令官
隈部正美少将-元第四航空軍参謀長
このうち本庄はすでに現役を退いており、終戦時は枢密院顧問官の地位にあった。自決の直接の動機は、A級戦犯に指名されたことであり、指名の翌日(二十年十一月二十日)、腹と心臓と頚動脈を掻っ切った。安達、安藤、上村は戦犯として囚われの身で、獄中での自決である。
安達は二十年九月十三日、ニェーギニアのウエワクにおいてオーストラリア軍に降伏調印したが、その後戦犯としてラバウルに送られた。一緒に護送されたのは百数十名といわれる。そして、二十一年九月十日午前二時、果物ナイフで割腹したうえ、自分で自分の首を締めた。
安藤の自決は上海の監獄の中である。二十一年四月十九日、服に縫いつけていた青酸カリによるものだった。
安藤は第五師団長として昭和十三年十月、広東攻略作戦で上陸作戦を指揮し、その直後に上級機関の第二十一軍司令官になった。さらに十五年二月には南支方面軍司令官となったが、同年九月北部仏印進駐に際して、一部部隊のいわゆる「越境問題」の責任をとらされて予備役となった。
上村は戦後シベリアに抑留され、ハバロフスク収容所にいたが、二十一年三月二十三日目決した。
名古屋を含む東海地区の防衛を担任する第十三方面軍司令官だった岡田資中将。戦後戦犯として裁判にかけられたが、容疑は捕虜虐殺である。二十年三月以来の名古屋地区の大空襲に際して、たまたま撃墜したB29の搭乗員を戦時重要犯として処刑した。岡田は法廷で自分の命令によったことを明確に述べ、同時に無差別爆撃の非人道性を終始一貰して主張した。この事件では二十名ほどが起訴されていたが、判決は岡田のみが絞首刑で、他は重労働であった。
マレー作戦の最高司令官は山下奉文大将だが、周知のように終戦時は第十四方面軍の司令官としてバギオの山中にいた。周囲は山下の自決を心配したが、山下は副官にはっきりと「大丈夫だ」と述べたという。
下山して正式に降伏し、マニラ法廷に立たされ絞首刑となった。武藤章参謀長らが最後の面会に訪れた時、山下は、「武藤、君は生き残った将兵を無事日本に帰還させることだ。将兵が無事日本に帰れるよう呉呉も頼む。これがわしの最後の命令だ」と述べた。
以下は参考までに、民間人の例●<日本リーダーパワー史(100)日本一見事な引き際・住友の神様・伊庭貞剛の晩晴学②http://www.toshiyukimaesaka.com/wordpress/?p=2722
太平洋戦争で戦った米軍の日本兵の印象は「日本軍で一番強くて優秀なのは兵隊、下士官クラス、上に行くほど無能になる。作戦、戦略を練っていた大将、トップクラスが最も無能。なぜなら負けるとわかっている無謀な戦争をしかけたのだから」という。一般的な日本人、庶民はなかなか偉いが、上に行くほど、お粗末になり、責任を取らない。丸山真男以来、カール・ウオルフレンらのいう総無責任体制と言われる『日本権力構造の謎』、『封建的中央集権官僚国家ニッポン』、『人間を幸福にしない日本というシステム』が150年間延々と続いているのです。
幕末の英雄で、徳川幕府の幕引き役をつとめた勝海舟の有名な言葉がある。勝海舟が咸臨丸でアメリカに渡り、帰国すると老中から質問された。お笑い日本政治歴史学である。
「おれが始めてアメリカへ行って帰朝した時に御老中から『そちは一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か目をつけたことがあろう。つまびらかに言上せよ』という。
そこでおれは『人間のすることは、古今東西同じもので、アメリカとて別にかわったことはありません』と返答した。
ところが『さようではあるまい。何かかわったことがあるだろう』といって再三再四、問われるから、おれも
『さよう、少し目につきましたのは、アメリカでは、政府でも どこでも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧(賢い)でございます。この点ばかりは全くわが国と反対のように思いまする』
と言ったら、御老中が目を丸くして、『この無礼もの控えおろう』と叱りつけたっけ、ハハハハ……」と。
この日本的システムによって、沖縄戦の「ひめゆり部隊」の小女の手りゅう弾による全員自決みるまでもなく、下の者は責任をとって戦死、自決、自殺(現在は年間3万人)していくが、今回の20年にわたる不況、経済失政の責任をとって辞任した政治家、官僚は1人もいないというトップ無責任体制『日本のバカの壁』が、今も繰り返されている。
さらに、3/11原発事故に対する総無責任行動は「第3の敗戦」間違いなしであることを示している。
例えば戦争に敗れた場合、一国一城の主(あるじ)は城もろとも家の子郎党、討死、切腹、自決するのが戦国時代では通例であった。ところが、明治維新で敗れ、賊軍となった徳川幕藩体制のトップ、『最後の将軍』の徳川慶喜は大正2年まで
生き延びて長寿を全うし畳の上で亡くなった。
会津白虎隊の少年たちは最後まで勇敢にたたかい、多くの戦死者をだしながら敗れた総責任者の会津藩主・松平容保は生き延びている。函館戦争の大将・榎本武楊はその後、明治政府にとりたてられた。
名誉を尊び死を恐れぬサムライの真の姿とは程遠い、このザマである。坂本竜馬、西郷隆盛などはまさに例外的なサムライ、日本人なのである。
太平洋戦争も350万人以上の戦死者をだしながら、軍トップ、政治家らの果たして何人が戦争責任、敗戦責任をとって、自決したのか。陸海軍のトップらよりも、下士官のほうが東京裁判、BC級裁判では何十倍も死刑になっているのだ。
特に「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」(戦陣訓)で軍人・民間人の無意味な自決を強制した東條英機自身が拳銃自殺用に左胸にマークをつけながGHQのMPに逮捕される寸前に撃ち損じるという大チョンボを演じる。軍人トップが
このザマ、なのである。
靖国神社に参拝した安倍首相をはじめ閣僚、自由党の面々は「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈り致しました」と口をそろえる。大東亜戦争なるものの「無責任リーダーシップ、支離滅裂な戦争遂行の実態」を知ったならば、靖国神社へのリーダーの参拝は変わらなければならぬ。
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