前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

★『オンライン講座』★『192,30年代に芸術の都・パリで世界一の『プレーボーイ』は誰だ?』★『滞仏三十年、使った金は約500億、花の都パリで豪遊したバロン-サツマこと薩摩治郎八です」

   

 

  世界一の『プレーボーイ』 は一体、誰じゃ」 記事再録

 
 
世界の王侯貴族や大富豪の金の使い方の歴史をみると、まず自分の城や豪華な大邸宅、別荘、庭園に贅をつくす。かとおもえば、欲望のおもむくまま女性に金をつぎ込み、多くの女を金で囲う者も少なくない。芸術のパトロンとしてコレクションをして、美術館などを建てて文化を振興するーなどは上の部の趣味だが、日本の金持ちの道楽も似たり寄ったりである。
明治の大富豪の家に生まれ、パリを舞台に生涯約500億円を湯水のように使い果たしたという伝説の人物・薩摩治郎八はこの類型を大きくはみ出している。人生そのものを芸術的な創造に高めようとしたのじゃな。
 
薩摩治郎八は一九〇一年(明治二十四)、父方は『明治の綿業王』、母方は『毛織王』という東京でも指折りの大富豪の貿易商の下に生まれた。幼い頃、隅田川付近にあった大名屋敷跡の豪邸の庭に大池があったが、ボートを遊びをしながら『坊ちゃん、大きくなったら、外国商船でも集めるか』など海外雄飛を夢見ながら育った。実家には外国商人がよく出入し、地下にはワイン庫があり、フランス人コックがフランス料理を作り、食事にワインはつきものというヨーロッパ貴族風の生活の中で成長したのよ。
 
一九一九年(大正八)秋、薩摩は十九歳でロンドンに渡り、オックスフォード大学で学び、英国流のダンディーな貴公子に変身した後、芸術の都、恋の都・パリに乗り込んだ。昭和のダンディー・白洲次郎の1年先輩。
 
オックスフォードでは、毎月1万円(今に換算すると約三千万円)の仕送りがあり、英、仏流の男の美学を身につけるためのゼイタクなお授業料だった。白洲がカ―マニアでスピード狂だったが、薩摩は恋と冒険にのめり込む。
薩摩はイケメンで身長170センチと当時の日本人では大きく、日本人で初めてハリウッドスターとして活躍した早川雪洲よりもハンサムといわれたほど。一時前のフランスではアラブの王族の王子や石油王たちがモテモテだったが、1920年代、日本人などまだまだ少なくもの珍しい上に、日露戦争後なので「強い日本」「日本男子=サムライ」、ジャポニズム、エキゾチズムからロンドンでもパリでももてもてだったのじゃな。
 
薩摩は有り余る金を藤田嗣治や日本人画家たちにパトロンとしてポンと気前よく金も出した。仏政府が計画したパリ大学都市に留学生のための『日本館』の建設資金に約50億円をポケットマネーから出すなど『東洋のロックフェラー』との評判をとり、パリの社交界や政財界の要人を魅了した。
 
この芸術に理解のあるパトロンを昼の顔とすれば、夜は恋に命を燃やした。当時,パリで一番といわれた美人女優のエドモンド・ギーと愛人関係になるかと思えば伯爵夫人、女優、モデルたちと次々にラブフェアーをくりひろげ、モンパルナスなどパリの下町をも好んだ治郎八は踊り子、娼婦らとも次々に甘美な情事にふけった。
 
 一九二六年(大正15年)、三月、治郎八は山田英夫伯爵の令嬢・千代子と結婚した。パリ・モードでフランス人モデルと並んでファッション誌『ヴォーグ』に何度も登場した美人。2人の生活は贅沢を極め、冬場は暖かいカンヌの最高級ホテル「マジュスチック」で、夏はドービルのホテル「ノルマンディー」で暮らす王侯貴族もおよばぬ豪華な生活ぶりで一ヵ月の生活費は一億五千万円にものぼったというのじゃから、日本人として最高のぜいたくをしたというわけ。
 
「こんな生活は虚栄だと世間から指弾されるかもしれないが、私は生活と美を一致させようとした一種の芸術的創造であった」と治郎八は自伝で回想する。
 
 
結局、千代子は早死し、薩摩は1人で遊びに熱中するが、その日常生活ぶりはー。最高級レストラン『マキシム』には彼の専用席があった。この指定席にマリー・ローランサン、女流作家・コレットや色々の女性たちを毎晩のように連れてきた。
 
当時、画家や芸術家たちは粗末なかっこうでネクタイなどしていないが、英国紳士の治郎八はエルメスの動物柄のネクタイをしめ香水をたっぷりふっていた。
 
香水マニアの薩摩はパリでも常にキャロンの『ニュイ・ド・ノエル』(降誕祭の夜)の銀製の香水入れを携帯して美女を口説いてまわっていた、という。芸術のパトロンであると同時に、恋愛と冒険に情熱を燃やしてエロスとロマンの人生を送ったのである。レジオン・ド・ヌール章、フランス文化勲章などはいて捨てるほどの勲章をフランス政府から授与されている。
 
 治郎八をよく知るパリ日本大使館情報部長・柳沢健は「日本で、彼ほどの行動的な夢の探究者を僕は知らない。あえて探せば、大谷光瑞師がいるが、大谷師は古風ともいえる事業家的な夢と情熱を持っていただけで、薩摩のような芸術、美の感覚はなかったね」と語っている。
 
薩摩は在パリ30年で、1951年、すっからかんで帰国した。取材に訪れた週刊誌記者に「カネなんか残してもしかたないね。どうせ、祖父がポカンと作った財産です。私が無くしてしまったって、どおってことありません。何も後悔はないですよ」と語っていた治朗八は1976年2月、75歳で華麗な生涯を終えた。
 
彼は美の追求と華麗な恋の体験を「巴里・女・戦争」(同光社、昭和29年)、「せ・し・ぼん」(山文社、昭和30年)「なんじゃもんじゃ」〈美和書院、昭和31年〉で語っているが、これは井原西鶴の「好色一代男」の国際プレイボーイ版といってよいものであり、日本最高のプレイボーイの自伝の傑作である。
 
プレーボーイをめざしたい諸君!、まず、これをよんでから外国女性を口説きにいきたまえ。

 - 人物研究, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
速報「日本のメルトダウン」(513)◎「アベノミクスが失望に終わる理由(英FT紙)●「中国と世界、そして日本」

   速報「日本のメルトダウン」(513) ◎「アベノミクス …

no image
  『F国際ビジネスマンのワールド・メディア・ウオッチ(200)』-『マティス国防長官来日、いざとなれば、今まで通り米軍が助けるから、心配しないでくれ、トランプが何を言っても安全保障問題は俺が実行、解決するから」裂帛の気合いです。

   『F国際ビジネスマンのワールド・メディア・ウオッチ(200)』 &nbsp …

(再録)世界が尊敬した日本人【3】日本・トルコ友好の父・山田寅次郎ートルコを世界で最も親日国にした男

(再録)世界が尊敬した日本人【3】 2006年8月 日本・トルコ友好の父・山田寅 …

no image
日本リーダーパワー史(303)原発事故1年半「原発を一切捨てる覚悟があるか」⑩百年先を見た石橋湛山の大評論を読む①

日本リーダーパワー史(303)   福島原発事故1年半―「原発を一切捨 …

no image
現代史の復習問題/「延々と続く日韓衝突のルーツを訪ねる⑥ー日清戦争敗北後の中国紙『申報』1895(明治28)年2月21日付『『日本が中国と講和すべきを建議す』

2011年3月15日の記事再録中国紙『申報』が報道する『日・中・韓』戦争史 &n …

『Z世代のための<憲政の神様・尾崎咢堂の語る<日本史上最大の英雄・西郷隆盛を理解する方法論>の講義⑯』★日本リーダーパワー史(84)尾崎行雄の傑作人物評―『西郷隆盛はどこが偉かったのか』★『リーダーシップは力より徳にある>』

    2010/08/09  日本リー …

no image
『サハラ砂漠南側の「サヘル地域」への国連人道援助』ートビー・ランザー国連サヘル地域担当人道調整官の日本記者クラブ会見動画(60分)(2016.3.18)

 サハラ砂漠南側の「サヘル地域」への国連人道援助について トビー・ランザー国連サ …

no image
日本メルダウン脱出法(641)「日本と過去:消化されていない歴史」(英エコノミスト誌)「歴史が如実に示す中国・ロシアの危険度――民主主義化することはない」など9本

日本メルダウン脱出法(641)   ●『中国人自身も懸念する中国経済“急減速”の …

no image
日本経営巨人伝①・リサイクルの巨人先人・浅野総一郎の猛烈経営『運は飛び込んでつかめ』

日本経営巨人伝①・リサイクルの先駆者・浅野総一郎の猛烈経営 『運は水の上を流れて …

『オンライン講座/ウクライナ戦争と安倍外交失敗の研究 ➅』★『だまされるなよ!と警告したのに、見事に騙されてしまった安倍外交の無惨完敗』★『 ロシアは一を得て二を望み、二を得て三を望む恫喝・強欲・侵略国家なので、対ロシアで日本のハードパワー(武力)を示さずして 協調することは彼らの思うツボの侵略に同意することになる』(ロシア駐在日本公使・西徳二郎)』』

     2016/10/17  日本リ …