『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交の研究』-★「日露開戦までのいきさつ」①★『ロシアは再三再四の遅延、引き延ばし、恫喝外交を展開、 日本側は妥協し、忍耐して交渉を続けるが、ロシア軍が鴨緑江岸 に侵攻した時点で、ついに堪忍袋の緒をきって開戦に踏み切った。』●『安倍プーチン会談の外交交渉の参考にせよ』
2016/12/15「20世紀/世界史を変えた『日露戦争』の研究」-
●『明治36年7月から同37年2月5日、開戦までの日露直接交渉の真相」
密日露戦史』谷寿夫著、原書房、1966年刊、15p-17p )
Wiki日露戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
日露直接交渉は、明治36年7月28日より同37年2月5日まで粟野発電26回、外相発電24、計50回に及んだ。
その間の交渉顕末を要約せば、日本は速かに平和解決に努力し、一方、ロシアは時日を遅延させて、その間に戦力を整備するために努力したという差異があった。
最初、日本の提案に対し、ロシアは東京において交渉しようと提議したが、日本側は時日の遅延をおそれて反対した。ところが、その後数次交渉の末、国際交渉は一国の提議のみで実施すべきにあらずとして、日本の提案に対し対案を出し、この両案を基礎として交渉は依然、東京で行うことを主張した。この間にすでに一月半を経過した。
そこで折れた日本側は、対案を東京で協議することに同意したのであったが、なかなか開始するにいたらなかった。しばらくして、ロシアは、ローゼン公使
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/meiji010.html
を旅順に派遣して極東総督と協議させて、十月に入ってはじめて対案を商議することとなった。
しかし、ロシアが韓国問題のみに限定し、満洲は日本の利益外として度外視した案であったが、日本はわが権利と利益とから、清国の独立と領土保全を必要とすることに重点をおいたことが両国案の相違の要点であった。よってこの趣旨に基いて修正案を提出したところ、ローゼンはその任務権限の範囲外としてこれを霹都に移した。このため、交渉は露都で行われるのであるが、やれ皇后が病気であるとか、外相が不参加だとか、やれ皇帝が旅行したとか、いろいろの理由で引き延ばしし、やっと、12月1日になって再度のロシアの対案が提出された。
しかしながらその案は、前案と同様に韓国の問題だけであった。しかも北緯三十九度(元山-平壌の線)以北の帝国を中立地帯とし、同国軍隊を入れないことを要求していた。だが、日本はさらに折れて、満州問題を捨て、代りに39度問題を省き、韓国における日本の優越的地位を認めしめる修正寮を提出したのである。
しかしロシアは、1月に入り、中央アジア方面(アフガニスタン、そのほか)の英国・ロシア対立関係と同根であると主張してなお中立地帯の件は捨てなかった。
その上、対馬海峡、韓国沿岸自由航行のため軍事施設をしないこと、および再び満州問題を日本の利益外とする条項を含んだ案であった。
ここにおいて日本は、満洲問題は相互に享有すべき権利のように改正すること、かつ中立問題には反対した。
この頃(一月下旬)ロシア軍が鴨緑江岸に集中している情報が続々入りだしたので、ロシアに抗議したが、ロシアは事実を否認し、反対に日本の戦争準備を非難した。
日本政府は、最早これ以上時日の遅延を忍ぶことはできないとし、2月5日、国交断絶の通電を発し、次いで代表者の本国帰還を要求した。丁度この電報受領直前に粟野公使は、最後的回答電報が露国外相から極東総督に示されているが、多分条項に変化がないだろうこと、近くローゼンに転電されて日本政府に通告されるだろうことを知って、その旨、打電してきたが、時すでに遅かった
ローゼン回顧録には次の一節がある。これによれば、ローゼンは武力を背景として恫喝態度をもって、日本に折衝することに反対であったとみられる。
アレキシーフ
http://nekonote.jp/korea/hito/rs/arekisif.html
と会見の間、日本は清韓両国の独立および保全を主張して、到底一歩も謀らないだろうから、日本は最後通牒を出すであろう。
しかしてこれに対する名案は、ロシアが満州を固執する代りに韓国はこれを放棄することにあると言った。アレキシーフも多少これに傾いたようであった。しかるにローゼンの去った後の対案は全く価値のないものになってしまった。また露国政府の当年の秘録には次のような記事がある。
アレキシーフは九月二十八日の電奏によって、満洲占領継続の要を述べた。即ち臣〔ア〕の所見によれば、現下の対日談判は成功の望みがある。
もし、わが公使にして、露国は満洲におけるその権利および利益をまもるためには必要の場合、武力に訴えることを辞さない決意であることを充分に日本に認識せしめたならば談判は成功するであろう。ローゼンまた臣と同説である。
要するに、ローゼンは平和解決を解したようである。
しかし外交家の回想録は、外交文書と対照しなければ、当てにはならない。これもまた将来研究の価値があるであろう。
この交渉の緩慢なことは別問題として、ともかく日本の態度は、当時の政府が逐次軍当局者の意見を容れつつ進展したかに観せられる。その詳細は後述する。
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