『オンライン憲法講座/憲法第9条(戦争・戦力放棄)の発案者は一体誰か④』★「マッカーサーによって押し付けられたもの」、「GHQだ」「いや,幣原喜重郎首相だ」「昭和天皇によるもの」―と最初の発案者をめぐっても長年論争が続き、決着はいまだついていない』★『憲法問題の核心解説動画【永久保存】 2013.02.12 衆議院予算委員会 石原慎太郎 日本維新の会』(100分動画)
2021/06/24
2006年8月15日/『憲法第9条と昭和天皇』記事再録
前坂 俊之(静岡県立大学国際関係学部名誉教授)
今年は憲法制定からちょうど60年目だが、この間、最も激しい論争を呼び、今回の改正論議でも最大の焦点となっているのが9条の『戦争・戦力放棄』条項である。
昭和戦後の日本の行動原理を作ったこの理想主義的な平和憲法の条項は一体誰が作ったのか。「マッカーサーによって押し付けられたものだ」、「GHQだ」「いや,幣原喜重郎首相だ」「昭和天皇によるもの」―と最初の発案者をめぐっても長年論争が続き、決着はいまだついていない。謎に包まれたままの9条のルーツを検証する。
マッカーサー説
いうまでもなく、占領政策を取り仕切って運営していたのはGHQ(連合国総司令部)であり、その最高司令官はマッカーサーである。憲法の条文や内容が誰の発案であれ、それを採用し決定する最終権限をもっていたのはマッカーサー自身である。
それだけに、「マッカーサー憲法」「占領憲法」「GHQ憲法」『平和憲法』といわれるように、当初は日本人の誰もが憲法9条はマ元帥の発案だと思っていた。昭和21年
2月3日にマッカーサーは『憲法の3原則』を提示して、ホイットニーに憲法改正(GHQ草案)の作成を命令したが、そこに戦争・戦力放棄条項(9条)が初めて盛り込まれていたからだ。
この時のマッカーサー3原則は
① 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。
② 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれも放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
③ 日本の封建制度は、廃止される。
―などとなっており、この第2原則の戦争廃棄条項が元帥の意向であることは、『幣原がいいだしっぺだ』と元帥が意馬では誰も疑ってみようともしなかった。
この9条は「マッカーサーが発案したもの」というのはGHQと渡り合った日本側の松本蒸治国務大臣、や芦田均、吉田茂外相、楢橋渡官房長ら政府要人と、元帥の取り巻きだった GHQのケーディス大佐、シーボルト、リゾーらも証言している。
吉田茂外相は「マ元帥の考えで加えられたものと思う。幣原首相との会談で意気投合したことはあったと思うが、幣原首相が申し出たものではないと思う」。佐藤達夫は「幣原首相が具体的な提案をしたとは思わないが、両者が意気投合してことは事実であろう」
幣原首相の秘書官・岸倉松は「幣原は9条条項には全く関係していないが、彼の戦争放棄の彼岸がマ元帥を深く感動させて、これが動機となってGHQ案に規定されたものだと確信する」とそれぞれ憲法調査会などで述べている。
この9条原案は1月12日にマ元帥に届いた『SWNCC-288号指令』(日本の占領政策基本)には入っておらず、戦争・戦力放棄がワシントンの意向ではなかったことを示している。
その分、余計にマッカーサー説が強くなるが、この3原則に基づいて9条条文を書き上げたケーディス大佐も『戦争放棄はマッカーサー元帥のアイデアであった」と肯定し、対日理事会米国代表から駐日大使になったW・シーボルトも「戦争放棄を言いだしたのはマッカーサーで、幣原首相は意外な内容に当惑した、と聞いている。
マッカーサーは、当時、占領をできるだけ早く、1,2年で終えたいと考えおり、その使命は日本を再び米国の脅威にならぬようにすることなので、侵略戦争をしないと憲法に明記させれば使命を達成できると考えたと思う」と書いている。
「私はホイットニー将軍から聞いたが、これはマッカーサー元帥のアイデアだといっていた。ところが、一九五〇年には、幣原首相のアイデアであり、元帥はそれを喜んでうけいれた、と聞かされた。くり返すが、最初に聞いたときは、マッカーサー元帥がいいだしたということだった」 とGHQのフランク・リゾ一大尉は述べている。
幣原喜重郎説
以上のような「マッカーサー首謀説」が主流だった中で、当のマ元帥本人が「幣原首相が憲法9条の言いだしっぺである」と、言い出したので話はややこしくなった。幣原説については彼一流のドラマティックな表現で、自伝の中で次のように書いている。
昭和21年1月24日の正午、 幣原喜重郎首相は、マッカーサーの事務所を訪れて会談した。幣原は『新憲法にはいわゆる非戦条項を含めることを提案した、憲法を日本にいかなる軍事機構-どんな種類の軍事機構-をも禁じるようなものにしたい』と語った。
『こうすれば、旧軍部は、再び権力を握る手段を奪われ、世界は日本が再び戦争をおこなう意思を決してもたないことを知る。日本は貧乏な国で軍備に金を注ぎ込む余裕はない。残されている資源はすべて、経済を活性化させるのに使うべきだ、と思う』と述べた。
マ元帥は息も止まるほど驚いた。長年、『戦争は諸国間の紛争を解決する手段として時代遅れである』とマ元帥自身感じていた。6つの戦争に参加し、何百という戦場で戦ってきた元帥は『私の戦争への嫌悪感は、原子爆弾の完成で、最高潮に達していた』と語ると、今度は幣原が驚く番だった。彼は涙を流しながら、「世界は、私たちを非現実的な夢想家として、あざけり笑うでしょうが、100年後には予言者として呼ばれることでしょう。」(『マッカーサー回想録』、昭和39年版、朝日新聞社)
この幣原説はマ元帥がトルーマン大統領に解任された後の1951年5月5日の上院軍事・外交合同委員会でも証言しており、幣原自身も自伝『外交50年』(読売新聞社、昭和26年刊)で次のように認めている。
『あの憲法の中に、未来永劫、戦争をしないように政治のやり方を変えた。戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹する、見えざる力が私の頭を支配した。よくアメリカ人が日本へやって来て、新憲法は、日本人の意思に反して、総司令部から迫られたんじゃないかと聞かれるが、私の関する限りそうじゃない、誰からも強いられたんじゃない』
また、ホイットニー准将は、この会談には同席していなかったが、著書「マッカーサー」の中で次のように書いている。
「幣原が辞した後、すぐ私は部屋に入った。マッカーサーの表情によって、何か重大なことが起きたことがすぐわかった。元帥の説明では、幣原は憲法起草では、戦争と軍備を永久に放棄する条項を加えるのを提案した。元帥はこれに賛意を表しないではいられなかつた。戦争は時代おくれで、廃止すべきだというのが、彼の燃えるような信念であった。幣原首相の考えが、彼をひどく喜ばせた。そこで、憲法草案の準備を進めるよう私に指令を下したとき、彼はこの原則を加えなければならぬと私に頼んだ」さらに「マッカーサーの第二原則は元帥が幣原との会談後に書き留めたおおざっばな概要であった」とも述べている。
幣原首相の無二の親友の枢密顧問官・大平駒槌が息女の羽室ミチ子に語った回想談もこれとほぼ同趣旨である。
「(1月24日)幣原が自分はいつ死ぬかわからない、生きている間にどうしても天皇制を維持したいが、協力してくれるかとマッカーサーたずねると、約束してくれたので、ホッと一安心。かねて考えた世界中が戦争をしなくなるのは戦争を放棄する以外にはない、と話しだした。マッカーサーは急に立ちあがって、涙をいっぱいためて、『そのとおりだ』と言い出したので、幣原は驚いた。
マッカーサーはできる限り早く戦争放棄を世界に声明し、天皇をシンボルとすることを憲法に明記すれば、列国もとやかくいわずに天皇制にふみ切れるだろうと考えた。これ以外に天皇制を続けていける方法はないと、二人の意見が一致したので幣原も腹をきめた」。
この幣原説の主張はマ元帥、ホイットニー、入江俊郎らである。
一方、これを、真っ向から否定するのが幣原と行動をともにしていた側近の松本蒸冶国務大臣や芦田均、吉田茂らで、その理由は幣原がマ元帥にそのような話をしたならば、当然自分たちにもそのことを伝え、指示があるべきだが、それが全くなかったこと、また、閣議での憲法論議になった時も、9条説を唱えなかったし、発言もなかったこと、発言を裏づける行動をとっていないことを指摘する。
さらには幣原は軍の存在を肯定する意見書を出すなど9条発言とは矛盾した行動をとっており、松本は『軍の廃止はGHQからの押しつけで、政府は相当反抗したのだが、マッカーサーが幣原であるというのはまったく逆である』と、マ元帥の「幣原すり替え説」を主張する。
昭和天皇説
「第九条の発想者は天皇だった」―という新説は1975年(昭和50)、元毎日新聞記者、国際事件記者の大森実が打ち出した。大森はマッカーサー憲法原案の起草者、チャールズ・ケーディス(GHQ民政局次長)に直撃インタビューして引き出した結論である。
大森の質問に対して、ケーディスは「誰が最初のサゼスチョンをしたか知りませんが、第九条の文言は私が書いたのです。私が第九条の文言を書いたとき、ホイットニーから手渡された黄色い一枚の紙片(マ3原則)を基礎とした。
この3原則はマッカーサーが書いたのか、ホイットニーが書いたのか、私は知りませんでした。私は心の中で、この発想は天皇から出ているものと考えて書きました。幣原でもない。マッカーサーでもありません。その理由は天皇の人間宣言です。あの詔書の中に貫かれていたのは天皇の神格否定と徹底的平和主義です。
私はこれはおそらく、政策の手段としての戦争放棄を述べたものではないかと思ったのです。そこで私は、戦争法規条項は天皇のアイデアだったのではないかと思ってもみたのです」と『マッカーサーの憲法』(講談社・昭和50年刊)で答えた。
これを唯一の特ダネ証言として「幣原でも、マッカーサーでもない。天皇の人間宣言が真の発想者だった」と大森は結論づけているが、裏付けの材料、根拠が不足している。
天皇自身がこれについて言及していないし、天皇も幣原と憲法草案の内容について事前に十分、話し合ったこともなく、天皇が幣原にサゼスチョンもした事実はない。幣原、マ元帥のこれへの言及もないだけに、ケーディスの“推論的な発言”だけでは弱い。
このほか、昭和21年1月中旬に、ホイットニーとケーディスが『天皇が戦争放棄の詔勅を出す考えはないか、そうすれば国際的にいいイメージを与えられる』と幣原首相に、サゼスチョンを与えたことがあり、これが同月24日のマ元帥、幣原会談で幣原発言に影響を与えたのではないかと見る「ケーデイス・ホイットニーの共同発案説」も米大学の日本憲法研究者から出されている。
④では一体誰なのか!?
以上、いろいろな説を検討してきたが、誰がその最初の発案者なのか、再び振り出しに戻った感じだが、これからは筆者の推測である。
マ元帥の3原則のルーツは1月24日の元帥、幣原会談にあり、ここでの会話が9条の文言そのものになったのか、これを固めるきっかけになるほど大きな影響を与えたことは間違いないであろう。
それは2人の驚き、感動を見れば理解できる。この時の幣原はペニシリンのお礼と同時に、天皇への戦犯追及を避けること1点に主眼において、マ元帥の腹の内と連合国の意向を探ろうとした訪問であって、敗者の生き残りをかけた心境からのおもねる発言であり、決して本音からの発言ではなかったのではないか。
一方、マ元帥の腹はすでに天皇を戦犯として追及せずで固まっており、極東委員会の反対、介入を押さえ込むための日本軍の戦力無力化の規定を憲法にどう盛り込むかで頭を痛めており、たまたま幣原の口から同じ趣旨の発言が飛び出したことに感動、共感したのである。
勝者と敗者の2人の思惑は見事にすれ違っていたが、天皇制の維持と戦争放棄条項が極東委員会内部で天皇制廃止論を抑えるためにも必要であるという認識では完全に一致していた。どちらが先に言い出したか、よりも2人の強い共感、共鳴によって9条の発想は生まれたのであり、マ元帥が主導して、文言としたのであろう。幣原が本気で戦争、戦力放棄条項を考えてなかったことは、その閣議での発言や側近に熱心に話し、条文を盛り込むための裏付ける行動をとってないことからもみても明らかだ。
2月1日の毎日のスクープで見た政府草案と幣原発言とのあまりの乖離に激怒したマ元帥は自ら3原則を書き上げて、憲法草案作りを指示した。
幣原が本意でなかったことは2月21日の2人の会談で、元帥は憲法草案を自画自賛して「軍に関する規定を全部削除した。日本のためには戦争を放棄すると声明してモラル・リーターシップをとるべきだと思う」と述べたのに対して、途中で、あえて幣原は口を挟んで「他国でこれに従うものはないであろう」と否定的な見解を表明しており、これを裏付けている。
幣原は1951年3月10日になくなったが、マ元帥が9条の幣原説を名前をはっきり挙げて言い出したのは朝鮮戦争でトルーマン大統領に罷免された後の昭和26年5月5日の米上院の公聴会からである。
朝鮮戦争直前には「もし、私の銅像が立てられることがあるなら、太平洋戦争の勝利のためではなく、憲法第9条を制定させたことによるであろう」(マーフィー著『軍人ののなかの外交官』と9条が自分の最大の功績だと発言しているのだ。
ところが、25年6月25日 朝鮮戦争が勃発すると、2週間後には吉田首相に警察予備隊の創設を命じ、自画自賛していた9条を破ってしまった。マッカーサーは国際情勢の急変を見通すことができなかった自らの不明を恥じ、9条を与えたことを後悔したのであろう。
憲法を改正した4年前とは国際情勢は180度変わって、日本は対ソ連、共産主義への防波堤の役割を担わされることになったが、マッカーサーが武力を取り上げて、押し付けた平和憲法が今度は米国にとっては足かせとなってしまった。
朝鮮戦争の失敗でマ元帥は罷免され、その名声も地に落ちてしまった。米議会でも「誰がこんな9条の日本憲法をつくらせたのか」ーと問題化して、マ元帥の責任追及の火の手が上がってきた。ここで、マ元帥は「9条の発案者は自分ではなく、幣原首相である」と名前をはっきり出すことで責任を回避して、すり替えたのではなかろうか。
以上は別冊歴史読本、前坂俊之共著『憲法第9条と昭和天皇』(新人物往来社2006年5月発行)より転載しました。
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