『オンライン/最後の海軍大将・井上成美が語る山本五十六のリーダーシップ論』★『2021年は真珠湾攻撃から80年目、米中日本の対立は火を噴くのか!』
記事再録
リーダーパワー史(869)
2011/09/27執筆<日本リーダーパワー史(195)>
『真珠湾攻撃から70年―山本五十六のリーダーシップ』ー
最もよく知る最後の海軍大将・井上成美が語るー
以下は前坂俊之監修『山本五十六追悼」 (2010年 新人物文庫)より。
『水交社記事』 「故山本元帥追悼号」(41巻3号、昭和18年(1943)9月25日発行、財団法人水交社発行)の中の『故山本元帥国葬に際し講話』(海軍中将 井上成美)である。日本海軍最大のリーダー・山本の人間像を最も身近にみた、これまた海軍の良識派の代表選手・井上成美が「海軍兵学校」で語ったもの。
日本人のリーダーシップの1つの頂点、限界をみる思いである。アングロサクソン流の統率、リーダーシップとはもちろん異なる、だからといって中国的な「孫氏の兵法」人身掌握術でもない。
日本的な浪花節、剣豪、人情大将で、勝つための戦略ではなく、みんないっしょに黙って、山本元帥のためならたとえ火の中、水の中、死んでもいいという特攻、玉砕、戦陣訓の「死の美学」「死のヒロイズム」「死のリーダーシップ」である。
たまたま、昨日9/27のNHKクローズアップ現代「コーチに学ぶ社長たち、リーダー力を磨け」をみたが、まるでナンセンスである。ドラッガーとか、アメリカの経営コーチンチングを誤解して日本企業、トップは導入しようとしているが、いいも悪いも日本のリーダーシップは極致はこの山本流なのである。昨年、ある人材派遣の中小企業にやっと就職できた私の大学ゼミ生の話では毎日9時から夜11時、12時まで残業代なしで、働きづめという。
月給は17万とか。それでは奴隷とかわらないではないか、というと「そうですね。しかし、ほかに働き口はないしね」と我慢、我慢の生活だとか。この会社も上司がコミュニケーション、コミュニケーションとやかましく、これまたアメリカ流の経営術の受け売りで情報の共有化に熱心という。
戦前の日本軍とあまりかわっていない。日本の組織、集団、コミュニケーション、社長の統帥、リーダシップの極限値である日本の軍隊の特徴ををしらずして、現代経営を理解することはできないし、社員をうまくうごかすこともできないであろう。
解決のキーワードは歴史にある。アメリカよりも足下を掘り下げるべきであろう。
井上成美が語る山本五十六の人間像
故山本元帥の人格、力量については、元帥の戦死発表以来、全国の新聞紙上にいろいろと紹介せられておるので、諸子も山本元帥という方がいかなる方であったかということは概ね知り得たことと思うが、本日は、校長が故元帥に接した間、校長の見た元帥についての話をすることにする。
校長は山本元帥に直接の部下として接する機会は五回あった。
① 、明治四十二年十一月、校長が海軍兵学校を卒業し、この江田島内で練習艦
「宗谷」に候補生として乗り組んでから、濠洲に遠洋航海をして内地へ帰った時、すなわち翌四十三年の七月までの八ケ月間、元帥は当時大尉で「宗谷」分隊長として勤務せられ、直接ご指導を受けた。
② 明治四十五年、校長が二年目の少尉で四月から七月まで海軍砲術学校普通科学生の時、山本元帥は大尉の教官で、吾々は兵器学を教えていただいた。
③ その後永い間、元帥と同一所に勤務する機会はなかったが、昭和十一年十二月から翌十二年十月まで約十一ケ月、校長は少将の二年目で、海軍省で、制度の調査立案を命ぜられたが、元帥は当時海軍次官をしておられた関係上、直接元帥の命を承けて勤務し、ご指導を受けた。
④ 昭和十二年十月から十四年十月まで二ヶ年、校長が海軍省軍務局長として服務中は、職務柄、海軍次官でおられた元帥に始終接し、種々感化指導を受くること非常に多かった。
⑤ 昭和十六年八月から昨年十月本校に来る前まで一年三ケ月、校長は某艦隊司令長官として直接、聯合艦隊司令長官たる元帥の直属の部下として勤務し、なお十七年八月から十月までの間は、同一地にて作戦せるゆえお目にかかる機会も多かった。
今から話すことは、これらの機会に私が直接、元帥に接して受けた印象や、見聞きした元帥についての話で、新聞などに出ておらないことを主として紹介する。
(1)元帥は頭脳は飛び抜けて明晰、物事の判断は実に文字どおり快刀乱麻を断っがごとく、なお常に先が見えることは、余人の追従を許さぬところであった。
これがため、元帥の言わるることは、時とすると大変に変わっており、人と違ったことをよく言われるので、吾々は「オヤッー・」と思うことはたびたびあった。何ゆえにさような違ったことを言われたかということは、後に至ってようやくわかるようになったが、人がせいぜい一手先か二手先までのことを考えて物を言っているのに、元帥は五手も六手も先を見て物を言っておられたためである。これは元帥にはよく先が見えるためである。
戦争においても、何かの作戦が行われる場合に、大概の人は至極簡単にうまくいくものと物事を割合にあっさり考えているような場合でも、元帥は公開の席などでは何もいわれないが、私どもには率直に「ああ簡単にはいかないぞ」と予言せられることがあり、ご自分ではちゃんとうまくいかぬ場合のことを、前もって頭の中で練っておられたようである。
また、不思議に元帥の予言が的中する。
そこで作戦が予定通り進まず、実施に多少の齟齬を来したような場合があると、先の見えぬ連中(私等も此の連中の一人)は周章とまでいかずとも、ちょっと面喰らったり憤慨したり悔しがったりするが、元帥は「俺はそううまくはいかぬと思っていたよ」と平然たるものあり。
しかして、これらについても元帥は決して理由のないことはいわれない。山勘で物をいわれないのである。元帥の先の見える判断には必ずしかるべき根拠がある。
そして、その理由は必ず判然と吾々に対して言明せられるのを常とした。伺ってみると、元帥の判断の基礎とせられる資料が常人の考え及ばざることに出発していることを知り、これはとうてい凡庸の企て及ばざるところであると感じたことがたびたびあった。
(2)元帥は決して誘惑に乗らないし、与論、風潮に惑わず、世評のごときはもちろん問題にせず、自己の思うところを判然と言明せられ、一路所信に遇進せられる。
その間、身辺の危険もとより知らざるがごとしである。何事でも必ずご自分で自分の答えというものを出して持っておられるゆえ、他人の出した答えに引きずられるようなことなき方であった。これはもちろん頭脳のよさもあるが、元帥はもともと私心がなく、名誉慾もなければ出世慾もないゆえ、正当なる判断が出来、それに信念が強く勇気があるゆえ、これが出来たのである。
かように元帥は人の真似はせぬ人、何でも独自で考えて結論を出す人なるゆえ、元帥の言行には常に独創があったのである。
(3)元帥は満身是胆といったような極めて胆のすわった勇気のある人で、怖ろしいということを知らぬ人であった。米内大将が海軍大臣の時、ある日私「山本はね、怖いということを知らない人だよ、深い崖の上の細路などをあるく時には、たいていの人ならばあまりいい気持はしないものだが、山本という人は、ノソッとその崖縁に行って平気で谷底を覗くような人だよ」といわれた。
(4) 元帥はまた極めて正義感の強い人であるゆえ、何事でもあらゆる角度からこれを検討して、正しいと考えたことなら必ず賛成せられ、「それでよし」といわれるので、その点、部下としても仕事は極めてやりやすくもあり、また張り合いもあった。元帥はその反面として、正義に反することを非常に憎み、また嫌われた。
(5)以上述べた所のみを開くと、山本元帥は峻厳そのもののごとき冷たい 理智一点張りの人のように思われるかも知れないが、実はしからず、それとは反対に元帥は非常に感じゃすい情味豊かな人であった。元帥はよく「感激性のない奴はだめだよ」といわれた。
時は昭和十三年五月頃だったと記憶す。支那事変当初の渡洋爆撃隊の指揮官が内地へ帰還し、大臣室で任務の報告があり、若い飛行機搭乗員奮戦の状況をつぶさに報告した。誠に感激深き報告であったが、報告終わって山本次官は次官室へ退がられ、後に続いて私も次官室へ迫がったところ、山本次官は涙を滝のごとくに流され、拳でそれを払っておられた。
そこへたった今報告を終わった航空部隊指揮官が入り来り、これを見て指揮官もともに涙を流し、次官の手を堅く握り、「有難うございます、これを知ったら死んだ部下も満足するでしょう」といったのであった。私はこの時、「山本次官の涙こそは、まさに部下をして喜んで水火に飛び込ませる将軍の涙だな」と感じた次第である。
昭和十二、三年は実に支那事変の海軍作戦の最高潮な時で、軍務局などは日曜も祭日もあったものでなく、全くの三百六十五日の出勤で、紀元節でも天長節でも仕事仕事で非常に多忙であったが、日曜日など十一時頃になると、秘書官がよく「次官からです」といって、美味しい寿司や洋食弁当などを軍務局長室へ持つて来たものである。
また暑い日には氷菓を下さったり、果物を届けていただいたりしたものである。かような次第で、元帥は非常に情味たっぷりの人であって非常に親しみやすい人であるとは思ったが、怖い人といったような感じは一度も持ったことがなかった。
(6)かような人ゆえ、「クラス」の人たちは元帥に対し非常な尊敬と信頼を持ち、大変元帥を愛しておったようであった。また元帥が航空本部におられた時なども、元帥の室には海軍省構内(海軍省、軍令部、艦政本部、航空本部)の重要職員の二人や三人集まっておらぬことがないくらいであった。
これは、みんなが何でも山本元帥のところへ相談に行くためもあったと思うが、また格別の用事がなくとも何となく人の集まる室であったのを知っている。
一体、海軍省内などで、何となしに人の集まる所は省内で最も重きをなしている人の室と見て差し支えない。また人徳のある人のところでなくては、そう年中、人が集まるものではない。以上の事実からしても、元帥がいかに一般から尊敬せられ、かつ人気(よい意味の)のあった人であるかがわかる。
元帥が次官の時には、次官室には毎日、新聞記者が大勢押しかけて来て、一時間くらいも話し込んでおるのを見たが、元帥は新聞記者たちに媚びるでなし、随分ズバリ、ズバリと物を言われるが、記者連中は次官室へ来るのを楽しみにしていた。よく記者が私に「次官の所へ行っておると、一時間おっても少しも退屈せぬ」といっておったものである。
私が昨十七年十一月、現地を発って本校に赴任する前日、御暇乞いに行くと、元帥は「君を東京で慰労のご馳走をしてくれるように某氏に頼んでおいたからなあ」といわれ、私の内地帰還後、某氏から一夕、元帥に代わっての饗応を受けたが、その時某氏は「山本さんから『井上さんは奥さんを亡くして全く孤独の生活をしている人ゆえ、戦争の慰労もさることながら家庭的な温か味をもって充分摂待してくれるように』といってよこしましたよ」といわれた。元帥の行き届いた情味のある人だということは、これでもよくわかると思う。
時を明確に記憶しないが、昭和十三年か十四年、土浦が大洪水でひどい目にあったことがある。私は当時、軍務局長をやっていたが、多数の航空関係の海軍士官や↑士官兵の家族が家財を大部分流失したのを知り、即時救済の必要を感じ、義捕金だとか何だとかいっていたのでは時機を失するを思い、非常手段をとるに決し、山本次官に「海軍のお金を五万円ほど即時に出していただきたい」と申し上げたところ、即座に承知して出していただき、被災害家族の急場を救うことが出来た。
これらも元帥の度胸も手伝ってはいるが、一面困っている人に対する元帥の情深い思い遣りがこれに同意せられた一大動機であろう。
かように元帥は極めて情味たっぷりの人で、私の見るところでは、いずれかと申せば元帥は元来が情の人であるが、それを理性の衣でうまく包んでおられたのではないかと思う。
(7)元帥は酒は一滴も飲まれない。宴席へ出られても番茶を銚子へ入れて来させ、それを盃に注いではチビリチビリ飲まれた。それでいて、席へ酒がまわって皆が陽気になるにしたがって同席の人と巧みに調子を合わせて陽気にやられるゆえ、酒党も少しも気まずい思いはしない。また第三者から見るとあたかもいっしょに酒を飲んでいる人のように見える。
昭和十四年八月のことと思う。元帥が次官から聯合艦隊司令長官に転任になってご出発の前日くらいと思う。お別れの席で、元帥は盃一杯の酒を日に入れられたが、時ならずして元帥は真っ赤になって寝てしまわれたことがある。元帥が酒を飲まされたのを私が見たのはこの一度のみである。
(8)元帥は果物は大好物で、戦地でお伺いするとき「パパイヤ」と「マンゴー」を持っていって上げると大変喜ばれた。何でも銀座の千疋屋は元帥の好きなお店だったと聞いている。
(9) 元帥は「メモ」を書くくにも、また長文の公文を書くにも、いつも毛筆を用いられた。
(10)元帥は格式張ったことが嫌いで、殊さら威厳をつくることはせられなかった。部下に対しても自分を一段と高い所に据えたごとき態度で戒めるようなことはなさらなかった。
どうもご自分では自分が偉いなどとは少しも考えておられなかったように感ぜられた。したがって親しみをこそ感ずれ圧迫は少しも感じなかった。これは新聞記者から聞いた話であるが、次官官舎は十時過ぎに伺うと、女中なども早々と寝かせてあり、お茶などもご自分で運んで来られたということである。
元帥が次官の時、私(局長)に「次官室へ来い」といって呼ばれること1は滅多にない。たいていご自分で気軽に局長室へ出かけて来られたものである。
(11)元帥はなかなか気は若く、また極めて無邪気なところがあった。次官の時、宴会の席で愉快になると(もちろん酒は飲まれぬ)、倒立をしたりされる。面白半分に桜餅を桜の菓ごと食べたりして人を喜ばせられることがある。
皿まわしなどは得意の芸で玄人の域に達しておられる。銚子の底に掌を当て、真空を作ってこれを密着させてそれで人に酒を注いだり、また四本の指を折り、これと栂指とで水の満水してある「グラス」を持ち上げて見せたり、まことに器用なことをされた。
(12)将棋、麻雀、「カード」など勝負ごとが好きで、また大変強い。しかし元帥が米国駐在中、キューバの賭博場で金を儲け、それで観察旅行をされたなどの挿話は他人の作り話ではないかと思う。
(13)元帥はいかなる階級の者でも、また海軍部外の人でもその身分、地位や 職業の如何を問わず、格別の分け隔てをせず、心からその人たちの人格というものを尊重して接し、決して地位や身分の低い者を頭から軽んずるがごときことは絶対にせられなかった。ご自分の階級がかなり上でも、若い人たちを小僧扱いになさるごときことは、決してなかった。
(14)元帥のやられることは実に多彩ではあるが、しかし元帥の1言1行、みな理由があり、ご自分の独自の考えからちゃんと後に来るべきその結果なり影響なり見透しをつけてやっておられるのである。元帥の言行は決して場当たりではなく、出鱈目というような点は少しもない。必ず確たる根拠をもっておられる点は凡人とはだいぶん違う。したがって元帥の言行には何となく統一があったように思う。
以上の話で山本元帥の風格は概ね輪郭だけはわかったことと思うが、一体、人の風格偉業などは決して簡単なものではないのでこれを言葉少なにいえるものではない。
私の今日の話は、私の思い浮かんだことのみを話したので、これで決して元帥の風格を尽くしてはおらぬ。ただ元帥に関して一言でいえることといえば、「元帥のごとく欠点のない人は稀だ」ということくらいであると思う。
この話を諸子が自己の修養に活用し得るやは、諸子の覚悟一つにある。
ここでついでながら1言注意しておきたいことがある。それは、一般に偉人崇拝ということについてである。偉人を崇拝してその言行に倣い自己を磨くことは修養の捷径であり、就中これにより自己の言行に実行の力を与えらるる点においては大変よいことである。
しかし、そのやり方を誤ると大変なことになるゆえ、憤重なる注意を要する。それはどういう点かというに、偉人英雄の言行を無批判に真似ることの危険な点である。これに関し、注意すべき点が三つある。
第一は、およそ人の言行を世人が伝える場合に、外部に表われた言行のみを伝え、その人がいかなる気持、また、いかなる理由でそうしたかということを併せ考えずに、無責任にこれを伝えることが多いという点。
第二には、人の言行にはその人をしてさような言行をなさしめた当時の世の中なり、社会の情況、その他周囲の状況を併せ考えなければ意味をなさないのみか、時には大変な誤解に到達する惧れがある点。
第三には、およそ吾人は崇拝する人の精神に倣わんことを努むべきであって、その精神を体得もせず、また身のほども反省せずに、枝葉の言行のみを真似るようなことをすべからず、という点。
この三つに注意が肝要である。今後も山本元帥の言行録や伝記のようなものが続々と票出で、諸子の修養に豊富な材料を提供することと思うが、ここに述べた三点の注意を忘れずに真面目に修養すべきである。
この三つに注意が肝要である。今後も山本元帥の言行録や伝記のようなものが続々と世に出で、諸子の修養に豊富な材料を提供することと思うが、ここに述べた三点の注意を忘れずに真面目に修養すべきである。
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