日本リーダーパワー史(535)「山本権兵衛を激賞した福沢諭吉(上)」
日本リーダーパワー史(535)
●「山本権兵衛を激賞した福沢諭吉(上)」
「山本権兵衛という人に会ったが、イヤ-実に偉い男だ、
彼は唯の軍人でない、学者だ、全体、薩摩の奴には数字の分
らぬ男が多いが、山本と云う男は、徹頭徹尾マルチカルに
出来上って居て、実学に根拠する話の出来る男だ」
『箒のあと』高橋義雄著には以下のように紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%
8B%E7%BE%A9%E9%9B%84_%28%E8%8C%B6%E4%BA%BA%29
〔昭和8年2月15日、読売新聞〕
山本権兵衛を激賞した福沢諭吉(上)
私は実業界引退後、余暇に乗じて福沢先生の事歴を、先生に縁故ある長老より聴取しておかうと思い大隈重信、後藤新平、足立寛、中村道太、荘田平五郎、森村市左衝門、阿部奉蔵、北里柴三郎、犬養毅、尾崎行雄氏等約三四十人を歴訪の上、各人各色の関係感想を査
問したが、是は右等の人人の在世中、なるべく多くの資料を蒐集せんとする主意であった。
かくて私が伯爵山本権兵衛氏を訪問した次第は、福沢先生が明治三十二年山、本伯と会談された後、或人に向って此頃「山本権兵衛という人に会ったが、イヤ-実に偉い男だ、彼は唯の軍人でない、学者だ、全体、薩摩の奴には数字の分らぬ男が多いが、山本と云う男は、徹頭徹尾マルチカルに出来上って居て、実学に根拠する話の出来る男だ」と激賞せられた事を聞いて居る、
又先生が脳溢血後、記憶力が衰えて人の名前を思い出せなかった時「アの薩摩の奴を連れて来い」と言われたので三田に関係ある薩摩人の名を教へ上げたそ中に山本権兵衛という名が出るや、両手を拍って、夫だ夫だと言はれたと云う事も聞いて居たので、私は伯への紹介を園田孝吉男に依頼したところが、男は早速快諾して山本伯は厳格な人だから自身で訪問して申入れようとて、態態其労を執られたから私は大正三年十一月二日午前八時牛より山本伯の高輪台町邸を訪問する事となった。
かくて先づ日本客間に通れば、床に大正天皇陛下が伯の日本海軍建設に関する功労を嘉賞せられた勅作七律の辰翰が掛けてあったから、謹んで之を拝観し居る折柄、伯は悠然座に着いて初対両の挨拶を述べられ、私が今日訪問した趣旨を聴き終るや、伯は徐ろにロを開い
て先づ福沢先生の事歴に関する思出談を語り、段段談話の進行するに随い日露戦後ドイツを訪問して、カイゼルに謁見した顛末より大正政変の委曲までに及ばれたが、今その福沢先生に関する部分だけを摘載する事としよう。
自分が福沢先生と会見したのは、明治三十二年であった、会見の手渡は今なお海軍に勤めて居らるる木村摂津守の子息が、先生の使者として来宅し、福沢先生が閣下に会見したいと云うことでありますが先生が自分より会見を申込むと云うのは甚だ稀な事でありますから枉げて御承諾を顧いたいと云う事であった、
因て直に之を承諾すると木村はさらに語を経ぎ、福沢先生は年輩でもあるから会見の場所等については、先生の方にお任せ下されたいと言うので、夫も宜しいと承諾すれば既に時日の相談をして来たものと見え、何日何時より福沢宅にて会見したいとの事であったから、当日朝九時頃先生の宅を訪問したが、当日の会談は午前九時に始まって、正午になってもなお尽ききないので、先生は自分に昼食の御馳走を為し、奥さんや令息達に自分も紹介せられて午餐後午後四時頃まで語り漬け先生も非常に満足せられたようであった、
されば皆目の談話は非常に広汎なる範囲に亙った。今その大要を云えば自分が十四歳の時、始めて「西洋事情」を読んで大に時勢に感覆した事から姶まり、大西郷の添書を持って江戸へ出で勝安房に面合して色色教訓を受けた事、西郷従道が台湾征討に出かけたのを憤慨して大にその不当を責めたが、その後西郷より事情を聞いて自分の誤解を悟った事、
又自分は一身を海軍に委ぬる決心で勝安房を訪問した所が、彼は自身の経歴を説いて、海軍振興を以て己れが任とするには決死の覚悟がなくてはならぬと激励せられたから自分は万難を排して海軍の学術を修めて見ようと彼に誓約して、終にドイツに留学した事、
又明治二十一年自分に対して四面攻撃が起った時、自分は六ヵ月許りかかって我海軍大改革案をし、これを西郷海軍大臣に示した所が、西郷は一寸これを読んだ計りで直に賛成の意を表したので、自分が六ヵ月掛って調べた事を、一寸読んだ許りで了解する筈はない。
自分は左様な大臣の下に就職する事は出きぬと言い出したら、西郷は例の調子で、実は一切わかって居らぬが、今日君を措いて海軍改革は不可能だから万事万端、一切君に任せる積りである、而して此改革案は必ず内閣の同意を得て見せるから、君も是非留まって、これを実行して呉れよと、切望せられた事等であった云云。
以上山本伯の談話は、まだ佳境に人らぬから、更に次項に続載する事としよう
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