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『私が私が尊敬した日本人列伝①』★『正義を希求し「死刑と冤罪(司法殺人)と人権擁護で命をかけた正木ひろし弁護士をしのんで』★『その生涯と追憶、著作目録など』

      2021/05/10

「正木ひろし弁護士をしのんで」 その生涯、追憶、著作目録。及び参考文献
 
<『日本データバンク』1976年1月号などに掲載>

前坂俊之(毎日新聞記者)


ロッキード事件は日本の保守政治の屍臭を放っ腹わたを大きく切開してみせた。巨額のワイロや利権が密室の中で飛び交う政治と大企業のゆ着は、これまで公然の噂だったが、皮一枚にさえぎられ容易に見えなかった。ロッキード事件は一挙にこれを切り裂いたのである。
どこまで事件の全容が暴かれるか。それは最終的には国民一人一人の正義への希求にかかっている。

とにかく破廉恥で醜悪な事件である。が、この事件に関してもう一つ不愉快で腹立たしい質問を、私は何度か受けた。渦中の児玉誉士夫、小佐野賢治、田中角栄に関係していた正木弁護士なる人物が「正木ひろし弁護士のことですか」と度々聞かれるのである。

正木ひろし弁護士は昨年(1975)十二月六日、肝臓ガンで七十九歳の劇的な生涯を閉じられた。生前、何度かお会いし、明治以後、正義の希薄なわが国で足尾銅山鉱毒事件に生涯を賭けた田中正造と並ぶ正義を追及した数少ない人物として深く傾倒していただけに、この質問には驚いた。

関係していたのは死刑廃止論や行刑に尽力された正木亮弁護士(元名古屋控訴院検事長)で、同姓とはいえ正木ひろし弁護士とは全くの別人である。権力の横暴を憎み、それとの戦いに生涯を費やした正木ひろし弁讃士は、地下でこのとんでもない誤解に多分腹立しい思いをされていることだろう。

正木ひろし弁護士は昭和十二年、四十二歳で個人雑誌「近きより」を発刊、軍国主義とファシズムを痛烈に批判した。以来、昭和二十四年十月まで、自宅が焼けた20年五月以降も、ガリ版で毎月休むことなく刊行を続けた。

『亡国後、数年または十数年の後に生き残った子孫によって、昭和の暗黒時代にもこういう言論があったのか。われわれの父兄たちはこういう悪魔の支配によって、家畜のように殺されたのかという事実を知ってもらいたい』。

正木弁護士のこの願いは冷徹な観察力と火のような批判力とあいまって『近きより』の一言一句に半世紀後の今も決して色あせぬ鋭さを吹き込んでいる。
この名著『近きより』は昭和四十三年、弘文堂から一冊(九百八十円)にまとめられ出版された。しかし残念なことに、この本は『近きより』全一九八号の約三分の一しか収録されていない。それに、今だに弘文堂に在庫の一部があることだ。興味のある方は早速、申し込んでほしい。

この『近きより』だけでも正木ひろし弁護士の存在は、間違いなく歴史に残ったであろう。が、かつての教え子たちが大義名分のない戦争で、次々に犠牲になっていくのを黙視できず、正木弁護士は言論活動から、行動の世界に一歩踏み出し,命がけの闘争を開始する。

昭和十九年茨城県那珂郡の炭鉱で現場主任が警察官に殺されたいわゆる〝首なし事件〟で拷問の証拠をつかむため、遺体を墓場から掘り出して首を切断、東大法医学教室の古畑種基数授に鑑定を依頼、警察官を告発した。

特高が猛威をふるい、国民のすみずみまで監視の目を光らせていた時代。警察に見つかれば死体損壊罪で抹殺されかねない。この間の正木弁護士の正義を実現するための生命をかけた勇気は超人的でさえある。

この事件の発生当時、正木弁護士の身を心配した岩波茂雄が貴族院議員・伊沢多喜雄に引き合わせて保護を頼んだ。伊沢はその純粋な行動に打たれながらも、ダメ押しのように質問した。

『君がそれだけ警察側の非をあばこうとするならば、地下三千丈の足もとを掘り返されても何も出てこないという信念がいるけれど、その点は大丈夫かね』
正木弁護士は瞬時に答えた。『地下三千丈を掘り返されても、私にはやましいところは一つもありません』

その時、伊沢は涙さえ浮かべていたという。正木弁護士はこの事件で神の存在を確信する。

そして、戦後、冤罪事件を数多く手がけて無実に苦しむ名もなき人のために誠実に驚くべき持続力で戦っていく。十八年後にやっと無罪を獲得した八海事件。無実で二度も死刑判決を受けた阿藤周平の救援を依頼する必死の手紙に対して正木弁護士は次のような返事を出している。

『私はキリスト教の教理の真正なることを確信し、十字架を尊敬するために自らが貴君の身代りになるつもりでこの事件と取組んでいることを記憶していて下さい。私自身がキリスト教の真正なることをアカシしようとしているわけです』 (昭和二十九年六月十九日付)

『どんなことがあっても君等を見殺しにするようなことは絶対にない。僕は君と生死を共にする。それがキリストの愛の教えである』(同年十月二十五日付)。
彼はこの言葉を寸分たがわず行動に移したのである。

プラカード事件、三鷹事件、チャタレイ事件、菅生事件、白鳥事件などで権力側のフレームアップを打ちくだいた正木弁護士の功績は不朽だが今は紙面がない。これら冤罪事件の摘発を通して正木弁護士は日本の司法制度を改革することを念願した。

しかし、丸正事件で無実の被告に代って真犯人を告発したのに対し、逆に名誉毀損で起訴され、〝被告の座″におとし入れられた。晩年には志に反し「現日本の司法制度においては正義の実現は不可能であることを私は証明した』との悲しい結論に到達せざるを得なかった。そして〝被告″のまま不帰の客となられた。

 

私が正木弁護士にはじめてお会いしたのは

 

1974年(昭和四十九)夏である。五十年正月、私は再び調査していた八海事件についてゆっくり話を聞きたいと正木弁護士に手紙を出した。すぐ返事がきた。御宅の一階右側の八畳間に宿泊してもよいこと、正木弁護士自身のその時のスケジュールとともに、宿泊の条件、心得として次のように記してあった。
 

『ミヤゲもの搬入禁止、小生の在不在に無関係に滞在のこと、当方の提供するもの、座布団、コタツ、ヤカン、ドビン、茶碗など、風呂自由、小生は二階で仕事、天井で音がするのはあらかじめ承知されたし等々』

遠慮なくはっきり述べ、しかも暖かみのあふれる文面であった。

一月十日、昼すぎに私は御宅にうかがった。正木弁護士は東京第二弁護士会の新年会に出席され、不在だった。
『もう死んだんではと思われてはイカンといって行きました、めったに行かないんですがね』と正木弁護士の世話をされていた娘の美樹子さんが笑いながら玄関横の部屋に案内してくれた。

資料を見ていると夕方、正木弁護士は帰宅された。いつものベレー帽をかぶり、黒いオーバーの上にカバンを胸から背中にかけているのが、明治生まれそのもまであった。

「ヤアー、御苦労さま」と人なつこい笑顔でコタツに入り、しばらく話し込んだ。顔にはしわがなく、赤ん坊の膚のようにピンク色に輝いている。とても七十八歳には見えない。こんなに生気にあふれ、晴々として屈託のない表情の人を見たことはなかった。

『僕より五十歳も若い同胞に理解きれ、敬意をもたれることは人生の至福の一つだね。私のように、今も青年の気持を持ち続けられるのは、信仰のおかげだ。
これまでの事件をふり返ってみると、神の存在を考えずにはいられないんだね。僕の後ろには神がいるんだから、絶対に後ろにはひけないんだ。
だって神さまをけとばすわけにはイカンだろう。裁判官、検察官といったって月給取りだからね。こっちは宗教家だ。勝負は最初からわかっているよ』と愉快そうに笑われた。

『日本人には不正に対するいきどおりがないんだね。正義正義という奴はきらいだなんていう文化人が多い。
万葉集や一般の人には理解できない哲学書でも翻訳すれば、えらいと思っている。僕は冤罪に陥し入れられた一人一人が問題ではなく、人類が被害を受けているという立場から許せないんだ。日本人には人類意識がないんだな』

●「正木弁護士の日本人に対する批判はとどまるとがなかった」

 

しばらくして、正木弁護士は「僕はまだまだやらなくてはならない仕事がある。体力の劣えと頭がポケるのを、一番警戒しているんだ」と立ち上がった。
腕組みをして、ヒザを右左とグルグル回転させたかと思うと、首から下をタコのようにグニャグニャ曲げて体操をはじめられた。
「君、できるかね」といって、両足を広げ、両肢がピタリと一八〇度になったのには驚いた。

正木弁護士は1961年(昭和三十六)、ある事件で諏訪湖に行った。スケートをしようとしたが、立つのがやっとで2mも歩けず、体力の衰えにがく然とした。その時、六十六歳。一念発起して書斎の脇の柱に鉄棒とつり輪を取付け、体力づくりをはじめた。
権力と戦うには知力はもちろんだが、体力こそが原動力になる。正木弁護士の持論であった。

一通り、“正木流体操”がすんだ後、「どうだ」とズボンをまくり上げて大腿部を見せた。モモの筋肉が陸上選手のように力強く盛り上がっている。さわるとコリコリ石のように堅い。

私は感嘆の声を上げた。正木弁護士は天真欄浸そのものの表情で何度か足に力を入れ、筋肉の躍動を誇示して無邪気に笑われた。
翌朝、二階から降りて来られた正木弁護士は「君、カメラを持っているね」と聞いた。何のことだろうと思いながら、バックからカメラを取り出して示すと「おもしろいものを見せて上げよう」といって二階に上がった。書斎の入口横の廊下の端に〝主人専用〟と書かれたトイレがある。

正木弁護士はトイレの戸を開いたまま、私を手招きした。トイレは水洗で周囲はモルタルの白壁である。何とその白壁にぎっしりと前も、後ろも頭の上の方も全面に黒のサインペンで落書きがしてある。

正木弁護士の特長のある字で、よくみると、「一九七四年六月二十七日、全身の関節全部極限までグニャグニャになったようだ」 「ナメラカ、ラクに動作す」。
その下には「二十九日、右下脚の回転、極限自由に行くことができた。便所にて今」。「八月五日、全身アヤツリ人形の如く自由に回転」。
ザッとこんな調子で正木式体操の結果をカルテのように書いているのだ。白い部分を探すのが困難なほどピッシリと書いていあった。
七十八歳で体力づくりに励む正木弁護士。〝永遠の生〟を信じ、実践している正木弁護士の秘密をのぞき見た思いで、私は夢中でシャッターを押した。

正木弁護士はキリスト教を信仰されていた。

訴訟の記録や書物がところ狭しと並べられた二階の書斎。その机の右隅には数冊の聖書が置かれていた。

背綴がポロポロで、うっかり開くとページが落ちるほどだった。熱心に読み返されていた。しかし、教会に行くとか、ある特定の宗派に属するといったものではなかった。あくまで、正木弁護士独自の信仰ぶりだった。

「人間一人一人がみんな神の子なんだね。権力が人間を踏みにじるのはもちろん我慢できないが、若い人が自殺したり、若死にすると裏切られたような腹立たしい気持になるんだ」

それだけに、冤罪にまき込まれた名もなき人の生命も、自らと同じくにいとおしんだ。
「いわば、次から次へと、僕の前を助けを求めて流されてくる。放っておくわけにはイカンだろう。」

正木弁護士を冤罪へかりたてたもう一つの要因は正義への希求であった。その社会が民主化され、健康であるかどうかは正義が貫かれている度合に比例するというのが氏の持論であった。

正義を具現するのは法である。

 

法の不正そのものである冤罪こそ、氏が最も憎むべきものとなるのは当然であった。 しかし、正義という言葉は英語の翻訳語として明治に輸入されたものだ。日本人には正義という観念は希薄である。

戦後でさえ、「正義」はいつも「自由」「権利」「生活」という言葉の陰に追いやられていた。テレビや映画ではいつも正義の士が躍っているというのに。現実の正義の士、正木弁護士は孤立無援の戦いを強いられた。 冤罪に陥とし入れられた被告は一様に貧しい。弁護料などもちろん払えるはずがない。

正木弁護士の収入といえば、事件について著述した原稿料か印税しかなく、これとて貧しい被告にカンパすることが多かった。
生活を度外視した活動であった。

しかし、こんな正木弁護士の態度を〝売名の徒〝スタンドプレー〟と法曹界の中でも非難する人が多かった。

「日本は戦前も、戦後もー貫して暗黒なんだね。国民は一度もルネッサンスを経験していない。僕はこの暗黒一の社会を照らす〝残置灯″を自負しているのだ。将来の日本人の一つのモデルになればと思っている。いわば僕自身の人生が実験だね」
正木弁護士のこの言葉に微塵の気負いも、てらいもなかった。


冤罪事件を解明するほどやっかいなことはあるまい。

事件は膨大な権力と組織力を持った警察や検察によって複雑にもつらされている。これを捜査権もない一介の弁護士が独力で解きほぐすためには、透徹した知力、労力はもちろん予想以上の資金を必要とする。

例えば、事件の記録や書類を複写し、関係者に会い、現場や犯行を刻明に調べ上げるためには恐ろしく時間と金がかかる。しかも、冤罪に陥とし入れられた一様に貧しい被告から、潤沢な弁護料など期待できない。このため、冤罪を手がける弁護士は片方で資金を得るため民事事件などを手がけざるを得ない。だが、正木弁護士は冤罪事件以外は一切手がけなかった。事件について著述した原稿料をもっぱら活動資金と生活費に充てた。これとていかばかりになろうか。

しかも、氏が手がけた事件はいずれも二転三転して、長期の大裁判になった。首なし事件(十二年)、三鷹事件(六年)、チャタレイ事件(五年)、八海事件にいたっては十八年、 菅生事件(八年)、丸正名誉毀損事件(十五年)といった具合だ。
事件に没頭すればするほど、生活は惨憺たるものにならざるを得ない。

東京の国電中央線市ヶ谷駅に近い自宅。回りには近代的なビルや建物が立ち並んでいる。

その谷間にポッンと取り残されたように、超然とした形でお宅は建っていた。古ぼけた木造二階建てのお宅は壁一面にツタがおおい、戦後間もなく建てられたそのままの姿だった。玄関には粗末なソファが一つ置かれただけで来客用の応接間といったものはない。清貧という以上の貧乏生活だった。

戦後三十年。日本が敗戦のどん底から経済的に立ち直り、裕福になっていったのとは逆に、正木弁護士は貧苦の中で棄民として
抹殺された冤罪者を救援するため、国表権力の最深部まで下降していったのである。両者のコントラストが家並に象徴的に現わされていた。


昭和四十九年八月三十一日。

氏の御宅に泊めてもらった私は夜、風呂をすすめられた。風呂は玄関左側にあり、三畳間ほどの広さで木製の小さな湯舟があった。両側のカベは湿気で腐り、アチコチ破れがひどい。天井のベニヤは今にもくずれそうで、ビニールでおおってあった。

外はちょうど台風の接近で猛烈な雨がトタン屋根を大きな音でたたいていた。そのうち、二、三カ所から雨もりが始まり、天井といわず、カベといわずしずくが一斉に糸を引いた。

私はぼう然として立ちつくした。約十分ほどして雨が小降りになると、雨もりも断続的になった。
私は二階の書斎で仕事に没頭されている氏のことを思うと思わず胸が熱くなった。

「無実で獄に苦吟している人たちのことを思うと、ぜい沢などできないよ」

こうしばしば正木弁護士は話された。きびしく己れを律していたのである。

御宅は交通の便のよい一等地だけに、相当な金額で土地を買いたいという話が持ち込まれたという。家を改築する話しもしばしば出た。
しかし、正木弁護士は頑として受け付けなかった。引越しや、改築によって、仕事が一時でも中断されるのがイヤだったのだ。
「今一番ほしいのは時間だ。もう十年間ほしい。そうすれば丸正事件も何とかできるし、私の仕事も完成できる」

この願いを実現することなく、氏は不帰の客となった。田中正造の晩年の心境である『辛酸亦佳境』が、そのままが氏の心情であったのではなかろうか。
正木弁護士に接して私が一番強く感じたのは子供のよぅな無邪気さと純粋さである。無名の人や若輩者に対しての正木弁護士の親切さは無類だった。が、官権や司法界の横暴に対して怒る時、歯に衣を着せず、遠慮など全くしなかった。

この子供のような純粋さから発する激情を司法界はスタンドプレーとし、売名家のレッテルを張った。
昨年一月十二日訪れた際、文化放送の朝の訪問に氏がインタビューを受けた番組を二人でコタツの中で聞いたことがある。各界の知名人に十五分間、女性アナウンサ―が訪問してインタビューし、最後にリクエスト曲を放送する「スター」という番組であった。

氏は僕が一番好きなのはこれだといって「真白き富士の嶺」をリクエストした。曲が始まる前に氏は少しボリュームを上げられた。

ラジオから曲が流れると、氏は目を閉じてじっと聞き入っていたが、しばらくすると大粒の涙を何度も流された。曲が終っても、
目は閉じたままじっとされていた。そのまるで子供のような純粋な表情に私は激しく胸を打たれた。

正木弁護士著作目録 (単行本)

▽『上級学校選定より突破まで』 木星社 (昭和五年)
▽『心望選定秘訣五十ケ条』 三成杜 (九年)
▽『受験必勝秘訣五十ケ条』 三成杜 (同)
▽『人生断章』 長崎書店 (昭和十七年)
▽『倫理と論理』 一隅社 (同二十二年)
▽『日本人の良心』 筑紫書房 (同二十四年)
▽『弁護士さん』 東洋経済新報社 (二十八年)
▽『裁判官』 光文社 (三十年)
▽『正木先生に聞く』 一隅杜 (同上)
▽『真夜中の来訪者』 現代社 (同三十一年)
▽『検察官』 光文社 (同)
▽『わが法廷闘争』 現代社 (同)
▽『ある殺人事件』 光文社 (昭和三十五年)
▽『告発・犯人は別にいる』 鈴木忠五氏との共著、実業之日本社 (同)
▽『弁諸士案内』森長英三郎氏と共著、実業之日本杜(昭和三十六年)
▽『事件・信念・自伝』 実業之日本社 (三十七年)
▽『弁護士・私の人生を変えた首なし事件』 講談社 (三十九年)
▽『近きより』 弘文堂 (同)
▽『八海事件・有罪と無罪の十八年』 中公新書 (四十四年)
▽『エン罪の内幕』 三省堂 (四十五年)
▽『裁判と悪魔』 合同出版 (四十六年)
▽『夢日記』 大陸書房 (四十九年)

その他の著作が収録された論集

▽『基本的人権の研究』頸草書房(二十九年)‖チャタレイ 裁判における基本的人権論争=
▽『私のわんばく物語』 明治図書 (三十三年)
▽『健康法の百科』 保健同人社 (四十二年)
▽『天皇論集l 三一書房 (四十九年)
▽三億人の刑法』 科学情報社 (同)
▽『私の魂をゆさぶった一冊の本』 一光社(五十年)
▽『昭和史を歩く』 第三文明社 (五十一年)
正木弁護士の人柄・思想・行動を知るために
唯一の伝記は家永三郎著『権力悪とのたたかい』 弘文堂(三十九年)。入手しやすいのは再刊本の三省堂刊(四十六年)
▽『叛逆者』青地震著 弘文堂 (四十一年)
▽「ほんもの人間』村島健一著 三一書房 (四十一年)
▽「正木ひろしを弁護士にした話」福岡誠一著・『文芸春秋』(三十三年五月号)
▽「正義のスーパーマン・正木ひろし」高木彬光『週刊現代』(三十八年五月二日号)
▽竹内好との対談「道は近きにあり」雑誌『中国』 (四十三年二月号)
▽大島渚との対談「求めて苦難の道をゆく正義漢」雑誌『のびのび』 (四十九年十月号)
▽「正木ひろし先生のこと」森長英三郎著・『法律時報』(五十一年二月号)
各事件についての主な参考文献
▽首なし事件=「現代日本思想大系」多田道太郎編『自由主義』筑摩書房(四十年)
▽プラカード事件=野村正男著「昭和史の断面』平凡社(三十一年)
▽チャタレイ事件=『チャタレイ夫人の恋人に関する公判ノート』全3巻及び別巻・河出書房(二十七年)、佐藤亮一著『チャタレイ夫人の裁判』 河出書房 (三十六年)
▽八海事件‖=原田香留夫著『真実』 大同書院 (三十一年)、藤崎峻著『八海事件・裁判官の弁明』 一粒社、(同) 、藤崎峻著『証拠・続八海事件』 同 (三十二年)、五島義重著・真相八海事件』五島書房(三十八年)、阿藤周平著『八海事件獄中日記』朝日新聞社(四十三年)、『八海事件十八年』労働旬報社(四十四年)
▽三鷹事件=小松良郎著『三鷹事件』三一書房(四十二年)
上田誠吉・後藤昌次郎著「誤まった裁判』岩波書店(三十五年)
▽菅生事件=清源敏孝著『消えた警察官』現代杜(三十二年)、牛島春子著『霧雨の夜の男』鏡浦書房(三十五年)
▽丸正事件=青地辰著『冤罪の恐怖』毎日新聞社(四十四年)
その他、見逃すことのできないもの
全国紙のみでなく、「千葉日報」 「中日」 「中国」各地方紙、週刊誌、「世界」 「中公」等、月刊誌、法律雑誌に、時局について発言した単行本未収録の、おびただしい論評、談話がある。題名を並べただけで、大学ノート三冊以上に及ぶ。
又、「人間改造」 「治安と人権」 「素面」等、鋭い主張をもったミニコミにもわけへだてなく多数の論文を寄せており、正木弁護士を知るためにはきわめて重要であり、欠かすことができない。

<以上は『日本データバンク』1976年1月号、第4号、5,6号に三回連載で発表したものです>

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