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地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

正木ひろしの戦時下の言論抵抗(正木ひろし伝Ⅱ)(上)

   

1
<静岡県立大学国際関係学部紀要『国際関係・比較文化研究』第3巻第1号(2004年9月号)>

前 坂 俊 之(静岡県立大学教授)
1・・紀元二千六百年の日本の政治、国際的な状況
『紀元二千六百年』(1)と位置づけられた1940 年(昭和15)は日本が日中戦争から太
平洋戦争へと拡大していくターニングポイントとなった年であり、日本型ファシズムが
完成した年でもある。紀元二千六百年の大々的な奉祝、祝賀キャンペーンが年間を
通じて行なわれた。
ドロ沼に陥った日中戦争、ヨーロッパではナチスドイツの侵攻によって第二次世界大
戦が勃発するなど急展開する国際情勢に日本の政治は振り回され、思考停止状態
で混迷の度を深めていた。
陸海軍は急変するヨーロッパ情勢の分析と日独軍事同盟をめぐって対立し、第一次
近衛内閣が総辞職(1939 年1 月)の後、約一年間に、平沼旗一郎(同年1 月-8 月)、
阿部信行(同8 月-40 年1 月)の各内閣が成立、総辞職を繰り返し、40 年1 月には
米内光政内閣が成立したが、陸軍首脳部は内閣打倒のため陸相・畑俊六に単独辞
職を勧告し、米内内閣は7 月、わずか半年で総辞職に追い込まれた。政治の崩壊と
ともに陸軍の独裁体制が着々と築かれていった。
液状化した政治状況の中で、強力な政治リーダーシップを求める声が強くなり、近衛
文麿(当時枢密院議長)を中心として政治体制再編運動、いわゆる近衛新体制運動
(2)が起こった。
1)日本書紀の神武天皇即位から数えた日本の紀元(皇紀)が二千六百年にあたるという非科学的な
紀元(皇紀)だったが、国体の精華と皇威の宣揚を説くための、絶好の機会として利用された。
2)従来の政党を発展的に解消し、高度国防国家建設、日中関係解決の外交刷新、国民の政治力結
集の3 項目を綱領として、新党樹立を図ろうとした。政界、軍部、革新的インテリ、右翼らがそれぞれの
思惑でこの運動に参加し、7 月第2 次近衛内閣成立後、新体制準備会が発足、10 月にはファッショ的
な大政翼賛会が成立した。しかし各界の思惑が対立、強力な国民的政治力の結集という当初の意図
はくずれ、官製組織になってしまった。
2
昭和15 年7 月、第2 次近衛内閣が発足したが、実質は東条英機陸相、松岡洋右外
相らが主導した枢軸重視内閣だった。新体制といっても「一君万民の精神に基づく政
府」「ファッショと異なり、肇国の大精神に復る」という極めて復古的な精神の新体制準
備会が発足,ナチスばりの一国一党をめざす独裁体制が構想され各政党は「バスに
乗り遅れるな」とばかり解党、解散させられた。
労働組合、農民組合も相次いで解散させられ、大日本産業報国会となり、10 月には
大政翼賛会(3)が成立した。内閣改造で内相に平沼旗一郎、法相に皇道派の予備役
となっていた柳川平助を据え、大政翼賛会の副総裁にした。
結局、この大政翼賛会は最終的には政府の補助機関的なものに落ち着いたが、町
内会、隣組の全国的な整備が進行し、国内体制の全面的な再編成が行なわれ、ここ
に日本型ファシズム体制は確立していった。
一方、ヨーロッパの政治情勢も急転する。昭和15 年6 月にはフランスはドイツに敗北
し、欧州の大部分を手中に収めたナチスドイツは翌年6 月、独ソ不可侵条約を一方的
に破棄して突如、ソ連侵攻を開始した。ドイツの完全勝利は近いと誤断した陸軍は政
府を無視して日独同盟に走り、3つの内閣が俊巡していた日独伊三国同盟に近衛内
閣はついに踏み切り、9 月、日独伊三国同盟に調印した。
これで、英米との対立は決定的となった。日本軍は中国に対する物資援助ルートを遮
断するために、フランス領インドシナ北部に軍隊を進めたが、これは南方進出のため
の前進基地を確保する狙いがあった。
目を国内に転じると、戦時体制が一層深まるにつれ、国民生活は窮乏化の一途をた
どった。昭和14 年6 月、国民精神総動員委員会(4)は報恩感謝、節約貯蓄などの国
民生活要綱を提唱、毎月1 日を“国民生活日〝とし、娯楽場、歓楽場は一斉休業する
こと、
3)8月には新体制準備会が結成されたが、政府・軍部・官僚旧政党・右翼などの利害が対立、特に軍部は抑制を
受けることを恐れて深入りを避け、そのため綱領・規約の作成さえできず、結局、「臣道実践」を目的とし、単に政
府に協力する公事結社として創立された。内閣総理大臣が総裁、全国に支部組織を設置、道府県支部長は知事
が兼任する官製的組織となった。実践要綱では「政府と表裏一体協力の関係に立ち、上意下達・下意上通をはか
る」とし、国民生活の統制が中心となった。東条内閣では、国民統制機関としての性格を強め、四二年四月の翼賛
選挙には推選候補者の支援に活動し、六月には産業報国会・大日本婦人会をはじめ、部落会・町内会・隣組をも
指導下に収めた。
4)国民精神総動員運動は日中戦争開始後、第1 次近衛内閣が挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3 目標として始
めた戦争協力の教化運動。全国神職会、全国市町村会、在郷軍人会など74 団体が参加。12 年(1937)10 月内閣
の外郭団体として国民精神総動員中央連盟が結成された。当初は精神運動が中心であったが、日中戦争の長期
化にともない耐乏、不足物資動員教化運動に転じた。15 年10 月大政翼賛会に運動は引き継がれ、解散した。
3
遊興時間の短縮、パーマネントの廃止、学生の長髪禁止などを決めた。昭和15 年4
月に、米・味噌・マッチ・醤油・砂糖など主要生活10 品目にキップ販売制度を導入、7
月には政府は「奢多品(ぜいたく品)等製造販売制限規則」を公布した。
これによって、ぜいたく品・不要不急品・統制外にあった高価な規格外商品の製造、
販売が禁止された。(5)8 月1 日、東京市内の繁華街に『ぜいたくは敵だ!』の看板
1500 本が並んだ。街を歩くひとびとの服装は、防空ずきん、もんぺ、ゲートルの非常
時スタイルが増加し、一挙に灰色の戦時色となった。
Ⅱ 思想、言論取締りの状況
15 年2 月の第七五議会で、立憲民政党の斉藤隆夫は政府の支那事変処理方針を追
及し、十万人の英霊と数十億円の国費を犠牲にしながら「聖戦、八紘一宇というのは
空虚な偽善である」と政府を追及し、これが粛軍演説として問題化した。
軍部を中心に「聖戦の目的を冒涜した演説」として非難がおこり、政党もこれに同調、
3 月7 日の本会議で斉藤代議士は除名された。陸軍への政治の完全な屈服であった。
同じ月、早稲田大学教授・津田左右吉の著書「古事記及日本書紀の研究」「神代史の
研究」「上代日本の社会及思想」「日本上代史研究」が相次いで発禁処分となり、翌3
月には、津田教授と発行者の岩波書店社長・岩波茂雄が出版法違反容疑で起訴さ
れた。
津田は、神話のベールに包まれがちな日本古代史を、厳密に批判的考証して、記
紀説話(6)の部分を指摘し、学界から高く評価されていた。ところが、皇紀二千六百年
の祝典を目前にして、記紀批判は皇室の尊厳を冒涜し、皇国史観に反する大逆思想
であるとして、狂信的な天皇主義者・蓑田胸喜や三井甲之らが攻撃し、津田は早大
教授辞任に追い込まれた。(7)
当時の思想、言論の取締りの状況は戦時色を深めるとともに、一段と苛酷さをまして
いた。大正14 年、普通選挙法と抱き合わせで作られた治安維持法は、当初は「国体

5)実施日は翌7 日、支那事変記念日を選び、「七・七禁令」といわれた。製造禁止は、絹織物・指輪・
ネクタイピンなどの装飾品、銀・象牙製品などで、販売制限による禁止範囲は、生活用品から節句
用品、文房具まで含まれた。この措置による関係業者の打撃は大きかった
6)古事記と日本書紀と説話のこと
7)出版法違反に対する判決は無罪となったが、昭和17 年5 月、津田は禁固3 ヵ月、岩波に同2 ヵ月
の判決があり、19 年11 月、東京控訴院は時効完成によって免訴。戦時体制下の典型的な学問・思想
の弾圧事件。
4
変革、私有財産制度を否定する結社、運動の禁止」を目的に作られたが、昭和に入
って戦争の道を進む中で、個人の思想、信条、宗教の自由の領域まで取締りの対象
を恣意的に拡大、拡張解釈され猛威を振るった。国民の思想、言論、表現の自由に
対しては全面的な統制、弾圧が加えられていった。
昭和11 年以降は合法運動を利用した反戦、反ファッショ、人民戦線的な文化運動に
対しても取り締まりの網は拡大され、京都を中心にした文化人、学者の手による雑誌
「世界文化」「土曜評論」「土曜日」(8)などの関係者が検挙された。さらに、「皇道大本
教団」などの類似宗教などから、演劇、俳句、ローマ字、エスペラント語などの文化研
究会までに無制限に弾圧の対象は拡大されていった。
昭和15 年に入るとさらに拡がり、当局が許容したものは「東亜新秩序という名のもと
にすすめられている侵略戦争を肯定し、国体観念と日本精神を鼓吹する戦時体制に
協力することだけであった。戦争遂行の障害となる自由主義、民主主義思想を不遥
思想として治安維持弾圧体制の対象とすることで、太平洋戦争の途をひらいていく。
行き着いた先は国民には国体観念を肯定して、それ以外には刑罰をかすという非近
代的な法が創出されたのであった」(9)
Ⅲ 「近きより」での正木の軍部・社会批判
以上、簡単に昭和15 年の国際、国内の政治、思想状況を概括したが、国民の言論、
表現の自由は大幅に奪われ、軍靴が高まってくる切迫した状況であった。そんな中で
「近きより」での正木の警世の文章はますますさえわたってくる。
15 年2 月号の巻頭言で、「日本は過去を讃美して生き、アメリカは未来を夢みて生き
る。アメリカは天才と能率とを讃美し、日本は家系と形式とを重んずる。一方は神風を
期待し、一方は科学を信頼する。どちらが愛国的か」と書いた。
同号には、「軍人が階級意識をもって行動したり、自己の野心のために、軍人たる
位置を利用する時は、国賊だと信ずる」と書いていたが、これはさっそく発禁処分とな
った。
四月号の短文では「国民は小学生扱い、したがって小学校を国民学校と改称したこと
8)『世界文化』の編集委員は、富岡益五郎、中井正一、真下信一、武谷三男、新村猛、久野収、加古
祐二郎、ねず・まさし、能勢克男、青山秀夫ら、『土曜日』は能勢克男、林要、中井正一を編集委員とし
た週刊誌で、内容は反ファッショの線で統一され、発行部数は7,500 部。
9)潮見俊隆『治安維持法』岩波書店1977 年9 月刊173P
5
もうなずける」と書いた。「官僚と軍人政治家は、歯のうくような改革を、いろいろやっ
た」が、また「だんだんと、日本を住みにくい国にする国粋主義」とも書いた。
物言えば唇寒しの時代に、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿主義に国民全体が
陥っている状況を憂えた正木は「考えていることと、言うことと、行うことの三位一体の
人間の多い世の中になって初めて明朗の世の中と言える。思わないことを実行させ
ようとすれば、世の中が不明朗になることは当然である。政治の妙諦は、先ず国民を
して思わしむることにある」(第6 号(5・6 月号))と批判した。
「思うことが言える世の中なら何も言うことがない」「上は『面子』を重んじ、下は没法子
(メイファ)に陥ること、これは支那のことではなく、いつの間にやら日本の世相となっ
てしまった」(第6 号)
「物価のストップは昭和十四年九月十八日現在。思想のストップ令は何時を基準とす
べきや」(10)
「生きんがためには何をしてもやむを得ないと考えている人が、実際はかなり沢山あ
る。その最もはげしいものは、泥棒、乞食、暴力団、売春婦、御用学者」(11)
ここではますます跋扈する時代便乗主義者、戦争への旗ふり役をつとめている学者、
文化人を槍玉にあげるなど、鋭い社会批判が横溢している。
中でも正木は軍ファシズムの最大の問題点である「軍部大臣現役制」について、何度
も取り上げては執拗に批判している。
「精神総動員は、先ず軍部大臣現役制の撤廃より。これは宇垣氏への大命降下が流
産になって以来、国民の心理に深き憂患となって焼付けられている。この心臓に刺さ
れた釘を抜き去ることが体制強化への第一歩である」(昭和15 年5,6 月号)
「色の褪せた老将軍、老政客に対して、国民の望むところは彼等の最も信頼する後継
者を国民の前に推薦することであって、断じて彼等が老躯をひっさげて登場すること
ではない。日本を暗くする原因は、老人がいつまでも権力的の位置に恋着することと、
それを取り巻く便ねい阿諛の徒の多過ぎることである。」(同7 月号)
「国を衛る兵士や軍備が大将方の私有物ではない如く、銀行で扱う金は銀行員の私

10)昭和14 年(一九三九)九月一九日閣議で、前日現在の価格で物価を凍結する緊急策を決定(九・
一八ストップ令〉、同年一○月二○日価格等続制令・貸金臨時措置令・地代家賃耗制令等を施行し、
物価を抑制しようとした。
11)ここでは蓑田胸喜らを念頭に置いている。蓑田胸喜(1894~1946)は三井甲之の御製研究に影響
されて激しい日本主義者となり、大正14 年原理日本杜を設立、昭和維新をめざす思想運動を行う。昭
和8 年(1933)の京大滝川事件、10 年の天皇機関説問題の火っけ役を果たし、末広厳太郎東大教授
を治安維持法違反などで告発するなど狂奔した。昭和21 年に自殺。
6
物ではない。もしも銀行家がそれを私有物の如くに我優勝手に使うとしたち」(同号)
「無暗と軍部を恐れる国民がある。軍部は国を護るわれらの味方であり、陛下の股肱
である。陛下に対し恐怖心を抱くことがないのと同じように、その股肱を恐れることは
誤りでなければならぬ。軍人の武器は敵を討つ武器であって、憲法に従って行動して
いる臣民を威嚇する武器ではない。ただ恐るべきは軍部大臣現役制という制度だけ
である。」(昭和16 年6 月号)
ここでは「陛下の股肱である」という天皇を引き合いに出すことで、批判をかわすとい
う巧妙なレトリックで、軍部の独走をたたいている。また、誰れもが軍部を恐れて批判
しない点にも大胆にふれて、「すべて批判の無いところに進歩もなく恐るべきものもな
い。日本国内に批判のメスの絶対に届かないところはないか。それをいいことにして
自己陶酔に耽っているところはないか。」(昭和15 年8 月号)と聖域化した軍部を真正
面からたたいた。
「一般国民と区別して、軍人とか軍部とかいう時には、徴兵の義務で出征している義
兵士を含まないと見た方が論理的に正しい。政治に関与するのはごく少数の特定軍
人の議である。軍の総意という時にも、一般の兵士を含まないことは同様である。錯
覚を起しやすいので注意を要す」昭和16 年6 月号)
当時、何かというと「軍の総意」という言葉で横車を押してくる軍部のやり方をピシリと
つくなど、隠喩、暗喩、エスプリ、諧謔と手を変え、品を変えて表現を磨きながら、検閲
の網の目をかいくぐって批判の矢を放ち続けた。
戦時総動員体制がますます強化される中で、言論人や多くの知識人が戦争協力に走
り、そうでない場合でも沈黙することによって、現実から逃避していった中で、正木の
抵抗の言論は揺るぐことはなかった。ミニコミ誌「近きより」での観察眼と批判精神を
一層鋭くきたえ上げていったのである。
Ⅳ 正木の政治批判
昭和15 年6 月29 日、米内内閣の有田八郎外相は、ラジオ放送で、「国際情勢と帝国
立場」とのいわゆる有田声明を発表した。有田外相は、対英米協調外交方針の立場
をとっていたが、声明では、軍部の圧力におされて、南方地域(進出)をふくむ「東亜
自主圏」の確立を「東亜の新秩序建設」の一環として説いた。
しかし、「枢軸強化(日独軍事関係の強化)」にはふれておらず、また「世界全般の公
正なる平和を建設する」という平和的外交方針を強調したが、早速、陸軍から強い反
7
発があった。これに対して正木は真正面から陸軍を批判したが、その部分は伏字とな
った。(12)
「またしても有田声明に対する非難は××より発せられた。何故事前に打合わせをや
らなかったか、有田氏が声明するということは十日も前から予告されていたではない
か。国内的な不統一は国民の士気を阻喪させるのみならず、敵国に対してこれほど
日本を軽んぜしむるものはない。利敵行為は内閣より始まる」〔昭和15 年7 月号〕
日独伊三国同盟が正式に締結されたのは昭和15 年9 月のことだが、それまでの過
程で国内では強い排英運動が燃え上がった。前年4 月、中国・天津の英租界で抗日
テロがあり、犯人引き渡しをめぐって日英が対立、7 月15 日に東京で日英東京会議
が開催された。
陸軍は右翼団体を煽動して、在郷軍人会、自治会などを動員して、全国的に集会や
デモを繰り広げて、「覆面の敵!英国を撃て」などをスローガンとする「英国排撃国民
大会」を各地で開催した。これに新聞も呼応して会談当日は東京大阪の主要新聞(現
在の読売、朝日、毎日など)すべてに各社連名で強硬な対英共同宣言が掲載された。
「我等は聖戟目的完遂の途に加えらるる一切の妨害に対しては断固これを排撃する
‥、イギリスが東京に於ける認識を是正し、新秩序建設に協力以て世界平和に寄与
せんことをのぞむ」。これが当時の新聞ジャーナリズムのファッショ傾向、枢軸支持の
姿であった。(13)
正木は次のように鋭くポイントをついている。
『ひところ「あいつは赤い」ということが理屈なしにその人を葬り去る手段として用いら
れた。現在はその代りに、あいつは親英だ」という言葉が用いられている。その
12)正木ひろし「近きより③日米戦争前夜」現代教養文庫 26P
13)石橋湛山は『東洋経済新報』(昭和十四年九月二日号)社論「独逸の背反は何を訓へるか一此神
意を覚らずば天護必ず至らん」で独ソ不可侵条約や日英会談についてジャーナリズムの対応をこう論
評している。
「日独伊軍事同盟の主張が強くなると共に、明治以来の我が国の外交を恐英であったとか、軟弱であ
ったとか、自重を欠いていたとか、ひどくこき下す論が流行した。‥‥‥無暗に感情的に或外国を悪し
様に罵り騒ぐ摸夷的狂態を慎んでもらいたい。之は実は婿態外交の反面なのだ。
政策の範囲を越えて、英国の国柄、英国民の品性、英国の歴史にまで攻撃を及ぼすことは、如何に
敵だからとて礼に反し、且つ余りに近視眼的である。(言論報道の自由の)最も大切な一つはいろいろ
の意見、いろいろの報道が、不断に国民の前に提供せられることに依って、彼等の批判の能力を養い、
其の見解を偏らしめず、均衡を得た世論を成立せしむる用をなすことであろう。……近来の我が外交
上の数々の失態は、正に此の言論報道の自由の余りに欠けたる弊に因ることが大きいと信ずるもので
ある」
8
不明瞭な言葉によって、葬り去られたくない弱気の連中は、誤解を恐れて、ことさらに
極端な姿態を演ずるようになる。せせこましき日本の風景である』(同号)
「かつては『ソ連撃つべし』と言うことさえ叫んでいれば、愛国業で飯が喰えた。今は
英米撃つべしと叫べば飯にありつけそうだ。騒ぐことは敵国を刺激して、事態此方か
ら切迫ならしめるということぐらいで如何に飯のたねとは言え、国家のためを考えなく
てはなるまい」(同号)
国を誤る愛国業者の無定見をやり玉に上げ、返す力で政治を斬っている。迷走する
政治への批判、近衛内閣、大政翼賛会のあり方への正木の怒りがエスカレートし、随
所に「寸鉄人を刺す的」な鋭い言葉が多くなってくる。
「民衆の誰もが思っていながら、強権下で言うことができないこと」を正木が代弁して
いる感が強く、その文体は洗練されていった。
「日本の政治家と自称する人種の頭は頗る簡単である。彼等は親英とか親独とか防
共とかいう二、三の漢字を綴り合わせることによって、その思想内容が全部表現し尽
くされるのである。忠霊塔より他に忠霊を祀る術を知らないなさけなさ」(同号)
「独逸の政治を掘って行くと哲学が出て来る。日本の政治を掘って行くと暴力が出て
来る」(昭和15 年7 月号)
「日本の政治界で『実力』と称するものは、門閥や財産や暴力であって、『頭脳の力』
ではない。換言すれば、日本では馬鹿でも実力の持主になることがあるのだ」(同号)
「日本の政治に魅力のないのは、手段のみあって目的がないからである。だからいつ
も手段が目的となる。学課は出来なかったが、柔道は強かった、という連中が柔道の
原理によって社会を指導するという世の中」(同号)
「ソ連や独逸には世界政策があり、而してそれを基礎づける思想体系がある。日本に
は標語はあるが思想はない。而してその標語の解釈もまちまちである」(同号)
「神がかり的人物は、口を開けば必ず欧米の物質主義文明が日本の精神主義文明
を毒したのだと歎息する、而して日本が欧米の精神文化を充分に咀嚼、吸収する能
力のなかったことには気がつかない神詣は、昔は老人がやるものだったが、この頃は
若い者がやることになった」(同月号)
「『下から世論が盛り上って来い』と、上から命ずる大政翼賛会」(15 年11 月号)、「何
の思想も定見もなく、単なるファシズム便乗主義者や、現実追認主義者たちを「かつ
て共産主義に走った教授、官僚等が、今は全体主義に走る。一貫している部分は、
『走る』ということだけ」(15 年8 月号)
「あれがいけない、これがいけないといって、段々と枝を切って行くと、しまいには盆栽
9
が出来る。日本国を盆栽に仕立てようとしている一派がある」(昭和16 年6 月号)
「バスに乗り後れまいとして、あせって割り込んだ人達がバスぐるみ飛行機に追い越
されて行く」(同号)とからかっているかとおもうと、「新聞、雑誌から漫画の消えてしま
った現代の日本は、笑ってはいけない世の中なのである。一度だれかが笑い出した
ら、始末がつかなくなるのである」(昭和15 年8 月号)とジョークやブラックユーモアを
まじえて書いているが、いずれもユニークな日本人論にもなっている。
正木は昭和18 年2 月号で、権力を一手に集中していた時の東条英機首相に対して
「責任を知れ」と真っ向から批判した。戦時下のメディアの中で特筆すべき勇気ある発
言だが、この先触れとして近衛首相の責任についても次のようにきびしく追及してい
るのは忘れてはいけない。
「もし近衛公がこの政治に失敗したならば、公は陛下に対し、国民に対し切腹しなけ
ればならないし、近衛公を極力支持推薦した連中も切腹しなければならない。失敗の
責を他に転ずることば天人共に許されないことを前もって警告しておく」(昭和16 年
5 月号)
(続く)
< 無断転載禁止>

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