世界が尊敬した日本人③6000 人のユダヤ人の命を救った勇気ある外交官・杉原千畝
2002005年3月20日
前坂 俊之
1940 年(昭和15年)7月27日朝、バルト海沿岸のリトアニアの首都・カウナスの日
本領事館の建物は数百人の群集に取り巻かれた。杉原千畝領事代理が驚いて調べ
ると、ナチス・ドイツのユダヤ人狩りを逃れてきたポーランドの難民たちだった。
前年9月、第2 次世界大戦勃発でポーランドは分割され、オランダもフランスもドイツ
に敗北し、ナチスから逃れる道は、シベリア-日本経由で米国に行くしか残されてい
なかった。
大量ビザ発行の指示を仰いだが、外務省は日独伊防共協定から否定的だった。
ユダヤ系難民は増える一方で、領事館に長蛇の列をつくり、公園に野宿しながら「死
から脱出できるかどうか」必死の形相でビザの発行を訴えた。
『この人々を見殺しにするわけにはいかない。見捨てれば私は神に背く』。苦悩の末
杉原は訓令違反のビザ発給を決断した。領事館の門を開いた瞬間、難民からは大歓
声が沸き起こった。杉原は連日、すべて手書きのビザを数百枚も書き続けた。
8月3日には、ソ連がリトアニアを正式に併合、外務省から「早く撤収せよ」との指示が
届いた。
しかし、杉原は毎日毎日、ビザを書き続け、疲れて夜は倒れ込む。ビザを書いてもら
った難民の中には杉原の足もとにひざまずいて感謝のキスをする女性もいた。
8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移ったが、ここでもありあわせの紙でビザを
書き続けた。9月1日、退去のためベルリン行きの国際列車に乗り込んだが、最後の
最後までビザを書き続けた。杉原が書いたビザは合計2139 枚にのぼる。
個人ビザ以上に家族兼用の旅券が多かったので、「杉原ビザ」で脱出した人は約六
千人と見られている。これらのユダヤ人難民はシベリア鉄道などで大陸横断し、船で
日本に渡り米国へと逃げていった。その数は約1万5千人にのぼったという。
映画「シンドラーのリスト」のモデルとなった人物が救ったのは約1200人と言われて
おり、杉原はこの五倍である。ガス室からユダヤ人を救った世界最大の恩人といって
も過言ではない。
一九四五年(昭和20)8 月、敗戦。杉原はソ連軍が占領したルーマニアのブカレスト
郊外のソ連収容所に抑留された。二年後の四七年二月に帰国し外務省に復職した。
ところが、同六月、突然、岡崎勝男事務次官から呼びだされ「お分かりでしょうね」と解
雇の通告を受けた。独断でビザを発行した責任を追及されたのである。
この時、家に戻った杉原の落ち込んだ暗い表情を妻・幸子は死ぬまで忘れなかった。
杉原は四七歳。以後、外交官から民間人となった杉原は占領下の貧困と混乱の中を
必死で生き抜いていく。
一九六〇年、杉原はソ連、東欧での専門的な知識、体験を買われて「川上貿易」モス
クワ事務所長となって、再びソ連の地を踏んだ。五年後には「国際交易」のモスクワ
支店代表となった。
「命のビザ」は戦争の悲惨なエピソードの一つとして歴史の中に埋もれようとしていた
が、昭和四三年八月、イスラエル大使館から杉原への一本の電話でよみがえる。
同大使館のニシュリ参事官が二十八年も探し求めていた杉原を突き止めて会い、ぼ
ろぼろになった紙(杉原ビザ)を示し、感動の再会を果たしたのである。
すでに杉原は六十八歳の晩年を迎えていた。翌年、杉原はイスラエルから招待され
て訪問したが、バルハフティック宗教大臣が丁重に出迎えた。領事館でユダヤ人代表
として杉原と会った人物であった。
昭和60年1月、杉原はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェ
ム賞)を日本人としてはじめて受賞したが、翌年7月に杉原は鎌倉市内の病院で静か
に息を引き取った。享年86歳。
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
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