『リーダーシップの日本近現代興亡史』(214)/リーダー不在の人材倒産国・日本の悲劇②>『グローバルリーダー論―太平洋戦争の日本のリーダー と世界のリーダーの比較』(下)★『東條英機、嶋田繁太郎、山本五十六、杉山元、ヒットラー、松岡洋右、スターリン 、毛沢東 、ルーズベルト』
日本リーダーパワー史(229)記事転載
前坂 俊之(ジャーナリスト)
①真珠湾奇襲攻撃の未明、首相官邸で号泣していた東條英機
②付和雷同、形式主義にこだわるイエスマンの嶋田繁太郎海相
③「戦略的、政略的、戦術的にも愚の骨頂と酷評の凡将・山本五十六
④「昼行燈」「ボケ元」「グズ元」とあだ名された杉山元
⑤ホロコーストで1千万人近くを虐殺した史上最大の虐殺者・ヒットラー
⑥日本軍国主義のおかげで中国共産革命に成功した毛沢東
⑦松岡洋右を手玉にとった20世紀最大の独裁者虐殺者・スターリン
⑧日本軍国主義のおかげで中国共産革命に成功した毛沢東
⑨米史上最強のリーダー、米政治史上唯一4選したルーズベルト大統領
●真珠湾奇襲攻撃の未明、首相官邸で号泣していた東條英機
対米交渉が行き詰まった昭和16年9月6日の御前会議は対米開戦を決意する。開戦を渋る近衛文麿首相に対し、「たまには清水の舞台から目をつむって飛び降りることも必要だ」と東條英機陸相は怒り「米国の中国大陸からの撤兵要求に服せば支那事変の成果が壊滅する。満州国も危ない」と断固反対を主張して譲らず、近衛内閣は崩壊する。この後継首相に本人は全く予想もしていなかったが、10月17日に指名された。
昭和天皇、側近の木戸幸一内大臣は「強硬な陸軍を押さえられるのは東條しかいない。虎穴にいらずんば、虎児を得ず」との毒をもって毒を制すで東條に決め、天皇は「御前会議の決定を白紙還元して検討せよ」と指示した。
まさに晴天の霹靂の東條は明治、靖国、東郷神社を参拝して不安と緊張に震えていた。
このため、東條は一転、御前会議の白紙撤回、開戦回避を連日会議を開いて検討するが、石油禁輸によって生命線の石油は日々底をついており、座して(戦わずして)死を待つよりも万一の勝利を期待してでも、開戦に決定し和平への道は閉ざされた。十一月二日夜、東條首相は天皇に泣きながら報告した。
11月27日、日本軍の中国、仏印よりの撤退満州国、国民政府の否認、日独伊三国同盟からの脱退などが盛り込まれた「ハル・ノート」が米国側から突き付けられ、これを見た東條は興奮状態で、「もう戦争以外にない」と口走った。開戦に百パーセント固まった瞬間である。
十二月八日、真珠湾奇襲攻撃で日米戦争は火を噴くが、その前日未明、戦争準備をすべて終えた首相官邸の寝室から東條の号泣が聞こえた。驚いた妻、三女が部屋をのぞくと、東債は皇居に向かいフトンに正座してただ一人で泣いており、それがだんだん号泣に近くなっていく様子を目撃した(保阪正康著『昭和陸軍の研究』朝日新聞社)。
長期ビジョンは欠如しているが、カミソリ能吏、軍人官僚の典型の東條は、ゆきつく先の敗北という暗い予感に恐れおののいたのである。
●付和雷同、形式主義にこだわるイエスマンの嶋田繁太郎海相
日米開戦ぎりぎりの昭和16年10月18日に発足した東条英機内閣の海相に就任した。当初、及川前海相は豊田副武呉鎮守府司令長官を後任に推したが、東條が反陸軍の豊田を嫌い、イエスマンの嶋田に決まった。この時点で、海軍が陸軍に抑え込まれることになる。おとなしい嶋田は山本五十六のような不動の信念を持っておらず、付和雷同のタイプで、東條首相によって,2週間で主戦論に一転した。
十月三十日、嶋田は開戦に反対する沢本頼雄次官を大臣室によび、『自分は突然、場末の位置より飛び込み、まだ中央のこともよくわからないが、数日来の空気より考えると、大勢を容易に挽回できない。この際、戦争の決意をして、今後の外交は大義名分の立つようにすればよいのでは・・』と開戦を口にした。
これまでブレーキをかけていた海軍トップの賛成で、太平洋戦争に突入する。開戦後の嶋田は「東条の腰巾着」と陰口をたたかれるほど、東條と一身同体化し「東条幕府」の一翼を担って、国内支配体制の強化につとめた。
しかし、戦局は悪化する一方で、陸海軍は飛行機から軍需物資の奪い合いなどでことごとく対立した。昭和19年2月、トラック島が陥落すると、東條は嶋田に指示して難局打開の起死回生策として、軍政と統帥の一本化をはかり統帥部の総長を兼任する前代未聞の措置をとった。すでに東條首相は陸相、軍需相、内相なども兼任していたのに、さらに参謀総長も加わって、1人5役というてんてこ舞いの忙しさで、速く必要な決裁がそれぞれ山済み状態で戦争指導は後手に回った。
嶋田も同じ状態の海相兼参謀総長の1人2役で、肝心の作戦指導は全くできず、役割の度ごとに部屋を変えたり、肩章を替えて訓示するなど形式主義にこだわって、海軍トップリーダーの役割を果たさなかった。
戦局は全面敗退と悪化の一途をたどるが、東條は反対派を憲兵を使って徹底して環視、検挙して抑え込んだ。鈴木貫太郎、岡田啓介らの海軍の大物たちは「東條の副官」と化した嶋田を追及して東條内閣を昭和19年7月に辞職に追い込んだ。
戦後、嶋田はA級戦犯として東京裁判では無期禁固刑となり、昭和三十三年に釈放された。嶋田は一切「弁解せず」釈放後も彼は沈黙をまもった。九十二歳昭和51年になくなった。
☆「戦略的、政略的、戦術的にも愚の骨頂」の凡将山本五十六
山本は昭和の軍人では最も傑出した存在で、今でも人気は不動のナンバーワンだが、はたして「名将なのか、凡将なのか」で議論は分かれている。米タイムの「太平洋戦争」では山本を『日本の軍部指導者の大多数とは全く異って洗練された国際人であり、巧みに英語を話し米国を尊敬し、多数の米国友人を持っていた。35歳でハーバード大学に派遣され、ここで英語を学び、ブリッジとポーカーをマスターした』と高く評価をしている。
その米国を最もよく知っていたはずの山本は近衛文麿首相から日米戦争の成算を聞かれて「初め半年か一年の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。しかしながら二年、三年となれば全く確信は持てぬ」と答えた。
海軍軍人をやめてカジノのギャンブラーとなって荒稼ぎすることも一時、本気で夢見たという山本には勝負師の血が色濃く流れていた。山本が考え抜いた超大国アメリカを倒す必殺の一手は真珠湾攻撃というギャンブル(奇襲作戦)であった。
この大胆不敵で「一か八か」の作戦計画に連合艦隊、軍令部は猛反対したが、『作戦が認められなければ、辞任する』と山本は強引に押し切り、永野修身軍令部総長も「そこまで山本が言うならやらせよう」と昭和16年10月19日にゴーサインが出た。
真珠湾攻撃は成功し、山本は一躍、国民的英雄となった。しかし、この騙し討ちに、米国は一丸となって第2次世界大戦に参戦した。米国の戦意を喪失させるという山本の狙いは「リメンバー・パールハーバー」の逆結果となった。
しかも、真珠湾の米軍の石油備蓄タンク、修理工場などの陸上施設を全く破壊しなかったため、わずか半年後のミッドウエー海戦の大敗北につながった。
「戦略的、政略的、戦術的にも愚の骨頂」と米戦史家サミュエル・モリソンも『米海軍第二次大戦史』で酷評している。
なぜ連合艦隊司令長官の職を賭しても最後まで日米戦を阻止しなかったのか、という井上成美や一部戦史家の批判にも一理ある。
★「昼行燈」「ボケ元」「グズ元」とあだ名された杉山元
1941年(昭和16)9月6日の「大本営御前会議」で対米戦争の国策案が決定された。その前日夕方、近衛文麿首相、杉山元参謀総長、軍令部総長永野修身はそろって参内し昭和天皇に議案の説明を行った。
昭和天皇は「日米戦争はどれほどの期間で片付ける自信があるか」と杉山に尋ねた。「南洋方面だけなら三ヵ月でかたずけてみせます」と答えたが、天皇は「杉山は陸相時代に起こった『支那事変(日中戦争)は一ヵ月で片付ける』と言ったが、四年半たってもまだ片付かないではないか」と突っ込んだ。
あわてた杉山が「支那の奥地は深く、予定通りに運びません」と弁明につとめたが、「支那の奥地が深いのは始めから分かっている。太平洋は一層深い。三ヵ月で解決する根拠を説明せよ」とさらに追究すると、杉山はしどろもどろになった。
この有名なくだりは昭和天皇の見識を示すと同時に、「昼行燈」「ボケ元」とあだ名された陸軍最高司令官杉山の戦略レベルを露呈した名言、迷言でもあった。
福岡県生まれで、順調に出世コースを登り、陸軍次官当時に満州事変勃発(昭和6年9月)を経験し、参謀次長当時には2.26事件(昭和11年)が発生したが、石原莞爾大佐(戒厳司令部参謀)とともに、断乎として叛乱軍を鎮圧した。同年8月には教育総監に就任、昭和12年2月には陸軍大臣とトップを歴任、日独伊三国同盟が調印後の昭和15年10月に参謀総長に座った。
陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て歴任して元帥になったのは陸軍史上では上原勇作と杉山だけで、杉山は昭和の陸軍軍人では最高の出世頭。
日米戦争のきっかけとなった陸軍南進派の中でも、杉山はその積極的なメソバーで,永野とともに,日米開戦へ決定的な役割りを演じた。杉山はヌーボー型風貌から「グズ元」ともいわれたが、根は几帳面な性格でメモ、記録、勉強ノートなど膨大な杉山メモを残した。
敗色濃厚となった昭和20年4月、杉山は第1総軍司令官に転出し、八月十四日、「皇軍はご聖断に従って行動す」と畑俊六、永野両元帥とともに署名した。以来、終戦処理に全力を尽くし九月二日には米八軍のアイケル・バーガー中将と会見、終戦処理を協議した。十二日、拳銃で四発を自らの胸に打ち込んで自決した。天皇あてに「其罪万死スルモ及バズ・・」の「お詫び言上書」が残された。
×ホロコーストでユダヤ人、ロマ人、知識人、身体障害者ら1千万人近くを
虐殺した史上最大の虐殺者・ヒットラー
虐殺した史上最大の虐殺者・ヒットラー
ヒトラーが第2次大戦を引き起こした張本人だが、その電撃的な勝利に幻惑され日本は「バスにのりおくれるな」と無謀な対米戦争に突入した。第一次世界大戦で敗北したドイツは、莫大な戦時賠償を抱えて国民は塗炭の苦しみをなめた。国家救済を掲げたヒトラーは、国家社会主義政党党首となりアーリア民族中心の民族主義と反ユダヤ主義をアピールし、ナチドイツの独裁者に君臨し、その強大な軍事力で領土拡張をすすめた。同時に、ホロコーストによってユダヤ人、スラブ民族、ロマ人、知識人、身体障害者ら1千万人近くを虐殺していたといわれる。
第2次世界大戦の主役はヒトラーとスターリンだが、この2人はキツネとクマのだまし合いは虚々実々の駆け引きを行った。1939(昭和14)年8月23日、ヒトラーは宿敵・ソ連と突然、独ソ不可侵条約を結んで世界をアッといわせ、1週間後の9月1日にはポーランドに電撃作戦で侵攻した。これに対して3日には英仏がドイツに宣戦布告し、第2次大戦がはじまった。翌年春までに,仏,ベルギー,オランダなどを征服した。
この間、ヒトラーは40年9月には枢軸国同士の日独伊三国同盟を締結した。スターリンは対日戦を避け背後を固めるために、41年4月に日ソ中立条約を締結、この半年後に今度はヒトラーがスターリンを騙して、「三ヵ月でソビエトを屈伏させる」といったが、1941年6月には突然、ソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)して、レニングラード,ウクライナをあっという間に占領し、12月にはモスクワが目前となったところで、きびしい冬将軍にみまわれ前進を阻まれた。
以後、戦局はナチドイツの敗北へと振り子が逆転していく。この時、大島浩駐独大使らは「ドイツの勝利は間違いない。独ソ戦は2,3ヵ月」で終わる報告し、日本は12月8日に真珠湾奇襲攻撃によって米国を第2次大戦に引きずり込んでいくという図式になった。
●松岡洋右を手玉にとった20世紀の最大の独裁者、虐殺者・スターリン
1941(昭和16)年4月13日、日ソ中立条約が調印された。得意満面のスターリンはモスクワから列車で帰国する松岡洋右外相を駅まで送り、発車を1時間遅らせ酒を浴びるほど飲み、乾杯、乾杯を続けて酔いつぶれた。ソ連は対独戦に備えて背中の日本から攻撃されることを避けるため、日本は南方進出のための“だまし合いの条約”だった。
スターリンはヒットラーとならぶ20世紀の最大の独裁者。1879年グルジアの貧しい靴屋の子に生まれた。本名はジュガシビリでスターリン(鋼鉄の人)は変名。マルクス主義を信奉して、レーニンのロシア社会民主党ボリシェビキ派に入党し職業革命家としてし上がった。ソビエト政権が誕生すると、トロッキーら並んでレーニンの片腕になり、党内の絶大な実権を手中に収めた。死の床にあったレーニンは粗暴なスターリンの権力集中を憂慮し、自らの後継者にせず書記長を更迭するとの遺書を書いたが、スターリンが握りつぶした。
22年(大正11)の第11回党大会では党書記長に任命され、レーニンにかわって実権を掌握して一党独裁、個人崇拝の共産主義国家建設を進めた。
スターリンの恐怖政治は、主敵を葬るために一時的に第二次的な敵と連合するやり方で権謀術策を弄し、同時に粛清を繰り返し、政敵から知識人、一般市民までをラ―ゲリにおくり込み数百万人を殺害して独裁的地位を築き上げた。スターリン主義の最大の暗黒面である大粛清は一党独裁制の必然的な帰結であった。
一方、対外的には帝国主義の領土拡張主義を取った。ヒトラーと秘密条約を結び、ポーランドに侵攻、分割して、周辺弱小国を勢力下におさめた。1941年6月22日のヒトラーの対ソ戦はスターリンにはまったく不意打ちだった。
緒戦の敗北はこの見通しの誤りと,30年代に多くの将軍たちを大量粛清した結果の指揮官不足によるものだった。国防の総指揮官となったスターリンはナポレオンを破った伝統的な戦略を踏襲し、退却して補給を断ってたたく戦法で逆転勝ちを収めた。第2次世界大戦後の混乱期に東ヨーロッパに次々に衛星政権を樹立させ,地球上の約3分の1を社会主義圏に変えた。
●日本軍国主義のおかげで中国共産革命に成功した毛沢東
『中国建国の父』として、百年にわたる半植民地,半封建的状態から脱して中華人民共和国を誕生させた。毛沢東の革命路線は農村を拠点に貧農や土地を失った農民、軍隊で再教育してゲリラ戦を展開する戦略で、江西省の井岡山などに革命根拠地を作った。
蒋介石の国民党軍などとの内戦に敗れ、紅軍(中国共産党が組織した軍隊)は1934(昭和9)年10月から、湖南省、四川省などから陝西ソビエト区への4万キロにのぼる大長征を開始した。当初、約8万いた兵力は死亡、脱落などで数千人に減ってしまうが、この過程で毛沢東は実権を握り、周恩来とのコンビが誕生する。
陝西省延安市に拠点を定め自給自足の持久戦を続け、毛沢東は「民衆の針1本,糸1筋もとるな」という厳しい軍律を課した。
西安事件(昭和11年12月)により、第2次国共合作が実現し、紅軍は国民党軍に組み込まれ、一体となって抗日戦争に当たった。日中戦争以降は日本軍との直接的な対峠はさけて、米、ソ連の援助物資をもとに国民軍の手薄な農村部で勢力を拡大していった。
1945年8月の日本敗北後は再び、蒋介石の国民党軍と国共内戦に突入し、49年4月に国民党の首都南京を陥落し、国民党軍に勝利した。同10月に中華人民共和国を建国した。国家主席となった毛沢東は、階級をなくす新しい国家の建設に取り組み、「百花斉放百家争鳴」運動や経済・農業の大躍進運動を進めるが、ことごとく失敗に帰した。
この間、反対派の政府要人や知識人ら約五十万人以上を粛清した。また、農作物の不作で推定二千万人から五千万人以上の餓死者を出した。二十七年間、主席として君臨した結果、その独自のマルクス・レーニン主義は「毛沢東主義」とよばれて、異常な個人崇拝の対象となり、さらに大規模な「文化大革命」による粛清を引き起こした。
一九六四年七月に訪中使節団(佐々木更三代表)と会談した際、佐々木が「日本の軍国主義が中国を侵略して大へんご迷惑をおかけた」と謝罪したのに対し、毛沢東は「いや、日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。おかげで中国人民は権力を奪取しました。日本の皇軍なしには、私たちが権力を奪取することは不可能だった」と発言し話題となった。
●米史上最強のリーダー、米政治史上唯一4選したルーズベルト大統領
1941年12月7日、日曜日の未明、ハワイの真珠湾の米海軍基地。日本軍の急降下爆撃機など350機の不意打ちをくらった米太平洋艦隊は壊滅、一九隻の軍艦が撃沈、破損し、約二六五機が破壊され三五〇〇人以上が死傷する米国史上最悪の海軍惨事となった。
翌日、ルーズベルト大統領は米議会両院合同会議に出席した。息子に腕をとられて演台に上がり「昨日は汚辱の日として長く記憶されることになろう」と語り、日本とが宣戦布告に署名した。同じ日、英国でも議会両院が対日宣戦布告を満場一致で決定した。
ルーズベルトは早速、ホワイトハウス内に最高秘密軍事本営(マップルーム)を作った。毎日全ての戦線について状況報告を聞くため足を運び、戦事活動の全ての采配を振るった。大統領兼最高司令官になったわけだが、軍事作戦行動には口をはさまず、世界的戦略や長期的な外交目標の計画については深く関与した。
それまで孤立主義を守っていた米国は戦争準備がほとんど整っていなかった。
大統領命令で、軍事生産目標(42,3年で14万5千機)を掲げて全米の工場で飛行機、戦車、軍艦、武器を大増産する「民主主義の軍需工場」となり、同時に、米建国以来最大の軍事力を動員、最高時の兵力は1500万にのぼった。米国のケタ違いの工業力、軍事力なくしては連合国の勝利はなかった。
1933(昭和8)年に大統領になったルーズベルトは大不況からの脱出策(ニューディール政策)などを実施してきたが、なかなかうまくいかなかったのに、この参戦が特効薬となり一挙に失業、不況問題を解決した。
ルーズベルトの広大な戦域で戦う決意したが、当面の敵は枢軸国の中で最強のドイツであり、ヨーロッパでの反撃戦に重点を置いて、アジアでの日本との戦いは2次的なものにした。
ルーズルトは小児マヒによる不具の身で,肉体的には戦時の大統領の激務には耐えながら、驚くべき活力を発揮して、米史上最強のリーダーとなった。米政治史上でルーズベルトは唯一四選された大統領で(今は2期8年に制限されている)、21世紀最大の事件である世界大恐慌、第2次世界大戦と言う二つの国家的危機に対処して、アメリカを見事に勝利へと導いた。
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