<日本風狂伝②昭和文壇の奇人ベストワンは永井荷風だよ>
2009,6,10
日本風狂人伝②昭和文壇の奇人ベストワンは永井荷風だよ
(ながいかふう / 一八七九~一九五九)作家。本名壮吉。明治三十六年から米国、フランスに渡り、『あめりか物語』『ふらんす物語』を発表。大逆事件に 絶望し、花柳界に遊ぶ。『腕くらべ』『おかめ笹』『濹東綺譚』『断腸亭日乗』などがある。昭和二十七年に文化勲章受賞。
荷風は徹底した人間嫌い、つき合い嫌いで、ストリッパーや夜の女にいれ上げた。荷風は自ら奇人であることを認め、『偏奇館主人』と称していた。
荷風のケチぶりは徹底していた。独身だった荷風は、お手伝いのおばあさんを雇って、毎日ソウジをしてもらっていた。しかし一度たりともこのおばあさんに、お茶でも飲むように、言ったことはなかった。
ある日、出版社から「トラヤ」のヨウカンが送られてきたが、自分は食べず、おばあさんにもやらない。何日かたって、おばあさんが便所ソウジをすると、ヨウカンが箱のまま捨ててあった。中をみると、まったく手をつけないままで、カビがはえていた。「カビがはえて捨てるぐらいなら、くれればよいのに」とおばあさんは嘆いた。
一九一四(大正三)年三月、荷風は新橋の〝文学芸者″と呼ばれていた巴屋八重次(本名・内田ヤイ)と再婚した。家柄を重視し、芸者との結婚に猛反対した兄弟、親類縁者とは以後、いっさい断絶状態となり、荷風は自由奔放な生活を送ることになる。
ところが、約一年後に八重次は突然、離縁状を置いたまま家出した。
「あなた様にはまるで、わたしを二足三文に踏みくだし、どこかのカボチャ娘か、大根女郎でも拾って来たように、ご飯さえ食べさせておけばよい。夜のことは商売女にかざる。夫がいやなら三年でも四年でもがまんしているがよい。夫は勝手だ。女房は下女と同じでよい。まるで『ドレイ』である……」といった文面。
三下り半を突きつけられた作家はたぶん、荷風が最初であろう。荷風はあわてふためいて媒酌人の二世・市川左団次らに仲介の労をとってもらったが、効果はなく、約二週間後にしぶしぶ別れの手紙を出した。
「さて、私はあなた去りたる後は、今さら母方へも戻りにくく、これより先、一生男の一人世帯張り通すよりほかいたし方なく、朝夕不自由、今はただ、とほうに暮れております。…かえすがえすもこのたび、残念しごくにて、お互いに一生の大災難とあきらめるより……」
未練たっぷりの内容である。荷風は生涯二〇人以上の女性と深くつき合ったが、八重次以後は女性を入籍せず、気ままに一人暮らしの生活を送った。
① 〝偏奇館″主人
一九三四(昭和九)年に、麻生区市兵衛町(現在の港区六本木一丁目)に周囲の家並みとはまったく違うペンキ塗りの洋風二階建てを新築した。それまでの和服から洋服へ、畳からイスへと一八〇度転身し、わが奇癖に偏すると、ペンキ塗りをもじって〝偏奇館″と名づけた。
偏奇館の主人となるや、新聞はとらず、門を閉ざして誰とも会わず、文壇はもちろん親類縁者ともいっさいつき合わない。中でも新聞、雑誌記者を一番毛嫌いした。居留守をつかって、面会を拒絶した。
出版社の三省堂編集部員が偏奇館に荷風を訪れた時のこと。
「しきりに呼び鈴を鳴らし続けた。突然、ドアがサッと開いて、長身の荷風先生がぬっと現われた。『荷風先生でいらっしゃいますね』と低姿勢で、恐る恐るあいさつしたが、『主人はただ今、散歩に出られて留守でございます』と、私の三省堂編集部員の名刺を手にしたまま、にべもなく言った。
私は『でもお写真で拝見しておりますので、荷風先生でいらっしゃるに違いございませんのですが……』と言うと『いえ、わたしはほんの留守番です。先生はただ今お留守です』。そう当人が言うのでどうにもならず、『では、先生がお帰りになりましたら、お願いの用件があった、とお伝え願います』と頭を下げ、永井先生は『ハッ』と馬鹿ていねいに言うのみで、お辞儀を返すでもなかった」
戦後、荷風の奇行は一層ヒドくなった。電車にはいつもタダ乗り。乗る時は発車間際まで待って、キップを買わず、改札口を走って飛び乗った。降りる時もホームの便所に入って、駅月が交代するスキを見はからって、改札口をサッと出た。
こうした無賃乗車を、訪問客に自慢しては、一人満足していた。
一九四五年の終戟直後、荷風はフランス文学研究者・小西茂也の二階に下宿していた。寒くなると、夜は雑誌を破って火鉢にくべて、暖をとりながら読書していた。
小西の家族は火事になっては一大事! と気が気でなく、夜も寝られない。「即刻やめてほしい」と抗議すると、
「この家は火災保険に入っているから、そんなに心配することはないだろう」
と荷風は涼しい顔で言った。
荷風は自炊をしており、ある時、包丁を家の裏口に置き忘れ、台所を開けっ放しにして寝ていた。運悪く、ドロボウがその包丁を持って台所から侵入したが、幸い被害はなく、ことなきを得た。小西がカンカンに怒ると、
「戸が開いていたから、無事だったのだ。閉まっていたら、あんた方は殺されていただろう」とこれまた逆ネジを食わせ、平気な顔だった。
どこまで人間嫌い、人を食った態度なのかと、腹を立てた小西は、何とか荷風を追い出して引っ越しさせることに成功、胸のつかえをおろした。
ところが、配給通帳が小西宅に残されており、小西夫人が親切心から、配給米を届けに行くと、荷風は、
「あんたの家とは、もうつき合いがないのだから、持って来ないでくれ」と断った。
夫人が「これは配給米だから」と言うと、そこらに置いといてくれ、と言い、「袋はウチのだから」と言うと「玄関にでもこぼしておいてくれ」といった調子。結局、腹を立てた夫人はその通り、玄関に米をこぼして帰った。
② 荷風奇行譜
さんざん荷風の奇行に悩まされた小西茂也による「同居人荷風」が文芸雑誌「新潮」(昭和二七年十二月号)に発表され、大評判となった。
これは昭和二七年八月より十一月まで、三カ月間の荷風奇行譜である。
八月一日-この日の「読売」に、荷風が発狂したという記事が載った。荷風の尊敬する幸田露伴の葬式に行くと、新聞記者がついてくるから行かぬ、それに礼服がない、という。夜、荷風は雨戸を開けて、縁側から立小便をした。
九月三日-荷風は座敷の中に火鉢を持ち込み、しょうじを閉めきって、火をおこす。あまりに危険なため、五歳の長女に「先生!火事ですか」と言わせたところ、
「ハイ、ハイ火事ですよ」と平気で雑誌類を燃やし続けた。
九月二五日-荷風いわく。
「僕は風呂屋へ行くと、必ず女湯をのぞいてくる。老人だから怪しまれない。これも年寄りの一徳。近頃の女の風呂場での、大胆なポーズには驚く」
十月三日-家の女中が言うには、
「あまりにきたないので、見兼ねて先生のお部屋をソウジすると、あとで先生、ガタビシと机を開けたてて、紛失物がないか、と探し回った」
十月二三日-小西の妻が退院して帰宅したところ、荷風は開口一番、病気見舞どころか「看護婦に美人はいますか」と聞いた。
この小西はケンカ別れした荷風について、「ボクは今でも荷風が大好きである。だから荷風には近づきたくない。『変人は遠くにありて想うもの……』というではないか」と書いている。
ある時、荷風が子ネコを蹴飛ばしているのをみて、飼主が怒った。
「そんなことをするとネコが死にます」
「イヤ大丈夫だ。この前にも蹴飛ばしたことがあったが、こうして生きているじゃないか」とすました顔であった。荷風が三味線のけいこをする家に下宿していた時のこと。荷風は三味線の音が嫌いで、けいこが始まると、その昔を消すため、ハシで机をたたいて、けいこがすむまでたたき続けた、という。三味線の音が小さくなると、ハシの音も小さくなったが、やめるまで続けていた。
③ 荷風は一日一食主義であった。
雨が降ろうと、雪になろうと、毎日必ず正午になると、浅草松屋前のレストラン「アリゾナ」に姿を現した。
荷風の指定席はドアのすぐ右側のテーブルの一番スミであった。この席にお客が座っているとイヤな顔をして、ほかの席はガラガラでも「今日は、客がいっぱいだから帰ります」と引き上げてしまった。
指定席が空いていると、まずビール一本を注文し、トマト一個に食塩をたっぷりかけて、これをおつまみにして、ビールを飲んだ。この後、肉をやわらかく煮た料理を必ずとって、終わりであった。荷風は水をいっさい飲まなかった。いつも同じメニューで、これ以外はいっさい注文しなかった。
一方、荷風は甘いものに目がなかった。コーヒーの表面が、砂糖で真っ白くなるほどにして飲んだ。亡くなった時も、愛用の茶碗の底には、コーヒーでとけた砂糖が、ごってりとこびりついていた。
荷風が引っ越した千葉県市川市の自宅は一歩中に入ると、コジキ小屋と同じであった。ボロボロのフトンが万年床になっている。部屋の真ん中に火鉢が置いてあり、部屋の中には脱いだズボンや下着や紙クズが乱雑に散らかっていた。
この家を一六〇万円で新築した際、ガス工事費として三万円を渡したが、急に気がかわってとりやめた。火鉢が一つあれば、ガス会社に毎月金を払う必要がない、とのケチ精神からであった。
荷風の文名と貯金目あてに、何人もの女がこの家を訪れたが、部屋の中に一歩入ると、あまりのヒドさに驚いて帰ってしまった。
荷風は〝女よけ″として、乱雑に散らかしたままにしたフシがあった。
生涯荷風は、「ソロバンも字も、読めないような人」のほうを好んだ。そうした人は自分を利用しないし、特別扱いもしないから、というのが理由。贈りものなど大嫌いでカンカンに怒った。
千葉県市川駅前に、ただ一軒荷風の好きな石衣(いしごろも…干菓子の一種)を売っている店があったが、ある日、買うと、オマケをつけて二、三個よけいにくれた。荷風はそれ以来、その店にはプッツリ行かず、わざわざ遠くの店まで、買いに行くようになった。
駅前の銀行にも預金をしていた。預金額第一位の上得意のため、支店長は荷風が行くと支店長室に招き入れ、コーヒーを出して歓待した。帰宅すると、わざわざ贈りものまで届いていた。怒った荷風はすぐその足で銀行に行き、預金を全額おろし、別の銀行に変えてしまった。この銀行では〝荷風流″をちゃんと心得ており、「いらっしゃいませ」とも言わず、知らん顔で応対した。
荷風は昭和二〇年代には最高二八〇〇万円(今の金で五億円以上)もの大金を銀行に預けていた。しかし、徹底したケチでタバコは「光」を二つに折ってキセルに入れて吸い、部屋の中でもハダカ電球を一つしかつけていなかった。お客がたまに来ると、居間からその電球を外してきては使っていた。
荷風は一九五二(昭和二七)年十一月に文化勲章を受章した。
受章の感想を聞かれて、「勲章はいらないが、年金がついているので-」と内心そう思っていても、誰も口にしない言葉を平気で吐いた。
永田町の八百善で開かれた中央公論社の祝賀会でも、「かたいもの、これから書きます、年の暮」と詠んで、周囲をケムにまいた。
④ 2000万円入りのカバン持ち歩き
一九五四年(昭和二九)年四月二五日、市川市の自宅へ帰る途中、国電の中でカバンをスラれてしまった。荷風はこのカバンの中に、いつも全財産をそっくり入れて、持ち歩いていたのである。本名の永井壮吉名義の一五〇〇万円の三菱銀行の預金通帳、文化勲章年金五〇万円の小切手、そのほか四五〇万円相当の小切手数枚など、計二〇〇〇万円にのぼっていた。
幸い、米軍人のムサチオ軍曹が船橋駅ホームに捨てられているのを見つけて、警察に届け出て、荷風の手に戻った。荷風は謝礼金五〇〇〇円を払ったが、この思わぬ出来事で、荷風の全財産が一挙にバレてしまった。
このため、荷風には借金の依頼や保険の勧誘が殺到、女性から再婚の申し込みが相次いだ。
荷風は自らのケチ精神についてこう解説している。
「ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか、言ってるそうですがね。ぼくがお金をためているからこそ、戦時中の十年間一枚の原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、ぼくは他人に頭一つ下げないで、ぼくの思いどおりの生活ができました。今は平和です。平和の声の裏には戦争があります。それは紙一重のものなんですよ。だから、ぼくは、ぼくの作品が売れるときは、売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります」
⑤それまで関係した女計十六人の一覧表
荷風は三九歳から八〇歳で亡くなる前日までの四二年間、一日も欠かさず日記を書いていた。文学者の日記は数多くあるが、荷風のように、夜の女との遊びの数々を克明に記録して、ワイ談の材料を鋭い観察力と一流の筆で、つづっていたのは稀有である。
昭和十一年一月三〇日、五八歳の荷風はそれまで関係した女計十六人の一覧表と簡単な経歴をつけていた。
鈴木かつ(柳橋芸者、明四一)、蔵田よし(浜町私娼、明四二)、吉野こう(新橋芸者、明四一~四三)、内田八重(同、明四三~大四)、中村ふさ(神楽坂芸者、大五~九)、白鳩銀子(女優、大九)、関根歌(富士見町芸者、昭五~六)、渡辺美代(私娼、昭九~十)ら十六人。このうち、関根歌には富士見町に「待合」を開かせ、客があると、荷風は押入れに隠れて、そこから客との痴態をのぞくのを楽しみにしていた、という。
荷風は晩年、浅草の観音さまの「大吉」のオミクジを大事に持っていた。亡くなった時も胸のポケットに入っていた。
アメリカ、フランスでの生活で事故がなく無事だったのは、観音さまにお祈りしたおかげと信じていたのである。戦争中「偏奇館」が焼けませんようにとお祈りしながら、引いたオミクジは「凶」と出て、空襲で焼失してしまった。
このため、一層、おみくじを信じ、ポックリ死ねるように観音さまにお祈りしていた。七月九日に必ず亡くなるように願をかけていた。尊敬する上田敏、森鴎外がいずれも、この日に亡くなっているから。
荷風は親しい友人に「この日でなければ、どの月の九日でもいいから死にたいね。観音さまにいつも祈っているよ」と言っていたが、その希望は半分かない「ポックリ」と昭和三四年四月三〇日に八一歳で亡くなった。
永井荷風http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%8D%B7%E9%A2%A8
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