日本風狂人伝④ ノーベル賞作家・川端康成は借金の天才だよ
2009,6,18
日本風狂人伝④
ノーベル賞作家・川端康成は借金の天才だよ
前坂 俊之
(かわばたやすなり / 一八九九~一九七二)作家。大正十五年に『伊豆の踊り子』を発表。以後『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』など虚無的な美的世界を創造。昭和四十三年にノーベル文学賞受賞。同四十七年、自殺。
一九六八(昭和四三)年にノーベル文学賞を受賞した川端康成は〝借金の天才″だった。梶山季之が週刊文春のトップ屋だった頃、真夜中でも、事件があれば飛び出さねばならないため、編集長に言って、夜でも現金を準備してもらっていた。

何でも、壷を買ったためだとか。川端はその当時、文芸春秋から一冊も本を出していないし、寄稿もしていない。そんな川端に二つ返事で三〇〇万円(今の金に直すと二〇〇〇万円以上)を貸すほうも貸すほうなら、借りるほうも借りるほう-と梶山はその夜、ヤケ酒を飲んで悪酔したとか。この借金は池島信平社長にかわった時に、そのままうやむやになってしまった。

しびれをきらした菊池にやっと川端が、
「二〇〇円いるんです」ポッンと言った。
「いついるの」
「今日」
仕方がない、といった顔で菊池が大きなサイフから、一〇円札をそろえて出した。
「さようなら」
川端はミミズクの顔をくずさず、サッと引き上げた。当時の二〇〇円は今では一〇〇万円以上である。
名作『伊豆の踊子』を執筆する際、伊豆・湯ケ島の「湯本荘」にしばらくの間滞在した川端はこの時の宿代も、出世払いということでまったく払わなかった、といわれている。
川端は最初から、「金は天下の回りもの」という考え方であった。「ある時は払い、ない時は払わなくてよい」とはっきりしていた。
吉行淳之介がある時、「銀座のバーの勘定は高い」といった内容のエッセイを書いた。これを読んだ川端は、あるパーティで吉行に会い、
「高かったら、払わなきゃいいじゃないですか……」
とキッパリした調子で言ったのには、吉行もビックリ。
① 劇作家、北条誠は川端の一番弟子である。
ある時、鎌倉から上京した川端から、北条に突然、電話が入った。北条は原稿の締め切りがせまっていた。
「ぼく、来ましたよ。いま、新橋です。すぐにいらっしゃい」
北条は面くらい、原稿の締め切りを理由に断ると、
「あなたは、マジメすぎるからいけません。そんな仕事、放り出して、すぐいらっしゃい」と怒られた。
北条がしぶしぶ、タクシーを飛ばして行くと、川端はバーの勘定の支払いに上京してきたのだが、酔っていたので店の名前も、どこにあったかも忘れたので、一緒に探してほしい、と言う。
北条はあきれ果てたものの、大先生のいうことなので泣く泣く、川端の記憶をたどりながらバーをはしごして回った。やっと、探し当てた頃には、二人ともへベレケに酔っぱらっており、北条は一〇万円以上の持ち出しとなった。
これまた北条の内緒話。
北条が京都で仕事をしていると、突然、川端からそちらに行くと電話があった。 ところが、指定の時間に待てど暮らせど来ない。
やっとこさ、北条の芝居を上演していた南座の前で会うと、いきなり、
「金がなくなったから、鎌倉へ帰る。タバコがないので、タバコをください」と言う。
京都駅まで送っていき、タバコを買って渡すと、今度は、
「弁当代をください」と言う。
川端は一銭も持っていなかったのである。
特急「はと」で帰るというので見送ると、展望車に乗り込むので、北条が恐る恐る、「先生、キップはあるんですか…‥」
と尋ねると、川端は、
「検札の人に言って、あとで払います」
と澄ました顔だった。
② 川端はノーベル賞が決まった途端、
富岡鉄斎の七〇〇〇万円もする屏風をポンと買い、一〇〇〇万の埴輪の首を買った。このほかにも、計一億円近い美術、骨董品を買いあさった。
ノーベル賞の賞金は二〇〇〇万円しかない。その五倍に相当するが、本人はわかっていての、この買い物だった。授賞式の直前、今日出海文化庁長官のところに行き、「フランスにいい絵の売りものが出た。日本で買っておいた方がいい。自分のノーベル賞の小切手を担保にするから」と申し出て、今長官をあきれさせた。
小切手を担保に、そんな高価な絵を外国から送ってくれるはずがなく、第一、その絵の価格もわからないうちなのに、と今長官は開いた口がふさがらなかった。
そんな〝借金の天才″の川端は、断るほうでもまた名人級。借金取りがきても平気の平左で、逃げたりせず、
「ないものはない。いずれ払います」
と言ったきり、あの独特なミミズクが驚いたように目をむいた表情で、何時間でも無言のまま、相手と対峠していた。
そのうちに相手が閉口して、退散した。「金はあるヤツが出せばよい。なければ払うな」という金銭哲学を貫いていた。
川端が自殺したあとには、集めた国宝、重要文化財など、約二〇〇点を超える美術品が遺された。
一銭の金がなくても、気に入った骨董があると、
「これ届けてください」と買い集めた結果が、この膨大な川端コレクションの遺産になったのである。
③ 川端の古本グセも同じである。
東京・神田のなじみの古本屋へ入っていき、主人が「先生、よくいらっしゃいました」とあいさつしても、口もきかず知らん顔。おもむろに本をみて、ステッキを持っている時はステッキで、そうでない時は手で「あれ」とさす。
声がボソボソして開きとれないので、主人がさされたあたりの本を五、六冊とり出してみせる。帰りぎわに、「先生、この中のどれですか」と聞くと、やっと「これだ」と決まる。
また、気に入ったものは、みさかいなく持ち帰るクセは、ここでも如何なく発揮された。
ある時、古本屋のオヤジが川端を応接間に通し、奥から家宝にしている夏目淑石の軸を持ってきて、
「先生、これは売りものじゃないんですが、私の大事なものなんです。先生には特別にお目にかけます」と自慢してみせた。
すると、川端の目は大きくなり、一目で気に入った様子。
「いや、これは私がもらっていきます」
「イヤ、ダメです」
「これはもう私のものだ」
「これ包んでくれ」
「困ります。困ります」
と何度も断っても、まったく聞かない。
結局、持って帰ってしまった。ほしくなると、もうどうにも止まらないのだ。
④ 川端の執筆時間は真夜中、それも午後十一時からと決まっていた。
午前中は必ず寝ていた。
午後二時か三時に寝室から起きだしてきて、出版社や来客に会い、夕食後、また寝て、午後一〇時か、十一時に起きて、深夜から明け方まで執筆していた。
たまには午後十一時頃から、一、二時間を家族とゆっくり話したり親しい人とよもやま話をする時間もあり、近所に住んでいた作家の山口瞳やその家族がきて雑談した。
山口瞳によると、髪が固いのか、無頓着なのか、川端は髪にクシをさしたまま、人前によく出てきた。終始無言。川端は客が来ても一言もしゃべらないことが多かった。
時々、大きな目をパチクリして相手をにらむようにみつめる。三〇分でも、一時間でも沈黙していることがよくあった。
ただし、本人は相手がいることに、不愉快なのではなかった。つい、相手が気まずい思いをして腰を上げ「帰ります」と言うと、「まだいいじゃないか」と驚いた顔になった。
そして、やっと言葉が出てきた。そして、また沈黙居士。延々と無言の対座が続いた。
⑤ ある時のこと。
この沈黙居士の川端のところに、若い女性編集者が原稿依頼に訪れた。コチコチに緊張して、執筆を依頼した。川端はいつものクセで何も言わない。沈黙が続いた。
女性編集者は面くらい、そのうち顔が真っ赤になり、蒼白にかわった。しかし、川端は相変わらず、押し黙ったままで何も言わない。若い女性は沈黙に耐えきれず、突然「ワァーッ」と泣き出した。川端は驚いて「どうしたの」と初めてロを開いた。
沈黙に、いても立ってもいられず「それでは失礼します」と告げると、川端は「まあいいでしょう。もう少し」と必ず引き止めるのがクセであった。
インタビューを申し込むと、「ぼくには何も話すことはありません」といつも断った。では写真を撮らせてほしい、と頼むと断らなかった。写真さえ撮ればこっちのもの、と新聞記者が取材に行って、何を聞いても、「エエ」とか「アア」とかばかりで、返事をしないことが多かった。
処置なしと思っていると、帰りぎわに、川端は「勝手に、いいように書いておいてください。話したことにして」とポツンと言った。
⑥ その無口の川端が神戸に講演会に出かけた。
川端は開口一番、
「わたしは講演が嫌いだ。それなのに、ここに連れて来られた。顔だけをみせてくれ、と言われたから、顔だけみせます。一時間ここに座っているから、よくみてくれ」
と言い、それから例のミミズクのような顔で、目をパチクリしながら黙り込んでしまった。
これには聴衆も驚くやらあきれるやら。
川端は時々、時計をみながら、「一時間というのは長いですね」「今日はいいお天気ですね」とつぶやく。
作家の陳舜臣の話である。陳はこの講演を聞きに行けなかったが、聞きに行った友人はこれで逆に感激した、という。
川端はノーベル賞を受賞する前年、ノルウェーで開かれた国際ペンクラブ会議に福田蘭童(評論家)らと一緒に出席した。
ある晩、福田が川端の部屋に行くと、
「大変なことになった。すぐ帰る」
と青くなっている。
ニューヨークで買ったセックスの実況録音盤を家へ送ったが、それが娘に知られたら大変だ、とオロオロしている。
結局、スケジュールを早く切りげて帰り、スレスレで間に合って、娘に気づかれずにすんだ、という。福田の話である。
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