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<日本最大の奇人は誰だ!>西郷隆盛が大バカ者と紹介した弟・従道は清濁あわせ呑む破天荒な大奇人

   

                                                                           2009、06,21

日本最大の奇人は誰だ!


西郷隆盛が大バカ者と紹介した弟・従道は
清濁あわせ呑む破天荒な大奇人
                 
                                                                                                               前坂俊之
 
西郷隆盛については知らないものはないであろうが、弟・従道について知っているのは少ないだろう。「大きくたたけば、大きくなり、小さくたたけば、小さくなる。どこまで大物かわからない」とは西郷隆盛についての勝海舟の印象だが、従道も兄以上の大物、怪物!であった。
 
明治維新は兄・西郷隆盛が最大の立役者であり、明治政府の日露戦争勝利の方程式を築いたのは伊藤、山県らではなく、歴代内閣の縁の下の力持ちで「なんでもござれと」支えた「万年大臣」「天下の大バカ者」弟・従道であったことは、歴史の教訓として、肝に銘ずべきである。近代日本の礎をつくったのは大西郷兄弟といって過言でないが、歴史家の従道への評価はいまだに定まってない。
 
 
その略歴は陸軍卿、文部卿、農商務卿、内務大臣三回、海軍大臣七回、陸軍大臣(兼摂)一回、農商務大臣(兼摂)一回を歴任したが、総理大臣だけは「おいどんはその器にあらず」と固辞して、決して受けなかった。実に不思議というほかはない稀有な人物であった。
 西郷隆盛は従道とともに従兄弟の大山巌を左右において幕末維新に活躍した。隆盛がこの二人を紹介するときは「大馬鹿者の信吾(従道)」「知恵者の弥介(巌)」だったという。
 
その従道は馬鹿なのか、利口なのか、ぼうようとして捕えがたい、どこが偉いかわからないが、徳望、人望は山の如しである。
 無欲恬淡で天真欄漫、何でも呑み込む、推されれば陸軍中将が海軍大臣になり、さらに軍艦を知らない海軍大将になる、山県有朋から請われれば、元帥なのに平然と内務大臣となる。普通の人間にはできないことを、平気の平左でやってのける。 かれが海軍大臣として、日本海軍を清国海軍に桔抗できるまでに拡充したのは、よく部下の手腕を発揮させ、清濁合わせ呑む大度量があったからである。
 
そのとぼけたエピソードは山ほどある。
 
 ●太政大臣三条実美の下で文部卿に就任したとき、なにごとを聞かれても、「そのことなら田中(不二麿)大輔に話していただきたい。私は文部卿でなくて、文盲卿でござる」
 といって、頭をかかえて笑っていたという。
 
 明治十八年十二月、首相伊藤博文の下で、海軍大臣に就任し、翌年三月から七月ま
で農商務大臣を兼摂したが、このとき次官の吉田清成に、「わしは農業や商売のことは、まるでわからんから、あんたの一存で、なんでもドンドンやって下さい」
 といって、印判を渡し、自ら本省に出勤したことがなかったという。だから三ヵ月ばかりで、内務大臣山県有朋の兼摂となったのかもしれない。
 
 ●山県内閣の内務大臣のとき、下僚からなにを問われてもいっさい可否をいわず、聞き終わると、「なるほど」の一言を与えるだけであったので、「なるほど大臣」の異名を与えられたという。 明治初年ヨーロッパを歴遊し、ロシアに行って、皇帝アレキサンドリアに謁したとき、皇帝はかれに向かって、「日本の軍人は、平生なにを好むか」と問うた。かれは平然として答えていわく、
  「やはりそれは、酒と女であります」
 と。通訳官はどうも困ったが、仕方がなく、そのまま言上したところ、並みいるロシア大官の
面々さすがに呆然として、かれを凝視したという。
 かれの外遊中のことであったか、その国の外務大臣からは、一夜宴を張られて招かれた。そのときかれは挨拶に立ち上がるなり、通訳官に向かい、
  「よかよに頼む」
 といっただけで腰をおろした。通訳官は滑々数千言、美辞麗句を連ねて、挨拶の言葉を述べた。同席の日本語を知らない人々は、「へえ、日本語は大したものだ、あれだけの短い言葉が、あんなに長い意味をもつのかな」 といったというからおもしろい。
 
 
 ●板垣退助が風俗改良運動を起こして、同気倶楽部というものを創立し、自ら副総裁となり、西郷を総裁に推したとき、かれは平然としてこれを引きうけた。この二人は全国を遊説して回ったが、演説会ののちの懇親会において、板垣はなにか話したが、西郷はなにも語らず、
  「演説はご免をこうむる。その代り、なにか座興をお目にかけよう」 といいつつ、いきなり服を脱いで、裸踊りをやりだした。板垣は、
  「これではわが輩の風俗改良の演説が、直ぐ風俗壊乱の実例でぶちこわしになる」
 と怒り出し、結局総裁をやめさせたという。
 
●大隈重信はかれを評して、「西郷従道は、一口にいうと、貧乏徳利のような人物だ。あの素朴な風貌で、なんでもござれと引きうける。貧乏徳利は、酒でも、酢でも、醤油でも、なにを入れても、ちゃんと納まるからな」といったという。
 
 日本海軍は山本権兵衛がつくった、という説に反対する人はないであろう。海軍の提督何百、なかには山本を非難する者も少なくないであろうが、しかし、彼が海軍建設の第一人者であることは間違いないが、その山本を抜擢し、自在に腕をふるわせたのは西郷の大度量であった。
 
●予備役編入寸前の東郷平八郎を救ったのは山本であり、それを『なるほど』と認めたのは西郷である。
 東郷元帥といえば、山本権兵衛、加藤友三郎とともに、日本海軍の三祖と呼んで何人も異議のない提督であるが、明治21年から26年にわたって健康すぐれず、大佐で首の予定だった。すなわち、明治26年11月の予備役編入のリストには、末尾に東郷平八郎の名がのっていた。これは「こんにゃく版」と通称された整理供補の名簿で、凡才や病身者は大佐どまり。大佐で整理するには、とくに海軍大臣の承認を得る必要上、リストをつくって提出する習慣であった。そのとき、整理される十六人の末尾に東郷平八郎もいたわけだ。
 
 海相西郷従道は、部下の海軍主事(高級副官)の山本を呼び、二人でリストを検討し、赤鉛筆で順々に○印をつけていったが、最後に東郷のところへくると、山本が、「この男はもう少し様子を見ましよう」とすすめた。西郷は、「よかろう、どこかはめておくところはないか」と人事局長にたずねた。局長が考えていると、山本が、あたかも任命するような口ぶりで、「横須賀につないである『浪速』へでも乗せておこう」といった。同艦は当時、予備艦としてつながれていた。東郷は、その艦長の辞令をもらって、首をつないだのであった。
 
西郷はそういう脱俗な人間であったが、またそれと反対な面のあったことを知る人は少ない。軍部大臣は、官制によって陸海軍大中将が任ぜられたが、しかしそれは武職でなく、文職であって、任用資格として、武官と定められたものである。西郷はこれを知って、他の大臣はもちろんのこと、海軍大臣として登庁するときは、軍服を着ず、いつも背広服を着たという。
西郷観が変わることになるかもしれない。とにかく不思議な人物であった。
 
<明治十七年、井上馨外務卿がフランス公使と密約して、中国を攻めようと主張して、伊藤博文と激しく対立した。このとき、西郷が「国は信義が大切じゃ、中国がフランスと戦って困っているときに背後から短刀で刺すようなことはよろしくない」と言って、開戦論者を抑えた。その後、西郷は伊藤とともに「天津条約」を締結するため天津に滞在中、李鴻章との宴席で大真面目な顔で「私は天津に来てからまだ一人の女にも出会いませんが、貴国では男が子を産むのですか」と言いながら、涼しい顔をしていた。(池辺三山『明治維新三大政治家』)

◇伊藤博文は同輩を呼ぶとき「 - 君」と言ったが、西郷にだけは「あなた」と言った。西郷が死んだとき、「あの人は私の大恩人だ」とも言っている。『朝日新聞』の論説委員として一世を風靡する概があった池辺三山は「西郷侯は人と責任を分かつことにおいては実に堪能な人だ」と言っている。(同前)
 
◇桂(太郎)首班のもとで薩摩の山本権兵衛を海軍大臣に据えようとしたとき、山本は桂の風下に立つのは嫌だと思ったのか、なかなか首を縦に振ろうとしない。これを聞いた西郷は、山本に「あんたが嫌なら、おいどんがやりもうそ」と言った。西郷のほうが山本のはるか先輩なのだ。こうして、山本は海軍大臣を引き受けないわけにはいかなくなった。(同前)  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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