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日本風狂人伝⑩ 尾崎士郎-「人生劇場」を書いた男の中の男

   

日本風狂人伝⑩
            2009,6、29
 
尾崎士郎-「人生劇場」を書いた男の中の男
 
                                       
 
                                            前坂 俊之
 
 
(おざき・しろう/一八九八-一九六四)小説家。愛知県生まれ。義理と人情と仁侠の青春小説『人生劇場』の作者。旧制中学のころから政治に興味をもつ。早稲田大学に入学するが、学長人選問題に端を発した「早稲田騒動」の中心人物として除名。「時事新報」の懸賞小説に入選してからは創作に専念し、『河鹿』などの短編を発表。三三年から「都新聞」に連載した『人生劇場』は、川端康成の絶賛を受けベストセラーとなる。大正十一年に宇野千代と結婚。戦後は『天皇機関説』『大逆事件』などの問題作を発表。『人生劇場』は「青春編」「愛慾編」など、五九年まで続編七編が書き続けられた。相撲が大好きで横綱蕃議委員もつとめた。
 
  
『人生劇場』を書いた尾崎士郎は酒豪で、ひとたび酔えば、明治の書生のように志を語り、詩を吟唱した。尾崎は生来のドモリで、緊張すると一層ヒドくなった。が、酒が入ると、それは全く姿を消して雄弁となった。彼が酒を片時も手離さなかったのはこのせいであった。
 

 尾崎は気前がよく、酔うと何でも人に与えた。ある時、尾崎は酔って友人に、自分の「早稲田大学卒業証書」をほうびとして与えた。
「見ろ、大隈重信が署名しているだろう。字は他の人が書いたものだ。大隈は悪筆だから、一生書かなかった」と得々として説明した。
 その後、この友人宅にフラッと現れた尾崎は、自分の証書がりっぱに表装して、飾ってあるのに驚いて、「これどうしたんだ。俺のじゃないか」
「ハイ、先日、先生からいただいたものです」
「オイ、俺はやった覚えはないぞ。いくら俺がものをやるクセがあるとはいえ、手前の免状をやるほどモウロクはせん。返せ」と即座に取り返した。
 
 ところが、その後、また、この友人が尾崎を訪ねると、
「オイ、この前の免状は貴様が持っていてくれ。俺のところにあると、また、人にやってしまうかも知れん。お前のところにあれば、いつでも見られて安心だ」
 
尾崎が『人生劇場』を「都新聞」に掲載したのは一九三三(昭和八)年三月のことである。「人生劇場・青春編」は八月で終わったが、宿屋に泊り込みで書き続けたので、新聞社から入った原稿料は三十円しかなかった。
 
  金のなかった尾崎は、母校の岡崎中学から講演を頼まれたが、旅行用のカバンがなく、三越でボール紙のトランクに見せかけたものを、五円で買って行った。
講演後、久しぶりに旧友四、五人と一緒に飲んだが、雨がふり出した。車に乗って、尾崎のトランクを大事に抱えていた友人が急に「おかしい」と言い出した。トランクが溶けはじめたのである。作家生活のはなやかさを議論していた友人たちも、これを見て口をきくものはなくなった。帰りの駅についた時は、四角なトランクが丸くなっていた。
 
 昭和十四年五月、尾崎は大鹿卓らと一緒に、尊敬する幸田露伴を訪ねた。露伴から、「何を今書かれているのか」とたずねられた尾崎は「ボー、ボクは、いー、いま、関ケ原合戦をかーい、てるんです」と膝を正して、ドモリながら答えて、一時間余り話がはずんだ。
 
 露伴は帰り際に、戦記の写本二冊を尾崎に贈った。
「先生から宝物をもらった」と大感激した尾崎は席をかえて深酔して、この大事な本を忘れてしまった。大鹿が見つけて預かっていたが、翌日、酔がさめて気がついた尾崎は青くなって「弱った。気づかなかったか」と大騒ぎして探し回った。
 
このように、気前よく何でも人にくれてやるのだ。ある時、尾崎が伊豆・伊東にいると、作家・今日出海が訪ねてきた。尾崎は大変、歓迎した。
 部屋の床の間に甲胃が飾ってあったので、「尾崎らしい」と今がほめると「君はフィリピンでよく働いた。論功行賞せなけりゃならんと考えていたので、これをやる」と尾崎はいきなり言いだした。
「大きなものなので、もって帰ることも出来ないし飾っておく場所もない」と今は何度も固辞したが、頑として聞き入れない。
そのうち二人とも大いに酔っぱらって、尾崎も忘れたようなので、今は安心して鎌倉に帰った。ところが、数日して日通から大きな荷物が届いた。この立派な甲胃だった。尾崎は酔っての言葉でも約束は違えなかったのである。
 
 普段はドテラに細帯というスタイルで、おでこにはエジソンバンド、首に白いほうたいを巻いて原稿を書き、食事をして酒を飲んでいた。
 
 尾崎士郎の代表作は 「人生劇場」 である。「都新聞」 に 「人生劇場」が連載されていた昭和十一年ごろ、後に作家になった井上友一郎が文化部記者として尾崎の担当だった。
 
ある時、尾崎の原稿が予定を過ぎても入らない。風の便りに、芝浦の待合で呑んでいるという情報が入り、すっ飛んで駆けつけると、尾崎は文士二、三人とにぎやかに呑んでおり、「君、何か用事かい」と聞いてきた。
 
「冗談じゃありません。先生、原稿がまだですよ」とただすと、「挿絵の中川一政画伯の方に回っている」という。半信半疑ながら翌朝、中川画伯のところに行くと「きていない」、すでに、待合から尾崎は消えており、自宅にも帰っていない。
 原稿は来ず、中川画伯が気をきかして、人生劇場の主人公の瓢吉が 「これからどうなるのだろう」とつぶやいた挿絵を書いたが、これが大評判になって、逆に人気が上がった。
 
 尾崎は直情径行であった。
胃腸が弱かった尾崎は戦後間もなく、ある評論家から特効薬をもらい、飲んだところ効果があり、胃腸の調子はスッカリよくなった。
喜んだ尾崎は、その評論家に感謝の気持ちと、その薬効を知らせるため、固くなった大便を小包に入れて送った。
 評論家は最初、その黒い固りが何だかわからなかったが、手にとってニオイをかぐうちウンコとわかり、カンカンに怒った。以後二人は絶交した。
 
 もう一つ、尾崎の天衣無縫ぶりを示したエピソード。
 作家の中山義秀の自宅に、深夜たびたび尾崎から速達が届いた。何事かと、中山が驚いて開くと、巻物に尾崎独特の達筆で〝男子の一物″が書かれており、その脇に「男子すべからくかくのごとし」 とあった。
 毎回、これと似たような文面の速達が、それも深夜に届く。尾崎は酒席で興がのると筆をとって出すのだが、深夜に配達される方は、たまったものではなかった。
「人に好かれるのが欠点」というように、万人から愛された尾崎の珍句の一つに「男たるもの、腹を立てずにチンポコ立てろ」というのがある。
 
 尾崎に師事し、『遠い青空』などの長編小説を次々に発表、女性ファンから、人気のあった牧野吉晴が銀座のバーで急死し、青山斎場で告別式が行われた。
尾崎は祭壇の牧野の写真をにらみつけたまま「この馬鹿野郎!」と大声でドナり、参列者を驚かせた。
 
「君は文学に志を立てながら、志を二、三にし……」と叱りつける口調で言った。葬儀委員長が「尾崎はああ言うが…」とあいさつすると、会場からまたもや「違う」と大声を上げ、やり合った。激情家らしい尾崎の一面を表していた。
 
 あるパーティの席上、石坂洋次郎が四十年も前の思い出話を披露した。石坂は学生結婚しており、尾崎が「君はどうしてそんなに早く結婚したんだい」と聞いたことがあった。
「私は御承知のように東北ナマリが抜けません。東京に出てきても、娘たちは私のナマリを笑って相手にしてくれない。だから郷里の女と早く結婚したんですよ」
 これを聞いた尾崎は急に怒り出した。
 
「バ、バ、バカだな。キ、キミは。キミのズーズー弁を笑うのは、キミをバカにしてる人じやないんだせ。女というものはキミのナマリを、微笑ましいと思って笑うんだ。ボ、ボクなんか、こんなドモリだし、女に笑われるけれども、チ、チットも苦にしない。女の方からどんどん寄ってくる。バ、バカだな。キミは……」
 石坂は出席していた清子夫人に向かって
「きっとこの人も、士郎さんのドモリにほれたんでしょう」と結んで、会場をドッとわかせた。
 
 尾崎の息子が中学に入学した時、PTAで母親が先生から、家でも子供の勉強を少しは親が見るべきだというのを聞いて、大いに発奮した。早速、息子に漢字の書きとりの宿題を出した。
「次のカナを漢字に直せ。〝おとうさんは朝、寝床でへをひります″へだぞ。〝それから新聞を持ってくそに行きます″いいか、くそだぞ」
 息子が「そんな字まで習わないよ」と答えると、「なんだ、一番大事な字を教えてもらえないのか」
 
長女で作家の尾崎一枝も、酒抜きの父は語れないと、その酒豪ぶりを「父と酒」の中で書いている。昭和20年前後の伊豆の伊東に住んでいた頃のことだ。
朝食の膳で酒を飲んでいるとき、人が訪ねてきたりすると相好を崩して、「おーいこつちだ、今一ばいやってるところだ、入れ」
玄関を入ると すぐ六畳の茶の間の狭い家。迷惑そうな母や私の家族の膳もそのままのちゃぶ台の前に座らせる。小さな部屋はいつのまにか、次々にやってくる男達で満員になる。
 男たちが急速に、酒に酔っていく。
 
「やい、てめえ」などと怒鳴ったりする。筋骨隆々たる偉丈夫の男が急に泣き出して、「先生、おれのこの気持わかりますか、わかりますか」 なぞと泣くのである。
「わかった。よしわかった。だから泣くな。歌え、おい歌え」
 すると隣にいた、色の白い優男が急に立ち上って、「やります。歌います」
「よし。やれ。いいぞ、お前はえらい」
 父と男たちの感情が次第に高潮していくのがわかる。
 
「どうだ、今度は俺の浪花節を聞いてくれ。とつときのやつをやろう。天中軒雲右衛門だ」 座の熟するのを待っていたというか、実はさっきから父は一席うなりたくてうずうずしていたのである。
 父の浪花節は表情が豊かで身ぶり手ぶり、体中使っての大熱演なのだ。顔中ゆがめたりくしやくしやにしたり、合の手の口三味線は片手でテーブルをたたいての名調子である。
 
 父の浪花節は人に聞かせるというより、うなっている内にいつのまにか自分自身が陶然たる心境になってくるらしい。
 畳から始まった酒は夕方になっても夜になっても延々と続く。相手は入れ替り変っても長火鉢の前の主役は座ったままで飲み続けていた。
 
 
 

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