前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史⑥ 最高のリーダーは西郷従道,そのおもしろエピソード②

   

                            2009、08,14

西郷従道②―『何でも大臣』の面白エピソード 
 
 
       前坂 俊之
 
① 着替えのない参議閣下・西郷隆盛
 
「西郷が三千坪の大宅地を買ったらしい」―隆盛の質素な生活ぶりを知っている人々は驚いた。そして江戸・小網町の宅地に建設が始まった。
「無理もなか。大将となり、参議となったいまの身分じゃ、相当の家は必要じゃろ」と、みんなも期待しながら見守った。

ところが出来上がった家屋は人々が予期した大邸宅ではなく、何ともみすぼらしい十数棟のバラック長屋のみ。その長屋は薩摩(鹿児島)出身の後進でたちまち満員となり、しかもすべて無料であった。西郷自身も、弟の慎悟(従道)とともに、その一軒の六畳と三畳きりの家に住んでいたのだ。

これを知った旧藩主の島津久光が早速、西郷を招いて「そちも、むかしの軽輩、吉之助ではない。陸軍大将近衛都督兼参議、西郷隆盛となったからは、身分相応の邸宅に住まねばなるまい。幸い、わしの邸は不用になった故、そちに遣わす」といった。

西郷は「お言葉は恭(かたじけ)なく存じますが、ただ今の長屋でも雨露はしのげます。大将、参議になりましても、吉之助は吉之助、ご辞退申し上げます」と断わってしまった。
足軽小者から成り上がった大官連中が、急に贅沢になったのを、西郷は身をもってい戒めたのである。右大臣の岩倉具視も、久光からこのことを聞いて忠告した。
「おいどんの国の家な、馬糞に包まれており申したので、それよりこの家のほうが、はるかに上等でごわす」西郷は、とりあわなかった。
また、ある時の太政官会議に、珍しく西郷が遅刻したことがあった。かれがいなくては議事が進行しないので迎えの使者が馬を走らせた。小網町の長屋にかれを訪ねると、折柄、真夏のことで障子を開け放しにしてあり、家のなかがまるみえ。

ふとみると、西郷閣下が、一人、座敷のまん中に、ふんどし一つで大あぐらをかいている。
「閣下、会議が始まりますのでお出ましを」
「ご苦労じゃった。今日は雑用の熊吉がおらんので、洗濯をしたところじゃ。もうすぐ乾くじやろうから、そうしたら出かけよう」
西郷は苦笑しながら庭のほうへ目をやった。二坪ばかりの庭に、白がすりの単衣(ひとえ)が、竿にかかって揺れていた。

またある時、参議たちの従僕の間で、
「西郷閣下はご倹約な方だそうだが、体格がりっぱだから食物だけは良いのだろうな」という話がでた。従僕・熊吉が、西郷の弁当包みをあけてみせると、大きな握り飯に、味噌がべタベタ塗りつけてあっただけだった。
 
 
   この兄にしてこの弟・西郷従道
 
 陸軍少将に欠員が生じて、だれを任命すべきかが問題となった。当時陸軍大将は、西郷隆盛一人であったから、西郷の意見を聞いて決定することになり、大山巌が使者に立って西郷を訪ねた。
すると西郷は、「慎吾どんがようごわしょう」といった。慎吾(従道)は西郷の実弟である。

「しかし、慎吾どんな、あぎょさん(兄きん) の実弟ではごわはんか」

「実弟ならどうしたというか。おいは、陸軍少将に適任のものを推薦せよといわれれば、いまのところ慎吾のほかなかと思うとる。陸軍少将と、おいの弟とは、別のもんじゃごわはんか」といった。

人びとはそれを聞いて、西郷の私心なき公平に服し、ただちに従道を任命したが、はたせるかな評判がよく、のち海軍に転じて大将となり、海軍大臣としても内務大臣としても、りつばに職責を果たした。

かれは、人を用いることに長じ、山本権兵衛を見出し、カミソリ大臣といわれた陸奥宗光を外務大臣に引き上げた。

 当時の政府は薩長か土佐人に限られていたので、藩閥外の陸奥を起用することを嫌い、入閣を拒む重臣が多かった。従道はそれを聞くと、俗論を一蹴した。
「二頭立ての馬車で市中を回らすれば、貫禄はつき申す。役に立つもんなら入閣させるがよか」
 

  
都々逸で内閣を救った西郷従道
 
明治十七年(一八八四)、時の内閣は不統一をきたし各大臣の間に激論が交わされ、蜂の巣をつついたような有様になった。もはや総辞職より他になしと考えた首相三条実美は、北海道巡察中の内相西郷従道に打電し、至急、帰京して最後の調停に力を尽くしてくれと要請した。

しかし西郷は、せっかくここまでやってきたのに、いま帰ったのでは北海道に対する施策が遅れ、巡察が役にもたたなくなると反対した。かれは電報に「まとまるものならまとめておくれ、いやで別かれる仲じゃない」と書いて返電した。

さすがに謹厳な三条公も、これをみて吹きだした。やがて閣議中の各大臣に回覧すると、いずれも腹を抱えて大笑い、沸騰していた議論もお互いに譲りあって円満に解決してしまった。

『それにしても、あの木念仁(ぼくねんじん)の西郷が、どうしてあんな電報を打てたのだろう』
と閣僚の一人が西郷に聞くと、西郷はまじめな顔でこう答えた。 
 
「三条さんの電報を受けとったのは、ちょうど宴会の最中で、たまたま芸者があの都々逸(どどいつ)をうたったので、それを書いたまでのことで・・」
愛嬌たっぷりで包容力の大きい西郷隆盛同様の大人物であった。
 

 - 人物研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

★「本日は発売(2023年6月9日)「文芸春秋7月号」<100年の恋の物語のベストワンラブストーリーは・・>山本五十六提督の悲恋のラブレター』★『1941年12月8日、日米開戦、真珠湾攻撃の日、山本五十六が1日千秋の思いで待っていたのは愛人・河合千代子からのラブレターであった』

2010/06/30/日本リーダーパワー史(60) 真珠湾攻撃と山本五十六『提督 …

no image
 日中朝鮮,ロシア150年戦争史(50)ー副島種臣外務卿(外相)の証言②『明治の外交の争点はいつも朝鮮問題』 日清、日露戦争の原因は朝鮮をめぐる清国、 ロシア対日本の紛争である。北朝鮮問題のルーツ・・

 日中朝鮮,ロシア150年戦争史(50) 副島種臣外務卿(外相)の証言―② 『明 …

『オンライン講座/ウクライナ戦争と安倍外交失敗の研究 ➄』★『大丈夫か安倍ロシア外交の行方は!?』ー 『 日ロ解散説が浮上!安倍首相の描くシナリオ-「史上最長政権」を狙う首相の胸中は?』●『北方領土「2島先行返還」は日本にとって損か得か?』●『鈴木宗男氏「北方領土問題の解決にはトップの決断しかない」』●『鈴木宗男・元衆院議員の記者会見(全文1)北方領土問題、必ず応じてくれる』●『もっと知りたい北方領土(3) 料亭やビリヤード場も 東洋一の捕鯨場』

』 2016/10/03   日本リーダーパワー史(740) …

no image
日本リーダーパワー史(43)水野広徳による『秋山真之』への追悼文(上)

  噫(ああ)、秋山海軍中将(上)   &nbsp …

『Z世代のための<日本政治がなぜダメになったのか、真の民主主義国家になれないのか>の講義③<日本議会政治の父・尾崎咢堂が政治家を叱るー『明治、大正、昭和史での敗戦の理由』は① 政治の貧困、立憲政治の運用失敗 ② 日清・日露戦争に勝って、急に世界の1等国の仲間入り果たしたとおごり昂った。 ③ 日本人の心の底にある封建思想と奴隷根性」 

2010/08/06  日本リーダーパワー史(82)記事再録 &nbs …

『日本一の刑事弁護士は誰か!」『棺を蓋うて』ー冤罪救済に晩年を捧げた正木ひろし弁護士を訪ねて』★『世界が尊敬した日本人―「司法殺人(権力悪)との戦いに生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝12回連載一挙公開」』

    2017/08/10  『棺を蓋 …

『オンライン講座/百歳学入門(236)★『人生/晩節に輝いた偉人たち②』★『日本一『見事な引き際・伊庭貞剛の晩晴学②『「事業の進歩発達を最も害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈(ばっこ)である。老人は少壮者の邪魔をしないことが一番必要である』★『老人に対する自戒のすすめ』 

2010/10/25  日本リーダーパワー史(102)記事再録 &nb …

日本世界史応用問題/日本リーダーパワー史『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐/水野広徳の思想的大転換②』-『軍服を脱ぎ捨てて軍事評論家、ジャーナリストに転身、反戦・平和主義者となり軍国主義と闘った』

  2018/08/19    …

no image
日本リーダーパワー史(125) 辛亥革命百年(27) 内山完造の『日中コミュニケーションの突破力に学べ』

日本リーダーパワー史(125) 辛亥革命百年(27)内山完造の『日中コミュニケー …

no image
◎<独創的人間はどのように誕生するのか>建築家のノーベル賞(プリツカー賞)を受賞した坂茂氏の会見(4/2-80分)

  ◎<独創的人間はどのように誕生するのか>   建築家のノ …