★『リーダーシップの日本近現代史』(76)記事再録/ 『明治最大の奇人とは『西郷隆盛の弟・西郷従道です』★『日本海軍の父・山本権兵衛を縦横無尽に 活躍させた底抜けの大度量、抱腹絶倒の大巨人で超面白い!』(1)
2018/02/24日本リーダーパワー史(719)
わが愛する明治の奇人、超人、巨人たちの筆頭『天衣無縫のなるほど大臣・西郷従道』(1)
西郷従道は天保14年5月4日【1843年6月1日)-明治35年(1902年)7月18日)
明治の政治家・軍人。号は竜庵。天保十四年、薩摩藩士西郷吉兵衛の三男、隆盛の弟として生れる。
明治二年、山県有朋らと欧州に行き、兵制を研究する。同六年、「征韓論」が政争のテーマとして日程に上ったとき、征韓は尚早として兄隆盛とたもとを分かち、翌七年、台湾蛮地事務都督として大久保の旨を受けて台湾征伐を強行するが、十年の西南戦争に際しては、西郷軍討伐の参軍山県有朋に代って軍政を担当した。
文部卿・陸軍卿を歴任したあと海軍に転じ、第一次伊藤内閣の海相、以後、歴代内閣の海相・内相をつとめたが、総理大臣のポストだけは『その器にあらず』と一貫して拒否した。晩年には、侯爵、元帥府に列せられ、政界に重きをなした。
明治三十五年(一九〇二)七月十五日、この薩摩の海軍の長老・西郷従道は、享年六十九で没した。
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西郷従道は明治11年に25歳で文部卿に任ぜられてから、晩年に至るまでの20有余年(大津事件で責任をとって閣外に退いた時期を除いて)、常に内閣に列していた。陸軍卿、文部卿、農商務卿、内務大臣三回、海軍大臣七回、陸軍大臣(兼務)一回、農商務大臣(兼務)一回を歴任し、通算20年以上、明治政府の屋台骨を支えてきた。ただし、総理大臣になることだけは『おいどんはその器にあらず」と固辞してきた。
そのため、〝内閣の鍋釜″という異名をとったそが、いずれの首相も彼を閣内に入れておけば安心というわけである。
まことに底抜けの大物。実に不思議というほかない稀有な大人物であった。彼ほど長い人気と寿命を保った人物は皆無なのは。そこに彼の魅力の真骨頂があろう。
それは薩派の勢力を代表したものであろうが、それにしても普通の人間のなしうるところではない。茫洋として清濁合せ呑み、天衣無縫にして不得要領、封建時代の豪傑型のかれは、普通の物差しでは計れない特大型の人物であった。
その墓表には、「元帥海軍大将従一位大勲位侯爵」という人臣を極める栄称が書かれた。
かれに抱かれて成長した山本権兵衛は、日本海軍を世界一流の海軍に仕上げるとともに、薩の海軍軍閥を部内に磐石に築いたのであった。
西郷従道の経歴が、紆余曲折して、かれの本領がどこにあるのかわからないといったが、全くそのような人物であった。その性格は、茫洋茫漠として捕えがたく、一見賢なるがごとく、愚なるがごとく、大勇なるがごとく、小賢しいがごとく、偉いといえば、どこが偉いかわからない、
といった評者があるが、全くそういう人物であった。
かれが海軍大臣として、日本海軍を清国海軍に桔抗できるまでに拡充したのは、よく部下の手腕を発揮させ、清濁合わせ呑む大度量があったからである。
それだけにかれには、なにびとからも畏敬される徳望があった。
かれは山県有朋に見るような毒気は微塵もない。名誉欲も、権勢欲も、金銭欲もない無欲恬淡で、色気も虚飾もない天真欄漫そのものであった。
薩派幕僚の勢力関係から、推されれば陸軍中将から海軍大臣になり、さらに軍艦を知らない海軍大将になって、ふたたび陸軍には戻らない。また人から頼まれれば、枢密顧問官の椅子をおしげもなく捨てて、政党の党首になる。
山県から請われれば、元帥たるものが平然と内務大臣と格下げにもなんともおもわぬ。普通の人間にはできないことを、かれはなんの抵抗も感ぜずにやっているのである。
そのために、抱腹絶倒のエピソードが、数多く残されている。
太政大臣三条実美の下で文部卿に就任したとき、なにごとを聞かれても、
「そのことなら田中(不二麿)大輔に話していただきたい。私は文部卿でなくて、文盲卿でござる」
といって、腹をかかえて笑っていたという。
明治十八年十二月、首相伊藤博文の下で、海軍大臣に就任し、翌年三月から七月まで大臣を兼務したが、このとき次官の吉田清成に、
「わしは農業や商売のことは、まるでわからんから、あんたの一存で、なんでもドンドンやって下さい」
といって、印判を渡し、自ら本省に出勤してこなかった。だから三ヵ月ばかりで、内務大臣山県有朋の兼務となってしまった。
山県内閣の内務大臣のとき、部下からなにを問われてもいっさい可否をいわず、聞き終わると、「なるほど」と答えるのみであったので、「なるほど大臣」『なるほど侯爵』の異名を与えられたという。
部下の意見をなるほど、なるほどといっていかにも関心ありそうにきく。≪聞き上手≫「器量が大きい」のである。
部下は自分の意見に熱心に聞いてくれたことで、西郷を敬い、さらに熱意をもって話す。ところが、西郷が結論を出す時は、それとは全く違った結論を出す。
意見は意見として聞くが、自分が正しいと思ったことについては、人の意見に左右されず敢然と結論を下した。それでも、人の恨みを買わなかった。このへんに彼の、周りから愛され、愛嬌のある、得な性分があった。
筆者の印象では明治以降、人物が年と共に小さくなっている。学歴を積むと同時に、学歴=自分はエライとうぬぼれる。部下から話を聞く場合にも「そんなことは知っているよ、もっといい話をもってこい」とあからさまに叱る上司もいる。
日本の明治に作った東大を頂点にする学歴偏重教育システム、これは中国の「科挙制度」と西欧流の教育システムをミックスして作ったものだが、役人になれば卒業成績が出世のエスカレート順に最後まで行くという旧制度なのである。
学校の成績は、多くが『暗記テスト』であり、「考える問題」のテストではない。リーダー、政治家に必要なのは『問題解決能力』であり、日々起きてくる複雑な問題、利害調整問題、外交交渉、戦争になった場合の勝つ実践能力などは、暗記、過去もののペーパーテストなどで、培われるものではない。
東大の成績表によって、順番にトップリーダーになっていく『間違いだらけの政治、官僚、軍人、教育システムが日本を昭和20年に滅ぼしたのである。
西郷従道の『無知の知』『大度量』『包容力』『人徳』こそリーダーに欠かせない器量であり、明治の発展のエンジンとなったのである。
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1868年(明治初年)、ヨーロッパを歴遊し、ロシアに行って、皇帝アレキサンドリアに謁見したとき、皇帝はかれに向かって、
「日本の軍人は、平生なにを好むのか」と問うた。かれは平然として答えていわく、
「やはりそれは、酒と女であります」
と。通訳官はどうも困ったが、仕方がなく、そのまま言上したところ、並みいるロシア大官の面々もさすがに呆然として表情で、かれを見つめたという。
★ 明治11年に特命全権公使となってイタリーを訪れた時、自らがホスト役になって夜会を開くことになった。ホストである以上、集まったゲストを前に何かスピーチをしなくてはならない。
ところが従道はろくに学問も修めていない身だから、外国語も出来ないし、また演説もあまり上手なかった。
そこで背後にいた通訳を呼んで「ヨカ頼む」と1言いって引き下った。そこで通訳は公使の意図を代弁し、とうとうと十数分間スピーチをした。それを見たイタリー人は「日本語というのはずいぶん深い意味があるものだ。たった1言が十数分間のスピーチに変わる」として感心したという。
いかにも豪傑西郷従道らしいエピソードだが、必ずしもこれは事実ではないらしい。なぜならイタリー公使に任命されたのは事実だが、イタリーへ赴任する前に彼は文部卿に任ぜられているから。
ただこういったエピソードが残っているというのも、それだけ彼の人柄が豪放磊落で人間的魅力に富んでいたからであろう。
国民協会の集会には、会頭として出席したが、いつも
「詳しいことは、品川(弥二郎)副会頭から申し上げる」
と、いうばかりで、主義や方針には、いっさい触れなかったという。
品川は演壇に立つと、いつもー長広舌をふるって長々とのべたが、それとはまるで正反対であった。品川はあるときこんなことを述べた。
「われわれの胸中には、一点の私利私欲もなく、ただ一意恵心、君国のために忠節をつくさんとする誠意だけでござる。されば万一、西郷会頭にして、謀反でも企てるようなことがあれば、直ちにその生首を取ってお目にかける。また、もしかく申し上げる品川にして、謀反でもやったら、むろんこの生首を差し上げるであろう」
これが有名な品川の「生首演説」だが、西郷はこの演説をよく引用して、
「私はお国のためなら、なんでもやります。しかし、品川君が側について、私が兄の真似で
もしようものなら、さっそく生首をとることになっているそうです」といって大笑していたという。
板垣退助が風俗改良運動を起こして、同倶楽部を創立し、自ら副総裁となり、西郷を総裁に推したとき、かれは平然としてこれを引きうけた。この二人は全国を遊説して回ったが、演説会ののちの懇親会において、板垣はなにか話したが、西郷はなにも語らず、
「演説はご免をこうむる。その代り、なにか座興をお目にかけよう」 といいつつ、いきなり服を脱いで、裸踊りをやりだした。板垣は、
「これではわが輩の風俗改良の演説が、直ぐ風俗壊乱の実例でぶちこわしになる」と怒り出し、結局、西郷総裁をやめさせたという。大隈重信はかれを評して、
「西郷従道は、一口にいうと、貧乏徳利のような人物だ。あの素朴な風貌で、なんでもござれと引きうける。貧乏徳利は、酒でも、酢でも、醤油でも、なにを入れても、ちゃんと納まるからな」と評したといわれる。
西郷はそういう脱俗な人間であったが、またそれと反対な面のあった。
軍部大臣は、官制によって陸海軍大中将が任ぜられたが、しかしそれは武職でなく、文職であって、任用資格として、武官と定められたものである。西郷はこれを知って、他の大臣はもちろんのこと、海軍大臣として登庁するときは、軍服を着ず、いつも背広服を着たという。
とにかく不思議な大人物であった。
つづく
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