『リーダーシップの日本近現代史』(32)記事再録/ 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』⑧日中韓はなぜ誤解、対立,衝突を重ねて戦争までエスカレートさせたのか』★『<日中韓のパーセプション【認識】ギャップ、歴史コミュニケーションギャップ、文化摩擦が発火点といなった>』
2019/09/13
日本リーダーパワー史(613)
<日中韓のパーセプション【認識】ギャップ、歴史コミュニケーションギャップ、文化摩擦が発火点といなった>
朝鮮半島は日本列島の横腹に突きつけられたヒ首(あいくち)のような存在である。朝鮮半島の安危はただちに日本の危機につながる。この地形学的な戦略的価値は昔も今も変わらない。
江戸時代約三世紀の東洋の安定は「パックス・シニカ(大清帝国)」のためである(岡崎久彦著「戦略的思考とは何か」)という指摘はまったくその通りである。清国の富強と絶対的優越によって東洋の安定と平和が保たれていた。しかし、アへン戦争(一八四〇-四二)によって清国の弱体が暴露されたが、なお依然として清国は巨大な帝国であった。富と底力を秘めていると信じられ、西欧列強は「眠れる獅子」として恐れられていた。この清朝の衰退の兆と軌を一にして、李氏朝鮮の国政もしだいに紊乱の度を加えてきた。
朝鮮半島の長い歴史を通じて見られる著しい特色が3つある。
- ①は官僚の土地支配による官人国家の体制が数百年続いていた。
- ②は強大な大陸国家(歴代中国)の武力に屈し、その影響力をもろに受けた。
- ③国家制度はもとより、経済、文化、宗教、生活のすべて姓氏まで模倣し、宗主国として「清」をたてまつり、自ら「小中華」と称していた。
李氏朝鮮の仁祖十五年(一六三七)、後金国(のちの清国)の侵略をうけ、降伏して臣礼をとってきた。
日本に対しては同じ儒教の国として友誼の交りを重ねてきた。豊臣氏を亡ぼした江戸幕府に対して旧怨を含むことなく、朝鮮通信使を派遣してきた。これは文字通り「信」を通ずる使者で、親交のためのものだった。「西に対しては礼を失することなく、東に対して義を失うことなかれ」という李王朝の伝統的な態度を示すもので、幕府も丁重に応接していた。
明治時代に入って清国の弱体化がすすみ、李氏朝鮮の国政もしだいに紊乱してきたことから、こうした300年にわたる平和な国際関係がギクシャクしたものになってきた。その上北方からロシアが、西南方からフランス、イギリス、ドイツが勢力を伸ばしてきたので、急に雲行きが怪しくなってきた。
李王朝の権力が低下すると共に官人の派閥抗争が激化し、その官人が親清派、親露派、親日派の3つ巴に分かれて各国の勢力を背景に流血の抗争をくり返すようになった。宮廷もまた陰謀、毒殺、抗争のるつぼとなり、国政はまったく顧みられなくなった。そのため官人の苛鍊誅求(かれんちゅうきゅう)によって貧窮のどん底に落ちた農民は絶望し、救いをキリスト教に求めるようになった。朝鮮でキリスト教が急激に増加したのはこのためである。
日中韓のパーセプション【認識】ギャップ、コミュニケーションギャップ、文化摩擦の背景
「中華思想のエスノセントイズム」を一言で結論づけれは、漢民族の伝統的信条である中華思想と朝鮮の両班(やんばん・知識階級)たちのもつ文化的優越感に由来する。
古代支那で発達した高い文化、宗教、思想、技術は、朝鮮半島を経由して日本に伝えられたことは誰でも知っている。
日本にとって、いわば支那は師父の国であり、朝鮮は文化の先輩にあたる。江戸時代に儒者が朝鮮を高く評価していたのはそのためである。
その古代支那人の問で芽生えたのが中華思想である。「中」とは世界の中心、「華」とはずば抜けて高い文化をさす。周辺の文化の低い未閑人を東夷(とうい)、北狄(ほくてき)、西戍(せいじゅう)、南蛮(なんばん)とし、我のみ中華の民なりと自負した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
日本はさしずめ東夷 つまり「東方の未開人」できわめて文化は低かった。
こうした文化的優越感は数千年の年月を経ても、明治時代の支那人(中国人)の間に脈うっていた。
清王朝は満洲人の帝国であるが漢文化に同化し、漢民族の高い文化的衿特をもって欧米人に対していた。アへン戦争で敗れた清国は条約を結んで外国使臣の北京駐在を認めたが、各国を清と対等の国として取り扱わず、
皇帝に謁見するのに三跪九叩頭(さんき、きゅうこうとう)の礼(三度床にひれ伏し九度床に頭をつける最敬の礼)
を外国使臣に強いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC
これは清国王に対する臣礼であるから、外国使臣は怒ってこれを拒否したため紛糾が絶えなかった。
1873年(明治六)三月、外務卿・副島種臣は日清修好条約の批准書交換と同治帝に大婚慶祝のため、自ら特命全権大使となり北京に赴いた。批准書の交換も終わり、さて同治帝に謁見し、祝文を奏することになった。
従来の「三跪九叩頭の礼」を固執する廷臣たちに対して、副島は豊かな漢学の素養をもって、その非を論破し、西欧間の外交慣習について説得したため、頑迷な廷臣たちもついに副島の説に服した。
以来、清国では外国の使臣に対して態度を改め、対等に扱い、各国から副島は感謝された。
日本リーダーパワー史(423)『日中韓150年対立史⑨「ニューヨーク・タイムズ」は中国が 侵略という「台湾出兵」をどう報道したか②
http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/1379.html
明治7年、日清修好条約により、柳原前光が特命公使として北京に赴任したが、清国から公使の派遣はなく、国交回復4年目の明治10年末になって、やっと派遣してきた。
といって清延の上下が日本を対等の国として認めたわけではない。翌七年、日清修好条約により、柳原前光が特命公使として北京に譜任したが、清国から公使を派遣して来なかった。国交が回復して四年目の明治10年末になって、ようやく何如璋(か じょしょう)が初代駐日公使として赴任した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E5%A6%82%E7%92%8B
この間、日清問に種々の問題も発生し、多数の華僑が神戸や横浜に移住していたのに、清国は使臣を派遣して来なかった。日本を小国として軽視していた証拠である。以来、明治二十七年八月まで約十七年間に六人の公使が着任した。
これらの駐日公使はほとんど学者で儒学の素養がふかく、また随員にも沢山の学者、文人がいて、日本の漢学者、洪詩人と親しく交わり尊敬されていた。しかし、第二代公使の黎庶昌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8E%E5%BA%B6%E6%98%8C
の外は、ほとんどが帰国して後、反日、攻日論を唱えている。
清国からみた反日、攻日論の理由
その理由とするところは、
- 日本は取るに足らない小さな島国で、人口も少なく体格も劣り、軍備も不充分である。
- さらに国内は不安定で、議会では政府と民党が激しく抗争をくり返し、政治は混乱して叛乱事件も起きている。
- 文物制度すべて上国(自国の尊称、清朝のこと)の模倣で、いわば文化的従属国にすぎない。
- 使用する文字はもとより、風俗習慣に至るまで一つとして上国に起源を有しないものはない。
- このように数千年来上国(中国)に学びながら、現在の政府に至り急に洋夷(西洋化)の風を尊び中国の恩に背こうとしている。
- よろしく事に托して師(戦争)を起こし、一挙に征(征服)してその罪を懲すべきである。わがままな子供に罰を与えることは慈父の務めである、
というのである。これらの攻日論、東征論は清延の上下、一般の風潮であった。
その中にあって、第二代公使・黎庶昌は通算約6年間、前後2回公使として来日している。黎は学者で大政治家曽国藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%9B%BD%E8%97%A9
の高弟で儒学の造詣深く、書に長じ、詩文もまた巧みであった。人となり高尚温雅で、日本の朝野と広く交わり心を開いて語ったので、黎の詩文の会には皆競うて参会した。
彼は年一回、後年は二回、公使の公館や料亭で日清の文人墨客を招いて詩文の会を催し、日支の親善を図り、その相唱和する詩文集を刊行して知人に分かった。その数、十数巻に及んだ。
実藤恵秀著『明治日支文化交渉』によると、
清国公使館が開設されて、かなり教養の高い学者、文化人が公使または随員として来日し、日本の漢学者、文人墨客と親交を重ねたことが、詳細に述べられている。
著者は早大で漢文学を専攻し、第二高等学院(旧制高校)教授として、漢文学を講じていた儒学者で、数多くの著述を残している。この中に第二代公使として来日し二、度にわたって長い間駐在した学者公使黎庶畠が、日支詩人の親睦会を定期的に開いて、親交を重ねたことがくわしく述べられている。
その頃の日本の漢学者、文人は本場から来た学者、文化人を尊敬すること篤く、その「断簡零」墨すら宝物のように珍重した。したがって清国公使館から招かれることを無上の光栄とし、競うて参会し、その墨蹟を請うたのである。黎公使の主催する親睦会には実に数多くの日本の知名人が参会しており、漢学者では三島毅、重野安樺、副島種臣、中村正直、政界、官界からは三条実美、勝海舟、谷干城、柳原前光、軍人として川村純義、中牟田倉之助の名もある。
そのうち特に私が注目したのは、明治天皇侍講の元田 永孚(もとだ ながさね)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A
がしばしばこの会合に出席し、即や連句を作っている。明治二十三年の年末には黎庶昌は任期満ちて帰国することになった。別れを惜しんだ日本の漢学者や文人たちは九月から十二月まで、各グループごとに料亭に黎庶昌を招き惜別の宴を張った。
その回数も七回に及んでいる。十月二十六日の送別宴には元田 永孚も出ているが、他に副島種臣、谷干城、宮島菓香、勝海舟等の名がある。この日はこれらの人々が黎を招待したのである。黎はこの日「友を求むるの嚶鳴(おうめい)争ひて谷を出で」(嚶鳴とは烏が仲良く鳴き交すこと)と、日清両国の詩人が相唱和している状を賦している。
明治二十四年二月、黎が任満ちて帰国するのを聞かれた明治天皇は、日清親善に尽した功績を嘉せられ、勲一等旭日大綬章を賜い、記念に御写真一葉と宋代の書家賀知章の法帖(名筆の石拓を石摺にした拓本)を贈り、長年にわたるその功を質された。
黎は日本を深く知り、日本の文化や伝統をよく理解している稀有の外交官であった。帰国して重慶府の道台(知事)になった。しかし・日清の関係がしだいに険悪となり、清宮延の上下に東征論が高くなったのを見て、日本人の愛国心をよく理解し、日本の実力、底力を知悉している黎は、憂慮の未、日本を小国として侮るの誤りを論じ、日本と戦うべからずと二度にわたって熱烈な上奏文を上った。
しかし、清廷は一顧だにしなかったので、黎は心痛の極み、ついに発狂してしまった。部下は黎を故郷の貴州に伴い療養せしめたが、二年後、失意のうちに没した。遺著に『拙尊園叢稿』六巻がある(実藤恵秀著「明治日支文化交渉」一〇六頁)。
さて、この黎庶昌のような非戦論者が清延の上下に多数居れば、清延の風向きも変わったであろうが、
残念ながら活眼の士は誠に少なく、上下滔々としてこの際、小国日本を懲すべしの声が圧倒的であった。
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