日本風狂人列伝(32)日本奇人100選③、熊谷守一、宮崎 滔天、黒岩涙香、和田垣謙三、三田平凡寺、青柳有美、坂本紅蓮洞・・・・
日本風狂人列伝(32)
日本奇人100選③、熊谷守一、宮崎 滔天、黒岩 涙香、
和田垣謙三、三田平凡寺、青柳有美、登張竹風、坂本紅蓮洞・・・・
前坂 俊之(ジャーナリスト)
仙人画家の熊谷守一(くまがい・もりかず)
モンペは一九〇九年名作「蝋燭」(ろうそく)を残して木曽山中に閉じこもり木樵(きこり)になっていた頃からの伝統。トウモロコシの長いパイプも同じ。美校時代に日暮里踏切で轢死人があった所へ通りかかり、交番に届もせず「心不乱」に写生、駈けつけけた巡査のカンテラまで描いて写実精神を賞讃された。
再度、上京の時には昼間は雨戸を閉めて寝てばかりで〝閉戸画伯″とアダ名され、気が向けば友人を訪うて時計の修繕をしてやったり、寡作で貧乏しているくせに、援助を受けず「着物は四肢を包む風呂敷、飯は尻へ抜ける肥料」と豪語したのは虚報らしいが、「深夜独り鏡に向って、自分の顔を写していると、キリストの顔にも匹敵する、その美しさに打たれる」と有島生馬に語ったというから、とにかく夜棲類の筆頭。七十歳〔一八八〇~一九七七〕
「〔家の傷みを直すのを嫌がるのはなぜときかれて〕今あるものがこわれて、様子がよくな
ってんでしょう。これを直したら何もなくなっちゃう。そこに縁側の出っぼりがあるでしょう。この前、そこを踏んだらグシャッと折れたんですわね」
「〔なぜ文化勲章を辞退したのかときかれて〕わたしは、袴ってぇものが嫌いなんですよ。子供のころからきれいな着物を着せられるのがイヤなんです。無理に着せられると、泥のうえにころがって、わざと着物を汚したりした。腹が立ってしょうがないんですから。中学校のころに、底がはがれるまで靴をはきつぶしたんです。そうすると、歩くたんびに、バッタバッタ……。それが面白くてねえ、嬉しくて仕方なかった」(週刊文春一九七五年一〇月一六日号)
宮崎 滔天(みやざき・とうてん)
祖伝の田畑を売り払い「革命のために使う金はあるが家族に費す金はない」と号して、清朝覆滅に奔走、成らず、憂さ晴らしにもなる」と桃中軒雲右衛門に弟子入り、桃中社
牛右衛門と名乗って前座を相勤め、一方中国留学生の団結、黄輿の広東一揆などを助け孫文に「現代の侠客」と評された。一九二二年没、五十三歳。
黒岩 涙香(くろいわ・るいこう)
練馬大根を研究しては泥まみれになり、記紀を五年間研究して武士道を唱え、土佐犬を愛し、角力を奨励して国技館を命名、馬匹改良と都々逸の普及にっくし、玉突と歌留多と連珠と算盤に長じた当年の万能選手。一九一八年洋行、パリのホテル・デ・ビレを眺め「あの大きなホテルに泊ろう」「いえあれは市役所……」です。そこ猛烈に憤慨「これからフランス語をやる!」と宣言したが果たさず、一九二〇年没、五十九歳。
「『万朝報の記者は物ができるよりも、熱誠があればよいのです』 とは先生が私どもに
遺されたモットであった。万朝報社の創業時から、先生の幕下に馳せ参じた者は、ほとんどことごとくといってもよいほどの『憎まれ者』 であった。何の社会に行っても容れられない、嫌われたり摸斥(ひんせき)されたりした者を特に愛され、重く用いられた。と
いうのは、圭角の取れない、敵の多い、仕事のできる、熱誠の人物を先生は求めてやまなかったからである」
(渡辺貴知郎「涙香黒岩周六先生」雄弁一九二一年一〇月号)
和田垣 謙三(わだがき・けんぞう、東大教授)
英語の試験に「お前一人か連れ衆はないか……」を出し、採点には階段から落した答案に
遠くの方から順を付けるんだろうと邪推された東大教授。義太夫、謡曲の英訳や実演やで時間を潰すのが有名だったが一日「我輩を法学博士にしておくのは経済上国家の損失だ」と自慢、生徒は「この三年間に初めて経済論を聞いた」と欣喜雀躍した由。晩年は生活も楽で、駄酒落も少く、一九一九年年、五十六歳。
「法学博士和田垣謙三氏はすこぶる好話柄を有する人である。ここにその二三を紹介する。かってパリ会に出席し、その席上で一首詠んだ「集ひ(つど)給(たま)へるはパリー仕込の巴里ッ子はりこ 虎と品が違うぞ」春光駘蕩の候、墨堤のボートレースと小金井の観桜会が同日で、はたと困ッた時詠んだ、『桜どき船漕ぐもよしこがねいもよし』日糖事件の起った時『義も虫がつくと砂糖をなめたがり』博覧会で観覧車を見て詠んだ『かんらん車運が無ければから車』欧行の途中インド洋では『あつくともよもやから日はくさるまじ今日もしは風呂あすもしは風呂』(「噂の人橋 和田垣博士」雄弁一九一七年六月号)
平凡寺(へいぼんじ、1876-1960、稀代の蒐集家)
変態趣味の1人。1912年ご自宅の一室を趣味平凡寺とな蛮族の首台、ドクロ、陰陽神、幽霊の軸物などを集め、求めに応じて息災延命の守札を発行。
聾で筆談しながら本妻と妾を同居させて、家庭争議も起さずカエルばかり集める蛙宝堂、ミミズクの凡能寺、木魚の文珠寺、羽子板の童楽寺などの末寺は、震災直前に三十三社を数えた。色道に造詣深く、天寿百二十五歳説を持して泉岳寺傍に健在。本名三田知空。
野田大塊(のだ・たいかい)
福岡県出身。身長六尺体重三十大貫頭髪十数本、胡坐をかいた鼻の上にベッコウ線の眼鏡、
折目乱れた羽織袴に靴をはいて、いつも十七文字を並べ「政客中の宗匠」と評されたが、豆腐屋の子に生れ、口癖に「それもソウバッテンが理屈のようばかりにもならんけんのう」を連発七ながら,1916年、逓相にまでなったのは芸が身を助けた一例であろうか。
主義としてー汁二采、麦飯。一九二七年没、七十五歳、本名卯太郎。
坂本 紅蓮洞(さかもと・ぐれんどう)
高知県出身。ドゥスル連の名物男。慶応卒業の時には学界に嘱目された数学の天才という
のは伝説。失恋から酒に走り、教員、記者を転々、与謝野鉄幹、桂月らと親しく、紺がすりの筒袖でどこへでも顔を出し、誰を捕まえても「オメェォメエ」と親しげに名士のコキオロシを聞かせ、知人をせびり歩いて一生飲むには困らずただ食うに困ったという。昭和の平野零児と同じ型。一九二五年没、本名易徳。
「彼は六無斎ではないが、年五十にたらんとして未だ家もなくまた妻もない。仕事もなく銭もない。劇壇文壇を通じてグレさんの名を知らない者はないが、親戚朋友といえどもグレさんの宿所を知るものはない。その行くや水のごとく、そのとどまるや雲のごとし。漂々然として、その居る処つねに不定、きのうは浅草に泊し、今日は小石川に眠る。気の向いた時に起臥し足の向いた方へ動く。囚われざる生活とはこのことだ。
ついこのあいだも某雑誌社で、ワイセツ文学撲滅号を出そうという計画を立てた。そこで
遊蕩文学撲滅主義者たるグレさんをその参謀長に上げようとしたが誰に聞いてもその住所がわからない。よって新聞広告でもしてグレさんを探そうかと言っているという噂が、読売新聞の豆鉛筆に出たくらいである」
(生方敏郎「文壇名物男」日本一九一七年四月号)
国分青涯(こくぶ・せいがい)
司法省法学校在学中大久保利通暗殺の嫌疑をかけられ、原敬らとともに退学、朝野、日本各新聞に拠って日本主義を唱えた感詩人。珍書を借りて決して返さない(被害者は陸掲南、松平康邦ら)のと碁好きが有名。盤を挟んで徹夜連続に悲鳴をあげた山田天南夫人が「もう油がなくなって」と追い出しを試みたら、懐から百目ロウソクを取出して平然とまた徹夜したとか。後芸術院会員。一九四四年没、八十八歳。
竿 忠(さおちゅう)
三代日東作、竿治と並んで明治釣竿師の三名人と称された喧嘩早い男。竹竿優秀を唱えて
農商務省に怒鳴り込み、一九〇〇年、パリ博覧会に出品して銀牌。流しの新内が気に入って着たきりの絆纏を曲げた金をみな与え、まだ皇太子の大正帝に「竿の先生だ、ほめてやれ」と言われて感涙にむせび、大震災三日目から焼けトタンに青竹を並べて竿を作った名人気質最後の一人。一九三〇年没、六十七歳。本名中根忠吉。
添田 唖坤坊(そえだ・あぜんぼう)
江戸に生れ、家を飛出し、土方から、壮士節を歌い歩いてトコトットのラッパ節、袴さらさらホワイトリボンのむらさき節からストトン節、アーノンキだねに至るまで作詞数知れぬ演歌師の大本家。
「茶太郎新聞事務所」と看板をかけていた。薯災後演歌道衰頚に憤り、某稲荷境内に天龍居精神修養会を起し、松葉を常食して半仙生活を送り、霊波療法を施し、晩年屑屋もやって「九四四年窄七十三歳。本名平吉。
望月軍四郎(もちづき・ぐんしろう)
静岡県出身。小僧から叩き上げた株界の握り屋。洋行してから急に教育に意を用い育英資
金などに前後二百余万円を投じた。平常紙クズ二枚でもみずからシワを伸ばして保存する倹約家で、自動車より市電を好み、年中黒か紺の背広でツギだらけの靴下をはき、子供にも半から米を常食させたという。一九二〇年のガラで一挙一千万円を儲け兜町の飛将軍と称され、後株をやめ諸重役を兼ね一九四〇年没、六十二歳。
登張竹風(とばり・ちくふう)
広島県出身。「婦系図」の主税の先生のモデル。ニイチエの紹介者としてよりは酒の方が名
高く、佐々醒雪と二人講演に行く途中で泥酔し「ササヨウテダメ トバリ」と電報したなどの珍聞多い。
中大の講師時代学生に向い「諸君どうやって寝ます」「大の字になって」「それはいかん、大の字は女子のこと、男子はすべからく太の字で」と気焔を挙げ、「太の字」のア
ダ名をもらった由。独和辞典編纂者。七十七歳〔一八七三~一九五五〕
上野山清貢(うえのやま・せいこう)
代用教員から太平洋画会に入りもっぱら魚と牛をゴーギャンぼりに描いていたころ、作家素木しず子と恋愛結婚、妻がカリエスで両脚を切り先立たれてから悲嘆に暮れて、遺児を負い銀座のカフェを流していた自称〝ルンペン画家″、のち広田弘毅に洋行費を出してもらってみな飲んでしまい生れ故郷の北海道に帰ってアイヌと同居、シラミに食われてもチフスに躍らず北海画壇の雄となった。五十九歳。
青柳有美(あおやぎ・ゆうび)
秋田県出身。同志社を出て女学校教師を勤めながら女性崇拝論文をものし、新聞記者に転
向。野依秀市の下で雑誌「女の世界」を安成二郎、羽太鋭二らと発刊、梅原北明に先立った斯界の雄。のち会社員をやり小林一三に拾われて東宝劇場で案内係となり、幕が下りるごとに客席に立ち上り、大音声で「ありがとうございました、またどうぞ」とまったく誠心誠意どなっていた。戦前有楽町の名物爺さん。
「放浪の生活を続けるうちに〔青柳の〕変調な個性は、いよいよ社会から明確に認めら
れ、氏みずからもまたこれを甘受した。そしてこの変調な畸形児という裏面には、猛烈な恋愛をする人という意味が絶えず周囲を刺戟した、女に接すればただちに性欲の遂行をあえてする、言わば一種の色魔か、風俗壊乱児のように思われていた。そして女性に関する所説や著作物が出るたびごとにますますこの感を深からしめた。
ちかごろ、文学美術ないし一般芸術の上に、女性というものが多大の流行をきたし、とりわけ芸妓とか舞妓は創作の内にも劇の中にもなくてならぬ世となり、芸妓論なるものがしきりに行わるるに至った。しかしこれは衣裳の流行や、モロモットの流行するように時候や人気の加減から来たものでない、これあるべき芸術上の要求に伴なっているのである。この芸妓論は作今すこぶる新しい問題のごとくに担ぎ回るけれども、これを我国でもっとも早く唱えたものは有美氏
その人である。そしてその所説は昔の戯作者が書きなぐった時代ものとは趣のちがう学術的なものであった、けれども不幸にしてその所説は文壇から公認されずに過ぎてしまった。すなわち時期が早すぎたのである」
(辛四雨生「青柳有美論」新小説一九一三年二月号)
武林 無想庵(たけばやし・むそうあん)
どだい生活そのものが気に人らぬ、生きていることが苦痛で、それで飢渇に追われる -
デスぺラNO1。酔っては業病で誰も近寄らぬ生田長江にキスしたり、パリでピストル事件のあと文子夫人と別れ、娘イヴォンヌは一九三七年、服毒自殺を企てるなど一世に話題をまいた反社会的「コスモポリタン」。父は放らつの祖父を嫌って家出した家系。付属中で小山内薫と同級。一高、東大卒。七十一歳〔一八八〇~一九五八〕
中西 悟堂(なかにし・ごどう)
金沢生れの孤児(父を日清戦で失い、母は悲嘆のあまり失踪)。山伏に養われ秩父の山中で水火の修験道をおさめ、巷に出て天台、曹洞の学林に学び、別子銅山の説教師もやった元住職、佐藤惣之助らと新心霊主義なる詩派を起し、「武蔵野」「花巡礼」などの詩集を出し大震災以後は烏に擬って御蔵島はじめ諸方にテント生活を続けて時にはブラインドを負うて二日も一所に立ちつくすという。78歳〔一八九五~一九八四〕
愚 朗(ぐろう)
「上野動物園裏 グロテスク様」と上書すれば必ず郵便屋が届けてくれる隠れもない変人で、「中等洋服店」の看板を掲げて、昔なら百円以上(今の五万円以上)の服だけ、それも気の向いた相手にしか作らず、背中のないチョッキなどを考案し〝未来派″と自称して悦に入ってた。最近は上野の山の土で陶器を焼いて定説を覆したほか和時計三百を集めて日本一を自負している。五十八歳。本名上口作次
(「アサヒグラフ」一九五一年六月十三日号)
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