前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本面白人列伝(36) 大正時代の不良少年NO1はサトウハチローだよ

   

 
日本面白人列伝(36)
大正時代の不良少年NO1はサトウハチローだよ
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
サトウ・ハチロー。1903-1973。本名佐藤八郎。詩人。東京生まれ。大正の作家佐藤紅緑の長男で昭和を代表する童謡詩人。中学時代、不良少年として放校、転校をくり返し、十五歳で西条八十の門下生となり、童謡を研究。終戦直後のヒット曲「リンゴの歌」の作詞者、歌謡曲のヒット曲を数多く作詞。詩集「おかあさん」は一大ベストセラーとなった。
日本童謡協会会長。
 
 
サトウ・ハチローは学校で三回も落第した………「頭のいい、勉強のできるヤツは、授業をわざわざ聞きに学校に行かない。だから落第する。スンナリ進級するヤツはバカで勉強のできないヤツばかりだから、学校に行かざるを得ない」との名(迷)言)をのこしている。
 
 童心にあふれた純情詩人として知られたサトウ・ハチローは大正時代の不良少年ナンバーワン。父親は大正の有名な小説家、佐藤紅緑であり、二十歳以上離れた妹は作家の佐藤愛子である。
 
 ハチローは手がつけられない不良少年だった。転校十一回、落第三回、父親から勘当されること十七回に及んだ。ひどい時には一日二回勘当された。
 
 朝のうちに父親のゲキリンにふれ「勘当だ!」と宣言され、荷物をまとめているうち、小便がしたくなったので、庭へ出てジャージャーやっていると、二階からそれを見つけた親父が再びドナった。
 
 「お前のような不謹慎なヤツは勘当だ」
 父親の紅線は、朝のうちに息子を勘当したのを、すっかり忘れていたのである。
 
 ハチローは硬派のバンカラな学生だった。学校のヘイに穴をあけて、生徒が出入りできるようにしたり、巡査の帽子をひったくって川へ捨てたり、ケンカをふっかけたりして、権力へやたらに反発していた。
 
 東京の旧市内にあった三十数カ所の警察署のうち、鳥居坂署と日本堤署の留置場以外はすべてぶち込まれた。
 
 鳥居坂署が新築された時、友人が留置場は西洋式だというので入りたくなり、同署近くにいた巡査にからんで大暴れした。他の警察署はすべて日本式の留置場であった。
 早速、拘引ということになり、シメタと思っていると、その巡査は神楽坂署員で、いきつけの神楽坂署へ運行された。
 「いやだよ。俺は鳥居坂署へ入りたいんだ」とドナったが、もうおそかった。
 結局、鳥居坂署へは入れずじまいだった。
 
 サトウハチローがUFO、おばけ研究家・平野威馬雄と知り合ったのはハチローが十四歳、平野が十六歳の頃だった。二人は伸が良く、いつも一緒に遊んでいた。
 
 ある時、イタズラ好きのハチローは母親に頼んで、マントの裏にポケットを十個ほど作ってもらった。ハチローの友人に乾物屋の息子がおり、そこによくご馳走になりに行っていたが、その時にこのマントを着ていき、カンヅメやお菓子をポケットに隠して、かっぱらってきては、「おい、イマさん持って来たよ」と重そうにマントを脱ぎ、手品師のように盗んだ品物をごっそりあけた。
 
 ハチロー、威馬雄が二十歳前で詩人ぶっていた頃、北原白秋から招待状が舞い込んだ。白秋は小田原に〝づくの家″という詩のスタジオを持っており、そこでパーティが開かれた。
 会が終わり、二次会に二人とも呼ばれたが、白秋は酔っていたのか、二人にいきなり『チンポコを出せ』と命じた。大詩人の前なので、二人は恐る恐る暗いところで応ずると、白秋は〝ビュー〟と引っぱって、チンポコに墨で詩を書いた。
「煙よ、煙よ、空まで いぶせ 煙」
 
 細かい字で同じものを書いて「お湯に入っても消すな、消さなければ色紙をやる」と言った。 二人はチンポコにタオルを巻き消えないようにして、風呂に入ったが、アッという間に消えてしまった。 
ハチローの童心を感じさせる行為の一つ。犬に吠えられた時はこちらも犬の恰好をして、四つんばいになってほえると、犬の方が驚いて逃げていく-とか。
 
 ハチローはテンプラ学生(ニセ学生)の常習犯でもあった。家でピアノをひき、詩を作って遊びながら、当時の東京芸術学校(今の芸大)のテンプラ学生になり、毎日学校に行っては絵播きのタマゴやモデルと一緒に遊んでいた。
 
 小づかいかせぎのため、東大のニセ学生にもなった。新学期には帝大生として大学に行き、新入生をつかまえては謄写版の本を売りつけたりして、金をかせぎ、ずいぶんもうけた。ハチローの落第論がふるっている。
 
 『頭のいい、勉強のできるヤツは、授業をわざわざ聞きに学校に行かない。だから落第する。スンナリ進級するヤツはバカで勉強のできないヤツばかりだから、学校に行かざるを得ない。「今は落第生を敬遠する企業もあるが、バカばかり採用しているんだね」と。
 
 

 - 人物研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑦』-服部宇之吉著『北京龍城日記』(大正15年)より③」★『中華思想対西欧キリスト教思想の文明の衝突』★『自由、平等、人権、博愛精神の西欧思想が中国人には全く理解できずパーセプションギャップ(認識ギャップ)、コミュニケーションギャップが疑惑を増幅し戦争になった』

  明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑦』 支那(中国)人の脳中に …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(124)/記事再録★『終戦・敗戦で自決した軍人は一体何人いたのかーガラパゴス日本『死に至る病』★『東京裁判ではA級戦犯の死刑はわずか7人、BC級裁判では何と937人にものぼり、下のものに圧倒的に重罰の裁判となり、「復讐の裁判」との批判を浴びた』★『『日本軍人と降伏』【徳富蘇峰)』★『『戦陣訓』で、捕虜になるより自決を強制した東条英機の自殺失敗のお粗末、無責任』

    2015/03/22 &nbsp …

『Z世代のための百歳女性学入門③」★『ギネス天女姉妹からの応援メッセージ』★『蟹江ぎん(108)、きん(107)さんの元気長寿10ヵ条など』

  2011/06/27  百歳学入門(26) 記 …

『世界漫遊/ヨーロッパ・パリ美術館ぶらり散歩』★『ピカソ美術館編」(5/3日)⑥『「ピカソはオルガ・コクローヴァーの完璧な無表情と平静さを湛えた美しさを数多く肖像画に描いている』

  ‏  2015/06/01  『F国 …

「オンライン・日本史決定的瞬間講座①」★「日本史最大の国難をわずか4ヵ月で解決した救国のスーパートップリーダーとは誰でしょうか?」★『答えは・・◎〇●〇◎ですよ、知ってる人は誰もいない!よ」

   昭和天皇の「聖断」を演出した鈴木貫太郎首相の「玄黙」戦略とは何か …

no image
近現代史の復習問題/記事再録/日本リーダーパワー史(82)尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかーその原因は封建思想の奴隷根性」

日本リーダーパワー史(82)尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかーその原因は封建思 …

『Z世代への日本リーダーパワー史』『 決定的瞬間における決断突破力の研究 ②』★『 帝国ホテル・犬丸徹三は関東大震災でどう対応したか②』★『関東大震災でびくともしなかった帝国ホテルの建築』★『焼失した各国大使館、各メディアは帝国ホテルに避難して世界に大震災の情報を送り続けた』★『フランク・ロイド・ライトは世界的な名声を得た』

犬丸は語る。 「最初の晩は、火事が心配であった。次の夜は、暴徒の侵入が恐ろしかっ …

「Z世代のための『人生/晩節』に輝いた偉人伝』★『住友財閥の中興の祖『幽翁』伊庭貞剛の日本一見事な引き際、晩晴学③』★『人を使うには4つのしばりつけに注意すべきだ★『 リーダーは『熟慮・祈念・放下・断行』せよ』

2019/11/20  /『 リーダーシップの日本近現代史』 …

 日本リーダーパワー史(822)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェン㊲『日本史決定的瞬間の児玉源太郎の決断力⑨』★『『児玉の危機突破力の3番目は開戦論に反対の伊藤博文元老の説得である。』●『『児玉の4番目の戦略は、開戦時から戦争の終結、講和の引き際を考える』

   日本リーダーパワー史(822)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利 …

「オンライン・日本史決定的瞬間講座⑧」★「日本史最大の国難・太平洋戦争敗戦からGHQ「日本占領」と「単独講和」を乗り越えて戦後日本の基礎を築いた吉田茂首相の<国難逆転突破力>③』★『ダレス米国務長官の強硬な再軍備要求を断固拒否した吉田茂のリーダーシップ・外交術を学べ(田中角栄の証言)』

   2016/02/1/日本リーダーパワー史(662)記事 …