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日本リーダーパワー史(54)辛亥革命百年③『日本は覇道から王道をめざせ』と忠告した孫文②

      2016/07/23

辛亥革命百年―『日本は覇道から王道をめざせ』と忠告した孫文
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
来年(2011年10月10日)は現代中国の発端となった辛亥革命からちょうど100年を迎える。<孫文と支えた日本人~知られざる辛亥革命の志士 梅屋庄吉>については、この欄でも紹介したが、梅屋についてはさらに引き続き研究レポートを掲載する。今回紹介するのは宮崎 滔天(みやざきとうてん)である。
日本に亡命してきた孫文を献身的に支え、応援し、梅屋ともども辛亥革命の成功に導いた影の功労者は宮崎滔天である。米国に在住していた華僑や海外の同胞による資金援助、バックアップも大きいものがあったが、それ以上に10年に及んだ孫文の日本での亡命生活によって、日本が孫文の最大の革命拠点になっていたことを忘れてはいけない。
中国本土での孫文記念館や中国共産党の歴史記念館を見学しても、孫文をたすけた日本人への言及は多くない。というよりも、その後の日中間の不幸な歴史のねじれ現象によって、中国圧迫、侵略の歴史の方がどうしても強調されがちである。確かに侵略したことは間違いないのでこの点もやむを得ない面もあるが、一列強のアジア侵略を中国の革命家・孫文やインド、ベトナム、フィリピンらアジア各国の独立革命家と手をたずさえ阻止しようとする「大アジア主義者」の日本人たちがいたこともまた事実であり、日本人さえこのことをよく知っていない。
21世紀の超大国中国と日本が提携して「チャパン」となって、韓国、台湾などとも「東アジア共同体」をめざす必要こそ、日本の国家戦略として、志向すべき1つの方向ではないか。かつて、宮崎滔天はそのことを望み、すべてをなげうって孫文を助けた。
ここで紹介するのは、宮崎滔天の息子・竜介(1892―1971)による『孫文回想記』である。(昭和41年11月12日、朝日新聞講堂でおこなわれた孫文先生生誕100年記念講演の抜粋です)「現代中国と孫文思想(」岩村三千夫編 講談社昭和42年刊に掲載)
 
「孫 文 回 想」()
(宮崎 龍介 弁護士)
孫文の時代でも蒋介石の時代でも、中国側の政権はまだ充分固まっていないのに、日本に眼の開いた政治家が居て、こちらから呼びかけて、しかも幾多の困難があっても、それを乗り越えて、日中問題を解決しょうとしたのであります。今日もし桂や近衛のような人、また秋山のような智略の人が居たとしたら、必ずや毛沢東の中国を相手にして、日中間の問題はもちろんのこと、全アジアの問題に、眼のさめるような対策をうちたててくれただろうと思うのであります。私は時折り政治家と自称する人たちに、こうした話をしてみるのでありますが、なかなか乗ってくれない。
今の政治家は、ソロバンに乗らない話には耳を貸しません。今の日本の大方の政治家や実業家の問には、毛沢東と手を握ると、日本が赤くなると云う考えがあります。考えているばかりではありません。さように広言して居ります。また国民の間にも、こうした考えの人が少くないのです。
つまり毛沢東は赤だ、共産党の政府と交わると日本が赤くなると、まじめにこわがっているのであります。赤鬼をこわがって逃げている。だがこれはちょうど、山県有朋が北京に共和政府ができると、日本の国体を危くすると云って、孫文から逃げたのと同工異曲、少しも変りがないのであります。
日本は孫文をまま子扱いにしてとうとう大東亜戦争まで行ってしまった。アメリカに同調して、毛沢東を継子扱いしていると、やがては第三次大戦に突っこむかもしれません。われわれは時々、過去の事実を、ふり返って考えて見る必要があるのではないでしょうか。
中国に共和政府ができたから、また中国に共産政府ができたから、日本の国体が危くなる。そんな馬鹿げた理屈はないでしょう。皇室があるとかないとか、あるいは赤くなるとかならないとか、そういうことは、こちらの事で、向う河岸のことではない筈です。如何なる場合でも自分を見失ってはいけません。自分を見失っているからそんなことを考えるのです。
幽霊を見て恐れているのと同様ではありませんか。自分で自分を恐がっている。幽霊なんか居ない。けれども、幽霊だ幽霊だといって、自分が幽霊を作って恐がっている。ノイローゼになっている。まことに残念なことです。赤くなるか赤くならないかは、こちらの問題です。
こちらに赤くなる要素があればなりますよ。病気と同じです。肺病のバイ菌はそこら中におります。この部屋の中にもいっぱいおります。しかしみなさんは肺病にならない。それはみなさんが建康だからである。赤の中に入ろうが、黒の中へ入ろうが、その色に染まないほど健康なら絶対に安全でしょう。そのくらい健康な国に日本をつくり上げるのが、ほんとうの政治ではないでしょうか。
他国のことを恐がるのは、自分に自信がない、体質が弱いことを表白しているのです。それこそが不健康な証拠ですよ。
 例えばベトナムの戦争のことを考えて見ましょうか。今晩の話題から少しはずれますけれども。とにかくベトナム戦争は、私の見るところではなかなか終りそうにない。アメリカは最近タイ国に沢山の金をつぎ込んで、基地を作っています。南ベトナム以上のものを作っているようです。いったい何のために、タイ国に基地を作るんでしょうか。これはもちろん、アメリカの東南アジア支配を確乎たるものにする手段ですが、これによって、西太平洋への共産主義の進出をくいとめて巻き返し、ドルの世界支配を強化しようとするねらいなのであります。そのためには武力を行使する。そして後進民族の生存を侵害し、生命を奪ってもかまわないと云うやり方。これは即ち、帝国主義者のやり方なのであります。大東亜戦も、やはり帝国主義的な侵略だったわけですが、あれは自分のことだったので、よくわからずじまいになった人もありましたが、東南アジァでアメリカがやっていることは、他人のことで、客観的に観察ができる。
みなさんあれが典型的な帝国主義なんです。アメリカが今やっていることを見れば、帝国主義というものは、ああいうものだということがはっきりわかりますね。帝国主義というやつは、自己矛盾のために自己崩壊を起すまでは進行を続ける性質をもっておりまして、これはチフスとよく似ております。
 そこで、みなさんといっしょにこの間題を私は考えてみたい。
 日本にアメリカの軍事基地があることは、みなさんご承知の通りですが、その外、アメリカは日本にベトナム向けの色々の特需品を作らせておるし、飛行機の修繕や、傷病兵の治療もやっている。また韓国、台湾、フィリピン、南ベトナム、タイと、それぞれ基地をもっていて、共産圏を東から包んで、北から南へ、万里の長城を築いているのであります。ところがその中で、南ベトナムの基地が、アメリカの計画通りに、確実なものになっていない。
これがアメリカの頭痛のたねなのであります。ベトナムに完全な防壁ができないと、万里の長城が完壁なものにならない。どこか一カ所でも穴が開いていると、いわゆる蟻の一穴、そこから万里の長城はくずれる。ですからベトナムからアメリカはどうしても手を引こうとしないのであります。
極東に於けるアメリカの防壁のうち、日本は北の拠点となっております。秦の始皇帝が築いた万里の長城にあてはめると、日本は山海関に当る。これは最も重要な拠点であります。
そればかりではありません。大戦争にでもなれば、日本は工業能力において、人的資源に於て、底力をもっておる。これにアメリカは多大の期待をかけているのであります。
そこでです。日本が強くアメリカの極東政策を批判して、戦争や侵略はご免だ。あなたの防壁になりませんよと宣言したら、どんなことになるでしょう。さしずめ、アメリカの万里の長城計画はくずれるし、ひいては、中国やソ連に対する武闘方策に、一大打撃を与えることになるのではありますまいか。即ち日本は、アメリカの極東政策を転換せしむる大きな鍵を持っているのであります。
現に日本はこの潜在的威力を持っているにもかかわらず、日本の政府も政治家も、この威力ある鍵を以て、平和の扉を開こうとしない。云うならば、日本はアメリカに対して、生殺与奪の力を持っているのでありますから、日本政府の外交は、この力をフルに活用する必要がある。もし政府がやらないなら、われわれ国民の手で、これをやらねばならぬ。この抗生物質で、あばれているチフス菌を、絶滅する必要があるのであります。
みなさん、私のこのような発言を、誇大妄想などと一笑に付されてはこまります。私は今こそ日本の国策が、この方向に向って直進する最良の機会だと思っているのであります。
 かつて父滔天が中国革命に狂奔していた頃、彼と最も親しくしていた友人等までが、滔天を革命狂と言って変人扱いにしていたのでした。辛亥革命の前年、即ち明治四十三年の夏、ハワイから、令兄の孫徳彰といっしょに、孫文が、私共が住んでいた小石川原町の寓居に突然やって来た時など、だれも孫文のために力を貸す者はいない。革命のために地下活動をやっていた中国人同志たちの間では、あれこれ秘密の往来がありましたが、日本人の由では誰も援助の手をさしのべて呉れるものはありませんでした。
十日間ばかりして、清国公使館にかぎつけられ、日本政府から退去命令が出たものですから、孫文兄弟は元の新橋駅、今の汐留駅から香港へ向けて淋しく旅立ってゆきました。私共一家は新橋駅まで見送って、泣きの涙で別れたのでした。
その時私は旧制中学の五年生でした。それからわずか一年有半、明治四十四年十月には、武昌に革命の旗があがり、その年の十二月末に、孫文は革命政府の臨時大総統に就任したのでした。
革命の前年、孫文兄弟が小石川原町の寓居にやって来た頃の私共一家の家計は貧乏のドン底でした。母と私の妹はミシンを借りて、海軍服の内職をしていましたし、私と弟は中学生でしたが、ほとんど毎月、月謝未納で掲示される始末でした。
それで私と弟とは相談の結果、新聞配達をやって月謝稼ぎをやろうと言うことになり、指ケ谷町にある新聞売店に行って、就職を申込んだのです。だがそれを殊にかぎつけられ、母から、月謝位は稼いでやるからしっかり勉強するんだと叱られ、とうとう取りやめたことがあります。
運命も窮すれば通ずると易者はよく言いますが、翌年になって思いがけない辛亥革命。そうなると三井や三菱、その他の大商社から、色々の使い物が来る、色々の人がやって来る。私はこの時位世の中のあさましさを感じたことはない。若者だった私の胸に焼きつけられたその時の印象は今でもまざまざと残って居ります。
 犬養内閣の時書記官長をした森恪をみなさんはご存知でしょう。あの人は辛亥革命の時、三井物産におりましたが、この人が革命ができた直後、私の母のところに来て、私と弟のために学費を出してあげたいがと申入れたのだそうです。その時、私は一高の一年生、弟は中学の五年生だったのですが、母は自分の子供の学費は、ひちはち置いても自分で作る。せっかくの御厚意だがおことわりすると、きっぱりとことわったのだそうです。
このことはずうっと後で、森恪から私が直接聞いたのですが、彼は「お前のおふくろは親爺より偉いよ」と言っていました。こうした因縁から、私は森恪とは彼が亡くなるまで交際していたのであります。
 理想を追いかけて生きる者、政治家に限らず、何か新らしい物を創造しようとする者は、世間一般から見ると非常識に見える。奇人だとか気ちがいだと言われるものです。しかしそうした者が居るからこそ、世の中は進歩するのではないでしょうか。孫文もその点では、辛亥革命以前はもちろんのこと、その後でも変り者の扱いを受けている。
その片棒をかついだ滔天が気ちがい扱いをうけて、「ボロ滔天」の通称をもらっていたのも、無理ないことだったわけです。孫文は写真でもご覧の通り智的ですっきりした紳士でしたが、しんの強い非常に頑固な人でした。読書がすきで、四六時中手から本を離したことがない。
来客があっても要談がすむとすぐ書物に眼を移す。むだ口をきかない。それで初対面の人など、孫文は不愛想だとよく評したものです。従ってあまり世間的ではなく、政治資金など作るのは極めて下手、また戦も上手でない。一揆を企てても、北伐をやっても成功しなかった。しかし理想に向って進む執着と、革命に対する熱意とにおいては、彼の右に出る者は一人も居なかったと言ってよいでしょう。これが孫文が先覚者として、また革命の父として、今でも尊敬されているゆえんであります。
今晩会場の受付で孫文書のプリントを売っておりますが、あれは中国の古典礼記にある孫文愛誠の章句で、彼は生前書を求められると、よく「天下為公」と書きました。これは礼記に出ている句であります。大道之行也天下為公云々、これは孫文思想の源泉とも言えるし、また孫文思想の集約とも見ることができる。一
般に孫文思想は西欧からの輸入だと考えている人が多いようですが、決してそうではないと、私は思っております。この礼記にある大同の社会は、総労働、相互扶助、平和共存の社会でありまして、孫文の三民主義に言う、民族、民権、民生の内容が、端的に書き出されていると言っても過言ではありません。
 中国に毛沢東による共産革命が行われてから、孫文革命はブルジョワ革命だと言われるようになりました。もちろん孫文革命は労農革命ではなく、市民層即ちブルジョワジーの革命でした。封建中国をうち倒すためのブルジョワ革命だったのであります。ですから社会主義革命までは手がとどかなかった。
東京に中国革命同盟会が生れたとき、その六大綱領の一つに「土地国有」がありましたけれども、孫文は民生主義の内容として、「平均地権」と「節制資本」を提唱しまして、これが同盟会の実行綱領として全会員から承認されたのでありました。平均地権は文字の示すように、地権は人民の手に持たせ、土地を均分すると言う考えで、土地は国有にしないでゆくわけです。節制資本と言うのは、中国はまだ原始生産の時代で、資本主義の社会になっていないから、階級闘争の必要はない。政府のコントロールで、資本主義に陥らないように導いてゆけば、資本主義の時代を経ないで、魚階級の社会に移行できると言うわけであります。
この孫文の考え方からすれば、孫文革命を単純なブルジョワ民主主義の革命と見るわけにゆかないと、私は考えている。少くとも社会民主主義の革命と言うべきでしょうが、残念なことに孫文の存命中に、この民生主義を実行することができなかった。したがってブルジョワ民主主義革命で終ってしまったのであります。
だが孫文が他の革命の指導者と異って、特に光っている点があります。それは彼が革命の実践者として、その実際の経験を通して、彼自身の思索を高め、その革命方策を発展せしめたと言うところであります。
例えば民生主義について見ますと、中国は資本主義の時代にないから、階級闘争によらないで、無階級の社会にはいれると、同盟会の時代には、孫文はそのように主張したのでありますが、彼が革命後幾多困難な経験に突き当った結果、彼は大正七年(一九一八年)頃から、労働者農民の力によらなければ、革命の完成はできないことを認めて、その翌年からは、真剣に大衆運動に取組み始めました。
そして大正十年(1912年)頃からは、農民の組合組織に手をつけ、大正十三年(1914年)の二月には、広東に国民党の全国代表者会議を召集して、いうところの第一次代表大会宣言を出し、連ソ容共の政策を打ち出したのであります。この大会で選出された中央執行委員の中には、中国共産党関係から、中執委に李大釗、譚平山などの主脳、それから候補中執委として毛沢東、秋白、張国などがはいりました。
この大会を契機として、孫文革命は、社会民主主義から社会主義へ前進しはじめたと見るべきだと、私は考えております。少くとも孫文革命が、社会主義への道をはっきりと歩みはじめたところの、これが第一歩であったと言えるでしょう。もし孫文が、その翌年の三月、北京で客死しなかったら、この第一歩は、おそらく第二歩、第三歩と踏み出されていたと思います。おもしろいことに、中国の共産革命が、陳独秀コースから立三コース、そして毛沢東コースへと、三段階を経て来たように、孫文革命も、民族主葦命からブルジョワ民主主萱命へ、そして社会主葦命へと三段階を経て発展して来ていると見ることができます。

 また孫文の民族主義について見ますと、はっきりと三段階の発展を示しています。彼が最初に立ち上った頃の考えは、もっぱら満州人の清朝を倒して、漢民族の政府を回復する、いわゆる興漢倒満が目標だったのでありますが、同盟会結成の時代には、五族共和、即ち満蒙回蔵漢の五族が、平等の立場で共和して政府を作ると言うことになって居りました。
それが、第二次大戦以後、ソヴィエト革命などの影響があって、孫文の考えは再び前進しまして、世界民族一律平等と言うことになったのであります。
ここで孫文思想を培った礼記にうたわれているところの大同社会の理念、国際的には大同世界の観念が、明瞭に現われて来たわけです。ソ連や中国の手によって、国内的建設の面では、搾取の無い平等な生存の道が、既に開かれたのでありますが、国際的に、世界全民族が一律平等に生きて行く道は、まだ開かれていないのであります。植民地が解放されて、政治的には独立が認められましても、経済的自立の保証は為されておりません。つまり生存の機会均等と言うか、平等な生活権と言うか、そのようなものは確保されていないのであります。
解放された後進諸民族は、独立国家の形はつくりましたが、先進諸国との手はなしの競争にさらされているのが現状であります。やっと独立して、ひとり歩きを始めたばかりのベトナムを、飛行機と爆弾で打ちたたいているアメリカのような国もあるのでありまして、世界民族一律平等どころの騒ぎじゃありません。しかしこれなくしては、世界に真実の平和は来ない。このように見てくると、孫文の思想は、現代でもまだ生きていると言わねばなりません。孫文は先覚者として、偏見と停滞から解放された魅力のある存在だったと言うことができるのであります。

 孫文は先に述べましたように、広東で党の第一次代表大会を開いて、連ソ政策を開明したその歳の秋、北方政府と中国の統一問題を討議するため、北京に行くことになりましたが、その途上神戸に立寄り、オリエンタルホテルに滞留して、東京などから会いに来た多くの友人たちと会談しました。
●『日本は覇道から王道をめざせ』ーと忠告した孫文は最後まで日本に期待しながら急死した。
この時、彼が神戸高等女学校の講堂で、一時間半にわって述べた講演は、孫文の大アジア主義として知られていますが、その中で彼は、日本の国策は覇道であってはいけない、王道によるべきだと、熱意をこめて忠告したのであります。覇道と言うのは、ファッショ的帝国主義的な行き方、王道と言うのは、相互扶助的平和共存的な行き方を言うのでありまして、彼は日本は王道に基いてアジアを指導し、これによって偏見と差別とのない民族平等の世界を作るために立ち上ってもらいたいと訴えたのであります。
彼は日本から終始まま子扱いを受けたのでありますが、それでも彼は、日本に対する期待と執着をもち続けていたのでありまして、このことがあった四カ月後、翌年の三月十二日、彼は北京で亡くなりましたから、文字通り、彼は死に至るまで、日本に期待し執着していたのであります。

 孫文亡きあと、国民党を受けついだ蒋介石は、孫文とちがって、金をつくることが上手、戦にも強い、すぐれた才能をもっているのでありますが、革命家として最も大切な理想をもっていない。どのようにしたら、人民に幸福を与えることが出来るかと言うことを考えない、また考えようともしない。ただ権力の座に居るだけを考えている。ここに彼の欠点があるのであります。孫文が亡くなって幾何もなく、彼は国共の分離をはかり、共産党弾圧を始めたのでありまして、これがため、中国の国内は再び内戦の場となってしまいました。
この状態は日華事変が起きるまで続いたのであります。彼は南京に政府を作って居た時でも、ただ内戦に没頭して、南京政府治下の諸省に、民生主義を実現化しようとしませんでした。ただ金を集めて軍隊を作り、共産党と戦うことだけしか考えませんでした。そして最後には共産党に負けたのであります。
彼は今、台湾でわれこそは孫文の後継者だと言っておりますが、彼は台湾で民生主義の実行をやって居ないばかりでなく、孫文が目の敵にしていたアングロサクソンの後盾によって、自己の地位を維持しようとしているのであります。これでは孫文の後継者だとは言えないのでありまして、今日となれば、国共合作によって、言うところの中国を実現することが悪口の道だと、私は考えているのであります。私は数年前、二度にわってこのことを彼に忠告したことがあるのであります。
彼には過去において、中国内外の軍閥をうち倒した功績はあるのでありますから、この点は買ってやるとして、国内建設、社会主義実現のことは、毛沢東の手に一任するのが至当なのであります。毛沢東は孫文の持たないものをもっている優れた指導者だと、私は見ているのであります。彼は寛厚で意志が強く、機略に富んで、しかも高い理想を抱いている。彼が農民を武装して、それを革命戦士につくり上げた点は、中国の実情に適合したプロレタリア革命への最も優れた方略だったのであります。そして彼は、紅軍の支配下にはいった地域には、必ず社会主義を具体的に実行してゆく。これによって人民の信頼をかち取る。
ですから毛沢東の旗の進むところ、民草なびくと言うことになるのであります。あの終戦の頃・蒋介石の国民軍が共産軍に敗れ、蒋介石が大陸から追い落されるに至ったのはこのためだったのであります。毛沢東はいかなる場合でも、人民と共にあることを忘れない。これが彼の特徴でありまた優れた点でしょう。彼は学究ハダの孫文と異って、野人ハダの風格をもっておりまして、ここに彼が常に大衆と共に行ける特質があるのであります。毛沢東は最近紅衛兵運動を始めましたが、中国人でない私が、かれこれ評価することはまことに困難ですが、中国内における事情はともかくとして、客観的に見て、この厳しい国際情勢を前にして、中ソの仲たがいや紅衛兵の騒ぎなどでゴタックことは、あまり好ましいとは思われません。
私は一刻も早くこれ等の問題が好首尾に片付くことを念願しているのであります。今や世界情勢は進む社会主義と守る資本主義の関ケ原にさしかかっているように思われます。この形勢を中心にして、これからとうぶん、世界は右にゆれ左に揺れするでしょう。この大揺れの中にあって、われわれ日本人は、船酔いをせず、しっかりとした判断のもとに、大波を乗り切る覚悟をもつ必要がある。それには日本丸をどこの港に入れるのか、その目標をきめなければならない。
われわれ自身、その日暮しで、行き当りバッタリの考えでいてはならないのであります。この点では、特にお集りの若いみなさんの反省と奮起を願ってやまないのであります。何か事があった時、宮崎と言う男が、朝日講堂で、孫文生誕百周年の日に、風変りな話をしていたと言うことを、思い浮べてくださればはなはだ幸であります。
(昭和41年(1966)11月12日、朝日講堂における孫文先生生百周年記念講演の原稿に講演者自身が加筆したものの一部です)
                                (おわり)

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