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日本リーダーパワー史(67) 辛亥革命百年⑧孫文と国民外交を展開したパトロン・犬養毅②

   

日本リーダーパワー史(67)
辛亥革命百年⑧孫文と国民外交を進めた犬養毅②
<鵜崎鷺城「犬養毅伝」誠文堂1932年より>
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
辛亥革命と犬養の中国行き
 
犬養が最初の支那行は明治三十五年であった。北京を中心として専ら北方を視察し、ハルピンまで行った。当時,氏は日本の国防状態から見てロシアとの戦争に反対し、大石も同意見であったが、彼は支那から帰ると戦争賛成家に変わった。旅行中、犬養氏は陸宋輿を連れて歩いたが、行く先々で支那人が露国人に侮蔑、虐待されているのを見て陸は憤慨し、北京に帰って粛親王にその実状を報告した。陸は日露戦争後公使になって日本に来たり、支那に帰ってからも北京政府に重用された。
 
 第二回は明治四十一年で、このときは北にも南にも行き、満廷の大官及び革命党の有力者と交推して日支親善に貢献するところが多かった。第三回はすなわち第一革命のときで、支那関係の事蹟中もっとも華やかにして氏の意気を知るに足るべきものであった。明治四十四年秋、武昌の新軍起って革命の火を点ずるや、機の乗ずべきを待っていた革命党は、長江一帯にくっ起して倒満、興漢の旗を翻し、その勢い燦原の火の如く各省に波及し、満廷はそのために震撼した。孫文は外国にあったので、黄興等が代わって采配を振っていたが、急きょ、本国に帰り、孫の南京に仮政府が組織されると、推されて臨時大総統となった。
 
当時、犬養氏はたまたま負傷して療養中であり、殊に党内は一派の策動で覚悟甚だ憂うべきものがあったが、義気止み難く奮然渡支を思い立った。氏はかねてより日支親善を実にするには、公使以外に勢力重望ある民間の名士が支那に行って、いわゆる国民外交の働きをすることが必要であるという持論であったが、今度の支那行も孫文の旧誼を重んじ、革命党に精神的援助を与えるばかりでなく、政府が隣邦の変局に対して執った一連の政策が後来の日支関係に禍いすべきを憂え、わが国民の真意を支那人に知らしめるためあった。
 
氏の渡支については友人の豊川、朝吹英二、和田豊治等も犬養氏のような名士がこの際支那に行くのは両国のために利益であると、後援を与うることになったので、氏は一切の私事をなげうち、四十四年十一月、変名で支那に渡ったのである。
 
時の政府は第二次西園寺内閣で内田康哉が外務大臣であった。氏は渡支に先だち大体政府の方針を知る必要があったので西園寺に会うと、公は今度の革命で帝政は壊れるかも知れぬが、他国のことだから介意しないという意見であった。そうすると内田が人を介して出発前に是非面談したいと申し込んだので、外相官邸で内田に会うと、隣国の帝政が破れては大変だから、帝国としては対岸の火災視していることが出来ぬといった。これは支那が共和政治になれば、わが国体観念に影響を及ぼしはせぬかということを元老、殊に山県などが恐れて容喙した結果としか思われなかった。
 
しかし革命は支那限りの出来事である。君主制を廃して共和制を採用するも支那の自由である。いわんや支那は古来革命の邦で、日本の国体と根本において違っている。しかるに一片の杞憂を挟んで一種の政体を強うるが如きは、他国の内政に干渉するものだ。たとい如何なる名義においてするにせよ、誤った政策であるというのが犬養氏の考えであった。
 
そこで氏は開き直り「それでは支那の政体に干渉するのか、干渉する以上は武力干渉までやるのか」と突ッ込むと内田は、「あるいはそうなるかも知れぬ」という。それならば貴下と私とは考えが正反対である。資下は貴下の信ずるところをやれ、自分は自分の信ずるところを行う。又、私のやることは帝国に取って当然のことと考えるから、支那に行って無遠慮にやるぞ。縛るなら縛れと激語を遺して別れた。
 
 
南京政府から法律顧問に聴せられた寺尾亨、副島義一両博士も氏と同行し、頭山も革命援助のため氏に後れて渡支した。当時革命のドサクサに乗じて浪人の支那に行くもの多く、中には火事場泥棒に類するものがあり、南京政府に売り込み運動をするものがあり、彼等は猜疑嫉妬して互いに排せきし、支那人間に浪人の評判が悪かった。このままに打ち棄て置いてはかえって支那人の反感を招き、日本の体面を傷つける恐れがあった。しかるに頭山が渡支すると聞いただけで、浪人群は恐れをなし、雪の中に浪人統制が行われた。
 
・外相をやっつける
 
犬養氏の支那につくや、孫文、黄興を始め革命政府の要人は手を額にして迎え、信義の厚きに感激した。更に頭山の到るに及んで益々彼等の意を強くした。孫は犬養氏に請うに政府の顧問たらんことを以てしたが、氏は友人の間に形式は無用である。また自分としてかかる任命に応ずべき限りでないと拒絶し、個人として革命政府のために忠告を与え、或いはわが対支方針に対する誤解を釈き、将来両国の関係に悪影響を残さないように努めた。
 
 犬養氏は大体、渡支の目的を達したのと、第二十八議会召集も迫ったので日本に帰り、静かに時局を観望しつつあったが、政府の対支方針は北方の権力に親しんで南方を疎んずる点に変わりなかったけれども、英米が干渉に応じなかったと見え、政体を強(し)いることは差し控えた。しかしそういう頭で対支政策を行っては後来両国の関係に害ありと見たので、氏は当局者を論難すべく議会の開会をまった。
 
 四十五年議会再会後の予算委員総会に於ける氏の質問は、予算委員会での発言が珍らしいことであるのと、殊に支那帰りの氏が対支問題で外相トッチメをやるというので、院の内外の注意を牽いた。その日、風邪で引き籠っていた氏は和服を着け、ノドを痛めたので綿のハンケチを首に巻き、顔色もややしょうすいしていた。野田委員長、開会を宣するや、氏は起ち上がって外務大臣に質問があるというと、内田外相の面上には不安の色が漂うた。
 
氏はやや興奮した語気で、嚢に政府は隣邦の政体に干渉するということであったが、如何なる形式でそれをやろうとしたか、今後もこの方針を以て臨む所存であるかと鋭く突き込んだ。外相は答弁に窮したようであったが、政府は支那の政体に干渉したことはない、南方で伝えられるところには誤謬があると好い加減な弁解をした。
 
氏は一層語を強くし、議会で虚為の答弁は許されぬ。それよりも卒直に事実を告白し、後来斯様な過失に陥らぬよう言明せよと迫った。外相は面上蒼白の色を帯び、少し声をふるわしながら、犬養氏はさきに本官との対話を元にしてかくいわれるのであろうが、余は政界に垂望ある氏を尊敬して渡支前にお目に掛かった訳で、あのときの対談は単に私話に過ぎなかったのであるというや、氏は左様な嘘をいっても事実が承知しない。
 
現に会見の際、日本の方針は隣邦の共和制を欲せぬから止めるという話であった。しからばこの事を公けにしても差し支えないかと質すと、在留日本人及び支那の重立つものに話しても宜しいと明言したではないか。しかし自分は日本の不利と思ったから口外しなかったが、何を以てこれが私話といえるか、と問い詰めた。このとき外相は野田委員長に何事をかささやくと、野田は秘密会を宣告し、秘密会でも外相は犬養氏のために油を搾られた。
 
 当時外相の対支政策を非難するものがあったと同時に、犬養氏が箇人の私話を根拠として当局者を論難したのは少し無理であるというものもないではなかったが、氏はこれ対し、それは外聞より想像して実際に通ぜざるものの言であると反駁し、尚お著者に寄せた書簡の一節に於て、左の如くいっている。
 
 小生ノ質問ハ議会ニテモ言ヒシ如ク、決シテ箇人ノ私話ヲ根拠トシタルモノ二無之候、何トナレバ出発前ノ外相トノ談話ハ断ジテ私的性質ノモノニアラズ、但ダ小生ガ之ヲ明々地二道破セザリシバ帝国ノ利害二於テ懸念スルガ故二候。
 
 大正二年初春、南北妥協が成って中華民国となり、臨時大総統に袁世凱を挙ぐるや、孫文は閑散の身になったので日本に来遊した。当時の孫は昔日の彼れと異なり、たとえ南方政府の統帥を辞めたとはいえ、隣邦の代表的巨人として歓迎すべしとの議論もあったが、わが政府は末だ民国政府を承認せざる今日、過するに国際的賓客を以てするの理由がないというので、一個の旅客として待った。孫文は犬養氏を訪ねて渡支の労と今日までの厚情を謝し、また革命に同情した人々を両国・福井楼に招いて一夕の宴を張ったが、そのときは頭山が来賓側を代表して挨拶した。その翌年、支那に第二革命が起こって、鵜玉埠や張勲が討伐に向かい、革命党の一敗地に塗るるや、孫は亡命して神戸まで来たが、官憲に上陸を拒まれて進退きわまった。
 
そのときも犬養氏はすておき難しとし、時の首相山本権兵衛も外相牧野伸顕も相識の間であるから、直に談判して上陸を許可せしめ、頭山と相はかって部下の二、三人を神戸に急派し、人目に立たぬよう孫を東京に迎え入れて庇護を与えた。孫が宋慶齢女史と結婚したのはこの亡命中で、これが孫と犬養氏との最後の会見であったが、支那に帰ってからもしばしば手紙を氏に寄せた。
 
・対支21ヵ条問題について
 
氏が議会におて政府の対支外交を糾弾したのは、明治四十五年、第二十八議会と大正四年第三十七議会の二度であった。後者は大隈内閣が二十一箇条の要求を突きつけて列国並びに支那人の間に誤解と憎悪の念を起こさしめたときで、これは単に弾劾演説とのみ見るべきでなく、支那問題について氏のうんちくを披露したものである。
 
年来支那問題に関心を持った犬養氏は、大隈内閣が対支外交で味噌をつけはせぬかということを第一に憂えた内政で失敗しても回復の途はあるが、一たび対支政策を誤れば取り返しがつかぬ。切めて対支外交だけでも間違いのないようにと望んだ。それ故、議会の演説に於ても党の演説に於ても、日本が世界変局の渦中に投じた今日、隣邦との関係について種々の流言、離間も起るであろうが、日本としては隣邦扶植、平和維持の誠意が解るように意を対支政策に用いることが急務である。
 
凡そ防禦力をも看たぬ国に臨むに、かつて外国が横浜神奈川に艦隊を浮かべて幕府に迫ったような形式が少しでもあると、双互の親善は保たれぬ。しかし友邦との関係は、唇歯輔車、同文同種という空文的辞令でなく、密切なる利害の実質に触れて結合しなければ駄目である。日本が隣邦の危催心を去り、列国の猜疑心を一掃するには、今日が最も好機会であるとしばしば警告した。しかもその警告は馬耳東風と聞き流されて、氏の深憂が遂に事実となったので、大隈内閣に処決を迫ったのである。
 
 氏は先ず政府が外交上の手段及び形式を誤った点を責めた。対支要求中の重点は第五項である。警察の合同、一口にいえば警察権を渡せ、武器の同盟すなわち日本の武器を用いるか、用いなければ武器製造所を新設せよ、政治財政、軍事の顧問を日本から招聴せよというのであるから、支那に取っては殆んど独立権を犯される訳で、随ってこの五項の問題が最も支那人の反抗を招き、また列国猜疑の本源となったのである。それもこの要求を飽くまで貫くというならばまだしも、最後通牒には最も難しい問題になったものが撤回されている。
 
これより先き支那の方には譲歩の意志が動いていたが、最後に譲って来たのは、軍器と顧問の二個条を別にして鉄道問題も承認する、病院、学校の問題も承認する、福建問題も承認する、軍器、顧問の問題は迫って商議するというのである。さすれば最後通牒よりも余程有利なものを承諾して来たことになるから、特に最後通牒の形で反感を招く必要はなかったのである。
四千年の歴史に於て最も名分を重んずる国に、最後通牒の如き高圧手段を加えたため、そんなことをせずともそれ以上に得らるべきものを失ったということは大失敗である。
また軍隊の出動については満洲守備隊の交代で予定の行動であると陸軍当局は弁解したが、名義はそうでも事実はどうかつ的出兵である。しかもこれで支那が委縮したかといえば、そうでない。ただ悪感と侮蔑の念を起こし、益々列強に依頼せしめる結果となったのである。
 
 また氏は山東還付声明について政府の不聡明なる外交振りを難詰して日く、政府は対独交渉すなわちドイツに対して最後通牒を発したとき、既に大きな失敗をしている。山東の一角をドイツから譲り受けて押さえているのが領土保全になるか、棄てるのが保全になるかは帝国自ら選ぶべきことで、初めから第三国に還附を声明する必要はない。

この声明について何国が恩恵を売ったか、山東還付は日本のお蔭でない、或る有力なる三国の働きによるものであるという感じを支那に抱かしめ、日本には余り恩恵を感じない。元来山東問題は欧洲大戦の終局後、列国会議をまって定むべきもので、特に慌てて返附する必要はないのである。返すというならばそれが両国の親善関係に一段の増進を見るということでなければ意味をなさぬが、それがないのみならず、第五項の骨抜きを最後通牒で発し、或いは軍隊で威嚇したために排日運動の原因となった。現にそれ以来支那人は救国貯金を募るとか、書翰用紙に五月九日の文字を刷り出し、また種々の物品にも最後通牒日を書き立てて『国恥記念日』とするようになった。

 
犬養氏は言事実の上から対支外交をコキ卸し、更に進んで満蒙問題に、漢冶渾問題に、鉄道問題等に該博なる知識と豊富なる経論とを示し、議会創開以来支那問題に関してこれほど内容の充実した大演説はなかった。流石に支那問題の権威たる氏の独壇舞台であった。
 
・孫文の死・移枢式に犬養、頭山が参列する
 
 過ぐる二十年間に支那は南北共に幾変遷し、人物にも勢力関係にも異動消長があった。北に於ては帝王の野心を抱いた袁世凱も、終に謎のような最期を遂げ、南に於ては黄興、先ず世を去り、孫文も北遊中病を得て長逝し、その他著名なる政治家、軍人の暗殺されたものも少なくない。

しかして,孫文を総理とした国民党は孫文の三民主義によって国民政府を組織し、一党を以て国を治めようとしているが、外に対しては国権回復に急にして、ややもすれば国際信義を破り、内に於ては権力争いのために人の和を欠き、何日になれば真の統一、安定を得るか前途なお遼遠だ。しかしともかくも表面だけは国民党の天下になった形があるので、民国十八年すなわち昭和四年六月二日、孫文の霊枢を北京より移し、新たに南京に造営した南京城外の中山陵に安置することになった。
しかるに蒋介石と馬玉梓との間に戦争が始まったので、移枢祭も延期になりはせぬかと思われたが、清から味方の各軍隊に祭典の済むまで軍事行動を避けろと電命し、溝も積極的行動に掛でなかったので、予定の期日に挙行されたのである。

 
 国民政府から犬養、頭山両氏の参列を希望して来た。彼等の尊敬する革命の二大パトロンが二十年振りに再び相携えて渡支し、親交のあった孫文の移柩式に臨むということは、国民外交の上からいって政府が十人の特使を派遣するよりも相応しいことで、故人の霊を慰むるに十分であった。

両氏は五月二十夜出発したが、当夜の東京駅は見送り人を以てさしもに広い歩廊を身動きする余地もないほどに填め、新聞社の写真班がレンズを向けて一斉に点火するマグネシュームの閃きと、津々たる白煙と音響とは、怒涛の如き万歳の声に和してさながら戦争のような騒ぎであった。しかも見送り人の殆んど全部が浪人群であった点は二大浪人の鹿島立ちらしい情景であった。

 
国民政府は国賓の礼を以て二氏を過した。二十八日、孫の霊柩が南京に到着したので、三十一日中央党部で告別式を行い、犬養氏は一行を代表して祭文を朗読した。翌払暁、霊柩は中央党部を出発し、腕艇長蛇の如き行列で三里余の長途を中山陵に向かったが、犬養、頭山両氏は先発して迎え、霊柩を廟後の墓にときは、孫の遺族の外に犬養氏、主席公使のイタリア公使、蒋介石の三人だけが特に枢側に立った。南京では蒋介石の招宴に列し、張継、陳少白、胡漢民等に二十年振りに会って旧を談じ、日支両国人の歓迎会は毎日の如く開かれた。
 
蒋介石に招かれたときは、多少警告の意味を含めて革命の大業に精進せんことを述べたが、蒋介石も援助と指導を乞うた。氏は頭山と別れて六月四日、南京を出発し、途に焦山及び楊州に遊んで上海に出で、それよ。青島、済南に赴き孔子の廟を曲卓に訪い、更に済南より汽車にて北行し、北平(靴ヂ誓嘩謹琵租乾)に足を駐むること旬日にして七月二日、日本に帰った。氏は到る先きざきで日支両国民の歓迎を受け、連日連夜の宴会攻めだけでも多忙であったのに、諸処で講演をも頼まれた。またその間には文墨の雅会が特に氏のために催されて旅情を慰めた。

                                                                                                                                                               (おわり)
 

 
 
 
 
 
 
 

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