日本リーダーパワー史(82)尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかーその原因は封建思想の奴隷根性」
日本リーダーパワー史(82)
尾崎行雄の遺言「日本はなぜ敗れたかー原因は封建思想の奴隷根性」
前坂 俊之(ジャーナリスト)
来年(2011年)は清朝が倒れ、中華民国が作られた辛亥革命(1911)からちょうど100年、真珠湾攻撃(1941)から70年目になります。日米中の関係を考えると、ひとつの節目の年ですよね。徳川幕府を明治の志士たちは倒して、明治維新を実現しこの国のかたちを変えた。そして軍人が宰相、リーダーたちが明治の発展の礎を築いた。ところが彼らの息子の世代が太平洋戦争で日本を潰し、明治の遺産を台無しにする。その後、なんとか立ち上がって経済復興を遂げますが、今度は太平洋戦争世代の息子たちが、平成不況で公的債務が約1000兆円という借金大国に膨らみ、いまは幕府崩壊、太平洋戦争敗戦に続く第3の国家破産を迎えつつあるのです。
この原因を考えてみますと、私は日本は「オウンゴール国家」(自滅国家)、近代的な民主主義国家ではなく、封建的官僚支配リーダー不在国家とおもいます。その底には克服できていない日本病がほぼ60年ごとに再発する、国家戦略の不在の日本とブレーキのきかない国家体制と思想のない日本人の複合脱線、沈没の感じがします。
憲政の神様・尾崎行雄は第一回総選挙から60年間、議員生活を続け一貫して日本の軍国・膨張主義に反対して、憲政擁護を高く掲げて、亡国に突き進む日本に警告を発し続けてきました。
太平洋戦争の敗戦後、1947年(昭和22)に尾崎は『民主政治読本』日本評論社 1947年刊)を出版して、「なぜ、日本は敗れたのか」を分析して、日本病を指摘しています。
① 政治の貧困。日本人が、立憲政治の運用をまちがへたことである。
② 日清・日露の両戦争に勝って、急に世界の1等国の仲間入りをすることができたので、すっかり有頂天にのぼせ上り、日本人ほどえらい人間はないと過信した。
③ 日本人の心のそこに、今なは根づよく、こびりついている封建思想と奴隷根性
いま第3の国家破産に直面した原因を考えてみると、この尾崎の指摘した日本病が再び蔓延してきてやられてしまったという気がする。いまこそ、成長戦略や興亡学、失敗学の研究以上に危機突破学、破綻食い止めの戦略こそ真剣に考えるべき時である。以下の尾崎の日本敗戦学は大いに参考になる。
日本はなぜ敗けたか
日本は敗けた。なぜ敗けたか?日本の敗因を、ふかくほり下げて研究することは、けっして、死んだ子の歳をかぞへるごとき、ぐちやくりごとではない。日本の歴史の切り代り目に立って、将来二度とふたたび戦争なぞするやうなことのない、立派な日本をつくるための地がためとして、あらゆる角度から、まじめにぎん味せねほならぬ。
私は、世間では、まだあまり気がついていないやうだが、日本の敗けた根本原因を二つ三つあげて、国民の反省をうながしたいとおもふ。
その一は、日本人が、立憲政治の運用をまちがへたことである。
しかし、それは、もしわれわれが立憲政治の運用をまちがへなかったら、今度の戦争に勝てたであらうといふいみではない。もし日本に本当の立憲政治が行ほれていたら、今度のやうな戦争はしなかつたであらうといふ意味である。
イギリスの大憲章
ィギリス憲法のおこりはずいぶん古い。第三十字軍の勇将リチャード獅心王の残後、イギリスの王位をついだジョンは、外にフランスと戦ってノルマンディの地をうしなひ、内では、重い税金をとりたてて人民を苦しめた。そこでイギリスの貴族・僧侶はロンドン市民とともにジョン王の失態を責め、王にせまって、人民の生命及び財産の安全を保障する大憲章(マグナ・カルタ)(注)に署名させた。
時は225年で、日本では、武人としてよりも今歌集の歌人として有名な源実朝が、カマクラの八幡宮で別当公卿に暗殺される四年前のことである。
(注) マグナ・カルタの要点は、
①税金をとる場合は必ず人民代表の承諾を要すること。
②これまでのやうに、王の意のままに任せず、司法権を確立し、みだりに王の命によって人民を牢獄に入れないこと。
③その時まで罰金は王の意のままにまかせ、その金もすべて王の収入になってゐたのをやめて、これを司法官にあつかはせること。
④貴族が死ぬと、その領地を一旦王がとりあげていたが、今後は、それをできないやうにすること。
⑤これまでは、王様の御用といへば馬でも牛でも、その他何でも、代金を払わずに召し上げることができたが、これからは、さういふことができないやうにすること、等を約束させたのである。
わが明治憲法は、もちろん、このイギリスの憲法のやうに、人民が国王にせまって奪い取ったものでなく、明治大帝の大みこころにより、欽定せられた憲法であるが、その中心のねらいが、マグナ・カルタと同様、人民の生命と財産の安全を保障するにあることは申すまでもない。
生命財産を守る道
では、どうして人民の生命と財産の安全を保障するか。一番たしかな方法は、人民から総代を出して、その総代がつくった法律によるより外には、人民を兵隊にとったり、しばったり、牢に入れたりすることは一切まかりならぬ、
また人民の総代がつくった法律によるより外には、人民から一銭一厘の税金でも取ることはまかり成らぬ、また人民の総代の承だくなしには、その税金を一餞一厘も使ふことは相成らぬといふことにすることだ。
このやうに、人民の総代が集って、人民の生命財産の安全保障をめやすにした色々の法律をつくり、またはこの法律を破って、人民多数の幸福にめいわくをかけた者を罰する法律をつくるところが立法府で、この立法府でつくった法律のわくの中で税を取ったり、橋をかけた。学校を建てたりして、人民多数の幸福をめやすに、色々な仕事をするところが行政府である。また自分「人の小さな、よこしまな欲望をみたすために、他人の生命財産をおびやかしたり、人民多数の幸福をさまたげた者が出て来た場合、立法府できあた法律の規定にあてははめて・これを裁判し、処刑するのが司法府の役目である。
封建政治と立憲政治
どこの国でも、立憲政治がはじまる前は封建政治であった。その封建政治では、立法も司法も、ともに行政府の一部分に過ぎず、政府が勝手に法律をつくり、勝手に裁判した結果、人民の命はきりすてごめんで、犬猫同然にあつかわれた。人民の財産も、欠所加役上的なぞといって、人間がにわとりの卵を勝手にとり上げるやうに、人民からとりあげてしまった。
すなはち、封建政治は政府萬能の政治である。しかし大智が進んで、人はめいめい、その命と財産の持主であるといふことを自発するやうになると、そんな政府万能の政治では承知できぬ、自分の生命財産には、自分の選んだ総代がきめた法律によるのでなければ、指1本だつてふれさせるものかといふことになって、立憲政治が生れたのである。
以上の説明で明かなごとく、封建政治が政府万能なるに対し、立憲政治では、政府といヘども立法府できめた法律のわくをはづして、勝手にふるまふことは絶対にゆるされないし、司法府もまた、立法府できめた法律によって裁判し処刑するだけだから、立法府が国の政治の中心となるのは理の当然である。
しかるに、これまでのわが国の立法府は、この大切な役目を忘れて、事毎に行政府の下風に立ち、あたかも行政府の補助機関のやうな役割を演じたために、憲法の名あって実なく、つひに少数の軍閥や官僚に引きずられて、国家と国民を、今日のごとき破滅の谷そこに、おい込んでしまった。
こころみに、わが立法府が憲政運用上におかした重大なあやまちをひろい上げてみよう。
憲法で与え法律で取る
立法府本来の使命が、政府をかんとくして人民の生命財産に加えられる圧迫を、できるだけ少くするにあることは、その成り立ちのいきさつからみて、きはめて明白である。
どこの国でも、いつの時代でも、役人というものは、とかく自分の功名手柄、立身出世のために、権力をふり回したり仕事をしたがるものである。しかし、役人の権力が強くなれば、いきおい人民の権利、自由は押へられざるをえない。
役人が仕事をするには、どうしても、人民に余計な税をかけて、その財源をつくらざるをえない。ゆえに、人民から選ばれて立法府にいるものは、いやしくも人民の檀利自由をおかされぬやう、一銭一厘でも人民の負たんを軽くす
るやう、つねに厳重に政府を監督せねばならぬはずである。
しかるに、わが立法府は、あべこべに政府側の雇ひ兵となって、しばしば増税の御用をつとめたり、人民の権利、自由をそくぼくする法律をつくることに尽力した。
明治憲法では、法律の範囲内でといふ條件づきで、かなり大巾に基本人権を告等ゐる。ただ時の藩閥政府は、あくまで封建政治の特権をもちつづけたい欲望にかられて、どうしたら憲法で与えた権利自由を法律でうばいとろうかと苦心かくさくし、初期の立法府が、まだ法律知識の乏しいのに乗じて、ほぼその目的を達した。その後、立法府の法律知識はだんだん進んだけれど、人民の権利自由を拘束する法律をつくることには、相変わらずの熱心さぶりを見せて治安維持法だの総動員法だの、戦時刑事特別法だの等々、立法府が行政府の手先きとなって、人民の権利・自由を圧迫する法律が、ぞくぞく制定せられた。
特に満州以後のわが立法府は、完全に軍閥官僚の根城ある行政府にたいし、無条件降服をしてしまった。それから後の日本の政治は、まっしぐらに、連合国への無条件降服の道をバク進してしまったのである。
うぬぼれのたたり
日本が敗けた第二の原因は、日清・日露の両戦争に勝って、急に世界の1等国の仲間入りをすることができたので、すっかり有頂天にのぼせ上り、日本人ほどえらい人間はない、わづか二、三十年の間に、すっかり世界の文明を自分のものにしてしまったばかりでなく、つひに西洋の先進国を追ひこしてしまった、もう西洋に学ぶ必要はない、これからは何んでも日本流にやればいいのだ、とうぬぼれきった点にある。実をいへば、敗因の第一であげた立立憲政治の連用をあやまつたことも、もとをただせば、このうぬぼれ根性のたたりである。
ありていにいえば、立憲政治はもともとわが国民の思想が、自らつむぎ、自ら織り、自らぬい上げたお手製の着ものではない。西洋の文明国が、みんな着ている着ものを拝借してきたかり着である。どうして仕立て上げるものか、どう着こなせばよいものか、わが国の歴史の中には、先例として学ぶべき何ものもない。
そこで、当時百事維新の意気にもえ、1日も早く先進国に迫ひつかねはならぬ、といふ興国進取の気がいにみちていた国民は、心をむなしうして、この新らしい着ものの仕立て方、着こなしかたを、外国のお手本について学ぶことにつとめた。すなはち、明治二十三年の初期総選挙の前には、全国の知識階級ともいうべき人々が、次から次へと上京して、少しでも西洋諸国の選挙知識のあるものをたずね、まじめにお手本を研究し、帰ってこれを地方の有志につたへ、できるだけ先進国のお手本通りに選挙をやってみようといふ、けんそんな心がけをもつていた。従って、金力や腕力によって選挙界を腐敗だらくさせることも、今日ほどひどくはなかった。
民党・吏党
なぜさうなるかの理由は、別のくだりでくわしく説明するが、ともかく立憲政治の先進国では、選挙の場合、政府党りも在野党の方が有利なのが一般の通例である。しかるに、日本の選挙はその道で、久しい以前から政府党は必ず勝ち、在野党は必ず敗れるていたらくである。わが憲政を毒する百弊のみなもとはここにありとさへ思われるが、日本でも、外囲のお手本を忠実に学んだ初期の選挙は、けっして、こんなあさましいものではなかった。
すなはち、明治二十三年初めての選挙から日清戦争までの5年間に、四回の総選挙が行われたが、四回とも政府党が敗けて、在野党が勝った。ことに明治二十年に行はれたマツカタ内閣の選挙では、腕力・金力・権力等あらゆる暴力を極度に使って、在野党に大圧迫、大干渉を加へ、政府の無理をおし通さうとした。
まさしく憲政史上の一大危機であったが、全国多数の選挙民は、見事にこの政府と与党の圧迫をはねのけて在野党に勝利を与えた。当時は民党を名のることは非常な強味で、吏党と呼ばれることは、ほとんど致命的な弱味があった。これを今日の与党でなければ巾のきかぬ選挙界にくらべて、今昔の感に堪えぬではないか。
国家破滅の病源
選挙すでにしかり、選ばれて立法府に列する議員また、先進立憲国の議事ぶりや先例を学んで、合議のはこびかたに、まちがひのないやうにと、けんめいに努力した。問題が起るたびごとに、世界各国の議事規則や先例を研究して、小心よくよく、お手本通りにしようと心がけたから、不なれながらも、大した失敗はしなかった。
なぜ、さうでなければならぬかの理由は、別のくだりでくわしく説明するが、ともかく立憲政治の先進国では、それが正確な事実にもとづき、正しい理論に立つてをれば、たとへ小数党から出した議案でも、議員多数の賛成をえて成立し、まちがったことは、たとえ多数党の議員が出した議案でも否決せられるのが通例である。
しかるに日本の議会はその逆で、多数党の提案なら、たとへば鹿を馬だといふごとき横車でもおし通すが、少数党の提案なら、馬は決して鹿ではないといふごとき正しい主張でも押しつぶされてしまう。せっかく、めばえかけたわが国の政党政治が、かへつて、まづ国民からあいそづかしをせられ、軍閥官僚のはびこるすきを与え、園家を破滅に導いた病根は、実にここにありとさえ思えるが、日本でも外国のお手本を忠実に学んだ初期の議会は、けっしてこんな恥知らずのものではなかつた。
すなはち、第一期議会においては、きわめて小数な改進党の提議した予算査定案が可決せられた。また第五期議会においては、多数党から選出せられた議長ホシ・トオル君除名の動議が、全院三分の二以上の多数をもって通過した。これを、何んでもかんでも、多数の力で横車をおし通す昨今の譲会にくらべて、今昔の感にたへぬではないか。
後へ、 後へ
およそ世の中のことは、昨日よりは今日、今日よりは明日と、だんだんよくなるのが進歩の法則であるのに、ひとりわが国の立憲政治のみは、経験をつみ、運用になれるに従って、だんだん悪くなったのはなぜだらうか。
憲政の初期には、日本国民が、人は誰でもその命と財産の持主であるといふ、立憲的自覚をもって憲政を運用したが、途中でこの自覚をうしなって、ふたたびきりすてごめんの封建思想に逆もどりしたためであらうか。
否、否、人間がもし一度本当に立憲思想にめざめたのなら、この自覚は不退転であるべきだ。断じて、ふたたび封建の旧思想に逆戻りするはずはない。すなはち、初期の憲政運用が今日よりも合理的であったのは、国民に悪政の自覚があったといはんよりは、むしろ、その原因を他に求むべきであらう。
他とは何んぞや。私のみるところでは、初期の選挙や譲会が、今日のそれにくらべて、はるかにましであったのは、この新制度の運用にあたって、忠実に先進国の先例やしきたりを学んだからで、一皮むいた血の中には、相変らずらず昔ながらの封建奴隷の旧思想が脈打っていたのである。しかるに、日露戦争に勝った、世界最強の陸軍に勝った、おしもおされもせぬ世界の1等国になった、もう外国のお手本なんか学ぶ必要はない、日本の憲法は日本流に運用すればいいんだといふ、油断を生じた。
自慢は進歩のゆきどまり
いかなる時、いかなる場合でも、油断は大敵、自慢は進歩のゆきどまりである。たった数年の手習ひで、もう外国の手本をはなれても憲政が運用できる、と油断したのが退歩のはじまりで、製造・工業・貿易・文化その他すべの点において、ベルギー、オランダ、スェーデソ、ノールウェー等にさへ及ばない事実をかへりみず、わづかの武力をはなにかけ、何から何まで世界一とうぬぼれておるに至って、わが国民多数の思想感情は、急転直下、封建時代に転落してしまつたのである。
かくのごとくにして、わが国民は封建奴隷の根性をもって、立憲自主の制度を運用したから、本来減税機関であるべき性質の立法府が、増税機関の役割を演じ、行政府をかんとくし、官権のばつこを押へねばなら立法府が、かへって官権拡張の尻押をなし、つひに軍閥・官僚の命ずるがままに、日本を亡国的戦争に引きずり込むための、満場一致の決議機関となってしまった。
笛ふけどもおどらす
私は深くこの傾向を憂へ、大正十四年に書いた「政治読本」の中「ゆえに今日といヘども、幸に全図の選挙民が憲政の現状にふんがいし、高慢自慢の心をすてて、他国の長所を手本として、わが短所をおぎなう気になれは、選挙も会議も本来の正道にもどすことができる。
これに反して、もし、依然わが国は世界第一の文明国になった、もはや外国に学ぶ必要はないなどと、夜郎自大的うぬぼれに酔ひしれていれば、ひとり憲政のみならず、わが国の運命は、あらゆる方面に行きづまって、つひに救ふべからざる、きゆう地に落ち入る外はない。現在のわが国情は、噴火山上に舞とうするといおうか、棺桶の中で酒もりをしているといおうか、じつに危険千万だ。
どうか、全く死地におち入ってしまはない前に、のぼせを下げて、自身及び周囲の事物を正視するやうありたいものだ」と、切々、警告したのであるが、うぬぼれきった国民は少しも私の忠告に耳をかさず、つひに日本を現在のごとき死地に追ひ込んでしまった。
水戸藩の儒者アイザワ・ハツケイの著はした「新諭」は、攘夷諭はなやかなりし維新前後に、よく世人に読まれた本だが、その内容はだいたい、「太陽は日本の私有物で、世界列国は、ただそのおあまりの光を借用しているに過ぎない、米国は脊随だから大きいけれども尊くない、ヨーロッパは足だから、汽車や汽船を発明して世界中をとびまはり、足の役目をつとめてゐるのだ」といふやうなことで、その日本自慢はじつに徹底したものであった。
満州事変以後の日本人のうぬぼれ加減も、事実と科挙的根拠のなかった点では、ほぼこの「新諭」と同類のものであったようだ。ともあれ、われこそ世界第一のすぐれた民族であるとうぬぼれて、世界のにくまれ者となり、国際的に全く孤立して、つひに国を亡ぼしたものに、西にドイツあり、東には日本あり。深く相いましめて、日本再建のいましめとせねばならぬ。
ドンキ ホーテ
私は明治の末から昭和の敗戦にいたる日本の足どりを考へると、どういふわけだか、つい「ドン・キホーテ」の物語を連想する。
「ドン・キホーテ」はスペインのセルヴァソテスが書いた世界的名著で、ほとんど世界各国語には翻訳せられ、広範囲の読者をもってゐる。物語の筋は、主人公ドン・キホーテが、当時時流行の根も葉もないでたらめの武士道講談を
讃み耽っているうちに、すっかりのぼせ上って、われこそ天下無敵の騎士なりと狂信するにいたった。
そこで、武者修業を思い立ち、同じ村の小作人で、正直でおひとしで脳味噌の足りないサンチョパソザを、くどきおとして、家来とし、名馬ロシナンテ(実は骨と皮ばかりの駄馬)に打ちまたがり、さっそうと武者修業の旅に出る。門を出ずれば七人の敵で、ドソ・キホーテの目には、見るものことごとくが敵である。
製粉所の風車を巨人と見て勇敢に突っかかって、ひどい目にあったり、となり村へ仕事に行く途中、雨よけに、しんちゆうの金だらいをかぶったただの床屋を、有名な黄金作りのマソブリノー兜をいただく騎士と見て、これを槍先きで突きとはして金だらいを分捕ったり、ブドー酒を妖怪の血潮と信じて得意がったのはいいが、宿屋の亭主から、そのブドー酒の損害賠償を取られたり、さまざまな滑稽を演じて、読者を抱腹絶倒させる。そして、この物語に錦上花を添へるのが家来のサンチョパンザの役割である。彼は主人ドン・キホーテの狂信にかぶれるほど非現実的ではないが、さればといって、主人の気狂ひぶりにあいそをつかして逃げ出しもせず、いまにお前をどこかの島の総督にしてやるといふ主人の約束を信じて、どこまでも追ってゆく。これを単なる滑稽物語としてみることは、狂主人の真剣さと、愚かな家来の正直さが許さない。ドソ・キホーテは悲劇である。
私は、満州事変以後の日本人が、ことごとくドン・キホーテになったとは思はない。多数国民は、おそらく少数指導者のとなえるる八紘一宇(はっこういちう)の呪文にかかって、時にはあぶないなあと感じながら、とうとう数々の冒険にまき込まれた、おろかなサソチヨパンザであつたであらう。おろかなる国民の悲劇、それが太平洋戦争だったのでほあるまいか。
チヨンマゲは切つたが
日本の敗けた第三の原因は、日本人の心のそこに、今なは根づよく、こびりついている封建思想にわざはいせられたことである。日本人は、明治維新で、頭の上のチョンマゲは切ったが、心の中のチョンマゲは、まだなかなか結んでとけないものがある。
そのことは、今の日本人が好んでみる演劇・映画、よろこんできく講談・浪花節、たのしんでよむ時代小説のたぐひの中に、いかに多くのチョンマゲ式の忠孝や、いかに多くのチョンマゲ式の仁義が登場し、それが老若男女の観客・聴衆・読者から、さかんに拍手喝采せられてゐるのをみても、よういにうなづかれる。
何をかチョンマゲ式忠孝仁義といふ。明智光秀が、わが敵は本能寺にありとむちをあげて東を指せば、一族郎党の中1人のくつわを押へて光秀をいさめるものなく、いいだくだく、本能寺をかこんで、主殺しの手伝ひにはげむごときは、チョソマゲ式の忠である。税金がはらへなくて水牢にはいっている親を助けるために、身を苦界にしづめるごときは、チヨンマゲ式の孝である。盗んだ金の1小部分を、貧乏人にばらまいたネズミコゾも、チヨンマゲ思想では義賊である。一宿一飯の義理のために、正邪を問はず命をすてて喧嘩の助人になるのが、チョソマゲ時代のやくざ仁義である。
奴隷の道徳
以上の例でもわかるとはり、主命とあれば、光秀の家来が主殺しに勇み立ち、ホージョーの家来が・天子さまを島ながしにする手伝ひをする。正邪曲直、是非善悪は一切かへりみないで、主命ただこれに従う奴れい道徳が封建制度の根幹である。
払い切れないほどの税金をしぼる政治の善悪を、たださうとはせず、泣く子と地頭には勝たれぬものとあきらめて、税金をつくるために、娘が身覚りをするのを美徳と教へるほど、人権を無視することが封建政治の本領である。他人の物を盗むといふ罪悪をとがめず、その盗んだ金の一部を貧乏人に散じたことを称さんするほど、道義観念の低級なことは、封建社会の通有性である。命よりも一宿-飯の義理を重しとするほど、人命を軽んずなのが封建思想の特色である。
カの世の中、道理の世の中
こんな間違った思想や社会や制度や政治を持ちつづけようとすれば、どうしても民を愚にして、「力」をもって押へて行くより外はない。すなはち、封建社会は「力」によって支配せられる社会である。
しかしながら、人智やうやく進んで、人はめいめいその命と財産の持主であることを自覚するやうになれば、いかに「力」で押へようとしても押へ切れない。「道理」が、あたまをもち上げて来る。この「道理」が「力」に代って世の中を支配するようになれば、封建制度は亡びて、ここに立憲制度が生れる。西洋諸国では、早きは4,500年前、おそきも有数十年前に「力」の封建制度を打破して、「道理」の立憲制度を打ち立てた。
しかるに文化の低いわが国は、一番おくれた国より更に100年もおくれて、明治二十三年やうやく西洋文明国のお仲間に入って、立憲制度を実施することになった。しかし、それは、大多数の日本人がめいめい自分の生命と財産の持主だといふ自覚にもとづいて、かくとくした制度ではなかった。憲法発布を、絹布のはっぴを下賜せられることだと感違ひして、よろこび祝ったといふくらい低級な人間が多かつたため、日露戦争以後、有頂天にのぼせ上るとともに、たちまち封建思想の地金をあらはし、ことごとに憲法の運用をあやまつたことは、前章でのべた通りである。
わかりやすくいへば、封建政治は大八車で、立憲政治は自動車のやうなものである。大八車は、力さへあれば誰にでも引けるが、自動車はさうはいかぬ。どんな大力な者でも、力づくで自動車を運転することはできない。力づくで
無理をすれば、自動車はこわれてしまう。これに反し、一通りガソリンの性質を知り、機械の構造を呑み込み、運転の技術を心得てやれば、どんなに弱い女子供にでも、楽に遅韓することができるやうなものだ。
日本の悲劇の原因
果然、日本の悲劇は制度と思想のくひ違いから起った。すなはち自動車を力づくで動かさうとして、機械をこはしてしまったのである。道理にもとづいて運用せねばならない立憲制度を、力本位の封建思想で運用したために、内治
外交のあらゆる面で、日本は行きづまってしまった。
しかも、そのゆきづまりを、道理を主とする立憲思想できりひらかうとはせず、力万能の封建思想でがむしゃらに、おし切らうとした。その結果、道理本位の諸国家と正面衝突せざるをえないはめに立ちいたったのである。道理を重んずる思想は、平和を愛する政治となり、力にたよる思想が、戦争を好む政治となるのはもちろんである。
この前のヨーロッパ大戦にこりこりした世界中の立憲国は、何んとかして戦争をさけたい、世界の平和を確保したいと念願し、国際連盟をつくり、不戦条約、九ヵ国条約を結び、軍縮会議を開きなどして、百方、戦争がおこらぬやぅにじん力したのである。しかるに、日本とドイツとイタリーは、この平和を熱ぼうする世界の大勢にさからつて、腕づくで我意を通さうとした。ちゃうど、みんなで仲よくお花見をしようとしている中へ、ぬき身をさげてあばれ込んだやうなものである。ふくろだたきにされるのはあたりまへだ。
門を出づれば七人の敵
私は、ふかくこの傾向を憂へ、軍備縮少諭をひっさげて全国を遊説し、力のかぎり日本の進路を平和の方向へ引きもどさうとしてみたが、だめだった。封建思想のとりことなった日本人は、男子門を出づれば七人の敵ありで、どの国も信用のおけない敵国とみえたのであらう。国際連盟も九ヵ国条約も、みな日本をいぢめる陰謀である、軍縮会議は日本の武力を弱めておいて、たたき付ける準備行動に外ならずと疑ったらしい。
ヒットラーが、ヨーロッパで横紙破りを始めた時、イギリスの首相マクドナルド(彼は第1次ヨーロッパ大戦の際、断乎として戦争に反対し、あらゆる政治的地位をうしなっても屈しなかったほどの平和論者である)は、いかにしてもヨーロッパの平和を維持せんものと、大英帝国の面目を汚すのではないかと心配せられるまで、己れを空しうして努力したが、封建思想のわが国人には、それが平和を愛する英国の熱意のあらはれとは見えず、かへつてドイツは強い、イギリスは弱い、力さへあれば、横車でもおしきれるといふふうに理解せられた。
疑心暗鬼を生ずで、疑ひの目をもってみれば四面みな敵になる。たのむはただ自己の武力あるのみと、国費の三、四割をつぎ込んで、ひたすら陸海軍備の摸張に熱中した。それほどにして軍備を拡張したのだから、少しは気のきいた戦争の仕度ができさうなものだが、これも封建思想のたたりで、陸海軍の直接軍備のみに気をとられ、産業・経済・科挙・文化等の間接軍備の充実は、まるでお留守になつてしまった。
その結果、わが総力戦体制は、頭(直接軍備)でっかち尻(間接軍備)つぼまりの片端者となり、戦争の進むにつれ、破たん百出、収拾のつかぬ状たいを呈して、つひに敗れ去ったのである。
愛国心 の崩壊
日本人が最後まで、これだけは世界随一とうぬぼれていた愛国心も、じつは封建思想のゆうれいに過ぎなかった。敗戦ときまるや、われこそ愛国心の権化なりといふやうな顔をしていた一部指導階級の軍人が、先を争って国家の財をかすめ振るやうな恥知らずの行動に出たのをみれば、思ひ半ばにすぎるであらう。
けだし、この国をわがものと観じ、わが身を愛すると同様な、熱と感激とをもつて、自主的に国につくし公に奉ぜんとする義務観念が眞正の愛国心であって、かかる義務観念は、決してほかから強ひられたり、命令せられたりして生ずるものではない。義務と権利はもともと一枚の紙のうらとおもてである。
自分が生命財産その他自由権利の持主であることを強く自覚せずして、どうして熱れつな義務心をもやすことができよう。しかるに封建思想は、愛国心の基礎となる人種自由の自覚をさへぎつて、義務のみを強調する。人権自由の自覚なき奴隷は、とうてい自主人の愛国心を持つことはできない。他人のめいわくなら百年でもしんぼうする。自国のためなら、他国の権益くらい平気でふみにじる。弱肉強食は宇宙の法則だとみるのが封建思想である。
自分の自由権利をおかされないためには、他人のそれを犯してはならない。もし力づくで自国の権益を主張すれば、世界の平和を乱し、列国の同情をうしなって、結局自国にわざわいを招くもとである。共存共栄は国際生活の鉄則であるとみるのが立憲思想である。どちらがすぐれ、どちらが劣った思想であるかは問はずして明かであらう。
夜討ち、朝がげ、だましうち
これを要するに、封建思想の弱点は力を重んじ道理を軽んずることである。條約を無配して、真珠湾を不意打ちしたのは、夜討ち、朝がけ、だまし討ち、勝つためには手段をえらはぬ封建思想のあらはれである。うそでかためた大本骨の発表は、敵をあざむくには先ず味方からという、封建思想の再現である。捕虜をいじめたり殺したりしたばかりではない。味方の兵隊の命さへ、ずいぶん乱暴に消費したのは、きりすてごめんの封建思想のなせるわざである。
今度の戦争を、民主主義と全体主義の戦いと見るもよからう。しかし私は今度の戦争を、立憲思想と封建思想の戦いと見る。自主精神と奴隷根性の戦ひと見る。道理と力の争ひと見る。そしてついに、前者が勝って後者が敗けたのである。
<尾崎行雄著『民主政治読本』日本評論社 1947年より>