日本経営巨人伝③・阿部房次郎–明治期の紡績王『東洋紡績』社長の阿部房次郎
日本経営巨人伝③・阿部房次郎
明治期の紡績王『東洋紡績』社長の阿部房次郎』
<新刊『『阿部房次郎』(熊川千代喜編著 阿部房次郎伝編纂事務所 昭和15年刊)大空社 定価(本体17800円) 前坂俊之解説>
前坂 俊之
(ジャーナリスト)
日本の紡績業界の夜明けは明治元年(一八六八年)のことである。江戸の商人・鹿島萬平が、民間紡績の事業をおこす計画をたて、注文した英国のウィリアム・ヒッギソス会社製造の紡績機械が横浜についたのが、明治元年であった。
のちに「製糸王」となる片倉兼太郎も、信州から上京し塾に入って勉強を始めたのも20歳のこの年。また、明治の紡績界のリーダーとなる山辺丈夫が京都御所の守護の任にあたっており、その思想の大きな転回点ともなったのも明治元年のことである。山辺丈夫がのちに大阪紡績会社の社長に就くが、その片腕となって活躍したのが阿部房次郎である。

十七、八歳から番頭さんに連れられ横浜の外人街に行って西洋文明の片鱗とそのビジネスに目を見張った。これがきっかけとなって明治十九年(一八八六年)、19歳となった阿部房次郎は「何とかして、実業界に入り一流の人物になりたいので、学校に入り勉強したい」と主人の山中利右衛門に願い出たが「よかろう、人をあてにせず、独力でがんばれ」とあっさり認めてくれた。
福沢諭吉から英語とスピーチを特訓される
東京へ出た阿部は、まず、麻布中学の前身の東京英和学校に入学し、二年間英語を勉強した。さらに慶応義塾に入って勉学をつづけた。当時の慶応は福沢諭吉塾長が「これからは自分の意見を公衆に披露して、理解を得るスピーチ(演説)をしっかりやる必要がある」と、三田に土蔵造りの演説館を建ててスピーチの練習をさせていた時分で、阿部も福沢からシゴかれ、人間の自由平等、欧米の文化、商売の方法について薫陶を受けた。
ちょうどこのころ(明治19年)、日本経済でも紡績工業を中心とした企業が爆発的に生れていた。機械による紡績が新しく二十二カ所に起こり合計八万錘にのぼった。三重紡績や近江麻糸紡織が開業され、これがわが国における機械制による製麻の起点になった。明治二十年二月以降、天満紡績、桑原、東京、鐘淵、和歌山、倉敷紡績などの各紡績会社がぞくぞくと設立された。
同時に手工業制による織物業も急速に機械制生産機構へと変わっていった。
紡績業の発展は明治二十二年にピークとなりわが国の全部の会社資本のうち、紡績資本の占める比率は三六・六と3分の1にのぼった。紡績技術革命の先駆であるリング式紡糸機械(十五万錘)がそれまでのミュール式紡糸機(十一万錘)を凌駕した。
そうした中で、阿部は慶応義塾を卒業後、再び山中利右衛門の店に帰った。
それから三年後、金巾製織の阿部市太郎の長女えみと結婚し、その養子となり阿部房次郎を正式に名乗った。このころは紡績業の爆発的な発展期にあたり、労働力はいくらあっても足りない状況で、企業間の女工たちの激しい争奪戦が繰り広げられていた。
紡績工場は『女工哀史』の世界
その陰で紡績工場の現場では細井和喜蔵『女工哀史』が告発しているような若い女工たちの想像を絶する苛酷な労働条件のもとでの「苦役」が強制されていた。阿部も「日本の工女なる者は、まず九カ月位で一交替する」と述べているように、女工の多くは、ほぼ九カ月前後で骨と皮のように痩せて、約五人に一人は結核で死亡していた。
苦役に堪えられない女工たちの大量の逃亡が続くので囚人同様に女工部屋に厳重に監禁される状態となった。
紡績会社側は労働管理を徹底し、大量の逃亡を禁じるため厳重な拘禁制度をつくり逃亡者には極刑を科し、逃亡者は殴打して裸にし「逃亡女工」と記した旗を立てて工場内を見せしめにひきまわすなどの女工残酷物語が続いていた。
1904年(明治37)、阿部房次郎が実業家として独立し養父の金巾製織会社の専務取締役になった。明治37年2月には日露戦争が開戦し紡績業界は一斉に増産に動き出した。
阿部はただちに、大阪、三重紡績の進出にたいして、販路をもとめて、朝鮮に飛び、仁川、京城を経て鴨緑江にまで進んだ。翌三十八年には岡山紡績、天満織物と協同で販売計画を立て、満州向けの輸出に本腰を入れ、販売は三井物産が一手に引き受けた。その三井物産大阪支店長・飯田義一から山辺丈夫と阿部房次郎に「合併してはどうか」との打診があり、両者は合意し六月には、「大阪紡績」へと合併が決まった。
ここで大阪紡績の成り立ちに触れないわけにはいかない。1879(明治12)年、第一国立銀行頭取の渋沢栄一が東京・大阪の綿商人に呼びかけ、蜂須賀、毛利家などの華族達の資金を導入して、創設したのが大阪紡績会社である。
山辺丈夫とのコンビ誕生
この経営者に渋沢はロンドンで経済学を学んでいた山辺丈夫に白羽の矢を立てた。山辺は旧津和野藩の士族出身で、維新の戦争に従軍し、その後英語を学び、旧藩主の嗣子の教育兼通訳でロンドン留学に随行していた。渋沢の申し出を受け入れた山辺は早速、紡績技術を学ぶためにマンチェスターに行き、見習い工員として工場に入った。
1日8時間で現地の労働者と共に働き、綿花の性質から、紡績技術、原料の購入、機械の操作などを猛勉強した。一年間の工場生活で日本一の紡績技術者になった山辺は明治十三年七月に帰朝し、工場用地の選定にとりかかった。しかし、立地条件の水量の豊富な川が見つからず、結局、紡績ではじめての蒸気機関を採用した。
明治時代初期の起業家はこうした山辺、阿部のような士族出身で儒教を学んだ「士魂商才」の知識人が多く、こうした連中が日本の産業の発展に大きく貢献したのである。阿部は山辺の下でそのイギリス仕込みの技術力とビジネス感覚をしっかり学んで、日本を代表する紡績事業家に育っていった。
大阪紡績は資本金が三百五十万円、十万余錘の生産能力を有し、職工は八千名で、社長は山辺、阿部は専務取締役におさまった。明治四十年三月には、四貫島工場(紡機一万八千錘、力織機千台)、三軒家(力織機を二百八十台)伏見工場と次々に拡張、発展していった。
こうして、大正三年(1914)、日本最大の東洋紡績設立の条件が整い、三重紡績と大阪紡績との合併がきまって、ここに日本一の東洋紡績が誕生した。社長には山辺、副社長には伊藤伝七、そして専務取締役に当時四十六才の働き盛りの阿部が就き、紡績業界のベテラン三人が一同に会することになった。
東洋紡が誕生して間もなく大正3年6月、第一次世界大戦がはじまり、交戦中の諸国々から日本へ軍需品や一般消費財の注文が殺到し、株式史上も暴騰し未曾有の好景気に沸いた。にわか成金がいろんな分野でタケノコのように出現した。
このため、大正五年下期には輸出貿易は大幅に伸びてなり、綿糸や綿布も、異常な高値となった。アジア市場でイギリスの綿業をけおとして、日本の綿製品は急激に拡大した。さらに輸出先は、南米、アフリカ、オーストラリアにも拡大し黄金時代を迎えた。
大正五年五月、山辺丈夫は六十六才で社長を辞任し、六十五才の伊藤伝七が二代目社長となった。まだ四十八才の阿部は伊藤社長の片腕として、実質上、大東洋紡を取り仕切っていた。大正八年、東海ペニー株式会社を買収して豊橋工場とし、翌九年六月には浜松紡績の買収に成功して、浜松工場にして拡充路線をとった。
まさにアジア最大の東洋紡績
こうして、東洋紡績は五千万円にのぼる増資を行い、資本金を一挙に三倍以上に増やし、大正七年上半期から、大正九年の上半期にいたる五期で六割という高配当を続けた。
大正九年上半期には特別慰労金を二百万円も支出したうえに、一千百余万円の莫大な利潤をあげた。笑いが止まらぬほどの好況にめぐまれた紡績業界で、鐘紡、東洋紡、大日本紡、合同紡など四つの会社だけでも、じつに二億円に達する秘密の積立金を残すほどであった。
ところが、大正九年三月ごろから、好景気は一転し第一次大戦後の戦後不況に陥った。株価の暴落とともに綿糸布の相場も大きく下落し、それまでの好況は吹きとんで綿糸、綿布、生糸などの価格は、1年間で四分の一となった。銀行の取付け騒ぎ、紡績や各種の産業でも倒産企業が続出し、政府は三億五千万円の緊急融資をきめ、不況、倒産企業の救済にのり出したが立ち直りは容易でなかった。
ところで、東洋紡は不況にもびくともせず大正七年九月に伊藤伝七は二代目の社長を辞任し、その後に斎藤恒三がすわった。大正10年11月、阿部房次郎は副社長となり、常務の庄司乙吉とともに、経営をにない、大正11年は三割配当を続け、大正12年には2割5分を守った。
阿部58歳で東洋紡績社長に就任
阿部が念願かなって東洋紡績の社長に就任したのは大正15年6月である。阿部58歳である。社長となってまずいち早く取り組んだのは人絹事業である。さきの欧米視察で人絹業の発展に着目し、東洋紡績にとってこの新技術は間違いなく成長分野となる判断し先取りしたのである。昭和二年に堅田工場で人絹の操業を始めて、翌年には同工場を東洋紡績から分離・独立させて昭和レーヨン株式会社とした。その後の繊維界から見て、いかに阿部に先見の妙があったかは言うまでもない。
他にも阿部は昭和四年には上海工場を分離して裕豊紡績株式会社として中国大陸の需要に応え、同年末の不況には、率先して「五分減配」を断行した。翌五年には大阪合同紡績を合併し国際競争に備えた。
昭和九年、阿部と共に発展した東洋紡績は創立二十年を数えた。二十年における利益金は約三億円にも達する天文学的な数字を記録した。阿部はこの年、関西日英協の会長に推され、すでに昭和6年に貴族院議員に勅選されていたので、功なり名を遂げた喜びに浸っていった。
この間に昭和レーヨン、裕豊紡各社長、上毛電力、王子製紙各取締役、
大阪商議所顧問、大日本紡績連合会会長などを歴任した。翌昭和十年、阿部は社長を退き会長となった。それから2年後、昭和12年五月十二日、脳溢血で逝去した。享年六十九歳。
<参考文献>日本財界人物列伝第2巻「阿部房次郎」青潮出版 昭和39年刊
加藤寛編「福沢山脈の経営者たち」(ダイヤモンド社 昭和59年刊)
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