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日本リーダーパワー史(112)初代総理伊藤博文⑧伊藤の直話『下関戦争の真相はこうだ・・』

   

 
 
日本リーダーパワー史(112)
 
初代総理伊藤博文⑧伊藤の直話『下関戦争の真相はこうだ・・』
<井上、高杉と英国・長州藩間の交渉役で奔走す>
 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
命がけで藩にヨーロッパ、軍事力を説明
 
その当時は攘夷論なり、幕府に反対するなりで、他から探偵などに這入って来るやつを厳しくやっておるので、鑑札がなければ通れぬ。ようよう代官から鑑札を貰って、夕方に山口に着して、その晩、宿屋に泊って、翌日君側の役人をしておる毛利登人といふ者に逢って、予ねて知っておる人であるから、実はこううこう云ふ訳で帰って来たのだから、君公の前に出て殺されても宜しいから、どうかあわせて呉れと云ったら、大きに驚いて、マー能く帰って来た、この国難の時に当って能く帰って来た、早速君公に蓬はせてやるから安心せよ、それは誠に有難いと云って宿屋に帰って、翌日呼び出しになって家老、始め列席の所に於て尋ねられたから、なんでも四時間ばかり先づ地図を指して我々の耳目に見聞して居るだけのヨーロッパの文化の形勢をいふより仕方がないと思ってその事を述べてそれから今、正さに横浜に集って居って馬関の砲撃をなさうとする所の十八隻の船はかくの如き構造である、大砲の数は幾門、弾薬はそれに応じて備えてある。
 
 
且ツ一切の兵器の備っておることも述べて、是れに抵抗して戦争をした所が勝てる目的はない、のみならず毛利家が僅かに一藩を以てこれに抵抗して何等の益があるか、それよりは寧ろ立で和睦して、王政を復古して、日本の国力を統一しなければ、外国には抵抗することは出来ぬといふ議論であった。
 
長州藩はヨーロッパ共通の敵
 
所が横浜を発するに当て各国の公使から毛利公にあてたる書翰を出して、お前達、帰るなら持って行って呉れと云ふから受取ったが、この手紙の中に何が記してあるか分らぬ、うかつにこの手紙を出すことは出来ぬ、出せば西洋人の御便に帰ったとしか見られない、不徳義かは知らぬがこれは出さぬと極めて握り潰した。その手紙にはヒドイことが書いてある。
長州は関西十一国の諸侯と共同して日本和親を結んだ各国に対してゆえなく砲撃を加ふる、かくの如き所為は世界のコンモン、エネミー(共通の敵)と認める、公敵はそのままに差し置かぬから近日、各国申合せて軍艦を送って砲撃する積である、併ながら殿下が…其時分、プリンス、ハイネスを用いて居るが……殿下の命を以て欧州へ学問をさせに道はされてあった、両名の青年は自国の危難を救はむとて、わざわざ帰って来て各国公使に申出たに依って、殿下の許へ送る、付てはこの送るだけの好意に対しても各国が敢えて長州の砲撃を好むものでない、故なく戦争をするものでないと云ふことが、御推察が出来るだらう。
 
併しながらそれに拘はらずおやりなさると云ふことなら致し方がない、砲撃する、砲撃した以上はどうするかと云へば、かって英仏両軍が合して北京に攻入った如く、天子の勅許を請ふて開港するより外ないと斯う云ふ文章であった。
 
それは私は出さなかったが、さう云ふやうなことも一々私は話をした、所が久し振りで座ったものだから急に君公の側を立つことが出来ぬ、それからマア座って評議の模様を見て居ったが、どうしよう、斯うしようと云ふことでなかなか急に決せられない。
そこで我々は旅宿に退きたり、井上は山口で私は萩だから、なんでも御互にない命だ、三日保てるか、四日保てるか分らぬから、とにかく、父母に久し振りで逢っていとまごいをして来てはどうかと云ふから、それなら行かうとなって出て行った。
彼是れする中に議論が動いて来た、動いて来た時に、先鋒隊というて君側を警固して居る隊から、是りや井上、伊藤がヨーロッパから帰って来て色々の事をいうた為めに、藩議が動くことになったからあれを置いてはいかぬ。
 
伊藤、井上に暗殺隊せまる
 
今夜、暗殺するという事になった、そこで井上は言ふに、我々は折角、帰って来たが志を得ずして人手に掛っては遺憾だから自殺すると云ふから、私は井上に向ってそれはいかぬ、最早どうせ斯うやっておる以上は人手に掛っても仕様がない。
 
若し今夜来たら多勢に無勢でも刃向って切り死をしようということに決して、腹を切ることは止めた。さうした所が幸に藩から先鋒隊を制したために暗殺と云ふことも止んだ。その当時長州に騎兵隊と称する攘夷隊あり、元は高杉が作りたり、山県も其内に加はわり居たり、高杉と云ふものはその後政府の役人であった。皆懇意であった。
高杉は故ありて、我々帰国の当時牢に入って居る時であった。騎兵隊の連中は時々やつて来て君等は以前同志だから仕方がない、同志だから殺す訳にいかぬといふことで、そのお蔭を蒙った。今の改進党自由党の間にもさういふ訳があるかも知れぬ、それから段々する中に日限が経過する、其間に余程危ぶない事が沢山あったが、細かいことはよして大体を御話するが、十二日間といふ日限が切れるといふ事になって、軍艦は待って居るし、どうしても返答をしなければならぬ。
 
どうしたら宜からうと云うてその間に政府の役人と相談したけれどもどうも極らぬ。それが到頭日限が切迫して返答に行かなければならぬと云ふ場合になった、その中に山口の政事堂という参政の会する、即ち今日の内閣といふやうなものが開かれておって、その政事堂で相談して、抑々長州が攘夷をやるにも勅命で朝廷の御意を奉じてやったのであるから、この攘夷といふことをやめるに付ても朝廷の命を伺はねば私にやめる訳にはいかぬ。
 
何れ長門守上京天意を朝廷に伺った上で御返答申さうから馬関へ来ることは三箇月猶予して呉れ、併しそれも聞かぬといふことなら何時でも戦ひの用意をして御待ち申さうといふ返答だ。
 
それからこの返答では実に外国人に約束した通りにいかぬから甚だ困る、井上とも相談した所が井上の言ふに、どうもさう云ふ訳の分らぬ返答は幾ら外国人と云つても出来ぬぢやないか。
 
しかし、それもさうだけれども、かくよりこの返答をした方が増しだ、それなら行かうと云って、今度は三田尻より船に乗って姫島に行った。丁度十二日の日切りの満つる前夜、正に明朝出帆しょうと云ふ其晩に着いた。
 
 
アーネスト・サトウから「生きていたかと」シャンペンで乾杯
 
確か、この事は「ブルー、ブック」の中に出て居ると思ふが、サトウに逢うたら能く帰って来た。辻もお前達は活きて居らうとも思わぬだったと云らて、シャンパンを抜いて出して、談しはどうしたといふから、色々尽力をして見たが連もいかぬ、手紙の返答はといふから手紙の返答は別にないと斯う言ったら、受取一もないかといふから、受取もない。
 
即ち孜々の生命を以て御返答申すと言った事も「ブルー、ブック」に書いてある、そんなら今度何れ弾丸雨注の間に御目に懸ると云ふやうな話で、悄然として我々は分れた。
 
それから国へ帰った所が、丁度其時、長州では三条公以下七卿を連れて、さうしてこの間死んだ元徳公長門守と云った人が京都に出て行かうといふ騒ぎになった。既に京都には福原、益田、国司の三人に、それに木戸なども居った、さうして戦争を今にも始めようと云ふ容易ならざる所へ、三条以下七卿が出て行くと云ふことになった。
 
その出て行くのは、表面は哀訴歎願、哀訴歎願だけれども、許して呉れといふ話でなくって、朝旨を奉じてやったと云ふ弁疏的のことである。其実どうかといふと、兵を交へるといふ仕掛だ。
 
所が近時著さるる維新史料といふ歴史を詮索するに、あの中に書いてある事で我々の知らぬことが一ツ出て来た。其中に長門守上京の趣意はどうだといふに、井上聞多、伊藤俊輔が近日ヨーロッパから帰って来て報告する所に依れば、容易ならぬ外国の景況である。
 
軍艦を率ひて摂海に乗込んで開国の勅許を迫ると云ふことだ。実に国家重大なことであるから出て行くと云ふやうなことで、我々の帰ったのが口実になって出て行くやうに書いてある。此事は当時聞かなかった、此間も井上とも話したが、御互ひに知らぬことで、是れは全く藩吏が出したものに違ひない。
 
所が先刻御話をしようと思った、清水清本邸と云ふ家老があって、この清水清太郎といふ人の先祖は清水長左衛門といふ、彼の高松城水責めの時腹を切った、あの家で一日私の話を聞きたいと云ふから、話をした所が貴様の話は如何にも尤だと同意した。この人はどっちかと云ふと、小早川隆景流の男だが、貴様の話は尤だ、今日より貴様に同意する。
 
而して攘夷心は五十年の間、腹の中に納めて置くから直ぐ京都に行って呉れぬか、今あすこで事を起されてはどうもならぬ、京都に行って宍戸左馬介等と談じて、なんでも貴様の量兄で話して呉れ、どうか攘夷論を止めさして其勢を以て王政復古をやれと云ふから、そんなら宜しい、行かうと云って備前の岡山まで来ると、京都より戦争をした敗兵がヒヨロヒョロして帰って来るに会った。
 
三条以下七卿は海路播州室の津まで来て引返したと云ふことで、仕方がないから私も三田尻に帰った、所が君公には会議を開くといふことになった、京都で負けたので余程長州の形勢も変じた。
 
決断できぬ長州藩、時間切れで戦争へ
 
馬関に軍艦を引入れてもう一戦やるのは甚だ困難だから、何とか之を防ぐ工夫はないかといふ議論になった、夫はムヅカシイ今日になっては…併しやって見ようか、当時、横浜に行かうといふのはムヅカシイから、長崎に出て行くより仕方がない。
 
それなら工夫して見ようと云って、僅の日数の経過した中に、姫島に十八艘の軍艦が来た報知のありたる其夜、山口の宿屋に泊って居った所が、今、兵庫県の知事をして居る周布の親父の政之助、是れが我々が帰った時には蟄居させられて居った。
 
それが俄に呼出しになって、所謂、内閣と云ふやうな所で、軍艦が来たさうだが、どうかして止めやうがないかといふから、それはムヅカイと思ふ、今度外国人も覚悟をして来て居るから、辻も止らぬ。
 
けれども何とか方法はないかといふから、それなれば今、薪水食料を与へて馬関交通を自由に許すといふ条件にでもしたらどうか、それで宜しい、それなら君公の書翰を認め印判を取って出掛けて見ようと云ふことになって、人を呼び評議する暇がないから書面を書いて君公の寝て居る所に行って印判を貰って三田尻の松島弘蔵といふ水師提督と号して居る者を同行すると云ふことになり、直に命令を下して翌朝私は三田尻に出て行った。
 
それからバツテーラに乗って姫島まで七八里もある、そこを漕ぎ出して半ばまで行くと、今の三時過ぎであったが、蒸汽船が煙りを焚いて下の関の方に行くのを見た。
 
是れは連もバツテーラで行った所が追ひ付く話でないといふもので引返した、どうせ事が始まると思ったから三田尻に泊って翌日、山口に帰った。帰った所が萩で牢に入れられた高杉が出て居る、尤も其頃は自分の家の座敷内で牢居して居った。
 
この以前、帰朝早々高杉と我々の意見を談合し置くの必要を感じ井上は萩に行きて面暗したる故、高杉直ぐに同意した。そこで私も久し振りで高杉に面会した所が、「オレは牢に這入って居ったが、罪を免すと云ぶ事もなく御用がある出て来いと云ふ、実に何んといふことか分らぬ、兎に角ここに居っても仕方がないから、馬関に出掛けて見よう」と云って、其日の午後二時頃私は高杉と共に駕籠に乗って出掛けた。
 
井上は其前に馬関に行った。夫から山口から二里程もある小郡近くへ行くと、大砲の音が馬関の方面に聞える、凡四つ時分、今の十時過ぎと思ふが、白鉢巻具足で駕に乗ってドンドン来る者がある。
 
誰れだといふと、長府の士だ、何事だと云ふと今日馬関において戦争が始まったから御本家様へ御注進だと云ふ。それから構はず行くと、又駕寵が来る、今度は誰れかといふと、井上が馬関に行った帰りだ。三人そこへ駕を下ろして評議した、井上の話に馬関に行った所が話しする所でない。軍艦に往きてサトウにも面会せり、サトウは言ふに今度はこの弾丸を御進物にするからと云ふことで話にならぬ。
 
それから今日夕方より開戦になりたり、帰り掛け壇の浦の砲台のある所を通過したるが、アムストロングの大砲の丸は存外的らぬで皆上に行くやうである。併し兎に角鉄砲を打たれた以上は一と戦争せずして和議をやらさぬやさせねばならぬ、さうしなければ目が覚めぬ、是れから三人とも山口に帰って君公の出馬を勧めよう、これは防長の士気を作興する為にも、君公の出馬が宜からうと云ふので、翌日御前会議を開いたら、至極尤だから出るといふことになって、其翌日君公は小郡まで出て、井上は小郡の防禦を言ひ付った。之は山口の関門である、高杉と私は馬関の戦争の方参るといふ話だ、それで出て行き清末と云ふ処まで行くと、君公から急に御用があるから帰れと云ふので、小郡まで帰って来た所が、君公は和議論に極ったと云う話だ。
 
連合軍はアムストロング砲で砲撃
 
井上と私と高杉と三人和議論の事を仰せ付った、段々攘夷をやったけれども、権謀を以て一時休戦するから和議をと云ふ話だ、それから高杉は捻ぢ込んで、今日に至って和議といふことは甚だ聞えませぬ、戦争が起らぬ前ならやるけれども、起った以上はどこまでも御貫きなさるが宜しいと云うたら、君命を聞かぬかと言はれた、君命を聞かぬと言へば其結果割腹より外はなし、それからマー君命を聞かぬといふ事ではないと言って、漸く和議と定むる時に、各部の兵隊に休戦を命ずる必要あるが為めに、一面には君側の重役を派出して君命を伝へ、其報を待て我々は軍艦へ談判に出掛けようといふのであるが長府まで行って見ると、兵隊押への使ひは帰らず、仕方がないから、私一人行って軍艦の砲撃だけ止めさせようと云って、漁船に乗って軍艦に行った。
 
さうすると一番大きな「コンクエスト」七十二門の大砲を備へた軍艦が居って、それに乗船しまうと云うて軍艦の膚兵と話した所が上らせぬ、旗艦はアノ船だといふから「ユラヤルス」と云ふ船へ行って旗艦はこれかと言うたら、サトウが出て来た。
 
アー伊藤さん、戦争にアグミましたかと尋ねたり、私はどうか水師提督に面会したいから逢せて呉れというたら、今陸上の大砲を分捕る指揮をして居るから、マアこっちへ御出なさいといふから這入ると、カビテン、アレキサンダーと云ふ人は足を撃ち抜かれて居って、今あなた方の人がこんな悪いことをしたと云ふやうな訳で、誠に気の毒であった、さうかうして居る中に、水師提督が帰って来たから、どうかボンバートだけは止めて貰ひたいと言うたら、直ぐに止めた。
 
君公はなぜ出て来ないと云ふから、君公は病気だから使ひだ、さうかうして居る中に漁船に乗って高杉は宍戸備後と名乗り烏帽子垂衣でヒヨコフオコ来る。
 
眼鏡で見て居ると其姿がおかしい、やがて来て談判をした所、委任状を持って来たかといふから委任状は持って居らぬ、それぢや戦争は止める訳にはいかぬ、是非君公を連れて来いと云ふ。
 
それからその時色々条件を付して請求された、和議の成るまで彦島を占領すると云様な事もありたれども、之は断りたり、私は高杉と共に一応君公へ伺ふために、船木の本陣迄帰る。
 
誰れか一人残れといふ話になって、井上が残るとなって、高杉と私は帰って、それだけの用意をしなければならぬといふことになった、そこで其話をして行くと、本陣にて評議中なんだか十四五人ざわざわして居る。
 
妙な事だと思ってると、モト私共が手習に行きました師匠の息子久保孫三、当時船木代官が来て窃に高杉と私に告るに、今度お前達ちを暗殺すると云ふ訳だ、当時山田顕義品川弥二郎の率ゐたる御楯隊中の者、京都一敗後、和議嫌ひで暗殺をやると云ふ者等なり、それからマー困った奴が居る。
 
此時高杉は私に云て曰く、是れはいかんぞ、我々は此大事のことを抱へて居るのに暗殺すると云ふ者が眼の前に現われて居っても政府はどうすることも出来ぬ。実に犬か畜生か、もう斯うなっては仕方がない、去るに如かずと云って、殆ど二里三里夜通し行って山中の農家に隠れた、久保と云ふ人は我々を保護するために隠伏の援助を与へたり、同人も長州はこういう情態では滅亡だ、どうも仕方がないといって大に憂慮したり。
 
我々潜伏の為に政府も大に驚いて井上を下の関に呼びにやって、井上も帰て来て君公始め政府も両人の身体上に於て決してそんな不慮なことはさせぬと保証をして、我々の潜伏所は久保が熟知するゆえ久保の案内にて宍戸磯と井上の二人は君命を帯びて迎ひに来た、それから仕方がない、また再び船木に帰って来て、今度は家老その他十一人を連れて馬関に出て、到頭談判和議の決了をしたと云ふ訳であります。
 
『東京経済雑誌』明治三十年四月十日号
 

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