日本リーダーパワー史(114)初代総理伊藤博文⑩ 外国新聞の人物評『外国人をこのみ、丁寧にあつかう人』
日本リーダーパワー史(114)
初代総理伊藤博文⑩新聞人物評『外国人をこのみ、丁寧にあつかう人』
前坂俊之(ジャーナリスト)
1868年(慶応4)年3月12日【2月19日〕付『もしほ草』
神戸の奉行伊東俊助といえる人は、以前ヨーロッパへ遊学し、外国人の事がらもよく知りたる人なり。ゆえに外国人をこのみ、丁寧にとりあつかい、まことによき人なり。神戸の港もはかくひらけ、処々家作も出来たり、いずれも丈夫なる家なり。
もっとも地面は異人の随意にて、いずれの地面にてもかまいなきよし。ゆえにとなりどうしともなり、日本人異人の中、まことにむつまじくねんごろなり。大阪神戸のあいだ、蒸気車道、テレグラフできること疑なし。アメリカ人、フランス人、イギリス人と、銘々三通に製作の仕方を書付にして政府へ持出したり、願済とならは、直に外国人取かかるべし、しかるときは、神戸も実以て繁昌の港となるべし。
兵庫県知事当時の官邸のようす
1858(慶応4)年9月13日〔7月27日〕付『ニューヨーク・タイムズ』
今日、副知事の伊藤俊輔を訪ねた。しかし彼が不在だったので、この棲会をとらえて敷地を散策した。左手には大きな池があり、金魚が飼ってあった。右手には古い大樹の並木があった。人工の狭間を渓流が流れ落ち、そばに小さな岩星があった。
その向こうには青々とした芝生が見渡され、風変わりな灯籠や灌木が散在し、枝はみごとに整えてあった。奥まった所にあずまやがあり、テーブルに英語の教科書と新聞、そして和英の辞書が置いてあったので、ここは副知事の書斎であると知った。
こうしていても副知事が戻ってこないので、私は税関を訪れてHASSA-GAWAHOUSKIに会った。彼は感じのよい日本の若者で、長崎の学校でわが宣教師に英語を習ったことがあり、話す英語はとても流暢である。彼は私に日本語を教えようといとうコって出た。しかし、日本人には自分たちの言語を教える力はなく、実は、彼らは外国人から外国人の文法的知識しか学んでいないことが私には分かった。当地で会える少数の興味深い人物の中には、アムステルダムから来たオランダ人医師、ドクター・ホネックがいる。彼は開業したはかりだが、成功の見込みはおおいにある。東洋では、医書ほど将来性のある専門職はない。おのおのの商会は普通、年に1㈱ないし150ドルの報酬を医者に支払っている。こういう慣例なので医書は一人立ちできるのである。
横浜郵便局開局の祝宴に列席
1875(明治8)年1月6日付『郵便報知』
今回横浜郵便局は県庁と対せる他に新築竣功したりこれは米国と結約ありて自今海外各国へ通信を開かれしに因てなり、ここにおいて昨五日開業式を行い外客には十一ヶ国駐割公使を招待し午後第五時尽く参会あり唯り独逸公使は病を以て参せず本日の主たるべきは大久保内務卿なるが湯治不在中ゆえ、伊藤工部卿これに代る、列席の諸君は林内務大丞、寺島外務卿、石橋外務少垂、長田外務六等出仕、中島県令並に前島駅逓頭、山内、真申両駅逓権助、塚原七等出仕、同案御雇米人ブライアン、ラム、カー三氏等なり。第五時各国公使東京より着するや郵便局より馬車をステーションに備えてこれを迎え応対所に招し参議その他諸公と一礼して然る後食堂に相会す。
伊藤工部卿各国公使へ陳述せられし祝辞
諸君この新年之始に当て日本国政府は国内衆庶の信書を合衆国に又同国と交信之的ある他の諸国へは合衆国を経てこれを郵致するの任を執り以て日本国と米欧諸国との往来をして益間断なからしむ、これに於て我政府は当帝国第一の港に駅逓寮の分庁を建設しこの盛大なる書信往復の便を図れり、余思うに今この開業式を行うに当り各国公使に於ても必我輩と喜悦の情を共にせられん、余殊に各位の来臨を謝す切に望らくはこの郵便局を経由して彼我人民の間に往復する群書信悉皆平安好意の消息たらんことを請う、各位に於てもこの意に同ぜられは幸甚。
我が他の諸外国人へ推し広ろげたる通信を有するの力は第一番にアメリカ連邦政府の我が申入れを受けたりし所ろのその友交の情に在り○この故に余は新連邦大統領の健康及び新大統領のこれが元首たる所ろのアメリカ人民の繁栄を祝飲することに就て君の余と相共にこれを同すると祈願す。
外国新聞に見る人物評「日本人列伝」伊藤博文
1880(明治13)年8月21日付『ジャパン・ウィークリー・メイル』
一八六四年八月、学生の身なりをした二人の日本の若者がイギリス軍艦の甲板に立
って次第に遠くかすんでゆく海岸を眺めていた。軍艦は、外国列強の旗を侮辱した長州藩主に当事国とその同盟国の最後通牒を渡すべく横浜から下関へ向かうところだった。
二人の学生は井上磐(現外務蜘)とこの略伝の主人公である。二人はともに藩の規則を破り、封建的主君である長州藩主の意向にさからって、当時日本の若者の想像力をかき立てていた西洋文明を見聞するために西洋諸国を訪れていた。
それはちょうど、エリザベス時代の荒くれ者たちが「いざ、西へ!」のかけ声とともに、甫アメリカの裕福な諸都市を略奪し、憎むべきスペイン人にひと抱吹かせるために危険に満ちた大海へ乗り出していったのと似ている。
どちらも同じ熱烈な祖国愛に燃えていた。この祖国愛は処女女王治世のころのわが国の貴顕人士の顕著な属性である。伊藤と井上の場合は、文字通り命がけで、自分たちが不興を貰った藩主に外国同盟の要求に抵抗することの無益さを説くという危険きわまる役目を果たそうとしていた。
西洋訪問で得た経験をもとに状況を説明すれば、愛する国を迫りくる惨禍から救うことができるかもしれないと望みをかけていたのだ。
この企ての結果は歴史のページに血で書かれているが、そのことはこの略伝の本筋とは関係がない。二人の若き使者が、失敗に終わったものの詠む誠意任務を果たしたことを記しておけば足りる。
伊藤博文は一八四〇年、長州に生まれ、力の真の源である知識に渇いた活発な知性に対して教育が与えることのできる利点をひとつ残らず取得した。すでに述べたとおり彼は井上公とともにイギリスに渡り、最も恵まれた環境のもとで西洋文明を勉強できるこの機会を貪るように利用した。帰国した伊藤は前述の危険な仕事を自ら買って出て、大方の暗い予想に反して無事に逃げおおせた。
その後彼は参与兼外国事務局判事に任命された。まもなく大阪府参事となり、続いて兵庫県知事となった。この責任ある難しい地位にあって、伊藤が外国で得た知謝よ帝国に計.り知れないほど役に立った。
外国人に対しては昔からの憎しみと追放欲が今なお日本人多数の支配的感情であり、その様発を防ぐために伊藤は絶えず警戒の目を光らせながら自らの外交手腕と能力を休みなく働かせなければならなかった。爆発があれは、当時、維新に伴う産みの苦しみからゆっくり回復しつつあったこの国に大きな不幸と屈辱をもたらしたにちがいない。
持前の熱意と能力で兵庫県知事を立派につとめたのち伊藤は大蔵大輔に任ぜられ、公務でアメリカを訪問した。
アメリカから戻った伊藤は工部大輔になり、根強い反対を押し切って東京・横浜間の鉄道建設を実現に導いた。この件に関しては大隈公の貴重な助力があった。
一八七一年、この小伝の主人公は有名な使節団の副使のひとりとして岩倉、大久保、木戸、山口とともにアメリカとヨーロッパを訪れた。サンフランシスコでは使節団一行は盛大な歓迎を受け、伊藤が英語でスピーチをして大いに注目を集めた。その中で伊藤は使節団の目的と故国の抱負を詳しく述べた。
当時、文明の道に一歩足を踏み出したばかりの日本はその後大胆に歩を進めてきている。
一八七三年に使節団が帰国したとき政府の関心を集めて熱い議論の的となっていたのは朝鮮侵攻問題で、この問題をめぐって閣僚間に大きな対立が生じていた。伊藤ら、外国旅行で目を開かれていた閣僚たちはためらうことなく、戦争とそれにともなう日本の財政破壊に反対した。これがもとで内閣は分裂し、有名な西郷とその同調者は野に下った。政府改造にともなって伊藤は参議兼工部卿に任命されるとともに正四位に叙せられた。
一八七四年、故大久保がフォーモサ(台湾)をめぐる紛糾の関連で北京に出かけると、伊藤は大久保の留守中の内務卿代行をつとめ、この年初めて召集された地方官会議の議長に任命された。しかし情勢不安のため同会議は結局開催されなかった。中国との問題が平和的解決を見たのち、政府の有力閣僚数人が主流派の対外政和こ対する不満から郷里に引退した。こうしたあつれきは長びけば帝国に大きな被害をもたらしたであろうが、幸いにも、昔から伊藤と試練や危険をともにしてきた頼もしい盟友、井上磐公の努力で無事におさまった。
ある会談-日本史上、「大阪会議」として知られている-が大阪で開かれ、立場を異にする閣僚の私憤が友好的に解消されたうえ、ひとつの重大計画が立案されて、おの
おの力を合わせてその実行にあたることになった。伊藤、板軋木戸、大久保は日本
に代議員制度を認可することの是非を検討する仕事を割り当てられた。彼らの努力の
結果は一八七五年四月十四日に天皇が行った約束のうちに現れている。その内容は、国内にそのような制度的変革の機が熱した時点で国民議会を開設するというものであ
った。
伊藤公はその後東北地方と蝦夷を視察して回り、人々の要求と国の資力を調査して
一八七七年に首都に戻った。次いで天皇の京都行幸に随行して、西南の大反乱の天皇とともに京都にとどまった。平和が回復したのち、伊執は勲一等旭日章を授与された。
以来・伊藤公は数々の要職を歴任し、栄誉を重ねると同時に祖国に対して多大な働きをしてきた。閣僚制度取洞局長官、地方官会議議長、そして-大久保が無残に暗殺されたのち-内務卿。
どの地位にあっても伊藤は革命後の新政府を待ち受けていた壮大な課題を正しく認識して立派に職責を果たした。グリフィスの生彩ある表現を借りれば、その巨大な事業とは「積年の病を癒やすこと、封建制と党派主義をその弊害もろとも根こそぎにすること、日本に新しい国民性を与えること、日本の社会制度を変えること、日本の血管に新しい血を輸血すること、突然の光の洪水で半分目の見えなくなっている隠者の国をキリスト教世界の裕福で攻撃的な諸国家の競争国に仕立てあげること」であった。
伊藤とその同輩が彼らの前にあって解決を迫る大問題をいかにみごとに処理してきたかは、決して誤りを犯すことのない時間の手によって誤解と偏見の零が一掃されたときに歴史が忠実に記録するだろう。
外国が見るヨーロッパ訪問の目的
1882(明治15)年3月4日『ジャパン・ウィークリー・メイル』
日本で起こることは何でも憶測の棲となるが、この国の憶測は決して仮説の衣をまとうことがない。隅々まで事実で装った話でなければ公衆は目もくれない。たとえは、昨夏、ある閣僚が友人と泳ぎに行った帰り、その友人に銃声が聞こえなかったかと尋ねた。友人は聞こえなかったと答えたが、その時あたりにひそんで二人を盗み見ていた連中はもよりの電信局に行き、前記の閣僚が水泳中に狙撃されたと東京に打電した。
同閣僚は間一髪、命拾いをし、付近一帯は戒厳令に近い状態におかれている、と。最後の点だけはこの大げさな作り話の中で事実と呼べるものだったが、世間には常時この種の流首があふれているので、たいていの場合人々はいちいち気にとめることもせずやり過ごしている。
巨人族の末の妹がまきちらしているこうした流言の最新の拾い物は伊藤博文公のヨーロッパ訪問の目的だ。彼は信用通貨の補併用に外国借款の募集に行くのだという。言うまでもないが、伊藤氏に借款の交渉をしようという考えがあるなどと言うのは、彼がアイルラン
ド王位継承者に立候補する気でいると言うようなものだ。
彼のヨーロッパ訪問の理由は二つある。第-に、過去十二カ月しだいに増えてきた職務で少し損われた健康を回復すること、第二に、西洋の議会制度のしくみを視察することだ。この二つの理由をしかるべき順序で並べたと言うつもりほない。ただ本紙に伝えられた順序に従ったまでのことだ。
当然ながら、伊藤氏が求めている類いの情報は書物から十分得られることから、彼のヨーロッパ訪問は全く職務以上の余分なことだという意見も出た。しかし枢密院議長がまさにこの目的でヨーロッパ訪問をしなければ、先のあら探し星は今度は思い上がっていると非難すると見てよい。
「純良でない容器は何を注ぎ入れても自分の物にしてしまう」議会制度は、その中で育てられた我々にとっては簡単なしくみに見えるが、日本のために代議員制度を細かいところまで整えるように求められたら我々は困り果てることだろう。こうした事柄には実務上の細々とした点が山ほどあり、それを十分学ぶには実際に自分で視察するしかなないので・我々としては伊藤氏がこの事実を正しく認識し、何であれ調査で確かめられるものは成り行き任せにしたりしないと決意していると思うとうれしい。
英郵船にて欧州へ出発
1882(明治15)年3月14日『東京横浜毎日』
伊藤参議が欧州行の出発日限は前号の紙上に来る十七日の趣きを記せLが、出船の都合に依りいよいよ本日午前出発せられ随行の官吏には概ね昨日午後四時出立せられたり・尤も乗船は英郵船ゲーリック号なりという。