『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐/水野広徳③』-『その後半生は軍事評論家、ジャーナリストとして「日米戦わば、日本は必ず敗れる」と日米非戦論を主張、軍縮を、軍部大臣開放論を唱えるた』★『太平洋戦争中は執筆禁止、疎開、1945年10月に71歳で死亡』★『世にこびず人におもねらず、我は、わが正しと思ふ道を歩まん』
2018/08/22
日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳③
2009/02/10
前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
⑪ 海軍大佐で海軍と訣別、軍事評論、ジャーナリストに
帰国後、思想的に葛藤を続けていた水野は一九ニー年(大正十)正月、「東京日日新聞」(現・毎日)の依頼に応じて五回連載の「軍人心理」を書いた。第一次大戦後のヨーロッパの軍隊の威力を保持するために、「神聖純潔なるデモクラチックな軍国主義を実現せよ」と軍隊の民主化、軍人の参政権を主張した。
自らの軍人心理を大胆率直に吐露したものだが、一般からは「ついに海軍内にも社会主義にかぶれた軍人が出現した」とがぜん注目を集めた。しかも、水野は上官の許可を受けずにこの論文を発表していたため、三十日間の謹慎処分を受けた。同年八月、水野は軍服に永久の別れを告げた。
大佐で海軍と訣別した水野は一九ニー年(大正一〇)以来、剣をベンにかえ軍事評論家となり、当時、日本を代表する論壇誌「中央公論」「改造」などに軍備撤廃論や軍縮論を精力的に執筆し、キャンペーンを張った。
昭和戦前に政府が軍部に牛耳られた要因の一つは軍部大臣武官制にあり、「統帥権の独立」による軍部の独走を許した。昭和十二年の宇垣一成の組閣が流産したのは、軍部大臣武宮制をタテにとって、軍部が陸海大臣を出すことを拒絶したためだが、水野はこの武官制の問題点を早くから見抜いており「軍部大臣開放論」(中央公論・大正十一年八月号)の中で、「武官制を廃止し、文武官の出身いかんにかかわらず、適材を任用せよ」とシビリアンコントロールの重要性を訴えていた。
「統帥権の独立」についても、多くの憲法学者が「続帥権の独立」を認めた中で、水野はただ一人「統帥権の独立否定論」を主張した。
「国防は国家のための国防であり、軍人のための国防ではない。軍人の政治介入を防ぐため、軍部大臣を文官にまで開放し、国防方針の統一を内閣の手に収め得た時、政府は初めて軍閥の妨害と拘束より脱せられる(「現内閣と軍閥との関係」(『中央公論』大正一四年十一月号)とズバリとその本質を指摘した。
一九二二(大正十一)年にワシントン軍縮会議が締結され、海軍主力艦の保有量が英米の六割に抑えられた。二四年(大正十三)五月に、米国で排日移民法が可決され、反米感情が一挙に高まり、日米戦争がクローズアップされてきた。
「アメリカを撃て」のムードの高まりを背景に軍事評論家・石丸藤太(一八八一九四二)が日米戦争未来記の『圧迫された日本』(大正十一年)、『日米戦争・日本は敗れず』 (同十三年)などを出版し、「日米戦わば、日本は必ず勝つ」と主張したのに対し、水野は真っ向から反対の論陣を張った。
⑫「日米戦わば、日本は必ず敗れる」
一九二三年(大正13)二月に加藤友三郎首相、上原勇作参謀総長らはアメリカを仮想敵国とする新国防方針を作成した。水野は早速「新国防方針の解剖」を「中央公論」(同年6 月号)に発表、日米戦争を徹底して分析した。
水野は現代戦は兵力よりも経済力、国力の戦いであるとして、鉄鉱石、鉄製品、綿花、石油などのほか貿易へのはね返りなどを検討、わが国は米国に圧倒的に劣り、長期戟に耐えられないと判定。 石丸が日米戦争は「双方の一大消耗戦となり、海軍力、その練度、精神力などの軍事的観点から分析して、日本が勝つ」と結論づけたのに対して、水野は国家、経済の総力戦となり国際的なパワーポリティックスの観点からみても、「日本は必ず敗れる」と正反対の結論を出した。
実際の戦争でも空軍が主体となり、東京全市は米軍による空襲によって、一夜にして灰塵に帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の戦争となるため、日本は国家破産して敗北する以外にないーと予想し、日米戦うべからずと警告した。
水野は「当局者として発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵国として国防方針を策立する如きことはあるまい」と指摘したが、太平洋戦争が起きる二十年前のこの予想は見事に当たったのである。
軍縮の徹底した推進論者であった水野はワシントン条約の締結を高く評価し「有史以来の人間の為したる最も高尚なる、最も神聖なる大事業。日本財政の危機を救いたるもので(略)日本海軍の危機を救いたるもの」(「軍艦爆沈と師団減少」(『中央公論』大正十三年十月号〉と書いた。
日米の経済関係を重視した水野は「日本は経済生活において、米国に負うところ大なることを知っている。日本潰すには大砲は要らぬ。米国娘が三年日本に絹をストライキすれば足る」(「米国海軍の大演習を中心にして」中央公論、大正十四年二月号)と日米協調が不可欠なことを主張して、軍国主義者の傲慢な態度を批判した。
「今の日本人中に無責任に放言的に、日米戦争を説く者は甚だ多い、彼等は太平洋を泳いで渡り、大和魂と剣付鉄砲さえあれば、ロッキー山を越え得ると思っているであろう。いやしくも、多少なりと日米の事情に通ぜる人間にして、日米戦争など本気で考える者は恐らく一人もあるまいと信ずる。
不幸にして、わが国には日米戦争扇動者が甚だ少なくない。軍人を中心とし、その周囲に巣食う慢性愛国患者や憤慨常習病者である。彼等は今尚、『敵国外患なければ国危し』との侵略御免時代の常套語を金科玉条として、国民の元気を鼓舞する唯一の道は、対外敵愾心を煽るに在りと信じているらしい」
⑬ 日米非戦争を主張、軍縮を、軍部大臣開放論を唱える
一九二四年(大正十三)秋、太平洋上で米国を仮想敵国とした大規模な海上演習を実施した。米海軍もこれに呼応した形で大演習を行い、高まりつつあった日米戦争の論議に一層油を注いだ形となった。
日米対立のエスカレートを憂えた水野は「米国海軍の太平洋大演習を中心として(日米両国民に告ぐ)」(「中央公論」大正十四年二月号)を発表、両国民はもっと冷静になり、軍縮すべきと提言した。
日本は本来、軍国主義的な国民ではないが、「大和魂己惚病と戦争慢心病の熱にうかされている」と指摘、日米双方の対立の原因は「双方の猜疑に基づく恐怖心と誤解に因る危惧心以外の何ものでもない」と分析、
特にマスコミや知識人の態度を「国際情談論者と対外興奮論者」と形容し、「無知の恐怖が国際猜疑心となり、疑心暗鬼をかきたて、対外空言筈、国際神経衰弱病者となる」と帝国主義者や軍国主義者を批判した。日米非戦論を熱心に訴えて、何度も警告を発した。
戦前の日本の政党政治を崩壊させた原因は統帥権独立の問題であった。明治憲法下で軍部の政治的特権を支えていたのは統帥権の独立と軍部大臣(現役)武官制であった。
一九二四年(大正十三)一月、宇垣一成が陸相に就任。宇垣は四個師団の廃止、約三万七千人の将兵の削減など、明治以来初めての軍縮に着手した。
水野はこの軍縮にもろ手をあげて賛成し、軍部が猛反対したことに対して「由来、我国軍人は封建的因襲により国防を我物顔に振舞い、その計画をまでも専断せるは大なる間違いである。
国防はもとむと国家の国防、国民の国防にして、断じて軍人の国防ではない。国防計画を定むるものは国民の信任ある政治的識見高く、国際的眼界広く、経済的知識大なる人々でなければならぬ。いたずらに敵愾心のみ強き軍国主義、帝国主義の軍人のみに任すべきではない」(「軍艦爆沈と師団減少」)と批判した。
政府が軍部の思うままに牛耳られた要因の一つであった軍部大臣武官専任制についても「軍部大臣開放論」(『中央公論』大正十三年八月号〉で「軍部大臣武官制を廃止して文武官の出身いかんに拘わらず、適材を任用せよ」と主張した。
この中で、統帥権独立論にも反対、統帥権の独立をタテに「軍略のために常に政略を犠牲に供する如きことあらば、国家に大害を生ずる虞がある」と批判し、軍部武官制についても「陸海軍人が武官大臣専任制の要塞内に立篭って、同盟拒任を為せば、いかなる人も内閣を組織、もしくは維持することは不可能である」と問題の核心を鋭くついた。
⑭ シビリアンコントロールの重要性を訴える、満州事変へ
水野は軍部独走の危険性を一早く指摘し、シビリアンコントロールの重要性を訴えていたのである。
-九三一年〈昭和六)九月に満州事変が勃発し、水野が危倶していたとおり、軍部の暴走が始まった。
水野は友人の松下芳男にあてた手紙の中で「(陸軍が)満蒙に対する国家の国策にまで容喙どころか、国策まで彼等の軍国思想によって指導せんとするのは越権増長のいたりです。(略)満蒙問題は兵力をもって解決し得ざること、従ってもし陸軍が満合併の為に現兵力を要するという腹があるならば極めて危険で且つ無謀であると信ずる」(同年七月二十日付)と陸軍の満蒙強硬論にたいして、警告した。
この二カ月後に満州事変は起きた。以後、事変の拡大、軍閥の勃興、中国側の国際連盟への提訴による日本の孤立という推移に対して、松下への書信でいささかヤケ気味にこう述べている。
「連盟も駄目、軍縮も駄目、世界は軍国主義の昔に返って、何れかが倒れるまで軍備の競争を行い、日米戦争もやるべし、日英戦争もやるべしです。日本国民は今一度現代戦争の洗礼をうけなければ平和への目は醒めません」
水野は翌三二年(昭和七)十月に、日栄戦争仮想物語「興亡の此一戦」(東海書院)を出版した。しかし、東京の大空襲による火災被害のリアルな描写や日本が敗北するという内容によって、ただちに発禁になった。この時、水野は絶望感のただよった短歌「国を憂い歎くとも何かせん、唯成るように成れよとぞ思う」を歌っている。
非常時が呼ばれ、軍ファシズムがますます高まる中で、水野の活動範囲はせばめられていく。一九三三年(昭和八)八月二十五日、水野は「極東平和友の会」の創立総会に出席したが、右翼の妨害にあい、途中で中止となった。
軍国が謳歌され、軍力、テロが吹き荒れる中で、平和運動は軟弱視されたが、水野は「世に平和主義者をもつて、意気地なしの腰抜けと罵るものがある。テロ横行の日本において、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」と反論し、平和を唱える真意をこう書いた。
「日本は今世界の四面楚歌裡に在る。いずれの国と戦争を開くとも、結局全世界を
相手の戦争にまで発展せずには止まないと信ずる。日本の陸海軍がいかに精鋭でも、全世界相手の戦争の結果が何であるかは想像に難くない。」(「僕の平和運動に就いて」)
⑮ 執筆禁止へ、歌に心境を託す
さらなる時局の悪化の中で、ついに水野は「筆を折って、言論界から退く」と松下への書信に書いた。昭和九年には、水野は自らの心境を次のような歌に託した。
「戦えば必ず勝つと己惚れて 戦さを好むいくさ人あり」
「わけ知らぬ民をおだてて戦ひの 淵に追ひこむ野心家もあり」
「わが力かえりみもせでタダ只管に 強き言葉を民はよろこぶ」
「戦えば必ず四面楚歌の声 三千年の歴史 あはれ亡びん」
「侵略の夢を追ひつつ敗独の 轍踏まんとす 民あはれなり」
「力もて取りたるものは力もて 取らるるものと 知るや知らずや」
一九三四、三五年(昭和九、十〉にかけて陸畢パンフレット事件、三月事件、十月事件、天皇機関説問題、国体明徴声明、永田鉄山暗殺事件などの軍部内の拡争がいよいよ激化していく過程でも、水野の見通しは的確であった。
「陸軍の朋党騒ぎが、どこまで発展することやら、前途は予測を許しません。もともと喧嘩相手がなくては日の暮せぬ連中ばかりだから、外部の相手が悉く屈服した今日、仲間喧嘩に花が咲くのは当然の成行きで、是も軍隊教育の一つの現われでしょう。
結局は外戦になるか、内乱になるか、何うせ血で血を洗うまでは治りますまい」(一九三五年十月一日付)と松下への書信に書いている。
この半年後に、陸軍の皇道派と統制派の抗争はついには、水野の予見通りに二・二六事件へと暴発したのである。
⑯ 日記で時局批判、ヒトラーの本質を見抜く
日中戦争、太平洋戦争へと刻一刻と坂道を転げ落ちていく中で、水野が評論を発表する場はせばめられていく。その分、本音は日記の中で吐露している。水野は日記を欠かさず書いていたが、空襲によって大部分が焼失し、現在、残っているのは昭和十四年分の一冊だけである。
この年はヒトラーがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した年である。ヒトラーの無法にいきどおり、スターリンの帝国主義を批判し、イギリス、フランスの軟弱な姿勢に切歯やくわんする文句が随所にみえる。
「独伊軍事同盟成立す。日本もこれに参加せよと呼ぶ連中ある、危ないかな。あばれ武士、二人つれ立ち花見かな」(五月二十二日付)
ポーランドが分割された時点では「白昼の強盗なり、ソ連遂に侵略主義に堕す。資本主義国と異なる点ありや。スターリンも亦帝国主義の奴隷なりき、ヒトラー、ムッソリーニと何の異なるぞ」(九月二十二日付)
ヒトラーについては、至るところで厳しく批判している。
「彼に良心ありや。常識ありや。単に平和の破壊者たるのみならず、実に亦道徳の破壊者なり。彼を総統に頂き、依々として其の命を奉ずる独逸国民の良心を疑う。唾棄すべく、軽侮すべく排斤すべし。然るに今尚、独逸を尊奉し、ヒトラーを崇拝する日本
人の多きは馬鹿か阿呆か。正義を愛する者の恥とする所なり。ヒトラーの此の暴慢無恥なる声明に対し、戦争恐怖症の英仏の出方如何?」(九月三〇日付)と書いている。
今からみると、水野の警告や予言はごく常識的な思考であり、当然の指摘にもみえるが、今から約七十年前の時代状況の中で、あれだけくもりのない冷静、合理的な目と識見で時代の病理や推移を見つめ、的確に批判した知識人が何人いただろうか。
⑰ ついに執筆禁止、疎開、死亡
例えば、桐生悠々の有名な「関東防空大演習を嗤う」(昭和八年八月十一日付)は敵機が日本本土に来襲し、空襲にあえば木造家屋の多い都市は大きな被害が出るので、敵機本土内に入れないこと、バケツリレーなどの防空演習は全く無意味なことを主張した。
水野はこの十年以上も前に、空襲の恐ろしさ、日米の戦力、経済力の客観的な比較によって、「日米戦うべからず、戦えば必ず日本は敗れる」と声を大にして警告しており、その洞察力、先駆性は同時代の知識人と比べてもズバ抜けていると思う。反戦平和主義者として、軍国主義とファシズムの興隆に対して敢然と戦った水野への評価は、これまで決して高いとは言えない。
彼は自らを「社会主義看ではなく、国家主義者である」とある新聞で述べているが、決して国家主義者ではなく、自由主義者、リベラリストといった方が近く、科学的、合理主義的な思考の持ち主であった。
一九四一年(昭和一六)年二月、情報局は、「中央公論」編集部に対して、執筆者禁止リストを示したが、この中には清沢烈、馬場恒吾、横田喜三郎らと並んで、水野も入っていた。
太平洋戦争の敗北がいよいよ濃くなってくる中で、水野は四三年(昭和18)十月から、郷里の愛媛県越智郡津倉町の瀬戸内海の伊予大島に療養のため転地した。四五年(昭和20)になると、敗戦は確実との見通しを持ち、伊予大鳥で戦争の終結を待ち望んでいた。八月十五日、ついに敗戦。
翌日付けの松下への手紙の中で水野は「国を守る務忘れた軍人が政治を弄し、国ついに敗る、の感があります」と書いている。
「日本において最も緊急を要するもの国民の頭の切り換えであります。まず、第一に神がかりの迷信を打破すること。すべての生きた人間を人間として取扱うこと、生きた人間を神として尊敬したりするところから、神がかりの迷信が生まれてきます」
(九月二十七日付)と天皇制の廃止、国民の自由意志による政治体制を主張していた。この年十月十八日、水野は愛媛県今治市内の病院で死去した。享年七十一歳。
『世にこびず人におもねらず、我は、わが正しと思ふ道を歩まん』
水野の墓は松山市の正宗寺にあり、このような歌碑が建てられている。
戦争の時代と正面から対峙した平和主義者・水野の生きざまを象徴した歌ではなかろうか。
終わり
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