日本メディア(出版、新聞、映画など)への検閲実態史➀『世界、日本の検閲史』★『徳川時代の検閲制度』★『「明治初期の言論恐怖時代″』★『大正の大阪朝日新聞「白虹事件」』★『出版警察の核心・検閲は発売頒布禁止で』
2018/07/31
日本メディア(出版、新聞、映画など)の検閲史 ➀
2009/02/10
静岡県立大学国際関係学部教授
前坂 俊之
われわれは今、「言論の自由」を、ごく当たり前のことと思っている。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(憲法21条1項)、「検閲は、これをしてはならない」(同2項)という日本国憲法の条文を、わざわざ引き合いに出すまでもなく、当然と受け止めている。
明治憲法(大日本帝国憲法)での「言論の自由」の規定は、同29条にあり、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ,言論著作印行、集会及結社ノ自由ヲ有ス」とある。
つまり、『法律の範囲内』での制限つきの自由であり、これは政府によって広範囲に、自由自在に制限範囲が決まられた。
具体的には、出版法(1893年、明治26)新聞紙法(1909、明治42年)、治安維持法(1925、大正14年)、不穏穏文書臨時取締法(1936 ,昭和11年)新聞紙等掲載制限令(1941、昭和16年)、言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年)などが制定され、表現活動は強く規制されていた。
現憲法においては「言論、報道、表現の自由」は100%保証されているが、1045年までは「カッコつき、制限つきの報道、表現の自由」であり、太平洋戦争中などは「報道の自由」「表現の自由」は100%なかった、といってよい。。
1945(昭和20)年8月以後の連合軍による占領期間中も、言論の自由は制限されていた。
明治以来、メディアに対する検閲制度は昭和の敗戦まで約80年間続いた。現行憲法でわざわざ検閲禁止の規定が盛り込まれているのは、この検閲の歴史の反省が込められている点を忘れてはならない。
検閲は表現の自由への公権力の規制の形式的、方法的問題であり、たんに文章や表現をチェック、削除する狭い範囲で考察するのではなく、広く言論統制、情報操作の一側面としてとらえる必要がある。
この「メディアと検閲」 では、そうした観点から、主に日本でのメディアと検閲の歴史的な関係について触れたい。
1 言論の自由と検閲制度・ミルトンらで言論の自由の確立へ
秦の始皇帝(紀元前259-210年)の「焚書坑儒」を引き合いに出すまでもなく、歴史のなかであらゆる政治権力は、自らと対立する都合の悪い言論、思想を抑圧、弾圧の対象としてきた。
ギリシャ、ローマ時代はいうにおよばず、中世キリスト教の異端審問など、言論の抑圧が続いた。一五世紀の活版印刷の発明がエポックとなって、大量印刷や伝達が可能となり、マスメディアが生まれ、これを抑圧する手段としての検閲も一層、組織化、制度化され、近代検閲が生まれた。大量に、スピーディに、安く印刷できる革命的な活版印刷の発明は、異端の広がりに厳重に目を光らせていたローマ教皇庁に衝撃を与えた。
グーテンベルクが活版印刷を発明したドイツ・マインツで、大僧正ベルトルドが1486年に出版物を取り締まるため検問所を設けたが、これがいわゆる「検閲制度」のはじまりである。
活版印刷の発明は中世ヨーロッパの宗教社会の内部から宗教対立を激化させる要因となり、宗教改革を生み、ついには市民社会の誕生の契機となった。1501年には、ローマ教皇アレキサンダー六世が出版の許可制を実施した。さらに1542年には、ローマ教皇パウロ三世がカトリックに反対する出版物に対して、異端審問所の許可をとっていないものは発行、流布を禁止した。言論、出版の自由の歴史はこうした検閲制度との不断の戦いの歴史であった。
イギリスでは1586年に星室庁(当時の最高司法機関)が印刷条例をつくり、検閲を実施したが、これは後に長期議会に引き継がれて、1643年に検閲条例が定められた。封建主義、絶対主義社会の象徴としての検閲に対して、言論、出版の自由の要求が生まれてくるが、その先駆者がミルトン(1608―74年)である。
ミルトンは『アレオパジテイカ』(許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴えるパンフレット)で「……真理と虚偽とを組打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしを誰が知るか」、「他のすべての自由以上に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自由を我にあたえよ」と書き、言論の自由を強く訴えた。
(内川芳美「新聞の自由の歴史」稲葉三千男・新井直之編著『新版新聞学』日本評論社、1988年、40頁)。
ミルトンは検閲条例をきびしく批判し、思想は抑圧されず自由に公開、競争される「思想の自由市場理論」と、そうすれば人間の正邪を判断できる理性によって、真理が必ず勝ち残るという「真理の自働調整作用」を唱えた。
こうしたミルトンらによって、イギリスで特許検閲法が廃止されたのは名誉革命後の1695年のことであり、新聞、出版の自由が制度的に確立された。
2 徳川時代の検閲制度
一方、日本ではどうであったのだろうか。徳川時代中期から出版業が盛んになってくるが、幕府は1630(寛永7)年にキリシタン関係書の売買、閲読の禁止に乗り出した。
1649(慶安2)年には、大坂の書店・西村伝兵衛が出版した『古状揃』のなかに「家
康表裏之侍太閤忘厚恩」という徳川家康を誹語する文句があったことから、幕府はこの書物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛は斬首の刑となった。
新開の前身である「読売瓦版」に対しては貞享、元禄年間の禁令をみると、検閲がお
こなわれていた事実がみられる。1722(享保7)年には、出版に関するはじめての成文法といってよい『町触れ』(現在の法律)が出された。
内容は猥褒や異説を唱えるもの、徳川家の事蹟に関する記事について禁止したほか、板本の奥づけに作者と板元名を記すことを定めたものであった。このように、すでに江戸時代からはじまった出版物取り締まりの基本的な考え方は、明治になっても踏襲された。
3 明治の新聞の誕生と言論恐怖時代の幕開け
ところで、日本での新聞の始まりは幕末の翻訳新聞、外字新聞である。幕府の洋書調所にいた洋学者たちの翻訳によって新聞づくりがはじまった。当時は新聞、雑誌の区別はなく、この洋書調所から雑誌も翻訳雑誌として生まれた。
当初、このように幕臣による新聞が多かったため、鳥羽伏見の戦い(1868年)、江
戸への薩長軍の進軍に対しては佐幕派の新聞が多数発行され、官軍を攻撃する記事や虚偽の報道、風説を流し、幕府の味方をした。
柳河春三「中外新聞」、福地源一郎「江湖新聞」、岸田吟香「もしほ草」など多くの〝佐幕派新聞″に対して、明治政府は、はじめて言論弾圧に乗り出した。
1869(明治2)年2月、政府はわが国で最初の新聞紙法である「新聞紙印行条例」を発布した。発行を許可制にし、編集者の責任を定め、政治評論を禁止するなどの内容であった。
一「明治初期の言論恐怖時代″」
1874(明治7)年1月、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らが『民撰議院設立建白書』を提出したことから、自由民権運動がまたたく間に全国に広がった。新聞はこれを支持する民権派が多数を占め、そのなかで急進派と漸進派に分かれ、これに反対の立場の官権派が入り乱れて激しい論戦を展開し、〝言論の黄金時代〟を迎えた。
言論界では急進的民権派が圧倒的多数を占め、反政府運動と化したため、政府は1875(明治8)年6月に「新聞紙印行条例」を大改定した「新聞紙条例」と、新たに「讒謗律」をセットで公布した。
讒謗律は名誉毀損罪と政治的誹謗罪が一緒になったような法律で、天皇、皇族、官吏に対する誹謗を防ぐというねらいだが、実際は反体制的言論を規制し、弾圧するのが目的であった。
言論界にとってこの両法は正に青天の霹靂であり、一大ショックを与えた。まず「曙新聞」の末広鉄腸が、これに触れて罰金20円、禁獄3 ヵ月に処せられたのをはじめ、各社の記者が続々と処罰され、獄中は新聞記者や編集者であふれかえる事態となった。
宮武外骨の調査によると、5年間でこの両法によって記者、編集者約200人が禁獄されるという〝一大言論恐怖時代″を現出した。
しかし、これでも自由民権連動の大きなうねりを止めることはできず、逆に高まる一方であった。
このため、翌76(明治9)年に政府は「国安ヲ妨害スト認メラルル者ハ、内務省二於テ、ソノ発行ヲ禁止又ハ停止スヘシ」という太政官布告を出した。
この規定が「安寧秩序ヲ妨害」したものに対して「発売頒布禁止権」を行使するという
出版警察の中核的な行政処分権となり、敗戦までの約七〇年間にわたり言論の自由
の生殺与奪となったのである。[奥平、一九八三、137-138頁]。
さらに、明治政府は帝国憲法の発布(1889年2月)に照準を合わせ、1887(明治20)年に「新聞紙条例」、「出版条例」を改定し、取締法規を整備、強化した。
新聞紙条例では内務大臣の発行禁停止権、保証金制度、陸海軍両大臣の記事差止権、その他掲載禁止事項などが定められ、一方、出版条例では発行10日前に製本3部を内務省に届け出ることが義務づけられた。
1889(明治22)年2月発布の帝国憲法では、「言論の自由」については「法律ノ範囲内ニ於テ言論、著作、印行、集会、及結社ノ自由ヲ有ス」(第29条)とされ、「新聞紙条例」、「出版条例」、「保安条例」、「集会条例」の4つの言論統制法の範囲内での制限つきの言論の自由しか認められなかった。
労働運動、社会主義運動が高まった1900(明治33)年2月、片山潜、安部磯雄らによって「社会主義研究会」が発足した。政府は集会、結社の取締法の集大成である「治安警察法」を制定して、きびしい取り締まりに当たり、翌年5月に片山、安部、幸徳秋水ら6人で結成された「社会民主党」は、即日解散となった。
1903(明治33)年2月、日本で初の社会主義新聞「平民新聞」(週刊)が幸徳、堺利彦、西川光二郎らによって創刊された。日露戦争に対して非戦論を主張した同紙は官憲によってきびしい弾圧を受けた。
同20号の幸徳の「鳴呼増税」が新聞紙条例に違反、発禁が相次ぎ、創刊一周年記念号に『共産党宣言』が翻訳掲載され、再び発禁となり、3人は起訴され、有罪となり1905(明治38)年1月に64号で廃刊に追い込まれた。
4 大正の大阪朝日新聞「白虹事件」
大正デモクラシーの高揚は憲政擁護、閥族打破、言論擁護の運動でもあった。その中心的な役割を果たしたのは民衆とともに、新聞であった。大正はじめに政党と結び、憲政擁護で第3次桂内閣を倒した新聞は、今度は民衆と歩調を合わせ、寺内内閣との対決姿勢を強めた。
寺内内閣の非立憲的な態度は、新聞への姿勢でもかわらず弾圧的態度に終始した。シベリア出兵問題(1918年)、米騒動(同年)に対して発禁を連発、とくに、米騒動に対しては一切の報道を禁止したため、『春秋会』(新聞社の社交クラブ)は「言論の自由への圧迫」として再々にわたり、取り消しを求めたが、寺内内閣は応じなかったため、内閣打倒へ立ち上がった。
1918(大正7)8月25 日、寺内内閣糾弾の関西新聞社大会が大阪・中之島で開かれた。村山龍平・朝日新聞社長を座長に関西の新聞、通信社など計86社約170人が集まって開催され、「大阪朝日新聞」は同日夕刊(26日付)社会面のトップで次のように報じた。
「我大日本帝国は今や恐しい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として…‥」
この記事の「白虹日を貫けり」が問題化し、日本の言論史上に残る一大筆禍事件「白虹事件」へと発展していった。「白虹日を貫けり」とは中国の故事で、白い虹が太陽を貫いて見えるときは、国に内乱が起きるしるしであるという意味だが、当局は「日」が天皇をさし、不敬に当たるといいがかりをつけて、記者と編集発行人を新聞紙法違反(安寧秩序素乱)で起訴、2 人は禁固2 ヵ月の有罪となった。
かねてより、当局は政府へ批判的な「大朝」の弾圧の機会をねらっていたのである。この事件で鳥居素川、長谷川如是閑、大山郁夫らの編集幹部が総退陣し、村山龍平社長も退陣した。『大阪朝日新聞』は廃刊の危機を迎えたが,当時の原首相は上野理一社長を呼び、編集方針の変更などの釈明を聞いた上で,発行禁止を見合わせた。この事件をきっかけに,新聞自体の批判精神は低下して,新聞の企業化が一層進んでいった。
5 出版警察の核心・検閲は発売頒布禁止で
戦前の日本の検閲制度、出版警察の核心は原稿検閲制による発行禁止ではなく、世界にも類例のない内務大臣による発売頒布禁止であった。政府は西欧ブルジョア主義の「出版の自由」を認めず、大量印刷物の流通に対して事前検閲をすることは実際上不可能であるため、ときに応じて権力を行使できる発売頒布禁止を導入したのである。[奥平、1983.132 貢】。
この発売頒布禁止権は新聞紙法第23 条、出版法第19 条でそれぞれ定められていたが、司法審査から独立した絶対的なものであった。
さらに、内務大臣が行使するこの権限は中央集権警察組織下で実質は地方の末端警察が握り、より一層、恣意的に運用、処分がおこなわれたのである【奥平、1983、160-161 頁】
6 検閲の基準は当局にとって伸縮自在の弾力運用
では、具体的な検閲の基準はどのようなものであったのだろうか。
当局が新聞紙法第23 条、出版法第19 条での「安寧秩序素乱」、「風俗壊乱」と規定する基準一検閲担当官が参考にしたものは次のようなものであった。
●【安寧秩序素乱出版物の検閲基準】(一般基準)
皇室の尊厳を冒涜する事項∇君主制を否認する事項▽共産主義,無政府主義等の理論、戦略、戦術を宣伝し、その連動実行を煽動し、この種の革命団体を支持する事項▽植民地の独立運動を煽動する事項∇非合法的に議主義会制度を否認する事項-など計13項目であった。
●【風俗壊乱の検閲基準】
春画淫本∇性、性欲又は性愛等に関する記述で淫猥、羞恥の情を起こし、社会の風教を害する事項∇陰部を露出せる写真、絵画、絵葉書の類∇陰部を露出せざるも醜悪、挑発的に表現された裸体写真、絵画、絵葉書の類∇男女抱擁、接吻(児童を除く)の写真、絵画、絵葉書の類-などであった。(以上、内務省警保局『昭和五年中における出版警察概観』
この基準に基づく適用については取締当局によって伸縮自在の「弾力性」をもっていた。
大正時代には-時縮小した禁止範囲は、1932(昭和7)年以降、再び急速に拡大し、社会主義、労働運動に関する著作は以前にましてきびしい取り締まりにあった。安寧秩序素乱の取り締まりの場合は1920 年代に一時禁止基準はゆるむが、30 年代になると再びきびしくなった。
(油井正臣他『出版警察関係資料解説・総目次』不二出版、1938年、24頁)。
こうした発売頒布禁止制度とともに、内務省は超法規的な記事掲載差し止めをおこなった。これは重大事件が起こったとき、この記事を掲載すると発売禁止になるぞ、とあらかじめ警告するもの。新聞側は発禁による不測の損失をまぬがれるために歓迎し制度化したが、もともとは新聞紙法上でも認められた処分ではなかった。この差し止め処分は禁止事項の軽重によって
① 示達 当該記事が掲載されたときは多くの場合、禁止処分に付すもの。
② 警告 当該記事が掲載されたときの社会情勢と記事の態様いかんにより、禁止処分に付すかもしれないもの。
③ 懇談 当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。
以上の3種類があり、懇談は少なかったが、示達、警告は乱発された。これに触れること、発禁などを受けるため、無視できない。
さらに、これ以外にも、便宜的処分として発禁処分にするほどでない場合は該当の部分のみを切除する削除処分や注意だけの注意処分もあった。削除処分は1933、34(昭和8、9)年に年間200件、注意処分は1932(昭和7)年には約4300件に達した。
つづく
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