日本リーダーパワー史(181)<百年前にアジア諸民族の師父と尊敬された犬養毅①>大アジア時代の先駆者
日本リーダーパワー史(181)
<百年前にアジア諸民族の師父と尊敬された犬養毅>
『大アジア時代の先駆者・犬養木堂①』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
犬養木堂が「辛亥革命と孫文」を自から語る
犬養木堂自身は「揺籃時代のわが対支方針」について語っている。(鷲尾義直編『犬養木堂伝』中巻 東洋経済新報社 昭和14年 715P)
我輩が支那問題に関係し始めたのは随分古い話で、ちょうど隈板内閣のできたとき、進歩党に残こっていたが、内政問題は誰にでも出きるが、対支政策というものを確立しておかなければならぬ、と考えて案を作って大隈さんに見せた。
その案とは年々二十万円ばかりを内閣の機密費から出させ、相当な人物を支那に派遣していろんなことを調査させようというものであった。ところがあの通りの内輪喧嘩で内閣はこわれる、しかし、どうもこのままに流してしまって惜しいからと、次の山県内閣に佐々友房、星亨、それに我輩と御用党も在野党も一緒になって「何か支那に対して相当な仕事をしろ」と迫った。
その結果、どこにもさしさわりのない近衛(篤麿)公にやらせようといふことになって、東亜同文会というものが出来た。
その少し前、伊藤公が支那に遊びに行っているとき、例の戊戊の政変があって康有為が日本に亡命して来た。そのぅち康有為が横浜で大同学校というのを作り、我筆がその校長ということで、支那居留民の子弟を教へている中、孫文が英国からやって来てこの学校に関係しているとのことで、孫も始終、我輩のところに来る、その中にその抱懐している思想も判る、あれは(孫文)生れながらの革命児で、そのころから共産主義を唱えていた。
一方、康有為や梁啓超などは立憲君主制にしようというので、行き方は大分違っているが、その頃の支那の専制政治を打破しようという点では一致している。
そこで我輩はしばしばこの両派に握手するように奨めたが、どっちも譲らぬ、その中、黄興が革命を策して失敗し、日本に亡命して来る、さうだ確か、日露戦争が済んだころだつたかナ。同じ革命党でも個個に分立していてはいかぬ、是非、黄興と孫文とを握手させようと、頭山や我輩などの肝煎りで、孫、黄興巨頭の握手が成立した、これで革命党は非常な勢力になったわけである。
明治四十四年の我輩の渡支は、その以前から孫が是非一度来てくれといっていたもんだから、革命もひとわたり片がつきそうになり、かつ日本政府の対支外交といふものが、幽霊みたいにフラフラしているんで、南方でも日本の態度を
非常に危ぶんでいた。
.それにいわゆる支那浪人という利権屋がウンと南方で跋扈していて、向うでも手におえんというんで、頭山と我輩とが行くようになったが、行く以上はその前に政府の対支方針というものを聞いて置けば何かと都合がいいと思って、西園寺さんの許に出かけて、政府はどうしても支那に共和政治は行はせない方針であるか、と聞いてみると
「そんな事はない、隣国がどういう政権にならうと日本の関する限りでない。しか、しこれは外務大臣もいることだから、内田(康哉)とも相談して御返事しましょう」と至極、分けの判った話。
さうすると、二三日して内田から合いたいといつてきたので行ってみると、西園寺さんの話とはガラリとかわって「支那に共和政治が行はれるやうになってはなはだ困る、日本は極力これには反対する積りで、場合によっては武力を用いても君主国を維持させる考えである、そしてこの方針は南方革命党の領袖にも通じてもらいたい」と途方もないことをいう。
そこで我輩が
「冗談いうもんぢやない、そんな馬鹿な伝言が革命党に伝えられるか、モ一度考へ直してはどうか」と、忠告してみたけれども聞かぬ。
聞かぬはすだ、内田は山県から押さえられて動きのとれぬようになっていたんだ。さて政府の方針は聞いたが、行くとなれば素手では行けぬ、南方に役立つ何事かをしてやらねばならぬ、そこで直ぐ起るのが国際間題と法制問題であると考えたから、その方には、寺尾亨と副島義一を振りあて、宣言だとかその他の文書を書かせるため松平康国を連れてゆくことにした。
ところで気の毒なのは寺尾だ、大学の方の都合で暑中休暇といふことで姓名をかえてゆく中、下関で新聞記者につかまり「実はこういわけで変名で行くんだから書かすに置いてくれ」と頼んだものを、堂々と新聞に出したのでとうとう
首になった。
実に気の毒なことをしたものさ。支那に行ってからは、南方政府の基礎を固めたり、対日感情を和げるため応分の骨は折った積もりだが、結局失敗に経った。
たゞ一つ我輩と頭山が行ったため、利権浪人が一時にしろ影をひそめたことは多少でも支那行きの意義があった。そうするうちに議会が始まるんで帰えって来た。
そして二十八議会に臨み予算委員会で秘密会を要求し「どうもこの政府の対支方針といふものが、中途から一変して支那に君主制を強要しやうとしているがこれはどういうもんか」と質問すると、内田が「帝国政府の封支方針は最初から一貫しておる」とつぶやくので
「我輩の眼の黒い間は断じて左様な詭弁は許さぬ。いやしくも帝国議会で大臣が虚言を弄するとは何事だ」と一喝してやると、内田が面相を変えてふるえ上った。
その時、野田(卯太郎)が予算委員長で、形勢不利と見て咄嗟の間に散会してしまって、内田を謝まらせることは出来なかったが、どうもああいう男が永く外務大臣などをしていたので、日支関係が面白く行かなかったのだ。
ひとりこれは内田ばかりの罪ではない、歴代の内閣がさうだ。大正二年、第2革命が破れて孫文が亡命して来たとき、神戸で上陸させぬという。窮鳥(きゅうちゅう)懐(ふところ)に入れば猟師でも殺さないものを、その前に来た時には大騒ぎで歓迎して置きながら、掌を反すやうな酷い仕打ちをするとは怪しからぬ。
一つ政府にかけ合ってやろうと思っているところに頭山が来て「われも死場所を見けたタイ」といふから「どこで死ぬ」というと「神戸に行って警官と戦って来る」という。
「馬鹿なことをするな、いくら玄洋社が強くても警官の方が多い、せっかく、戦争しても孫が上陸されるかどうかわからぬから、まア我輩に委せて置け」と、それからすぐ古島一雄を神戸にやり、我輩は山本(権兵衛首相)と牧野(伸顕外相)のところに行って談判をすると、やつと上陸を許すということになり、頭山も死なず、無事、孫文も亡命することが出来た。思えば康有為、黄興、宋教仁、孫文と、あの頃の友人も皆死んで、革命が今日漸く成就しようとするのを見れば、多少の感慨無きを得ないね。(昭和三年七月二十三日付、大阪朝日新聞)
ベトナムの独立革命家も支援した木堂
赤堀松畔の『木堂先生と亡命客』なる冊子に記している。
1…・明治三十八年にベトナム(安南、以下省略、ベトナムに統一)独立の志を抱いて渡来したベトナムの志士播是漢、とその同志たるベトナム青年に対して、木堂が陰で援助を輿へていられたことなどは、あまり世間に知られていないようである。
私は著述の資料を探求して行く間に、ベトナム志士に対する隠れたる同情者として木堂先生の名を見出すに及び、忽ち非常な感興にそそられて、更により多くの具体的資料を得ようと試みたれど、ベトナム志士がフランス政府の干渉によって、日本を退去したのが明治四十一年頃で、爾来可なりの年月を経て居るのみならず、志士の在留中も、フランスに対する関係上、大びらに援助を興へることの出来ぬ事情にあつたから、その所には殆んど徴すべき何等の文献も残されていない。
最初、播是漠が支那人に変装してベトナムを脱出し、日本に来朝した際は、あたかも日露戦争後で、日本の威声はりゅりゅうたる頃であったから、ベトナム独立党の志士は、日本の援助を得て独立の旗を翻すべく、武器弾薬等の借入をしようとする目的を抱いていたのである。
「日本はロシアと戦って新に大勝を博したのであるから、恐らく将来、全アジアを率いて世界に雄飛せんとする志を抱いているのであらう。日本におもむいて同情を求めたならば軍器を借入ることが出来るか、あるいは容易にこれを買い入れることが出来るであらう」といふことがベトナムにける独立党の志士仲間の意見であった。
こんな目的を抱いて来朝した播是漠は、常時横浜に流寓していた支那の梁啓超に逢ってその志を語り、梁の紹介によって木堂先生に面謁することとなったらしく、清と木堂先生との会見は何年頃何月頃であったかは不明であるが、爾来、ベトナム志士と先生との関係は、彼等が在留中、持続されて、先生の温かい同情と援助とを亡命志士の上に興へられたのである。
ここに見逃がしてならないことは、播是漢等の来朝後における態度の変化で、最初は鉄砲や弾丸を借入れて、直ぐにも独立戦争を開始しょうとするほど急進的であったものが、間もなく漸進的となり、剣や鉄砲を需めるよりも、先づ学問を修得することが要務であるという主張の上に立つようになった。
播是漠が、日本で執筆して印刷に付し、本国の青年達に密造した『勤遊学文』と題する冊子などを一読すると、彼等が日本の偉大なる進歩と発展とに驚き、先づ同志を日本に迎へて、その頭脳、眼光を一洗せしめる急務を痛感したことが歴上と窺はれるが、こうした変化も日本の偉大なる政治家犬養毅その人に親しく接触して啓発を受けた辺から産れたものかと想はれる。
ベトナム亡命の青年志士が、日本に在留したのは前後三、四年わたるから、その間には数多い日本の政治家や有力者を訪問して苦衷を訴えたことと思はれるが、私の知り得た範囲内におては、彼等が最も信頼する人物は、木堂先生及び国民党の一部の人々、並びに東京同文書院(現在の目白中学校の前身)を中心とする教育関係者の一群に過ぎなかったようである。
日本を慕って、まるで身命を賭するほどの危険を冒しつつ、フランス官憲の眼をかすめてベトナムを脱出し、続々と来朝するベトナムの青年志士は、一時その数が百名内外にも及んでいたらしく、彼等はベトナム独立連動の基礎的事業として、日本で種々の学問む修めやうとしたのである。
然るに、早くもフランス政府の知る所となり、我が外務省へ一行中の首魁の引渡しと、留学生の解散を要求して来たのである。当事、新に日仏条約が締結された早々のことでもあり、我が外務省も強硬にこの要求を拒絶することの出来ぬ事情にあったので、ベトナム志士の蓮命は全く風前の燈火の如きものであった。
しかし、この外交上の交渉が開始されて間もなく、ベトナム志士の一行は電光石光の如く日本内地から姿を消し、その行く所が全く不明に帰してしまった。従って、わが官憲がベトナム志士の首魁を捕らえてへて、フランス官憲に引渡すというやうな事件は起らずに済んだのである。
伝えられる所によると、彼等は支那へ逃げて行って、支那の革命党の本拠たる広東辺に身を潜め、おもむろに再挙を謀ることになったということである。
こんな事情で木堂先生も表面から援護を興へる訳には行かなかったが、陰に絶大の同情と庇護とを興へられたのは勿論で、爾来、ベトナム独立を図らんとする志士の行路は険難を極めているけれど、彼等の先達の間に印象されてゐる木堂先生の面影は、忘れ難き恩人として永久に記念されることであらう。
木堂没後、その墓前に黙祷を捧げておる一青年紳士があった。編者はその礼拝形式の異様なるに不審をだき、人無きを幸い、しばし語られたのであるが、果して彼は某国の亡命客であった。
彼の語るところによれば、彼が来朝して以来十数年、木堂は家人にさへも秘して、月々の生活費をかれに、さずけておつとようである。彼は、心から木堂の高誼に感えし、ふたたび慇懃なる黙祷を捧げ、しょう然として墓畔を去るのであった。(同794P-796P)
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