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日本リーダーパワー史(202)「第3の敗戦、この国難を突破できるリーダーは革命政治家・橋下徹以外にはいない』

   

日本リーダーパワー史(202)
「第3の敗戦、この国難を突破できるリーダーは革命政治家・橋下
しかいない。がんばれ橋下!政治家は職業ではない。
公職であり、革命家、国士でなければならないのだ」
 
 
                               前坂俊之(ジャーナリスト)
 
<名言>自民党顧問、松村謙三(18831– 19718月)(前衆院議員、元厚相、
農相、文相)の遺言
「政治家とは職業ではなく、公職である。子供たちに親の
職業欄は無職と書け」
 
今、日本の国会議員の年収は2896万円(平成19年)。衆議院480人(小選挙区300人・比例代表180人)、参議院242人(選挙区146人・比例代表96人)の合計722人である。
この連中がどれだけ国民のために汗水たらしているのか。仕事をしているのか。鳩山、小沢のテイタラクを見ればわかる。この半年、国民は血を流しながら我慢している。国会議員での2世、3世がほぼ4割の職業化した世襲議員、あとは官僚出身の官僚議員、労組、大企業お抱えの御用議員ばかり、革命政治家、国士政治家は1人もいないといって過言ではない。
それが大震災以降、3・11以降、会議、会議は踊る、されど決せず、小田原評定というサボタージュを続けてきたのは、みなさんの見た通り。
都府県市町議会 議員の全体の数は約3300としてこの10-15倍以上、5万人はのぼるであろう。このうちの何割が職業化しているか、かなりの数である。行政改革、政治改革が100年叫ばれながら、一向に進まないのは職業と化した連中が自分のポストを失う削減を本気でやるわけがないから。
財政赤字の問題の根底には議員と官僚、役人、公務員のなれあい行政があり、これに政治、官僚、企業、マスコミ、労組(連合)が一体化した「日本原子村」と同じ「日本国家破産村」「沈没中の平成東京幕府」(エセ議会民主主義国日本)(徳川幕府の封建中央集権社会と同じ腐りきった体質が、明治維新(これも本当の民主革命ではなかった)からこの160年未だに続いているのである。
体制擁護、既得権益保持グループのマスコミの責任も重大であり、追求されねばならぬ。
 
橋下知事「市役所作り直す」…平松市長との対決に意欲
毎日新聞によると「政治で大阪のあり方を決めることに挑戦したい」--。10月22日未明、大阪市長選への出馬を表明した大阪府の橋下徹知事(42)。現職の平松邦夫市長(62)との「直接対決」への意欲をむき出しにし、任期途中で知事を辞職してまで仕掛けた異例の大阪府知事・市長のダブル選は11月27日投開票となることが確定した。「大阪秋の陣」に向けた各党の動きは一気に活発化する。(10月22日)
橋下知事がついに有言実行を見事にやり遂げた。
今の「死に至り日本病」真正面から完全の挑戦史、戦っているのは一人橋下知事のみではないか。そのファイティングポーズと手数、口数、得点の多いのもストライカ政治家である。「戦う政治家」「戦う知事」である。これ以外は何を勘違いしているのかお殿様知事、世襲月給泥棒議員、トコロテン大臣(下臣)=もともと大臣なる奈良時代に中国の位階制度から付けた太政大臣なる名前を未だに使っている国はない)ばかりである。
『天は自ら助くる者を助く』人や運に期待する前に自分で自分を助けることが大事」なのだ。『地方自治』を「草の根民主主義」で「中央集権官僚統制の現封建徳川時代から遺物体制から取り戻すための地方からの革命、薩長藩が徳川幕府を倒したようにやらねばならない。
明治維新を起こしたのは吉田松陰であり、その前に、大阪の大塩平八郎の乱が起爆剤となったのである。陽明学者の大塩平八郎の「知行一致」の精神こそ、革命精神で、吉田松陰にバトンタッチされ、明治維新、世直し革命のノロシとなった。橋下は現在の大塩平八郎、それ以上の存在であり、その行動力、政治突破力は野田ドジョウ慎重居士や前原、石原よりも何倍ものギガクラスである。
「橋下革命」は平成維新のノロシであることは間違いない。
 
以下は2010年09月07日に書いた原稿である。
 
 
 
日本リーダーパワー史(92)
閉塞状況を突破するために奇人政治家・田淵豊吉を見習え
<河村名古屋市長・橋下知事の先輩は田淵豊吉・・・>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
今の、日本のすべてにわたる閉塞状況を突破できるのは、残念ながら菅首相、小沢一郎氏、民主党の面々でもありません。民主党、自民党ばかりでなく政治分野に本当に突破力のある、革命を成し遂げられるようなリーダー、人材がいないことこそが問題なのです。小沢氏になってもこの難問を解決できない、ましてや自民党になってもなおさらできないと、考えて危機感をもっている国民が多いのです。その人材倒産こそがこの重い閉塞状況を根底になります。
ざっと政治家を見渡してみても、本物の政治家、唯一突破力のありそうな、また果敢に腐りきった既成の体制に体当たりして身をきって格闘しているのは名古屋市長の河村たけし氏と大阪府の橋下知事の2人くらいではないでしょうか。
今日は、この河村たけし市長によく似ている田淵豊吉仙人の話をしたいと思います。本論に入る前に、民主党代表選についてさらに一言。
 菅対小沢の民主党代表選の迷走、混乱について北岡伸一・東大教授は日経朝刊(9月7日)に時代状況は「幕末に似ている。当時幕府は外国や国民にいろいろ約束したが、何も実現できなかったので、薩長によって武力討伐された。いまは、そんなことも出来ない」と述べている。
確かに、この徳川幕府(260年継続)のスモールコピーであった自民党幕府(自民党政権・官僚主導中央集権官僚国家、100年継続)は明治維新後も連綿と続いてきたので、体制は巨大鉄筋コンクリート化しているので、制度、体制を根本的に変える破壊力のある革命なくしては、選挙や投票、話し合いによっての国会論議では全面的に倒すことはできない。
なぜなら、官僚が守る官僚、行政制度はますます強固に自己防衛しており、これを改革できる政治家(国会議員、地方議員も含めて)も結局、一心同体であり、どれだけ膨大な借金が膨れ上がっても、税金から詐取する高報酬の出る既得権を死守する方向に動くからである。
その点では、民主も自民もみんなの党も同じ行動パターンをとる。連合の全面支持をうける民主党が国民の期待に反し、せいぜい行政の無駄使いの見直しくらいにしか触れず、国家公務員の3割、5割削減という大胆な行政改革を打ち出せないのです。(かつて、昭和初期に浜口雄幸内閣は大胆な軍縮と行政改革、国家公務員賃金の10-20%の大幅カットをやろうとして猛反対を受け、テロによって殺されてしまったケースはもう一度勉強する必要があるよ)
さて,北岡教授は菅氏を「たよりない。逃げずに捨て身でやってもらいたい。外交は苦手ですと言う不勉強ではだめ」。小沢氏は「非現実で、具体論、方法論が全くない」と苦言を呈している。
 
菅氏がしきりに「奇兵隊をつくった高杉晋作」を持ち出していますが、高杉はその後の明治の陸軍の基をつくった。武士のみではなく、士農工商の身分を廃止して百姓、農民でも誰でも兵隊になれる国民皆兵の基礎を築いた男なのです。それを菅氏はどこまで理解しているのでしょうか。本当に理解しているならば、あれほど安保問題や自衛隊の問題に無知であるはずがありません。
小沢氏が西郷隆盛にたとえられている。「西郷隆盛は廃藩置県を断行して、現在の日本の行政の骨格をつくった。また徴兵制をつくって徳川幕藩体制の中で国民皆兵という体制の大転換をその剛腕で達成したのです」、その本物の英雄・西郷に小沢氏がたとえられているのは全くのメディアの不勉強と、政治家の不見識そのものです。
「壊し屋」と言われるように、次々に新党をつくって、より民主的な2大政党を作ると言いながら、大きなデザイン力、実行力、人望、清廉潔白さがないため、この20年以上の日本の政治の混乱、沈没をつくった原因の1つは彼の無定見の行動ではないでしょうか。西郷とは全く比較になりません。
 

 

またまた、脱線してきましたので、本日のテーマに戻ります。
こうした政治のながいながい混乱見るにつけ、最近よく思いだすのが、田淵豊吉―東条英機に反対した奇人・仙人政治家―です。彼は昭和戦前期に正論を展開し、軍事政権を正面から数少ない政治家です。もっともっと見直されてしかるべき政治家ですし、大変ユーモア、ジョークのあった面白い政治家です。日本の政治家の欠点はジョーク、笑いがないことです。コミュニケーションで肝心なのはユーモアの精神ですが、国会での論戦を見ても、官僚国家ですね、もんきり型の役人答弁、質問ばかりで世界観や哲学がありエスプリが効いた会話が余りにも不足しています。
 
 田淵豊吉―東条英機に反対した奇人・仙人政治家
 
田淵豊吉は大正末から、昭和前期に活躍した哲人・奇人政治家、「田淵仙人」と呼ばれた。太平洋戦争中に東條英機首相を批判した反骨でならし『世間では仙人と呼んでいるが、わしはカスミの代りに飯を食い酒も飲む、だから半仙人とでもしておこうか』と豪快に笑い飛ばしていた。
 
 明治15(1882)年2月、現在の和歌山県御坊市で酒造業の四男に生まれた。病弱のため小学校で遅れ、クラスの最年長者となり、『オトウ』のあだ名で、『父』のように慕われた。
中学時代には英語は図抜けてよくできたが、その勉強法は雪隠(トイレ)の中にウェブスターを一冊つるしておいて、便所には入る度に、1,2分で、単語をいくつか暗記して、頭の中に、たたきこむと一枚一枚破って、尻をふいては捨てた。1年足らずで、辞書1冊を暗記してしまった。
早稲田大に入学、弁論部に入った。雄弁の達人・大隈重信が創設しただけあって,弁論部は東都の雄弁界を牛耳っていた。田淵は永井柳太郎(のち政治家)、中野正剛(同)とともに弁論部三羽ガラスとうたわれ、その演説は一風かわっていた。演説の練習も戸塚街道の松の木の上に上って、毎日毎日道行く人々に演説して、戸塚村民の間で大評判になった。
 
明治41年に早大を卒業、翌年から自費でドイツ、イギリスなどに留学、政治経済と哲学を専攻したが、寒いドイツの冬でも平気で夏服と帽子1つで通したという変わり者で、大正四年(1915)に帰国した。洋行帰りなのでいくら仙人でも少しは垢ぬけして帰ってくるだろうと期待して友人たちが新橋駅で待っていると、田淵は相変らずヨレヨレの背広に顔いっぱいのひげ面で現れたので、逆にみんなは感心した。
大正六年四月の総選挙に立候補したが、惜しくも次点となり、大正九年に再度出馬して当選し、以来、大正十三年、昭和三年、十年、十二年と五回にわたって衆議院に議席をもって、無所属議員として活躍した。
 
関東大震災での朝鮮人大虐殺を追及して、「日本人の良心」を示す名演説を行い、昭和4年の張作霖爆殺事件では「何か奥がある、関東軍が関係があるならば総理大臣は国に謝し、世界に謝さなければならぬ」と追及、調査結果公表せよとの決議案を出した。昭和の軍国主義がますますエスカレートしていく中で、田淵はその国際感覚と幅広い知識から、戦争への道に歯止めをかける質問をいくつも行った。
 
明治から昭和20年までの帝国議会衆議院で、懲罰を受けたのは48議員にのぼるが、懲罰の最多記録は田淵で四回。このほか、退場命令が数知れずといってよいほどで、議会政治の理想を追求した田淵は「議事進行に関するスル発言」をたくさん行ったが、これが議事妨害ととられて、退場、懲罰の対象となり議会内では孤立していき、奇行が一層増幅された。
 
田淵は国会での質問がトップクラスの議員で、演説もまるで変わっていた。留学によって得た学殖豊富な事例を交えながら、自身の哲学、国家像をジョークと英語、ドイツ語などの外国語をふんだんにちりばめて大演説をぶち、大臣、議員連中を煙に巻いた。

しかも、毎回、酒をのんで酔っ払った上で登壇し、演説の合間にコップの水を珍妙な動作で飲み干しては、大げさな身ぶり手ぶりのジェスチャーをまじえて、延々とまくし立てるので議場は爆笑とヤジの連続、そうかとおもうと、大臣や宰相たちも友達のように呼び捨ててはその肩をたたく。議事進行を連発して国会を混乱させた。議会での論議の低調さを嘆いて、酔っ払っては議会内で議員にくってかかって、殴られた回数ではもっとも多いという有り難くない勲章をもらった。

 
田淵の真骨頂を示すエピソードを1つ。大隈公の養子・大隈信常が政治家に立候補する意欲を示し、民政党の代議士を築地の料亭に招待した。増田義一、小山松寿、永井柳太郎、中野正剛、田淵豊吉、松村謙三ら十数人が集り、信常は「老侯の志を継いで政界に一旗上げるので、ぜひ助けてもらいたい」とあいさつした。新党を作り、民政党を裂こうというもの。
増田、永井も中野も、みな無言のままで、10分ほど一座は静まり返った。その時、田淵が若輩ながらと大声で「私ども早稲田で老侯から学問の独立は常におそわりましたが、おやじの縁故によってその息子の旗上げについてゆけという教えは聞いておりません。情実因縁についてゆかぬことこそ老侯の教え。おやめなさったほうがよろしい」とズバリと言ってのけ、信常は黙って引き上げた。(『三代回顧録』 松村謙三 著  東洋経済新報社 昭和39年9月発行)
 
 戦前、国会の奇人で、「仙人」とあだ名されていた田淵豊吉(無所属、和歌山県)という代議士は、丸善の本代が当時の金で毎月三百円もあったというひじょうな読書家だったのだが、いつも院内では、小わきに一冊の古ぼけた英文の『イソップ物語』を、大事そうにかかえて歩いていた。
他の議員連が目の色をかえて政争にうき身をやつしているとき、ひとり超然として、まじめくさった顔つきでかかえているその『AESOP,S FABLES』 の大活字を目にすると、思わずわず吹きだしたくなるのであった。
要するに、議会なんていうものは、一つのお伽話、そこに登場する議員諸公は、たとえてみればイソップ物語に出てくる動物諸君とおなじたぐいなのだ、というしんらつな風刺だったーと毎日新聞政治部記者の新名丈夫は回想している。
 
 第2次世界大戦に突入する時は、「この戦争は勝てん、やってはいかん!」と忠告し、「世界に三人の大バカあり、南にムソリーニ、西にヒトラー、東に東条英機である」といった話は有名である。昭和18年1月、失意のうちに病死、61歳。
 
 新名丈夫は昭和の戦前戦後で30年以上にわたり霞が関を取材してきたが、官僚主導国家での国会の変わらない姿について「政治」(光文社・カッパブック、昭和31年刊)で次のように告発している。
 
議会政治のおとぎ話  楽屋裏で官僚のお膳立て、河村市長の主張の裏付け
 
 「国会は国権の最高機関というが、それは言葉だけで、じつさいの政治は、楽屋裏で各省の官僚がやっている。議会では、たんにおしゃべりがおこなわれているに過ぎない。
主権者たる国民は、ただ四年に一ペん、そのおしゃべりを送りだすときだけ、政治に開係をもつ。あとは踏んだり蹴ったりなのだ。
血の出るような税金をしぼりとられて、一家心中までしなければならぬような目に追いこまれている国民にとって、なによりも深い関係のあるのは、自分たちの税金がどういうことにらかわれているか、ということである。ところが、その税金のつかい方・財政にしてからが、予算の編成、執行、ともに官僚が勝手にやっているのであり、国会はただ、それを「承認」するだけなのである。
 
 だいたい、議会というものが、どうしておこってきたか。歴史的に見た場合、近代議会は、絶対王制すなわち専制君主のほしいままな収奪にたいして、第三階級(貴族、僧侶にたいし新興の商工業者)が財布のひもをしめるためにつくった抵抗の組織として成立し、発達してきたものであった。それゆえ、議会のもっとも重大な仕事は、財政の検討、とくに予算の審議なのである。しかも、こんにち、国民が主権者であり、国民が膨大な税金を払っているからには、財政も国民の意志にもとずいて予算が組まれ、運営がおこなわれねばならないはずである。
 
 ところが、戦後のいわゆる民主化政策のーつとして新たに生まれた財政法に定められた「財政の公開」というのは、たんに予算が成立してからのち、内閣は財政一般について印刷物、講演その他適当な方法で、国民に報告する義務があることを要求しているだけなのである。予算の編成においては大蔵省主計局の官僚以外、国会議員たりとも一指も触れさせないものなのである。
 
「予算編成の段階において、公聴会を催すとか、議会のメンバーにはいっていただいて、いろいろ聞くということについては、ただいまは考えておりません。」
 財政法が審議された昭和二十二年の第九十二帝国議会、衆諭院の委員会で政府委員が言いいはなった言葉である。」
 
50年前の話だが、バカなことに日本の政治は100年、今も変わっておらず政治家、役人はたらふくもらって小田原評定を続けているのである。
 

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