日本リーダーパワー史(865)『日本の「戦略思想不在の歴史⑰』『世界史の中の元寇の役(文禄の役、弘安の役)7回』★『計6回の使者派遣外交で日本に朝貢を迫ったモンゴルに対して、一貫して対話・交渉を拒否した鎌倉幕府』●『 千年も続く日中外交力格差ー河野太郎外相は外相専用機を要求』★『日本外相の各国訪数は中国の約3分の1』
日本リーダーパワー史(865)
『日本の「戦略思想不在の歴史⑰』
『世界史の中の元寇の役(文禄の役、弘安の役)7回』
日本の「戦略思想不在の歴史」⑵(記事再録)-日本で最初の対外戦争「元寇の役」はなぜ起きたか②『「モンゴル帝国は計6回も日本に使者を送り、外交、貿易、 属国化を迫ってきた』『日本を攻めようにも風涛艱険で、 モンゴル軍が安全に進攻できるところではない』
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/27425.html
第2回は1268年1月
第3回は1269年3月(文永6年、至元6年)
第4回は1269年9月、
第5回は1271年9月、
第6回は1273年3月(文永10年至元10年)
と1,2年ごとに1度の使者を送りこんできた。
改めてモンゴル帝国の強大な軍事力と外交力を駆使した世界覇権の戦略を見ることが出来る。外交交渉と戦争とは表裏一体の関係である。外交的ジャブを積極的に繰り返し(対話コミュニケーション)、最後に強烈なアッパーカットを相手を倒すのが戦争である。
ヨーロッパ、アジアのようなユーラシア大陸国で陸続きの国境線が戦争によってとったり,とられたりで、国境線が絶えず変わる戦争国家と、日本のような島国国家で外敵から周囲を海で守られて、一国平和主義で国境線を防衛する必要のなかった国との決定的な違いである。
有史以来のこの地政学的な特徴で、必然的な鎖国体質に閉じこもって、戦争も外交も交渉も経験がなかったのである。
モンゴル帝国は日本を征服するため執拗に、朝貢に来るように使者を派遣してきた。日本は返書も一切出さず完全無視し交渉を拒絶した。
第2回は1268年1月―
フビライ汗の厳命により、高麗王は播阜を日本へ派遣し、モンゴルへの入朝を勧告した。藩阜は対馬を経て福岡の大宰府に到着したが、入京(京都)も拒否され、ここで5ヵ月間も留め置かれ、粗末な待遇を受けた。持参したモンゴル.高麗の国書に返事も与えられないで、帰国した。
第3回は1269年2月(文永6年、至元6年)―
播阜が無為に帰国したことを聞いたフビライ汗は、かんかんに怒って高麗を叱り、高麗は信用できないとして、今度は黒的・殷弘の二人のモンゴル使者と高麗は播阜ら3人を同伴させ総勢70人を船4隻で日本へ派遣した。
一行は対馬島に上陸したが、島民が上陸を拒否したので、島民2人(塔二郎,弥二郎)を拉致して、高麗へ引き返し、フビライ汗に引見させた。フビライ汗は大いに喜んで丁重にもてなして、モンゴル帝国の壮大、豪壮な大都(現在の北京)を十分に見物させ高麗を経由で日本へ送り返した。フビライ汗は2人がその見聞を鎌倉幕府に知らせれば、その権勢におどろいてすぐにも朝貢にくると思った。しかし、これもからぶりに終わった。
第4回は1269(至元六)年、年9月―
日第四回目の使者は、高麗人の金有成、高柔の2人で、対馬島民2人をモンゴルから送還するついでに、モンゴル、高麗の国書を持って、派遣されてきた。国書は鎌倉幕府に届けられた後、京都の朝廷に送られた。朝廷では国書に返牒すべきかどうかの院評定が行われた結果、返牒することになり、国書の起草は菅原長成に命じた。
しかし、幕府はこの国書を出さないことに決定したので、金有成ら太宰府に長く留め置かれた末に、やむなく引き上げた。
塚本政登士著「日本防衛史」では、こう書いている。
第4回目は1269年9月に捕えた対馬の島民の2人を返す目的で高麗人の使節がクビライの国書ではなく、モンゴル帝国の最高行政機関からの国書と高麗の国書を携えてやってきた。
国書はモンゴル帝国に服属(属国化)を要求する内容だったので、朝廷は拒否することを決定し、文書博士・菅原長成にその返書案を作成させた。
文面は「日本は蒙古の号は聞いたことがない。また通交(国交)がないので、わが方はなんら好悪の情はもってない。それなのに和親を図らなければ兵を用いんというのは、帝徳仁義の道ではない。
日本は天照皇大神より永く神国であり、平和国家である。知をもって競うべきにあらず、力をもって争うべきでもない。もし日本に対し失礼なことをすると神罰が当たるからよく考えなさい。」(日本防衛史43P)という内容。
幕府は評定を開きこの「返書」を出さない方針を決め朝廷に上奏した。朝廷もこれを了承し、使節は再び手ぶらで帰っていった。
第5回は1271年9月―
使者は超良弼(ちょうりょうひつ)。フビライ汗の詔書をもって国信使の超良弼はフリンチ、王国昌、洪茶丘らの諸将とともに高麗に行き、彼らを国信使が帰るまで金州に待機させていた。
超良弼らが高麗に着いたのは、至元八年1月のことで、九月に博多に到着した。それまでの国使はいずれも返書を得られなかったので、超良弼は今度こそ京都へ上って、国書を奉ろうとしたが、博多の役人に拒まれ、押問答の末、結局、副本を作って提出した。
鎌倉幕府はこれを京都の朝廷に奏上した。朝廷では「モンゴルの要求を拒否する返事を出そうという意見も出たが、幕府は「返答に及ばず」との強硬方針をとった。このため、朝廷も幕府もともにモンゴルの入朝要求をはねつけた。(前掲・勝藤猛著「フビライ汗」)
一方「日本防衛史」ではこう書いている。
第5回目は1271年(文永8)9月に女真族https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A5%B3%E7%9C%9F%E6%97%8F&rlz=1C1CHVZ_jaJP525JP525&oq=%E5%A5%B3%E7%9C%9F%E6%97%8F&aqs=chrome..69i57j0l5.910j0j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8
の趙良弼が使者となりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E8%89%AF%E5%BC%BC
モンゴルの服属を求める国書をもって100人余りを連れて、高麗の各地に軍勢を集結、駐留させ戦争の準備をしながら博多湾に上陸、太宰府に到着した。しかし、日本側はさらに東上することを拒否した。
趙良弼は『国書の返事が11月末までに届かなければを武力行使も辞さないとした』と言明した。これに対し朝廷は菅原長成が作成していた返書の『太政官牒案』を改定して提出することで一旦はまとまった。
その後、返書の代わりとして、日本の使節がフビライのもとへと派遣されることになり、趙良弼はその日本使節と共に引き上げた。
第6回は1273年3月(文永10年至元10年)―
第6回目は翌1272年(文永9)4月か9月に趙良弼が再びやってきた。
三別抄(高麗王朝の軍事組織)やhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%A5%E6%8A%84
元に圧迫された日本に逃れてきた南宋禅僧らの妨害にあい、趙良弼らは大宰府より日本の国都(京都)に入ることができなかったため再び元に戻ってしまった。
彼はこれまでの日本滞在2度の経験からフビライに対して日本遠征の不可を進言した。
「日本人は狼勇で殺を嗜み、父子の親や上下の礼のあることを知らない。其地は山水多くして、耕桑の利なく、その人を得ても役すべからず、其地を得ても富を加えることはできない。
況んや舟師で海を渡るには、海風期なく禍害測り難い、いわばこれは有用の民力をもって、無窮の巨壑(きょが)(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことは不可である。」(日本防衛史45P)と述べ、クビライはその言に従った。
しかし、翌1273年に元は南宋との5年間の戦争で勝利し、また朝鮮半島の三別抄も滅ぼしたので、いよいよ対日侵攻計画を決断したのである。
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帆し「千年も続く日中外交力格差ー河野太郎外相が「外相専用機を要求」
河野太郎外相「ふざけた言葉を使うのは信じられない」 19日付産経新聞朝刊4面“おねだり”報道に激怒
http://www.sankei.com/politics/news/171219/plt1712190018-n1.html
河野太郎外相は日本の外交力を強化するために『外相専用機の導入』を予算要求した。いま日本では「総理専用機」しかなく、外務大臣やそのスタッフの移動にすべて民間の商用機を使っており不便極まりないと強調している。
さらに日中外交力の比較を
➀ 平成25年1月から現在までの約5年間に日本の外相がそれぞれ訪問した国は97カ国だが、中国の王毅外相は262カ国の3倍近いと指摘。
② 日本の外務大臣は国会対応があるが、中国の外務大臣は国会対応がない。
③ 日本の政府開発援助(ODA)が多いわけではなく、アフリカをはじめ、さまざまなところで中国の投資や援助が日本を遙かに上回っている。
日本の国益を考えてこの日中外交力キャップを埋める必要があるーと強調した。
約千年前の蒙古襲来への対応の不備、コミュニケーション能力の欠如はいまだに続いているのである。、日本の防衛力も、外交力、インテリジェンス能力の向上が緊急かつ、永遠の課題なのである。
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