日本の「戦略思想不在の歴史」⑷『日本で最初の対外戦争「元寇の役」はなぜ起きたか④』★『 文永の役はモンゴル軍の優勢のうち、『神風』によって日本は侵略から助かった』
2017/12/01
文永の役はモンゴル軍の優勢のうち、『神風』によって助かった。
1274年(文永11)10月3日、日本遠征軍は高麗(朝鮮)の南海の要港・合浦(がっぽ、現在の慶尚南道の馬山)を出発した。その兵力は蒙漢軍2万5千、高麗軍8千、梢工(しようこう)(船乗り)、水手水手(かこ)(梶取り)6700人、戦艦300、上陸用軽舟300、水舟300など。(「東国通鑑」「元史」より)。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%80%9A%E9%91%91
日本遠征軍は10月5日に対馬を襲撃した。
東北岸の比田勝、南西岸の佐須浦(小茂田浜)など4カ所に、約千人が上陸した。当時の対馬守備隊は守護代宋助国の下に総兵力400だったが、佐須浦に上陸したとの急報で助国が通訳と80騎を従えて駆けつけ、来島の趣旨をたずねると、いきなり矢を放って戦闘状態となり、多勢に無勢で全滅する。
モンゴル軍はほぼ無防備の対馬全島に対して、1週間にわたり殺戮、放火、略奪、強姦など残虐の限りを尽くした。
モンゴル軍は対馬を全滅した後、捕虜にして手に穴をあけてそれに縄を通したたくさんの対馬島人を舷につるしながら14日には壱岐の西北岸を攻めてきた。この時、「山に逃れた者も、子供の泣き叫びによって発見され、皆殺しにされた」と壱岐の郷土史にある。
過去の日本の戦争では経験したことのないこのような残虐行為は「蒙古がやった」という言葉がなまって「ムゴイ」(残虐)という言葉を生んだ。
また「ムックリ、コックリ」とは「一物をも残さず掠奪する」意味だが、「ムックリ」(蒙古)「コツクリ」(高麗)のなまりで、「ムゴイ」「ムックリ、コックリ」の表現が700年経過した今でも北九州で伝えられている。
そして、10月19日、モンゴル軍の先遣隊が博多の東12キロ、博多港の西部に位置した福岡市今津に上陸した。
迎え討つは守護職・小弐景資(しょう かげすけ)を中心に、菊池・臼杵・小玉・松浦など九州の豪族や御家人,地頭、武士、農民ら約一万。モンゴル軍は2万で20日、大船団を海上から博多方面に進めて百道原海岸、博多、今津、早良、鹿原、鳥飼、赤坂、息の浜、箱崎に次々に上陸させて、日本側の防衛本部のある大宰府守護所に攻め上った。
日本軍の水際阻止の作戦はあちこちで突破されて激戦、乱戦、一進一退となり、モンゴル軍の優勢となった。
当時の両軍の戦闘方式は全く異なっていた。
塚本政登士『日本防衛史』によると、
① 当時の鎌倉武士の作法では重い武具を身につけて、一騎討ちでる名のりを上げての1対1の戦闘だが、モンゴル軍は火器を使い、太鼓の合図に従って前進、退却する近代戦集団戦法であった。
「八幡愚童訓」によると、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11102121856
② 日本軍の一騎打ちに対し、モンゴル軍は隊伍を組んで太鼓をうち銅鋸をならし、ときの声をあげて攻めよせるので、日本の軍馬は驚いて暴れて、騎乗の武士は落馬するなど混乱した。
③日本軍が隊伍をととのえて突進すると、敵は左右に展開して包囲攻撃を加えてくる戦法をとった。モンゴル軍の短弓の射程は200m、矢数が非常に多く毒を塗っていた。これに対し日本軍の長弓は日本刀の補助的武器で射程は50m、矢数は2、30本でこの短弓には苦戦した。
⑷ 破壊攻撃は小銃ではなく、爆発物を鉄で包んで投擲する大砲的なもので、その爆発力と爆音は日本軍の人馬を混乱と恐怖に陥れた。
こうした、モンゴル軍の近代的な戦法と、火器などよって、日本側は苦戦した。
夕方には日本軍はすっかり疲れはて、水城の城まで退いて、そこにたてこもった。これと見たモンゴル軍も、夜になっての深追いを避けてモンゴル船に引き上げた。
その夜、にわかに暴風雨が吹き荒れ、明くる朝、海岸にでて見ると、博多湾上に、元船は影も形も見えなかった、といわれる。
「東国通鑑」によると、「その夜、大風雨にあい、蒙古軍は戦艦が厳崖に多く触れ敗る(破壊、沈没した)」と記録されている。この大風雨が「文永の役」の神風と称されたものである。
一方、「八幡愚童訓」には大風雨の記事はないが「東国通鑑」には明記してある、また当時治部少輔であった勘解由小路兼仲の日記「勘仲記」にも風の記載がある。
この大風雨は時期的にみて「台風」ではなく冬場にこのあたりに発生することの多い「爆弾低気圧」とみられる。
(以上の参考、引用文献は塚本政登士『日本防衛史』原書房 1976年)
つづく
関連記事
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ウオッチ(15)』★『ポルトガル・リスボン旅行日記③ー『エンリケ航海王子没後500年の1960年に出来た高さ52mの白亜記念碑『発見のモニュメント』
2012/12/24 『F国際ビジネスマンのワールド・ …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(322)★「米国初代大統領・ワシントンとイタリア建国の父・ガリバルディと並ぶ世界史の英雄・西郷隆盛の国難リーダーシップに学ぶ。ー『奴隷解放』のマリア・ルス号事件を指導。「廃藩置県」(最大の行政改革)「士農工商・身分制の廃止」『廃刀令」などの主な大改革は西郷総理(実質上)の2年間に達成された』
2019/07/27 日本リーダーパワー史(858)/記事 …
-
-
日本リーダーパワー史(858)ー来年1月からNHK大河ドラマ「西郷どん」が始まる。国難の救世主「西郷隆盛のリーダーシップ」に学ぶ。
日本リーダーパワー史(858) 国難の救世主「西郷隆盛のリーダーシップ」に学ぶ。 …
-
-
★『地球の未来/明日の世界どうなる』< 東アジア・メルトダウン(1076)> ★『第2次朝鮮核戦争の危機は回避できるのか⁉⑥』★『石油輸出に上限=北朝鮮制裁決議を採択―米譲歩、中ロ容認・国連安保理』●『アングル:高まる非核三原則見直し論、米軍の核持ち込みで抑止維持』★『 日本で広がる核武装論…「安倍第1次内閣で米国と議論」』★『「日本、10年以内に核武装の可能性」』
★『地球の未来/明日の世界どうなる』 < 東アジア・メルトダウン(1076 …
-
-
『Z世代のための日本の超天才人物伝⑤』★『生成AIをはるかに超えた『世界知の極限値』・南方熊楠先生の書斎訪問記(酒井潔著)は目からウロコ②』★『大英博物館をわが書庫にして8年間、研究三昧で世界一の読書家に』★『東大あたりの官学者が、わしをアマチュアだ言うが馬鹿な連中だ。アマチュアではなく、英国でいうリテラート(独学で叩き上げた学者)で英国では大いにもてたよ』
2015年4月29日の記事再録、編集 酒井潔著の個人雑誌「談奇」( …
-
-
百歳学入門(174 )-『生死一如』★『百歳天女からの心に響くメッセージ』―60,70/洟垂れ娘への応援歌」②『105歳小倉遊亀(おぐらゆうき)女流日本画家)『老いて輝く。60代までは修業、70代でデビュー、100歳現役』』●『105歳、最後の長岡瞽女(ごぜ)の②)『すべて神様、仏様のお導き、すべてを受け入れ許すことで自分も救われる』
百歳学入門(174 )-『生死一如』★ 『百歳天女からの心に響くメッセージ』― …
-
-
日本リーダーパワー史(508)日中韓150年戦争史②「日清の戦争は文野の戦争なり(文明の衝突なり」(福沢諭吉)
日本リーダーパワー史(508) …
-
-
★『 地球の未来/世界の明日はどうなる』< 日本メルトダウン(1060)>★『週刊ニューズウィーク日本版 』特集『2050 日本の未来予想図』★『『日本を待ち受ける2つの未来』<中国の機嫌をうかがう衛星国か、平等な世界における中堅国になるか>』★『先進国陥落は間近!戦後幻想の終焉(デービッド・アトキンソン)』★『座して死を待つ<自死>の国/日本の惨状!終焉のベルはなる』
★『 地球の未来/世界の明日はどうなる』 < 日本メルトダウン(1060) …
-
-
日中北朝鮮150年戦争史(36)<歴史復習問題>『120年前の日清戦争の真実』- 日清戦争は偶発的な豊島沖海戦から始まった①』
日中北朝鮮150年戦争史(36) 120年前の日清戦争の真実 日清戦争は偶発 …
-
-
『Z世代のための帝王学の研究①』★『天皇皇后両陛下はチャールズ英国王の招待を受けて、6月22日から8日間,イギリスを公式訪問される。」★『歴代天皇で最初に外国訪問をされたのは昭和天皇が皇太子(19歳)時代の1921年(大正10)3月から、約半年間にわたってヨーロッパを視察された』
天皇皇后両陛下はチャールズ英国王の招待を受けて国際親善のため、6月22日から8日 …
