日本リーダーパワー史(224)<明治の新聞報道から見た大久保利通 ③ >『明治政府の基礎を作った男』
日本リーダーパワー史(224)
<明治の新聞報道から見た大久保利通 ③ >
―明治維新の3傑ー
『明治政府の基礎を作った大久保利通③』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
1878年5月22日
支那の談判、既に局を結び征台の諸軍も前後に帰朝したるに依り、政府まこれより内治に力を尽さんとせらる時なるに、木戸公は先だって山口に帰られ、板垣氏も今は高知に退き、復古の功臣漸く分離せんとするを見て、維新ののち職を辞して大坂に退隠せし某が深くこの事を歎き、東西に奔走して終に諸公を大坂に会するの約を成し、明治八年の二月、公は伊藤参議と共に東京より赴かれ、木戸公は山口より、板垣氏は高知よりおのおの大坂に到着あり、
かくて諸公の評議一致しければ、公は木戸公その他の方々と共に東京に立帰らる。幾程も無く三月八日に木戸公再び参議に任ぜられ、四日を置きて板垣氏もまた参議に任ぜられ、十七日公は木戸、伊藤、板垣の方々と同じく政体取調御用を命ぜらる。そのとし四月十四日の 聖詔並に同じき六月地方官会議を開かれし等も全くこれに依りて施行せられしなりとぞ聞えし。
四月三十日、地租改正事務総裁並に米国博覧会事務総裁を兼ねらる、九年五月奥羽の御巡幸には御先達の仰せを蒙り、先だって東京を発せられけり。
十年一月 聖上西京へ行幸なる。これよりさき木戸公は退隠の念珠に深く屡々職を辞せんとせられしを、当時木戸公の去就は誠に廟堂の大事なれは様々と申し留めし方々も多かりしに、或る日、公は木戸公と便殿に面会ありて、将来施政の方向など談ぜられしが、公は大に木戸公の説に推服し、行幸の事終りたらは共に力を同うし地方の改正に着手すべきにて侯と堅く誓われけるとぞ。
間もなく鹿児島の戦争起り、公は二月十三日西京へ赴かれ征討の事務に参ぜらる、賊勢次第に衰えしと聞えければ、聖上は東京へ遷幸あらせ玉う、公もまた後るること二日にして八月二日東京へ立帰らる。
同じき十一月二日勲一等に叙し、旭日大綬章を授けられ、正三位に寂し、年金七百四十円を賜わる。十一年五月十四日、参朝の途中紀尾 井町に於て兇賊の為に薨去せらる。聖上嘆き惜ませ玉うこと一と方ならず、即座に富小路侍従を勅使として物を賜わり、また宮中に伺候する侍医を残らず遭わさる、
翌十五日右大臣正二位を贈られ勅使その邸に臨んで詔を伝う。十七日神葬の式を以て青山の墓地に葬る、公は天保三年鹿児島に生れ薨ずる歳四十七才、抑も復古の功臣にして木戸公は既に尭じ、隆盛は昨年の乱に死し・魏然朝廷に存するものは只公一人にして上下の依信する所なりしに、惜かな天これに寿を仮さず兇徒の刃下に薨ぜらる。
公は去年鹿児島の乱定まりてより大に志を地方の政治に委ね、薨去の前日会議に依て参集せられし地方官のうち、渡辺福岡県令、安場愛知県令、並に楠本東京府知事を内務省に呼び集められ、士族授産の方法に付ては各地方にて荒蕪の土地を開墾する等、その他適宜の良法もあるべけれど、これまでは政府多事にして施設に達あらず、いま内乱始めて平らぎ大に地方の政治を改良するに当り、士族の授産は尤も忽がせにすべからず、この資本は即ち今度募集する所の内国債より幾分かを流用し地方に依りて便宜の法を施行せんこと偏に余が希う所なり、この旨を三氏より各県令へも伝え給われと懇ろに内話ありしと聞けり。
また薨去の一両日前に勧業事務に付き差向きたる見込を明細に書き綴りて或る貴顕の方に送られしとぞ。もと公はかかる細やかなる書簡などを人に贈らるる事なかりしが、勧業の務は昨年より熱心せられし故に常にはあらで明細に認められしならんと云えり。誠にかれ
と云いこれと云い公の遺言に成りつるとは知らざりしと或る人の語られたりき。
のち親戚の方々など集りて遺財を改められしに、値に百四十円のほかは一文も有らず、借財も数多ありて、悉く地券等を抵当とし後日の約を堅くせられたりければ、何れも談合して、先ごろ公が鹿児島県庁へ学校資として送られたる八千円の金を取戻して遺族を養うの料となし、学校資には朋友の方々にて八千円の金を醒め公に代りて鹿児島へ送らるることに決定したりと。鳴呼公の清廉寡欲なるは古の賢相良輔にも恥ざるの美徳とこそ申すべけれ。
略伝には鹿児島藩にて徒目付より直に側役に昇進せられしと記せしが左にあらで、徒目付より御家老座の書役に進みしなり、同藩にてはこの書役は必らず家柄者の子弟より選抜する例なりしが、公の超えて書役に昇りしを一家中の人々は前代未聞の事なりと云い合えり。都(すべえ)て家老職に列する人々は何れも高禄の家に生れ下情にも熱達せず、枢機に関する事は悉くこの書役にて取扱いし故に尤も威権ある役柄なりしと、これ公が非凡の技量を藩政に現わしたる初歩にて、人みなその果断明決よく事を処して、誤まらざるの才智に心服したるが、果して幾くも無く側役にまで昇進せられしと云う。
幕府再び征長の師を起すに及び鹿児島藩はその伐つべきの名義なきを主張し一兵をも出すまじと誓い、幕府より催促ありしかども更に応ぜざれは、時の老中板倉周防守、二条の城に在りて、その次第を詰問せんと京都の藩邸に在勤せる重役の者を出頭せしむべしとの差紙をぞ下しける折ふし、公は隆盛と共に邸中に詰め合わせられしかは、公は隆盛に向いて今日こそ一定長州再討のために出兵を催促せらるるならん、依て拙者は今日は聾に相成るべしと存じ付けり。
そのゆえに仮令閣老が千言万語を重ねて説諭するとも会て耳かに止めず、我が所存の程をのみ申し張るべしと云いて出で行かれしが、跡にて隆盛は打ち笑いつつ有り合う人々に申しけるは、大久保は不断コツコツ(鹿児島の方言にて強情なりとの意か)したる性分ゆえ、この事は十分にやりつくるに相違なしと座をも起たで待居けるに、果して公は周防守の詞を聞かず催促に応ぜざるの理由を抗論して立帰られたりと。
隆盛が大坂より流されLは略伝に大島と記せLが、なおよく聞くに沖ノ永良部島なりしと、またそのとき公が隆盛の身に過ちあらんことを恐れ同船して送らせたる一人は森山桃直と云い、一人は即ち村田新八なり。森山は船中にて西郷の冤罪を憤り切腹して果てしが、村田は片時も傍を離れず、終に永良都島に到着し、隆盛の配所に落着きたるを見届けてのち鹿児島へ帰帆せしと云う。
『略伝』
1878(明治11)年5月18日 「東京曙」
維新の元勲国家の柱石と称すべき故参議兼内務卿正三位勲一等大久保利通公が図らずも冥頑不霊なる兇徒の剣ぼうに係りて敢なくも一朝の零と消えさせ玉いしは、朝野を挙て一般の深く痛惜する所にして世人は定めて公が一生の履歴を知らんことを巽望せられなん。
最もその履歴の概略は己に二三の新聞紙上にも登録せし所なるが、猶我々の聞得たる廉なきにも非ざれは口は誤謬なきを必すべからざれども、暫くこれを登録して読者諸君の訂正を得たなん。
公の家は
世々鹿児島藩に事(つか)え,小姓組に斑す。父を大久保次右街門と称し鹿児島城下なる鍛冶屋町郷に住せり(のち甲突川の東に移る、これ甲東の号ある所以なり)。
公はその独子にして小字を正助という。幼きより沈重寡黙妄りに言笑せず、自ら群児に異なる所ありて-郷児童の魁首となり自ら称して天皇組と言しとぞ。少しく長ずるに及んで容貌魁偉望んでこれを畏るべく、郷中の小児輩も公を博かること師父に過ぎ敢えてその言
う所に背かざりしという。
この時に当りて鍛冶屋町は偉人を生ずる気運に際せしが如く、西郷隆盛、大山格之助の両人もまた公とその郷を同せしを以て互に往来して交り最も深かりしが、のち隆盛及び今の一等侍補吉井友実君等と共に禅学者隈元某に就いて仏書を講じ座禅三年大に自得する所ありしという。
二十歳にして部屋住より蔵方の下代に出身し記録所の筆者に転じ程もなく徒目付に進み、また擢でられて、納戸に挙られ累りに進んで側役となり、又転じて西丸の側役と(西丸は島津久光公の居住せられし所なり)せられ名を一蔵と改められたり、
かかる昇進は藩中に例少なき事なれは人皆望んで栄とせり、公のかく迅速に昇進せられしは、能くその職に適いて用うべきを知られたるが為めとはいいながら、この時の藩主は有名なる薩の順聖公にして人を知て能く任ずるの明を備えられしに由り、公もまた千里の才を抱て空く應下に屈するが如きの不幸に沈まずして、かくはその駿足を展すに至りしなりとぞ。
これより先き幕府が外国と互市貿易を開きしより、四方有志の士は挙て、切歯拓腕しその外人を疾視すること禽獣の如くなりしが、図らずも英人が島津三郎公の供先を切りしを以て生麦の変を生ずるに至れり。この事変に就て英公使より烈しく幕府に切迫するに及び幕府は薩藩に達するに迅速、家老諏訪某を差出すべき旨を以てし、再三の厳命を下すに至れり、蓋しその趣意は薩摩に命じて英国への朕金を出さしめんが為めなりしとぞ。
この時に当りて西郷は西京にあり、公は京摂の間に奔走せしが、薩の藩議に於ては、若し諏訪氏を差出さば答弁或は不都合を生ずることあらんと決し、諏訪氏をして急に病と称して西京より帰国せしめ、公及び吉井友実の両人に命ずるに諏訪氏に代りて大坂城に由づべき旨を以てせり、
かかる一大事の役目なれは流石の大久保公も吉井氏と共に最早一命を拗つべきの時なりと覚悟せられ、巳に決死と定むる上は今生の思い出に花々しき一興を催おさんと期せられたるにや、堀江新町より十三人の芸妓を招き、分って二線の船に乗らしめ(公と吉井氏ほ船を別にせられしと見えたり)、大坂城の下に至る迄綾歌の声湧が如く船を並べて進まれたり、この如き一大事の場合に臨んでかかる奇抜の所為に出て決死の心情を風流の興に慰せられしは、流石に大久保公の如何なる大難に臨むとも兢然として動かざるの気塊をも知るに足るものとこそいうべけれ。(以下次号)
公は大坂城の下に至りて船より上り吉井氏と共に登城せられしに、幕府の応接人(久世大和守なりしならんという)は公を延てこれに面し、この度薩摩の藩士英人を生麦に殺害せしに付き英公使より償金を督促すること甚だ急なり、
若しその藩に於てこれを払わるれは格別なれども、償金を出すことを否まれなは忽ち英国より軍艦を薩摩に姜向くるとの事なれば決して猶予すべき所ならず、速に償金を差出すべき様、幕府よりの沙汰なりと申し伝えられしに、公は始終沈黙して聞居られしが忽ち聾人の体を為し、粗は幕府にて討薩の命を下さるるにや、討んとならは速に討るべし、薩摩は己にその用意ありてこれを待つこと久しと空うそぶいてて言い放たれたり、
応接人は否とよ幕府が討つには非ず、若し償金を払わざれは英国が薩摩を討つということなりと再言すれども、公ほいよいよ耳聞えざる体を為し兎角談話の纏(まと)まらざれは、応接人も殆んど困じ果てたりし折を見計り、公は応接人に向って、拙者常に逆上の症あり、疾発するごとに耳聾して聞くこと能わず、今日図らずも病復た発したれは御沙汰を聞くも無用なりとて直ちに辞して帰国せられ、その次第を申し述べられしかは、薩藩に於ては兼てその用意を為し英船の鹿児島に向うに及んで不覚を取ることもなかりしとぞ(或はこの談判をなしたるは大久保公に非ずとの説もあれども、暫く薩人に聞得たる俵を記す)。
己にして勤王攘夷の説、益々四方に紛起し東西の有志輩京師に集まりて緒紳(しんしん)の間を干し公武の間漸く分離して、時運の変遷殆んど計るべからざるの状を現ずるに至りし時に当りて、公は久光公の内意を受け京師に出て広く四方の名士と交わり、天下の公憂を抱いて、いとまあらざりしが、その目的は公武の間を一致して攘夷の偉勲を奏するに在りしという。
然るに激烈の徒は益々四方に群起し、清川八郎は関東より京摂山陽を経て鎮西に赴き、平野次郎は筑前より起りて清川と相合し、遂に鎮西の諸有志と相結び薩藩を煽動して為す所あらんと謀りしが、島津久光公も折節鹿児島を発して上京せらるることとなり、公は西郷隆盛と共に久光公に従われしが、隆盛は中国の形勢を伺わんとて馬関より上陸し、公はその儀随いて上京せられたり。
然るに隆盛は途中に於て清川、平野等に擁せられ、薩藩の激徒橋口伝蔵、柴山愛次郎、有馬新七等は江戸より伏見に馳せ上り共に久光公を推て大将とし大坂、二条、彦根を陥れ至尊を奉じて東下し、幕府の罪を問いて攘夷の大策を決せんと騒ぎ立て、久光殿の躊躇して決せざるは公が左右に在てこれを妨ぐるが為めなり杯と言い罵り(潜中記略に拠る)、直ちに入京して久光公に迫らんと伏見の寺田屋に集りて会議せり、
久光公はこれを聞て甚だ憂慮し速に公及び大山格之助、奈良厚五郎等を遣りて鎮撫せしめられしが、激徒等は益々怒り益々激して更にその説論を聞入ず、己を得ず遂に数人を斬殺して漸くこれを鎮撫するに至れり、これ文久二年壬戊の歳の事にして有名なる寺田屋の変とは則ちこの事なり。(以下次号)
これより先き西郷は三郎殿の意思をも問い兼て論弁する所あらんと欲し大坂を発して伏見に至りしに、薩藩堀二郎は(今の伊知地宗之丞君なりという)これを伏見に迎えてその所見を陳述せしに、西郷も大いにその理に伏して再び大坂に引帰せしが、三郎殿は西郷の教徒に一致して一時の騒擾を醸せしを怒り、値に死一等を減じて大島に流すべきを命じ、これを大坂に執えて鹿児島に護送せられたり。
この時公は腹心の者に書簡を託して西郷の許に贈り、天下の為め屈辱を一時に忍んで死を忽卒に決する勿れと戒め、深く西郷の為に前途の望を託せられしという(或いは日く三郎殿は己に西郷に自裁を命ぜられんとせしに、公は西郷の巳むを得ずして激徒に擁せられしを説て特に寛典に処せんことを乞い、又その逼迫の処為あらんことを恐れ、腹心の者二人に命じてこれを大島迄護送せしめたりと)。
この時に当り薩長土三藩和合の姿ありて幕府も甚だこれを畏恐せしが、計らずも明る歳八月十八日朝議一変して八幡の行幸を見合わされ、連に長藩が堺町御門の宿衝を止められ毛利宰相父子ともに国に就き、三条公以下の七卿長州に走りて世勢頓た一変したるに、その間また長藩が薩船を外国船と見違えてこれを田の浦に撃破したる等の事ありて薩長のきんげき漸く深く、加うるに明年元治改元の歳七月十九日、長兵の禁門に迫りし時、薩兵会兵を助けて長兵を破りしにより愈々その怨恨を深うするに至れり。
然るにその頃広く天下の名士と交りて名声世上に盛んなりし土州人坂本龍馬深く薩長二藩の分裂を憂えて窃に公と隆盛を京師の薩邸に訪い、薩長連合の当時に止むべからざるを説きしに公も深くその理に服してその為す所に任せんことを話せらる。
龍馬速に長州に至りて、また木戸公及び高杉晋作等に遊説せしに、長藩も同くその説に服して異議なく承引せしを以て薩長の不快全く解け再び相連合するに至れり。丙寅の年、幕府再び征長の命を下し天下の兵を集めてこれを攻撃するも遂に志を得る能わざるに及び、公大坂城に上りて時の閣老板倉周防守に面し詳に天下の大勢を説き、また幕府の失政を述べて長州の再討はいよいよ天下の人心を失うの理を説き議論甚だ激烈なりしという。
これに於て幕府の有志会桑の二藩等始めて公の名声を知り、その徳川氏の為に利ならざるを知りて漸く公を窺うの密なるに至れり。(以下次号)
これよりのち幕府方の激徒は常に公を刺殺して徳川氏の息を除かんと欲し、これを伺うこと甚だ密なりと錐も、公は宿所を変換して居処走まらざれは何分捜索すること能わざりしが、見廻組は一日公の宿所を伺い知り五六名にてこれを訪い面会を申し入れしに、公は大刀を携えて二階より下り来り、
大久保一蔵に面会を請うは何用なるかと一喝せられしに、兼ては面会の上直ちにこれを刺殺せんと期したる見廻組も、その勢いに辟易せしにや手をも下し得ずしてこ
そこそと逃げ帰りしことありしという。
また公の甲部に赴かれたる時、新撰組の近藤勇これを謀知して途上に要撃せんと謀りたれども踪跡し能わずして止むにいたれり。明れば慶応三年となりぬ、この年公は薩摩に帰ると称して窃に長州に至り共に謀議を通じて再び京都に立帰られし折、柄土州侯その臣寺村左膳、後藤象次郎をして政権返上軍職奉還の説を慶喜公に悠愚するに際し公もまた小松帯刀と共にその議に参ぜらる。
慶喜公その説を容れ、遂に十月四日を以て政権を返上し続で将軍の職を辞す。これに於て朝廷新たに総裁議定参与等の職を置き、普く天下の列藩を召して大に国是を定めんとす。慶喜公己に政権を返上し軍職を解かれしと錐ども、列藩の衆議を尽して将来の国是を定むる迄は、当分の内なお旧に依て天下の事務を取扱うことを命ぜられ、
且つ会桑の二藩を始めとし幕府の有志は頗る政権返上の事を書はずして物議甚だ紛々たるに、列藩の追々と上京せし中に於ても或は天下の政務は旧に依て徳川氏に御委任相成る方然るべし杯との議を発する者ありて、到底非常の-大英断を加うるに非ざれは復古の実立つべからず、不抜の国是定まるべからざるの状あるに至りしを以て、十二月九日朝廷断然大栄を決し二条関白以下公卿数名の職を罷め、
徳川内府及び会桑両侯の参朝を止め、諸門の守衛は一切会桑両藩の兵を罷て代うるに薩土芸等の兵を以てす、この大策を決するに当りてや公の力与かりて最も多きに居るという。而して慶喜公が薩侯の罪を問うの上表を捧げ、数万の大兵を大坂より繰り出して上京せしめたるもまた、九日の変更を快しとせざるに由れり。
この変更を行うの翌日、公微れて参与となる。翌明治元年正月伏見下鳥羽の戦い、徳川氏の兵利あらず走りて江戸に帰る。これに於て京師の勢少く平かなるに及びしかは、公はその二十四日を以て遷都の議を奏上せられし、大意は今王師大に捷ち賊首東走すと錐ども、列藩の背末だ定まらず外国の交誼末だ全からず、宜く非常の英断を以て非常の事を行うべし、
伏て惟るに中古以遠天皇簾を垂れて挟手し寸歩も地を踏み玉わず、九重の深遠にして御坐に近づくを得る者は唯公卿数人のみ、所謂階前万里なる者に非ずや、それ君上を敬するは人心の然る所なり、而して椎等適を失えば即ち天理に垂戻し上下を否隔するに至る、
これ古今の通弊なり、請う俗論を看破し辺幅を撤去し簡易軽便以て事に従うべし、且つ平安は一方に僻在し以て聖護を拡張するの地にあらず、今日の急務は行宮を大坂に建て都を遷し以て宿弊を一洗すべしと、朝議これを可とし幾日を出ずして 聖上大坂に行幸あらせられて遂に東京に駐輩あらせ玉いしは公の建議を採用せられしに由るという。
巳にして公、国費の足らざるを憂え薩藩の石高十分の一を献納するの議を案ぜられし折から木戸公の藩籍奉還の論を聞き大にこれを可とし、共にその議を土肥の両藩にしょうようし郡県の基をこれに定むるを得たり。
七月二十二日に至りて参議に任ぜられ、九月二十六日復古の功臣を賃せらるるに及んで貰典禄千八百石を賜り従三位に叙せらる、公上表して賃典禄を辞すれども聴されず困てこれを勧業寮の費途に献納せられたり。(以下次号)