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梶原英之の渾身歴史ルポー『日本の物語としての辛亥革命(2)』ナゾに包まれた孫文像と盛宣懐(下)

   

<辛亥革命百年と近代日中の絆―辛亥百年後の‘‘静かなる革命②>

ー『日本の物語としての辛亥革命(下)』ー 
 
孫文が日本の支援者と結んだのは、日本が政府ぐるみ進めていたフリピンの対米独立革命家たちとの提携、そして日露戦争後も続いた対露恐怖論を見ていたからであった。英国が退潮する中で、日中は次の脅威の米国、ロシアに共同して立ち向かおうという孫文の国際感覚に日本人も乗れたのだ、ということも見ておかなければならない。

                      
『季刊日本主義』NO16 号―20011年冬号の転載
 
 
梶原英之(経済ジャーナリスト)
 
梶原英之 かじわら ひでゆき 1948年岐阜生まれ。慶大経済学部卒。毎日新聞社
に入社、経済部記者を経て『週刊エコノミスト』編集委員、出版企画室長などを歴任。現在フリーの経済評論家。『香港ポスト』定期コラムニスト、総合政策研究会特別研究員。著書に、『デノミ戦略-100円が1円になる日』(翔泳社)、『鳩山家四代-何が受け継がれてきたのか』(祥伝社)など。
 
 
 
洋務派官僚と上海の日本人たち
 
 盛宣懐の名を覚えておいて欲しい。日本と大きく関わるからである。四川省で起きた暴動で孫文ら民権派が新国家を作ろうとしたのが〝四川省の辛亥革命″だとすれば、それに乗じて、清朝のつっかえ棒を外したのが洋務派官僚の〝北京の辛亥革命″だった。
 
南北二つの辛亥革命は洋務派官僚の勝ちに終わった。袁世凱が革命の果実を独り占めにして大統領になったのである。もちろん洋務派が断末魔の清朝の産業革命をリードし、富を独占していたからできたことである。
 
 清朝はすでに、鉄道借款を返すために始めた権利回収運動により、半植民地的状況からの脱却(資本増加)に成功し始めていた。それは経済成長なくしてはありえない状況だった。そのなかで北京に基礎を置く清朝の漢民族官僚の武力が勝ったのである。
これが衰世凱の勝利である。このため、上海にいた日本の外交官などには、辛亥革命は勃発直前から革命というより〝支那南北の戦い″と理解されていたのである。
 
 この状況を上海で虎視耽々と狙っていた日本の経済人が二人いた。三井物産の上海支店長の山本条太郎と横浜正金銀行の上海史店長の小田切万寿之介だった。山本は日露戦争の時、ロシアの上海での物資買い付けを監視したり、バルチック艦隊の発見に軍人以上の功績があった人物である。
 
上海に来たのは20歳の時で、物産の石炭船に載せられ日中間を往復した後、上海支店で中国のビジネスを作ってきた天才的商社マンである。小田切は金のない日本が、借款戦争にどう踏み込もうかと試行錯誤を続けていた。
 
二人を日本でコントロールしていたのは維新の元勲の一人井上馨だった。井上は首相にならなかったが、日本の財政と金融、国際ビジネスを握っていた。欧米の間隙を狙って中国でどういうビジネスを組み立てるかが日本経済の課題になっていたのである。仏人ファルジュネルの『辛亥革命見聞記』には山本も小田切も顔を出すが、この著者もまた借款の関係者だったことによる。
 
 そうしたところに降って湧いたのが、品質良好な鉄、石炭を産出する大治(だいや)鉄山、ひょうきょう炭鉱を輸出用に開発投資する話である。そこでこの二山は、1907年に四川省の漢陽に漢陽製鉄所と統合され、漢冶洋(かんやひょう)煤鉄公司が創業された。
 
この話は洋務派の官僚たちが企てたものだった。半官半民の製鉄コングロマリットによって、盛宣懐らは独占的に石炭、鉄鉱石、銑鉄を開発、輸出しようとした。日本において、ここからの石炭、鉄鉱石の安定供給を長期契約としたかったのは、日本政府というより、近代的製鋼会社(官営八幡製鉄所として実る)を作ろうとしていた伊藤博文ら長州閥だった。ただし、目を付けたのは日本だけではない。
 
欧米も借款による中国の製鉄所への投資を競った。当時の伊藤博文らは、製鋼会社が出来なくては日本国家の沈没だと、漢冶洋への出資、取引開始に真剣だった。近代兵器を作るのが目標だったから、八幡製鉄所の所長には陸軍の技術将校が就任したが、大臣級の扱いだった。
 
 日清戦争の時、韓国に袁世凱の軍隊を運んだ洋務官僚・盛宣懐は、李鴻章の事業の担い手として腕を振るい、それから20年後、中国一どころか、「世界一の実業家」と呼ばれるようになっていた。漢冶渾(かんやひょう)公司のオーナーになったのも、また盛宣懐だった。
 
 鉄道を所管する郵伝大臣になった盛宣懐は、今度は、鉄道の国有化を掲げる。
列強が借款の見返りに持ち込んだ軌道もバラバラで、おまけに収入は借款のカタ(担保)に取られていた。その中国中の鉄道を買い戻そうという政策だった。鉄道買い戻し(権利回収)こそが、阿片戦争以来の彼らの悲願であった。
 
しかし、その後の盛の計画が凄い。全国の鉄道の軌道幅を統一して、線路を敷き直す。そして自分の会社である漢冶渾煤鉄公司で作った鉄路を全国に張り巡らす。さらにこの鉄道国有化のための財源として鉄道周辺省から税金を取ることにしたのだ。盛は、漢冶洋煤鉄公司の地元・四川省で実行する命令を出した。これが清朝が倒れる引き金となった
 
盛宣懐と山田兄弟
 
 税金を課すことに対する四川省民の暴動と清朝の地方軍「新軍」の反乱が、辛亥革命の発端となった。その経過は他稿でも扱われるだろうから、本稿では詳述しないが、辛亥革命は、孫文ら日本で集まった中華革命同盟会の蜂起でも何でもない。
 
孫文は当時米国デンバーで遊説中だった。電信で黄興に帰国を求められるが、黄興自身も武昌にいたわけではない。あわてふためき上海に行き、そこから暴動が起きた武昌に程近い漢口(租界)に急がざるを得なかったのである。
 暴動には地元のリーダーもいた。暴動を革命に仕立て上げたのは地元軍の旅団長に過ぎなかった黎元洪だった。
 
黎が清朝に与せず暴動側に立ったことで、局面は転換した。清朝は同じ軍人で一度ヒマを出していた袁世凱に再出馬を要請した。慎重な袁世凱は病気を理由に断ったが、ジラシ作戦の末、11月には欽差大臣(臨時大臣)となり、12月には内閣総理大臣になった。そして黎との交渉を片付けた後、清朝に対し反乱を起こした。それが清朝の滅亡である。ラストエンペラー溥儀には前皇帝として紫禁城の居住を認めた。
 
発足した中華民国が清朝の大版図を引き継ぐための妥協案だったと言われる。
 そこで盛宣懐はどうなったか。盛は暴動が起きるとすぐ責任を取って郵伝大臣を罷免された。そして海外に逃がされるのである。北京から天津まで特別列車で行く間、英米仏独のいわゆる四カ国借款団の兵隊が天津までの沿線を固めた。「ミスター借款」の担保だったが、世界一の金持ちでいまだに漢冶洋煤鉄公司のほか多くの企業のオーナーだったから、各国とも手放したくはなかったのである。
 
 盛が天津から迎えに来たドイツ船で青島に向かう時に日本人が登場する。山本条太郎の配下の山田純三郎である。山田は上海で新聞を出していたが、三井物産が雇っていた時期がある。山田と兄の山田良政は孫文が最も信頼した日本人で、兄の良政は恵州義挙で戦死した。いまでも山田兄弟は、上海などの歴史資料館で革命に協力した日本人の代名詞になっている。
 
 山田らは、結核を患っていた盛を兵庫県芦屋に亡命させることに成功する。清朝亡びたりといえども盛の力は衰えず、日本との経済関係は続いた。盛の孫(または甥とも言われる)、盛文◎(臣へんに頁)は昭和に入ると上海のアへンのボスとなる。
 
盛文◎(臣へんに頁)は里見甫の始めたアへン売りさばき機関の宏済善堂の理事長となり、蒋介石政権と日本の特務機関のアへン分配を仕切った。その系統は東京西新橋の有名中華料理店の留園に及ぶ。「留園」の名称は盛宣懐の父が一時手に入れた蘇州の名庭園の何由来する。盛家は青村に関わりが深いと言われる。
 
 漢冶洋煤鉄公司については辛亥革命のさなかの1912年1月、日本政府(横浜正金銀行)との間で300万円の借款契約が結ばれた。八幡製鉄所への鉄鉱代金として30年で完済する契約だった。しかし「対華二十一ヵ条要求」の中で日本は借款を出資に格上げし合弁に持ち込もうとした。日本に亡命した盛は漢冶洋煤鉄公司オーナーの地位は変わらず、芦屋から小田切益之介らと契約について交渉する手紙が資料としてまとめられている(盛宣懐の記録は新中国になって『盛宣懐椙案資料』にまとめられた)。
 
 つまり辛亥革命の後、日本政府は袁世凱-孫文の南北妥協政権は大歓迎で漢冶渾煤鉄公司との借款を皮切りに欧米に遅れていた借款競争に乗り出そうとしたのである。
 
山本条太郎が属する三井物産は、漢冶洋煤鉄公司との契約を急ぎ、辛亥革命が起こるとすぐ(1912年1月)に、中国革命政府に内田良平を通じてまず30万円を送っている。ほぼ同時期に大倉喜八郎も革命政府に上海、南京などの鉄道会社「江蘇省鉄路」を担保に、300万円を提供した。
 
 辛亥革命で日本は借款による中国進出の足がかりをつかもうとしたのである。
第二革命の失敗直前に孫文は満州を担保′に日本政府の借款を求め、それが孫文の歴史的な評価のマイナスになっているように書いたが、末期の清朝政府も借款競争の最中だったのである。少なくとも日本は蓑世凱政府(洋務派)と孫文の両方に保険をかけていた。
 
孫文と日本を結んだ要因
 
 ここで清朝を外から攻めた孫文の話をしなくてはならない。孫文が辛亥革命と第二革命に失敗した件については他稿に詳しく出ているに相違ないが、孫文が革命派の初代大統領として絶対な的影響力があったのか、当時から疑問があったことは事実である。それを日本に向けて発信したのが北一輝の『支那革命外史』である。
 
 南京に成立した中華民国の臨時大統領には孫文が選ばれる。しかし〝満場一致″ではなかった。しかしながら孫文を単なる革命の海外宣伝マンのように捕らえるのも誤りである。孫文が外交力を発揮して植民政策の代表・英国を押さえ日本の朝野を抱き込まなかったら、革命はなかったであろう。
 
 筆者としては、辛亥革命における「非孫文的側面」について、ここまで棲々書いてきたが、辛亥革命の複雑かつ過渡的な性格をみると、何はともあれ、中国革命の必要性を海外で説いた孫文という人物がなくては、清朝滅亡のエネルギーは結集できなかったであろうと信じる。第一次大戦という帝国主義諸国の再編期、しかも日本が借款国として華々しく登場しようとしている時期、外国への発信力がなければ、革命のリーダーにはなりえなかった。
 
 しかしあの広い中国の中で、奥地まで広がる清朝の版図の中で、海への窓口の広東出身で、若いときにハワイに渡りマカオで医師になった孫文が、革命のリーダーとして登場したのは歴史の奇蹟に近い。
 
つまり、孫文を革命家として雄飛させたのは多くの日本人のサポートであるということ、それは決して日本人のお国自慢でなく歴史の真実である、といういうことを言いたいのである。一方で、孫文が日本の革命支援者と関わったのは、初め、日本が政府ぐるみ進めていたフィリピンの革命家(米国のフィリピン支配への反対者)との提携、次には日露戦争後も続いた日本の対露恐怖論の真意を見抜いていたからであった。
 
つまり英国が退潮する中で、日中は次の脅威の米国、ロシアに共同して立ち向かおうという孫文の国際感覚に日本人も乗れたのだ、ということも見ておかなければならない。
 
 たしかに孫文には革命家特有の「大風呂敷」(それで別名・孫大砲と呼ばれた)があったが、そのことで辛亥革命が空中分解しなかったのは、孫文・日本の提携の力である。その孫文が日本という国に期待を持ったのは、犬養毅というこれまたケタの違ったアジア革命者のネットワークに引っ掛かったことから始まる。
 
犬養は宮崎滔天ともに米西戦争後のフィリピン革命と連帯しようとした。彼らが狙ったのはアギナルド将軍支援と、スペインに代わって米国が植民地支配した
フィリピンの独立だった。日本からアギナルド支援を行った後、その武器を孫文に与えようという、中国を後回しにする工作に孫文が乗ったのである。
 
 しかし犬養という人物は、同じ中国でも清朝の大官たち、変法自強派の康有為や、はじめは孫文とは対立関係にあったとされる黄興ら幅広い独自の人脈を持っていた。その中には清朝からの独立を望むベトナムの王子も含まれていた。ご承知のように犬養は昭和に入り首相となるが、満州事変の処理で中国政府と独自の交渉をしたことから右翼からの恨みを買い、5・15事件で暗殺される。しかし明治期の犬養の国民外交の実相は末だ研究しっくされていないのが実情である。
 
 孫文は辛亥革命が勃発した後2カ月半後に上海に到着する。そして臨時大統領になった孫文は辛亥革命後の〝大統領本選″では袁世凱に大統領を譲る。袁世凱に対して「君は国を治めん。僕は外国から金を借りて鉄道を国中に敷く」と言って、日本に来て借款を得ようとするのである。つまり孫文は盛宣懐と同じ立場に立ったのである。
 
 この時動いたのはまたしても山本条太郎である。すでに三井物産本社に帰っていたが、孫文の招宴をすべて準備するのは当然として、渋沢栄一という財界トップをヘッドに日本側の借款会社(資本金500万円、いまならファンドだ)である「中国興業」を作るのである。総裁は孫文、副総裁には日本人の倉知鉄吉がなった。
 
 この段階でも日本には中国にどんどん金を貸す実力はなかった。日本自体が欧米から金を借りていたよちよちの資本主義国だったからである。それを押し切って経常赤字国でも海外投資が出来るという考えかたを「支那放資論」といった。つまり苦しくともスタートした中華民国への協力競争では勝たねばならなかったのだ。それを指揮したのは最晩年の井上馨である。袁世凱・孫文の関係がうまくいったら、その後の日中関係は全く違った展開を見せたかもしれない。
 
最後の「孫大砲」・北伐宣言
 
 しかし孫文は第二革命で袁世凱にクーデター的にやられてしまう。以後孫文は、中国の一政治家に過ぎない時期を迎える。広東政府という軍閥の中で小さくなっていた地方政府の主として。それを支えたのが日本の士官学校を出た蒋介石と孫文直系の政治家の江兆銘であった。
 
 しかし死の直前、孫文は起死回生の一手、第一次国共合作を行い、周恩来を広東政府に呼び寄せる。今度はソ連と手を結んだのだ。そして北伐の実行を宣言した。北伐とは軍閥を倒しながら北京に攻め込むことだ。孫文は「孫大砲」と呼ばれ、ほら吹きと見られていた。北伐を宣言しながら「革命いまだならず」といいながら、北京の協和病院で死去するのであった。
 
 孫文の片腕蒋介石はこれまた中国の〝ナポレオン″だった。南京までは周恩来の共産党と共に攻め上るが、上海で共産党員の大虐殺を敢行する。4・12クーデターである。しかし、その後日本の干渉(山東出兵)をこなして北京を陥れ、1928(昭和3)年7月、中華民国を軍閥から国民党の手に戻すことに成功するのだ。なおこの動きを「国民革命」という。
 
 蒋介石は北伐の成功を祝って孫文の霊にぬかづくという大デモンストレーションを行う。この時、孫文の名声が復活したのである。蒋介石は南京に首都を置く。それに伴い孫文の遺骸を南京紫金山の中山陵に移した。その盛大な国葬(移枢祭)に呼ばれたのが、犬養毅、頭山満や梅屋庄吉夫妻であった。
この時孫文は国父となった。北伐に成功し、中華民国が名実ともに国民党のものになったからだ。
 
 孫文が日本で最高人気を誇ったのは大正13年末神戸で行われた「大アジア主義」演説の時で、その後蒋介石の北伐完成の時も、日本では孫文人気の復活はなかった。北伐の完成が満州での張作霖爆殺事件につながり、中国のナショナリズムの盛り上がりは日本の敵になっていったからである。孫文が日本の新聞に再び英雄として取り上げられたのは、1940年(昭和15)、孫文の弟子江兆銘が日本と組み、上海・南京にいわゆる「江兆銘政権」を作ったときだ。この頃の新聞には、まだ生きていた玄洋社の頭山満が若い頃の孫文支援などの話をしている。
 
その一方で昭和9年に梅屋庄吉は、憲兵隊から、「孫文などという得体の知れない人物の陰に隠れて中国国民党政府との和平を語らう人物」として検挙された。庄吉が中国に孫文の大彫刻を送ろうとした有名な事績の最中であった。
 
 100年経った今、辛亥革命、孫文のことが日本でこれほど親しく語られるのは、その後の日中関係の経過を考えれば不思議でもある。ただ、辛亥革命百年が中国、台湾でよりも日本で大きな歴史事件として見られていることは、現実の孫文は、日本との関係で後継者たちに都合の悪い部分があったことを考えれば当然かもしれない。筆者が辛亥革命は日本の物語であるというのはそのためである。
 日中関係の前途が視界不良の今日、日本の研究者は、今後の新たな日中関係の方向を見出すためにも、事実に基づいた辛亥革命の研究をするべき時であると思う。
 

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