100周年を迎えたシャープは存亡の危機にたつー創業者・早川徳次の逆境・逆転・成功人生に帰れ「ピンチの後はチャンスが来る」
シャープ創業者・早川徳次の逆境・逆転・成功人生
<月刊「理念と経営」2012年5月号>
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
名言①「逆境、困難で苦労を嘗めつくしたことが、成功のバネとなる。
『難』あり、『有難(ありがた)』し」
今年、シャープは100周年を迎える。そのシャープの創業者・早川徳次の生涯は数奇な運命に翻弄され、次々に襲いかかる試練と逆境を克服し成功をかちとった勇気と感動のドラマである。明治以降の日本経済発展史の中でも、語り継ぐべき経営者のビジネスモデルの教訓がいくつも詰まっていると思う。
早川は
1893年(明治26)11月、東京・日本橋で家具職人の3人男女の末っ子で生まれた。2歳で母が病気となったため養子に出された。養家は極貧の家庭で、毎日の食事にも事欠いた。可愛がってくれていた養母も翌年亡くなる。
徳次の子育てに困り果てた養父はわずか
16歳の継母と再婚し、徳次はこの継母から連日、ひどいいじめと虐待、折檻を受けた。三度の食事も食べさせない。
夜中に表に放り出され、冬なのに井戸水を頭からかける折檻や、長屋住宅の共同便所の便壺の中に突き落とされ、泣き叫ぶ声で近所の人からやっと助け出されたこともあった。養父と継母の間には次々に子供が生まれ、徳次はますます肩身の狭くなる。栄養失調でやせ細り、見るに見かねた近所の人が継母に説教すると、余計にひどい虐待がはねかえった。
家計を助けるため、小学校二年で中途退学させられ、連日、深夜から朝方まで火の気のない部屋でマッチ箱を貼る内職を継母にどなり怒られながら続けた。死ななかったのが不思議なほどの絶望的な環境の中で、耐え忍んできた。
そんな可哀想な徳次をいつもかばい励ましてくれた目の不自由な井上という女祈祷師が見るに見かねて九歳の徳次を知り合いの金属細工店へ、住み込み小僧として紹介した。「一緒に手をひかれ行ったその時の手のぬくもりを私は生涯忘れなることができない」と後年、早川は回想し、その感謝の気持ち、恩返しから晩年、福祉事業に打ちこんだ。
名言②「くじけず、あきらめず、熱意と誠意と努力でねばる」
この店の親方は昔がたぎの江戸っ子の人情に篤い人で、徳次を可愛がってくれた。やせっぽちで、ひっこみ思案のネクラになっていた徳次少年は、ここで段々、元気をとりもどし、朝の暗いうちから深夜まで、年中休みもなく働きずめに働いた。わずかながら毎月小遣いを8銭もらい、一切使わず大事に貯金していたものも、継母が来てはすべて取り上げていった。
ここで17歳までの年季奉公し、お礼奉公が終わるまで十年以上働き、苦労をなめつくす苛酷な幼、少年期を送った。
もともと、手先が器用で、我慢強く創意工夫をする明るい性格は、この丁稚奉公のきびしい徒弟修業のなかで,その後の発明につながる金属加工の技術力、創造力は鍛え磨かれていった。「発明王」早川徳次の誕生である。
1912年(大正元)、18歳の時、ベルトに穴を開けずに使える『徳尾錠』を発明し、特許をとって実兄と「早川兄弟社」を設立し、独立資金五十円の内四十円を借金して東京本所松井町で金属加工業を興した。
名言③、「5つの対策で考えよ。1つでうまくいかないと、ダメとあきらめず、
2つ、3つ、4つと考える。だいたい、3つ目ぐらいにはうまくいく」
それから4年後の1916年(大正5)、早川のスピードは速い。次なる大発明のシャープペンシルの開発の開発に成功するが、その動機は「もったいないから」だった。苦労して極貧の中で育ったので「木の鉛筆は削るからもったいない」と削らなくてもいい鉛筆を考えたのである。
ほかの人はセルロイドでやっていたが、早川は持ち前職人技の金属加工技術を駆使して工夫に工夫を重ねて金属製の繰出鉛筆(のちにシャープペンシルと命名、『シャープ』の社名にもなった)を完成した。
早速、日本一の販売店を選んで東京・銀座の文房具店に持ち込んだ。『こんなもの売れない。第一どこにさすのだ』と断られた。当時は、和服なのでポケットがない。早川は何度断られてもクレームのたびごとに改善し、とうとう三十六種類も改良した。毎月六種類ずつ六カ月かかって、一ダースずつ、三つの箱に違うものを入れて持って行くと、その熱意に打たれたのか、ついに主人が会ってくれて、言い値で買ってくれた。
そのうち、シャープペンシルの評判が伝わって海外からも大量の注文があった。白木屋、三越、松坂屋の有名百貨店で販売された。
「機械きちがい」「考案,工夫の徳さん」と仇名されるほど、こり症の早川は小さい町工場なのにいち早く外国製のモ―タ―、シャフト、大量生産のため流れ作業のコンベヤー・システムを導入し、アメリカの特許も取得して事業の基礎を固めていった。当時は第一次世界大戦後の好景気の時代であり、その波に乗り、会社は発展していく。1923年(大正12年)には従業員二百人、毎月の売上げ五万円という文具界の大メーカーにのし上がった。
<名言④>「禍福(不幸と幸福)はあざなえる縄のごとし」
1923年(大正12)9月1日正午、関東大地震が東京、関東を直撃した。死者、行方不明10万5千人、建物全壊、全焼30万戸以上の未曾有の大被害をもたらした。
徳次が20年以上かけて必死で積み上げてきた幸福のすべてを一瞬にして奪い去った。安全な場所にいち早く避難させたはずの妻と長男(九歳)、二男(七歳)は亡くなり、建てたばかりで、まだ二、三年しかたっていない大きな工場も住居も壊滅した。早川は九死に一生を得たが、逃げ出した時のワイシャツ一枚きりの裸一貫で焼け出された。早川31歳の時である。人間が襲われるあらゆる不幸、苛酷な運命の極限の地獄図を体験して、悲惨、残酷、苦痛、恐怖、悲憤、絶望、混乱、窮状のどん底に投げ込まれた。
さらに、手持ち資金も焼けてしまってない。これに得意先から借金の返済を迫られて、万事休す。
早川は一から出直しすることを決断した。それまでのシャープペンシルの特許50件、実用新案権など全部売って借金返済に当て、大阪へ都落ちし現在のシャープ本社の所在地・大阪市阿倍野区長池町(当時は東成郡田辺町)に借家を得て、早川金属工業研究所が開設した。シャープペンシルはもう製作できぬため、万年筆の付属金具やクリップの新型製作を開始し、新分野、新製品の開発に取り組んだ。
名言⑤「ピンチの後はチャンスが来る、つかむ準備を怠るな」
「常に新しいアイデアで、一歩先んじて新分野を開拓しなければ成功は
おぼつかない」
2年後の大正
14年春、早川に再びチャンスが巡ってきた。前年末に大阪心斎橋の電気店で米国から輸入されたばかりの2台も鉱石ラジオセットの1台を手に入れた。
すでに外国ではラジオが普及し始めていたが、日本でも3月から、NHKラジオ放送局(NHK)が開設されたばかり。早川はこのラジオセットを徹底して分解し研究した。電気の初歩的知識もなかったが、長年の金属加工技術から、検波器.ノッチ、タ―ミナル、コイルなどのラジオ部品を見よう見まねで作り、同4月、自家製小型鉱石セットの組み立てに成功、日本で初めてのラジオ受信機第1号の完成である。
六月一日、大阪三越の仮放送所から最初のラジオ放送ははっきりと聞こえ、工場の全員はバンザイを三唱した。すぐ本格的な鉱石ラジオセット製作に着手、シャープと命名した鉱石ラジオを売りだして大ヒット。
毎日、大阪市内の電気器具店やラジオ屋へリヤカーで卸に行くと、そのそばからどんどん、売れに売れた。これが早川電機(現・シャープ)のラジオ製作の先駆けとなった。1929年(昭和4)には真空管ラジオを発売し、『ラジオのシャープ』として業績を拡大、その後、第二次世界大戦を挟んで、徳次は幾度となく苦境に立たされた。しかし、徳次は持ち前の発明家精神で、その都度、逆境を克服する新製品を開発、普及させていった。
<名言⑤>-「窮地に至誠、天に通ず」「好況下にこそ不景気の波に備えよ」
「事業経営は不況の時に伸ばせ」
1945年(昭和20)8月敗戦。廃墟の中から日本はたくましく復興に立ち上がる。早川も再びどん底に突き落とされたが、あらゆるものが欠乏する中で、テレビ時代をにらんで国産テレビの開発に情熱を燃やした。
昭和25年、ドッジ旋風で金融引き締め、人員整理と労働争議が過去最大になり、企業倒産が激増しシャープも大赤字に転落し、倒産の危機に見舞われた。
銀行融資もストップし、「万事窮すか」と早川も観念した。副社長が駆けずり回りやっと、「人員整理を条件に銀行の協調融資が受けられる」との吉報が入った。
しかし、早川は「社員を失業者の群れに投じてまで延命をはからない」と銀行団の条件を断然拒否、「社員588人、全員一運托生で会社を去ろう」と厳命した。そこに思いもがけぬ事態が起きた。労組代表が「われわれの中から二百十人が希望退職をします。融資をうけ再建して下さい」と早川に訴えたのだ。「至誠天に通ず」早川は感泣した。以後、労使は火の玉となって再建へ立ち上がった。
このあと、朝鮮戦争が勃発して、朝鮮特需が発生し、日本経済もシャープも一挙に回復軌道にのった。後年、「組合の捨身の行為で惜しい人たちを失った。今後二度とこの轍を踏まない」と早川は何度も回想している。
<名言⑥>-「人にまねをされる商品を作れ」、「人の行く裏に道あり」
昭和30年以降、日本は高度経済成長時代に突入し、家電製品の黄金時代を迎える。早川は「人にまねをされる商品を作れ」、「人の行く裏に道あり」、「常に〝次″をつくる心がけを忘れず、長たるものは、常に自分以上の人材を育てたい」をモットーに、次々に新発明の技術ブレイクスル―を続けた。
国際テレビ第1号(昭和28年)、テレビ生産・販売体制の充実(30年)、総合家電メーカーへ(34)、カラ―テレビの量産開始(35)、太陽電池(38)、世界初の卓上電子計算機開発(39))事務機分野にも本格拡大(同46年)液晶の初めての実用化(48)、など日本を代表する総合電機メーカーにのしあがった。
この間、1970 年(昭和45)早川は会長に退き、少年期から一緒にやってきた佐伯旭に社長をバトンタッチして鮮やかな交代した。1980年(昭和55)六月、86歳でその偉大な生涯を閉じた。
早川が兄弟2人で始めたシャープは今年創業100年を迎えたが、現在資本金2,046億・、売上高3兆219億円 (連結) 、グループ総人員は6万5,000人、国内3万1,000名、海外3万4000人(2011年12月末現在)の巨大企業に発展している。
早川の名言まとめ⑦『経営は5つの蓄積である』
最後に紹介するのは早川の70年にわたる苦闘の人生、経営の総決算の『経営は5つの蓄積である』という教訓である。1つ1つの言葉に彼の血と汗のにじむ体験が裏打ちされて千鈞の重みを感じる。
① 信用を蓄積せよ-信用は、一朝一夕に得られるものではなく、絶えざる継続が確固とした信用を生む。販売にも技術面にも、常にまごころを念頭に置くべし。
② 資本を蓄積せよー事業は資本の蓄積によってさらに信用が裏付けされる。収支の両面によく均衡のとれた健全な経営を行い、蓄積の実を上げねばならない。
③ 奉仕を蓄積せよー企業は社会や人々から、数多くの恩恵を受けて生活している。会社は世間から預かっているのであり、何らかの形で、社会へ還元せねばならない。
④ 人材を蓄積せよー事業の運営は人にある。まず、自己を修養し深めていき、自身の蓄積から始めよ。人間はそれぞれ長所を持っている。それを活かしていけば、自然と人材が蓄積される。
⑤ 取引先を蓄積せよー相互に助け合い、信じ合って絶対迷惑をかけないこと。この信条で顧客もこちら側もともに栄える。取引先の蓄積が、百年の事業を保証する。