☆日本天才奇人伝④★初代の総理大臣・伊藤博文のへんな話―『いろ、イロ、色、ゴシップ、バカ話―
☆日本天才奇人伝④
★◎初代の総理大臣・伊藤博文のへんな話―
―『いろ、イロ、色、ゴシップ、バカ話―
伊藤博文( いとうひろぶみ) ( 天保12 年1841 ~明治42 年19091)
政治家。山口県萩に生まれ、松下村塾に学ぶ。文久3年に井上馨らと密に渡英。討幕運動に従い、明治になって大久保利通の死後、内務卿として地歩を固める。明治14年の政変において、対立していた大隈重信を追放し、最高指導者となる。華族制度、内閣制度、大日本国憲法、皇室典範、枢密院などを定め、初代総理大臣となり、第四次まで内閣を組閣、枢密院議長など歴任。ハルビン駅頭で安重根に暗殺さる。
日本の初代総理大臣、初代枢密院議長、憲法の創始者などと、伊藤博文ほどけんらんたる政治の花道を歩んできた者はいない。一介の百姓の子から明治維新の元勲の仲間入りをし、位人臣をきわめた伊藤を、世間では豊臣秀吉以来の出世と称した。
一八八五年(明治18)12月、伊藤は初代総理大臣になったが、その時の総理を選んだ条件は「英語力」であった。『誰を総理にするか』-参議たちが集まって選考会議が開かれた。
明治維新によって長年の身分、階級社会が打破されたとはいえ、平家の藤原一族という名門の三条実美が自分が指名されるのは当然といった顔で上座に座っている。
① 英語力で決まった初代の総理大臣・伊藤博文に伊藤といえば貧農の倅で、武士になったのは維新の直前という、最も低い身分の出身である。誰もが門閥を恐れて発言しない中で、井上馨が恐る恐る「これからの総理は赤電報(外国電報のこと)が読めない者ではだめじゃ」と口火を切り、山県有朋が「そうすると、伊藤君より他にはいないではないか」と賛成して、他の参議もあえて反対せずそのまま決まってしまった。
伊藤はそれまで英国・ロンドンに半年間、滞在し、天皇が外国大使と会見する時は、必ず伊藤が通訳をしており、岩倉大使一行の欧米巡視にも同行するなど、明治政府きっての英語使いであった。
英語名人の伊藤は欧化主義の積極的な推進者として、鹿鳴館に入れ込んだ。鹿鳴館では内外の大臣、高官らの紳士淑女が集まり、仮装舞踏会などが催された。
第一次伊藤内閣の時には毎週のように、舞踏会や夜会を自ら主催して「舞踏内閣」と悪口を叩かれた。伊藤は無類の女好きで夜の部では、こうした舞踏会や夜会を利用して片っ端から女を口説いた。伊藤の好色ぶりが天下に有名になったのはこの鹿鳴館スキャンダルである。
② 好色漢の鹿鳴館スキャンダル
鹿鳴館は治外法権など不平等条約の撤廃を願い、外国人に「文明国日本」を印象づけるために建築されたもので、外国人を招いたパーティーが毎週のように開かれた。明治二十年四月に首相官邸で主催した大仮装パーティーで、社交界で評判の美人であった戸田氏共伯爵夫人との関係がウワサとなった。
戸田氏共伯爵は大垣藩主で、その極子【きわこ】夫人(1857~1936)は岩倉具定の長女。明治四年(1871)に氏共【うじたか】と結婚した。恵まれた環境で育った極子は、英語とダンスが大の得意で当時の鹿鳴館社交界の名花と謳われ、外人も日本人も争ってダンスの相手となろうとした美人だった。
伊藤はその極子夫人を裏庭の茂みに誘い込んで、乱暴して、いかがわしい振る舞いに及んだとか、夫人がはだしで逃げだしたとか、馬車の中で今風にいえば「カ―セックス」したとか、おもしろおかしく新聞がスキャンダルを書き立てて、藤の好色漢、ハレンチぶりを非難した。このあと、戸田がオーストリア兼スイス特命全権公使に推挙されると、世論は博文にごうごうたる非難をあびせた。
これは序の口で 伊藤の女たらし、色豪ぶりは政治家ではナンバーワンとして知らぬものはなかった。「博文のいくところ、必ず女あり」といわれたほど、女性関係の出入りが激しく、全国行く先々で女がいた。
ある時、明治天皇が心配して「少し、慎んではどうか」と言うと、「とやかく申す連中の中には、ひそかに女を囲い者にして置いている者もいますが、博文は公認の芸者を公然と呼ぶまでのことです」とケロリと答えた、という。
③ 美女つきの多額ワイロ
日露戦争直後のこと。明治の政商・藤田組の藤田伝三郎が伊藤の助力を得たいと大阪の売れっ子芸者・小吉(後の新橋『田中家』女将)に、小遣い百円(今だと百万以上)を与えて、「これを届けてくれ」と水引きのついた大きな箱を持たせ築地の料亭に行かせた。
さっそく現れた博文は、「お前は中身を知って持ってきたのか」とたずねたが、箱の中には大きなノシが入っており、
「この使いの者四、五日おとめおきください」という口上書きが入っていた。美女という生人形の贈物と多額の献金で、藤田伝三郎は明治の終わりに男爵に昇った。
生涯、金や派閥には一斉恬淡としていた伊藤だが、女だけには目が無かったのである。宴会では新橋の芸者たちを何人もはべらせて、寝るときも、両側に若い娘を寝かせて遊んでいた。最期まで毎夜のように女を抱いていた絶倫男だった。
『新橋三代記』を書いた新橋芸者・つや栄の回想によると、伊藤の女好みはいきあたりばったりで、イカもの、ゲテモノ、女なら誰でも手当り次第にナギ倒し、つまみ食いをしたという絶倫ぶりであった、という。このため、イカもの女に手をだしてひどい目やみたこともあった。
ある時、新橋の梅勇という売れない芸者と一度だけ遊んで、後はほったらかしていた。アネゴ肌の梅勇は腹を立てて、座敷で思いきり飲んで、伊藤のところへ行き、「御前、お酌を!」と大声でからんだ。
その権幕に驚いた博文が、「酔っとるな」というと、「御前にお聞したいことがございます」というと、回りから 「梅勇しっかりやれ」との声がかかった。
「好きで手をつけたんですか、それともからかったんですか」と梅勇が痛いところをつくと、「どうでもええじゃないか」と博文は白をきった。梅勇は博文の席に出ると必ずクダをまくので、博文は「梅勇のくる席へはいかぬ」と音をあげた。梅勇は博文を手こずらせた芸者として、一躍一流芸者の仲間入りを果たした。
④ 自宅にも芸者を呼ぶ、賢婦人の梅子
伊藤は新橋などで遊ぶだけではなく、芸者を神奈川県大磯の自宅の滄浪閣にも呼んで夜伽をさせた。時には二人もよぶことがあった。「田中家」の女将千穂の回想では、槍浪閣へは、千穂は大阪の芸者・文公とよくいった。夜は交代でご用をつとめ、「今夜、お前はさがってよい」といわれると、隣室で休む。
そのうち、博文の枕元の鈴がチリリーンと鳴る。用が終わったからお前もそばへこいと
いう鈴で、博文をはさんで川の字になって寝るのである。
博文の妻・梅子は二男二女をもうけ、賢夫人のほまれ高かった。元々は下関の芸者だった「お梅」である。博文は英国留学前に結婚した「おすみ」という女がいたが離婚して、お梅を正妻にして梅子と名のらせた。伊藤が思いきって女道楽のできたのは、梅子の内助のおかげで、梅子は女遊びについて一切文句をいわなかった。
逆に、
滄浪閣に芸者がくると、梅子は「御前様(伊藤のこと)は公務で大変、いそがし
い方だから、あなたに来てもらって慰めてもらうのが、一番の気休めになるのよ」といって、帰る際に必ず出てきてあいさつし、反物などのおみやげまで持たせた、というから恐れいる。
伊藤は日露戦争の終結した直後(明治三十八年)に初代の朝鮮総督となり、韓国併合の基礎をつくった。博文はこの功績で公爵になったが、国を失なった韓国人の恨みを一身に浴びて、ハルピン駅頭で暗殺された。暗殺の原因となった朝鮮総督就任については、「指名したのは新橋芸者の『秀松』だった」という、宴会政治を好んだ伊藤らしいエピソードが残っている。
⑤ 朝鮮総督就任を指名したのは新橋芸者
川村徳太郎著『新橋を語る』によると、この頃、大臣、参議などが連日、新橋に出入して宴会があり、芸者をはべらせながら、天下国家の大事を決していた。
日露戦争直後、桂太郎首相は、初代朝鮮総督を誰にするかで頭を痛めていた。桂の腹案では伊藤を初代総督にすることだったが、山県らの元老の手前、ストレートに言えなかった。初代総理、枢密院初代議長と、何でも伊藤が初物ぐいといわれる中で、
元老連中が内心苦々しく思っていることを察していた桂は伊藤を口には出せなかった。
元老たちを集めた宴会で、桂も黙ったまましばらく沈黙が続いた。芸者・秀松が、伊藤の前でコックリコックリしていると、「こらっ、秀松、貴様居眠りしおったな、無礼者!」伊藤が一喝した。
一座の空気がにわかにほぐれ、一喝された秀松も負けてはいなかった。「あんまり皆さんが黙っていらっしやるので眠くもなりますわ。何がそんなにむずかしいのですか」
伊藤が「朝鮮へいく親方をきめるのじゃ」というと、「そんなこと何でもないじゃございませんか。伊藤の御前がいらっしやるのが、一番よいではございませぬか」
秀松がどなられたしっぺ返しのつもりでいうと、井上も「そうじや、伊藤さんがいい。秀松の指名じゃ、引受けなされ」といて、衆議一決したという。
気安い性格から伊藤が芸者にもてたことの証左だが、こうして博文は朝鮮総監を引受けたというのである。
⑥ 気さくな性格の博文
伊藤の滄浪閣には政治家、大官が連日詰めかけて大賑わいだったが、伊藤は最高のポストを占めた後も、威張たりすることもなく、気さくな性格であった。伊藤に面会するため、竹越三叉はしばしば大磯にきて群鶴館という旅館に宿泊した。
夜七時頃、「竹越は居るか」と声をかける者があるので、障子を明けて見たら、伊藤が手ぬぐい掛けで立っている。室内に招き入れて茶を出すと、「酒を出せ」ということで、数杯を傾け、市井の雑事から世界の情勢まで話が及んだ上、旅館女将の案内で浴場に入り、帰って行った。その挙動の気軽なことに感心したという。
また、伊藤は女中を叱ることはなかった。大磯でも庭先や玄関で人々が碁や将棋をしているのを見ると、側にしゃがんで助言をするという親しみやすさで、大臣風を吹かしたり、殿様ぶるとか全くなかった。
『伊藤博文直話』の中で、「自分は、立派な家に住みたいとの考えもないし、巨万の財産を貯えたいという望みもなくい。ただ公務の余暇に芸者を相手にするのが何よりのたのしみだ」と好色魂の本音を語り、次のように書いている。
「自分は生来欲が少なく貯蓄など毛頭考えない。子孫に美田を残すことも悪いことではないが、たいていはいわゆる『長者三代』でつぶれる場合が多い。
それでは親の心づかいが無になるだけでなく、子孫の独立心を失わせ、放蕩癖を残
すことになる。住友や鴻池のような金持ちになるな らいざ知らず、たかだか一万や二万のはした金は子孫の考えでどうにでもなるものだ。人にケチといわれてまで貯蓄する必要はない」
明治四十二年十月二十六日朝、ハルビン駅頭で伊藤博文は韓国人安重根に狙撃されて、六十九年の生涯をとじた。死後残されたものは、尾崎行雄がその安普請にあきれた「槍浪閥」とわずかな刀剣だけだった。元老の井上馨が千三百万円、松方正義が八百万円もの遺産を残したのに比べてゼロに等しいものであり、スケベー人間・博文の清廉さを表わしている。
以下は田中家千穂『新橋生活40年』(昭和31年)の「伊藤公の思い出」からの1節である。
公人としての伊藤公
伊藤公は流石に大人物だけあって、賓におっとりとして鷹揚で、私共にむかつては、いつもおだやかな好いお爺さんでした。
ごくたまには、閣議か何かで面白くないことでもあったのでせうか、大変、無口になって、散々として一人盃を手にしていらっしゃることもありましたが、さういふ時でも、そのために特にお酒の量が多くなるとか、私どもにどなり散らして怒るとかいふことはありませんでした。ああ、今
日は何か難しいことがあったのだな、とこちらが察して、そうっとしてをりますと、一人考へになっておられるところがありました。新聞記者もずい分見えましたが、決して厭がる様子も見せなかったし、「うるさいな、」といふやうな顔を見せたりもしませんでした。
私は
伊藤公のお傍近く接して、伊藤公といふ方を知れば知るほど、大人物だなあと崇拝の念を深くしましたが、私には政治のことは全く分りませんが、廉い日本の中には、伊藤公に対して、相当、非難攻撃の矢を放つ人も多かつたやうで、さういふ声もびしびし伊藤公の耳にはいつてをりました。
壮士のやうな人も押しかけて来ました。それに対して伊藤公は絶対怒らない、抗議もしません。
「まだまだ俺の思いが至らないせいだ。俺が足りんから分らぬのだろう」といって、深くと自分を反省される材料としていたようです。この点、私には何にも分りませんけれども、昔の政治家は非常に人物が大きく、どっしりしていたやうに思われてなりません。
梅子夫人
伊藤公との契りが深かった頃の思ひ出を記すためには、どうしても梅子夫人を先づ頭に思ひ浮かべます。梅子夫人はまことに気持の錬れた立派な方でした。伊藤公のやうな偉い方の奥様といふものは、かういふものかとおどろきましたが、私が初めて梅子夫人にお目にかかったのは、伊藤公のお呼びで大阪から東京へ遊びに来て、槍浪闇へ上った時でした。
伊藤公が奥様に何とかおっしやって私を引合はされたかそれは覚えてをりませんが、奥様はにこやかに挨拶されて、「御前さまは公務で大変お忙しい方だから、あなたがきて慰めてくれるのが、一番御前さまのお気休めになるのよ。御前さまはあなたを大変御贔屓(ごひいき)だから時々来て慰めて下さいね」とおっしゃったのでー私はすっかり恐縮してしまひました。
滄浪閣に泊ってゐる間に顔を合はせることは滅多にありませんでしたが、非常によく気をつけてもてなして下すってゐるお心遣ひが身に抽みて分りますので、勿体ないやら恐縮するやらで、若い身空の私は、よくして頂けば頂くほど、却って滄浪閣へ伺ふのは心苦しい気がしました。
奥様は私がお暇する時は必ず出ていらっしゃって、「本当にご苦労でしたね」とねぎらはれ、何かしらお土産物を下さいました。初めて伺った時に頂いた金地
に水仙の彫りを入れた帯止めは今でも大切に蔵っておいてあります。恐縮とも何とも言いやうのない思ひでしたが、元動の夫人ともなればあのやうに広やかなお心になれるものなのでせうか。
夫婦のご用がなくなったわけでもないのでせうけれども、とにかくさっぱりしたものでした。
伊藤公は東京、大阪と山河を距てて暮してをりましたが、公から頂きました手紙は何通ぐらゐあったでしょうか。公はよく「おのしに1番よく手紙を書くよ」とおっしゃってゐましたが、お年に似合はぬ艶っぽい便りいただいたことも稀ではありませんでした。かと思うと簡単にいつ幾日に何処へ来るやうに、といふやうなのもございます。
東京へ呼ばれますと、私はいつも木挽町の岡本旗館を宿として、ある時は常磐津のお稽古に、ある時は芝居見物にと精を出しましたが。公とは築地の瓢家で、毎夜欠かさずお逢びしました。
この田中家へも公と二人でまわりましたことを覚えてをります。
東京の滞在が長くなり、また公のお仕事も一段落つきますと、滄浪閣へこいといわれて、そちらへ行くのですが、時にはお相手として私のほかに、やはり大阪の芸者で富田家の文公さんといふ人が一緒だったりしました。
文公さんの文の字は、伊藤公のお名前を頂いたものです。私には博の字をやらうとおっしやいましたが、私は、「御前のお名前を辱しめるやうなことをしたら申しわけがありませんから私はいただきません」といってお断りしました。
公は「そこがおのし良いところぢや」と笑われましたが、その文公さんと私と2人でお勤めするのです。夜はたいていかはるがはるお勤つとめました。
「今夜はおのしは退って休むがよい」といわれますと、「有難うございます」と引さがって、隣室で悠々と、本当に有難くのびのび休みます。そのうち公の枕もとにおいてある鈴がチリリーンと鳴る、ご用が終わったから、お前も傍へ参れといふお呼びの鈴の音です。
それからお傍へ行って公を眞ん中に、文公きんと私と三人で休むといふふうでした。このお呼びの時に使はれる鈴はちょっと変わった鈴で、昔、殴様などが持っていたものださうですが、金の直径三寸ぐらいの丸い輪になっていた。輪の中に何か良い音のするものが入ってゐるのでせう。親指と人差指で輪の1ヵ所をつまんで振ると、チリリッリーンと好い音がしました。
初めて「引返って」休んだ夜に、いい気持ちで眠ってゐましたら、隣の御前様のお部屋から、けたたましくこの音が聞えて聞こえましたので、何事かと思ってびっくりして飛び起きましわ。
公はこの鈴をど愛用でしたからよく机の傍へ置かれて、ご用の時は鳴らしていらっしゃいました。滄浪閣に暮す間は、食事は勿論のこと、お庭を散歩なさる時でも、いつでも、片時も傍を離れずにをりました。
公が広島の春帆楼へ行かれたときにもお呼出しがあって、大阪からひそかに出かけたことが二、三度ありまし。広島には光菊といふ彼女がゐましたが、公は私を「これは大阪の北の小吉といって、わしの小間使いじゃ」といって光菊さんに引合わされました。光菊さんは私の世話をよくして呉れました。審帆桜の伊藤公の部屋といふのは、普通の客には使はないやうに、一段と高くな
って別に出来てをりました。
世間では伊藤公を大変に女のお行儀の悪い人のやうにいわれますが、私の知る限りでは、それほどふしだらではありませんでした。むしろ伊藤と小菅、文公といふやうに、はっきりと定まった寵妓のある間は、いつもぴったり寄り添ってゐますから、手当たり次第といふことはなかつたと思ひます。
公のかういふ噂は公自身の耳にも入るものとみえて、ある時、「人はいろいろ言ふけれど、考へてもご覧。日夜国事に奔走して、たまに酒盃を手にする時に、給仕する奴が男のボーイだったらちっとも休まらんぢやないか」と言ってをられました。