名リーダーの名言・金言・格言・千言集⑨『汗馬でなければ、千里の道はいかぬ』(中上川彦次郎)『徹底してやる』(本田宗一郎)
<名リーダーの名言・金言・格言・苦言
・千言集⑨ 前坂 俊之選
徹底してやる
本田 宗一郎(ホンダ創業者)
一九五〇年(昭和二十五)十二月、ホンダのオートバイの輸出商談が持ち上がり、本田
と藤沢武夫は浜松に外人バイヤーを招待して夜、一席設けた。
ところが翌朝、その外人が入れ歯をトイレに落としたことがわかった。どうすればよい
か料亭は大騒ぎになった。昔のトイレは水洗ではなく、便溝にポタンと落ちる形である。
「こんなことになったのは招待した私たちの責任だ。オレが取ってくる」と本田はつり
チンになって、キンカクシから“黄金の山”の中に入った。鼻が曲がるほどのニオイを我
慢して、手を突っ込み、探っていると、入れ歯が手に当たり、拾い出した。
入れ歯をよく洗い、クレゾールで消毒してニオイを消し、本田も風呂で体をキレイに洗
い直して御座敷で、その入れ歯を口にくわえて、獅子舞いのように踊ったのには、料亭の
芸者衆は大笑いして、一件落着した。
朝遅く目覚めた藤沢は、この話を聞いて身震いするほど感動、本田に生涯を賭ける決意
を固めた。
『本田超発想経営』 崎谷 哲夫
ダイヤモンド社・1979年2月刊
本当に血の小便は出るものだ
大田垣 士郎(関西電力社長)
大田垣は一九五一年(昭和二十六)に電力再編成、九電力分割の際に関西電力社長にな
った。そのころの関電は“関西停電株式会社”の異名があったほど、深刻な電力不足に悩
んでいた。
“電力不足解消”のため、黒部川第四発電所(通称・クロヨン)の建設に、大田垣が全
力を挙げて取り組んだのは一九五七年(昭和三十二)のこと。
世紀の難工事であった。何十万トンの建設資材をどうして運ぶか。大田垣は日本アルプ
スの山腹三・五キロの大町トンネルをぶち抜くことを決断、工事に取りかかったが、一・
七キロのところで大量の水を含んだ破砕帯にぶつかった。
大量の出水が止まらず、工事は完全にストップし、専門家も社内でも悲観的な見方が拡
がった。しかし、大田垣は「金の心配はない。男じゃないか、おきらめないで」と必死で
請負業者や現場関係者を説得した。
一ヵ月に三回はクロヨンの現場に出向き、水のあふれるトンネルを激励して回った。七
ヵ月後、奇跡的に水は引いてトンネルは開通した。「ほんとうに血の小便は出るものだ」
と大田垣は当時を回想している。
ドロの橋だってくずれる前に速く渡ればよい
和田 和夫(国際流通グループ、ヤオハン代表)
日本の百貨店の中で、最も海外進出の著しいヤオハンは九二年九月、中国が国家プロジ
ェクトとして開発している上海・浦東地区にアジア最大の百貨店を地元の上海第一百貨店
と合併で起工した。
すでに和田代表はグループの総本部を二年前の九〇年五月に香港に移した。香港返還で
大揺れで人口流出が続いていた中での、逆行動だった。これは、再び天安門事件や政権交
代があった場合には全財産を失う、捨て身の行動であった。香港華僑は両手をあげて和田
を歓迎した。ヤオハングループは中国全土に千店のスーパーを展開する壮大な構想を進め
ている。
和田の経営哲学が「ドロの橋だってくずれる前に速く渡ればよい。あとは走りながら考
える。走る前に考えると渡れなくなる」
石橋をたたいて渡るという慎重派は、渡った時にはチャンスはなくなっている場合もあ
る。チャンスは一瞬である。危険であっても、一瞬のチャンスをつかまえ、ドロの橋を渡
り切れば、それこそ成功を手にすることができる。楽天家で、常にプラスに考えて成功し
てきた和田らしい言葉である。
徳義は無用の長物ではない
鈴木 馬左也(住友総理事)
鈴木は伊庭貞剛のあとを継いだ一九〇四年(明治三十七)に住友総理事に就任、大正十
一年までその地位にあった。
彼は高潔な人格と高邁な識見により、住友近代化の基礎を伊庭に引き継いで固めた。
その鈴木の方針は―
一 事業経営にはあくまで道義を元とする
二 事業の範囲を国家の要請するものに限定し、いやしくも利益追及の事業には手を染
めない
三 技術を尊重し、海外の一流企業と提携して優良な技術を導入する
四 住友の独力で及ばぬ大事業については進んで他の有力なる日本の資本と提携する
五 これらを遂行する基本は人にあるので住友内の逸材を破格に抜擢し枢要の地位を与
え、足らざる場合は広く人材を外部に求む
馬は多少のカンがあっても、手綱をしめるぐらいもの
でなければ、千里の道はいけない
でなければ、千里の道はいけない
中上川 彦次郎(三井財閥中興の祖)
三井財閥は明治維新をはじめ何度か危機に直面し、消え去る運命にあった。明治中期に
もニッチもサッチもいかなくなったが、そこに登場したのが中上川であった。彼は福沢諭
吉の甥で英国留学後、井上馨の要請で、一八八一年(明治二十四)、三井銀行副長になっ
た。当時、総長は三井家の当主がつくため、実質上の最高責任者であった。
中上川は十年間この地位にあり、大三井の屋台骨を立て直し、三井財閥の骨組みを作っ
たのである。官金取次業務の廃止、人材の育成、使用人制度の合理化など大ナタを振るっ
た。
中でも、特筆されるものはその後の日本実業界をリードする超一流の人材を集め、育て
て、思う存分使いこなしたことであった。それは、朝吹英二、藤山雷太、武藤山治、藤原
銀次郎、日比翁助、池田成彬、岩下清周らである。
いずれも、一クセも二クセもある連中だった。岩下の採用について、三井物産の益田孝
に相談すると、「荒馬だから中止した方がよい」と反対されたが、中上川は「馬も多少の
癇があっても、手綱をしめる位のものでなければ、とても千里の道はいけませんよ」と採
用し、重用した。
中上川自身、そんな癇馬を乗りこなす自信がある名伯楽であった。また、沈滞した三井
にカツを入れるには癇馬が必要だったのである。
同じような考え方をする重役が二人いれば、
一人は無用である
一人は無用である
レイ・A・クロック(マクドナルド創業者)
マクドナルド兄弟によって一九三七年(昭和十二)、米国・カリフォルニア州の小さな
ドライブインから産声をあげたマクドナルドは、クロックがこの兄弟からライセンスを買
取り、一九八四年には五百億個のハンバーガー販売、世界に八千店舗、年間総売上百億ド
ルを達成した世界最大の外食産業である。
一九七三年、クロックが重役を引き連れダートマス大学の経営セミナーで行った講演の
時に、「マクドナルドの重役はクロックの政治的見解に同調しなければいけないのか」と
の質問に対して述べたのがこの言葉である。これは彼の経営哲学を要約したもので、マク
ナルドの重役は考えも行動も決して同じではない。経歴や性格もバラバラでクロックが彼
らに求めたのは唯一、忠誠心だけであった。
クロックは、すべての店の経営を完全に統一することを主張はしたが、そのために重役
の意見まで統一するつもりはなく、一つのことに異常な熱意を持つエキスパートを求めて
いたのである。
『マクドナルド』 ジョン・F・ラブ著、徳岡孝夫訳
ダイヤモンド社・1987年3月刊
引き際が大事
伊藤 正(住友商事社長)
住友の名総理事であった伊庭貞剛に惹かれるという伊藤はその理由について次のように
答えている。
「やはり、引き際ですね。私はいつも、これだけは真似したいと思って、伊庭さんの『
事業の進歩発達に最も害をなすものは青年の過失ではなくて老人の跋扈であり、老人は少
壮者の邪魔をしないようにすることが一番必要だ』という言葉を小さな紙に書いて持って
いるんです。『老人の跋扈はいかん』ということですね。ぼくも、もう老人手帳をもらっ
ているんで、跋扈になっているのではないかと気にしています」
この伊藤が好きなプロ野球チームが、派手さはないがプロらしいプレーをする選手がい
るというのでオリックスだという。
『逆命利君』 佐高 信
講談社・1989年12月刊
ムダをはぶいてぜいたくを
松田 恒次(東洋工業社長)
松田は東洋工業の創業者・松田重次郎の長男で二代目社長。マツダを昭和四十年代にト
ヨタ、日産に次ぐ第三位にのし上げた。
彼は若い時、結核性関節炎をわずらい、左足を切断した。このハンディキャップを超え
て苦労をなめて、人間を磨いた。
松田の経営信条がこれである。東洋工業の付属病院はベット数二百二十のデラックス病
院で、マツダの工場が“東洋病院付属工場”と逆に呼ばれるほど。病院の経営は赤字だが
、社員の健康管理によってマクロにみると、黒字と平気のへいざ。
昭和三十一年の不況時に、宮島に迎賓館を建てた。従業員は全部社員にして、ここでお
客さんを接待して徹底したサービスを行った。
松田の日常生活もこのモットー通り、風呂場の石けんが薄くなっても捨てず、新しいの
とくっつけて使った。風呂もガス湯沸器と、まきでたける両用で、熱は逃がさず、床暖房
にも利用できるようにした合理主義者であった。
『住友商人』 国頭 義正
光文社・1966年11月刊
商売は戦い。勝つことのみが善である
上原 正吉(大正製薬社長)
商売は戦いである。ただ、この戦いは進行がきわめて緩慢なのでなかなか“戦っている
”という実感を持ち得ない人が多い。
だから、ゴルフや競馬に熱中したり、女遊びに憂き身をやつしたりする余裕を持つ人が
現れる。
だが、“商売は戦いである”。ジリジリと本人の気づかぬままに進行し、勝者は繁栄し
て君臨し、敗者は倒産して閉業して、のたれ死に至るまでの深刻な勝負がつく。
いかに緩慢であろうとも、真剣の戦いに情け容赦はない。
そこで私は
“商売戦いである。戦いにおいては勝つことのみが善である”
という不動の理念を持っており、これが社内に浸透しているのが、わが社発展の大きな
原動力となっているように思う。
『商売は戦い』上原正吉 ダイヤモンド社・1964年7月刊
技術が二流でも闘争心が一流なら、必ずものになる
近藤 貞雄(元中日・大洋監督)
近藤は一九八〇年(昭和五十五)に中日監督に就任、八二年には八年ぶりにリーグ優勝
し、中日を計三回優勝に導いた。八五年には大洋ホエールズの監督になり、“球界一の魔
術師”と呼ばれた。
八二年、中日のキャンプ中に、新人の上川誠二選手がライナーを口に当て、血だらけに
なって倒れた。近藤監督は内心、上川選手の選手生命も終わりかと心配して「当分休め」
と指示した。
ところが上川は翌日、「休まなくても大丈夫」と真っ赤にはれ上がった顔で、口の中に
針金を入れ、折れた歯をついで出てきたのには、近藤は二度ビックリ。そのガッツに感激
した近藤はさっそく登用、上川は勝負強いバッティングで一軍に定着し大活躍した。
近藤は技術より勝負根性、闘志を重視していた。技術八〇点、勝負度胸五〇点の選手は
いざ勝負となると、ビビッて技術まで五〇点に落ちる。ところが、この逆の場合はいざと
いう場合に、技術もそのまま発揮するというのが理由であった。
『勝つ条件』 近藤 貞雄
アイペック・1988年4月刊
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