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日本リーダーパワー史(671) 日本国難史の『戦略思考の欠落』(53) 「インテリジェンスの父・川上操六参謀総長(50) の急死とその影響➁ー田村 怡与造が後継するが、日露戦開戦4ヵ月前にこれまた過労死する。

   

 日本リーダーパワー史(671)

日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(53)  

●「インテリジェンスの父・川上操六参謀総長(50)

の急死とその影響⓶ー田村 怡与造が後継するが、

日露戦争開戦4ヵ月前にこれまた過労死する。

<以下は松下芳男『日本軍原の興亡』芙蓉書房1975年 (150-153P)>」

川上参謀総長の病死

陸軍における長閥の逐年の発展を見るとき、痛嘆に堪えなかったのは、参謀総長川上操六の病没である。もしも川上がさらに長く存命していたならば、その威力の前に、長閥もあれほどの跋扈ができなかったであろう。

なんといっても川上の早世は、真に陸軍のため、ひいては国家のために痛惜のいたりであった。

かれは、日清戦争で惟幌の殊功を立て、その終わるや早くも日露戦争を予想して、参謀本部の全能力を、これに向かって集中させた。

このときの参謀総長は、有栖川宮 熾仁親王の逝去後、小松宮彰仁親王が継がせられていたが、川上の日清戦争の功績から、参謀本部の実権は、自然にかれの手に振られただけではなく、その威望と実力とは、隠然、陸軍部内の衷心たる地位を占めることになった。

この威望と実力とこそ、私が、川上にしてその意をもって立ったならば、陸軍部内の薩閥の復活また容易であろう、といったわけである。

しかしかれの胸中には、派閥はなく、ただ国家あるだけである。かれは自ら青木宜純(宮崎、のちの中将)、古海厳潮(愛媛、のちの中将)、久松定謨(愛媛、のちの中将)を従えて、東部シベリアを視察し、伊地知幸介(薩、のちの中将)、荻野末吉(岡山、のちの中将)をロシアに派遣し、また伊地知幸介、村田惇(東京、のちの中将)を従えて安南地方を遊歴したが、事あればかれらを用いんがためであった。

そして、田村 怡与造(山梨)、福島安正(長野)、伊地知幸介、大生定孝は、川上門下の四天王と称された。しかし四人はひとしく傑物でもなかった。

右のほか川上に起用された著は、東条英教、小川又次、伊東圭一(薩摩、少佐で死亡)らである。

さて川上操六は、明治31 年1月、小松宮彰仁親王に替わって、参謀総長に栄転した。当然の栄転であって、部内のなにびとにも異存のない、名実相伴なう最適任の参謀総長であった。

そしてその九月、佐久間左馬太、桂太郎とともに、大将に昇った。かれの大将はこれまた至当の人事であって、大将らしい大将であった。

しかるに連年の異常の激務は、かれの健康をむしばみ、翌32年5月、50歳の壮年をもって、白玉楼中の人となった。かれと同行した桂太郎が、こののちさらに15年の寿命を保ち、陸軍大臣からさらに進んで、総理大臣の

印綬を帯び、軍界および政界に貢献したが、その軍界に尽くしたことだけを見れば、川上は桂に優るものがあるのではあるまいか。

世にはかれの総理大臣を期待した者もあったが、かれの志向は政界になかったので、恐らくその期待に応えなかったであろう。

ともあれ川上没す。天下かれを知ると知らざるとを問わず、日本陸軍のためにかれの死を惜しみ、ひとしく「ああ川上があったならば!」の嘆声を発したのであった。きたるべき日露戦争には、かれの知謀に期待するところが、すこぶる大きかったからである。

かようにして川上換六、世を去る。もはや陸軍においては、山県に浩抗しうる人物がない。薩の大山巌、野津道貫・黒木為槙、西寛二郎、川村景明らに政治力はない。長派軍閥の礎石は、ここに固定したのである。

田村 怡与造と対露作戦計画

参謀総長川上操六のなくなったのち、その後継者として部内の嘱望を一身に担った者こそ、田村 怡与造であった。かれは川上門下の逸足として、つとに部内で名をなしていたけれども、川上の没したときは、まだ職は参謀本部第一部長、官は陸軍歩兵大佐にすぎず、参謀次長でもまた将官でもなかった。

参謀総長の後任は大山巌であり、川上のときの次長は大迫尚敏、大山にいたって寺内正毅に替わり、田村はやがて総務部長に転じ、寺内が桂内閣の陸軍大臣になった35年4月に、初めて次長の椅子にすわったという後輩であった。

それにもかかわらず。早くも川上の後継者と目される、もってかれがいかに卓越した人物であったかがわかるであろう。

かれは甲斐の生まれ、のちの陸軍中将田村沖之甫、同田村守衛の兄である。第二期士官生徒として陸軍士官学校を卒業し、12年2月に歩兵少尉任官、16年に木越安綱とともにドイツに留学し、在独5年ののち21年6月に帰

朝、監軍部の参謀に補せられた。

時の監軍は山県有朋、参謀長は児玉源太郎であって、ここでかれはわが軍隊教育の諸制度をつくって名をなし、ついで参謀本部に転じた。

次長川上操六は深くかれを信頼して、その経輪の実施に当たらせたので、かれは野外要務令、戦時勤務令、軍隊編成の方法などを起草して、その信頼に応え、また特別大演習を計画して、部内を驚かせた。これまでは外国教官にばかり頼っていた大規模の演習が、かれによって初めて日本将校の手で立案されたからである。

かれは実に超群の逸材であって、剛毅果断、精励努力、また直情径行。その所信の前にはなにびとにも屈せず、しかも他面部下に対しては厳格のうちに溢れる情味を有し、かれが参謀本部内に隆々たる権勢を有したのは、その手碗の抜群であったからには相違ないけれども、その部下の信頼と尊敬の大きかったからにもよる。

日清戦争では山県軍司令官の下、大佐で第一軍の参謀副長として出征したが、軍参謀長小川又次と作戦に関して衝突し、無断で広島に帰り、軍律によって処断されようとした。

しかし川上の庇護によってわずかに事なきを得、大津の歩兵第九連隊長に補せられて翌年四月改めて出征した。戦後ふたたび参謀本部に入り、そして総長川上の没後33年4月少将に進み、大山参謀総長の下で参謀次長になったが、このとき部内の実権は、かれの手に握られていた。

かれは長閥の前に少しも屈することなく、山県を訪問しても、気ままにあぐらをかいて平気でしゃべった。また次長として陸軍大学校の卒業式に臨んだときなどは、陸軍の宿将がすでに集まって、正面の玉座の左右に着席し、式が

まさに始まろうとするころ、かれは肥馬に鞭うって到着し、傲然と自分の席に着いたなどのこともあった。不遜とも倣慢ともいわれようが、とにかく太い神経、不屈の精神が、その全身に添っていたのであろう。

これより33年4月、さきに寺内正毅がきて次長の椅子に就き、川上派の一掃を期し、まず大生定孝を追い、ついで長閥に最も頑強に反抗した第三部長少将上原勇作(薩)、第四部長少将東条英教(岩手)を追い、やがて他に及ぼうとした。

かような寺内の長閥勢力の扶植を見て、田村は第一部長、少将伊知地孝介(薩)、第二部長少将福島安正(長野)とともに寺内反対の気勢をあげ、ついに寺内を桂内閣の陸軍大臣に送って、かれ自身次長の地位を獲得し、部内を結束して長

閥に反抗し、そして刻々近づきつつある日露戦争の準備をしたのであった。

このとき前後してかれの隷下にあった者は、福島安正、井口省吾(静岡)、松川敏胤(宮城)、大沢界雄(愛知)、上原勇作(薩)、落合豊三郎(島根)、柴五郎(福島)、松石安治(福岡)らであって、上原以外は、これことごとく閥外の出身である。

右のような人々を擁した参謀本部次長田村は、渾身の知謀を傾注して、対露戦備を整えた。なかにも過去の戦役の教訓に従ってつくられた後方勤務令は戦勝の有力な一因をなしたといわれるが、この勤務合はかれ自ら起草したものであった。

35年2月には、清国に赴いて袁世凱と会見して、清国の動向を探り、ウラジオストックに行って、ロシアの情況を偵察し、万全の対露作戦の計画は、こうして着々と立てられていった。

しかるに過度の動労のために健康を害し、36年10月、日露開戦の四カ月前、惜しくも長逝した。享年わずかに50、同日中将に進められた。長生したならば、当然大将になったであろう。

この訃報が伝えられるや、首相桂太郎は雨をおかして田村邸を訪い、棺の蓋をとって静かにその顔をなで、思わず大声を発して「ああ残念なことをした!」と叫んだ。これを見た同座の者は皆涙を垂れて、頭を上げえなかったという。田村はこういう偉大な人物であって、世人はかれを、甲斐の生まれにちなんで、「今信玄」といったが、それはけっして過褒ではなかった。

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