前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(668)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(50)●「明治4年の岩倉使節団の『政府首脳の大半が国外にでる壮挙』この知的探求心、国家改造力、ベンチャー精神こそが『明治の奇跡』を生んだ。

      2016/02/22

 

日本リーダーパワー史(668)

日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(50)  

●「明治4年の岩倉使節団の壮挙』ーこの知的探求心、国家改造力、

ベンチャー精神こそが『明治の奇跡』を生んだ。

『政府首脳のなかばをあげて国外にでる』ー

「勇敢といえば勇敢、軽率といえば軽率(三宅雪嶺『同時代史』)

驚くべき大胆な措置だった。

前坂俊之(静岡県立大名誉教授)

 

「…岩倉使節団の遣欧米米欧回覧全権大使岩倉具視の出発

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3

『廃藩置県』という統治システムの大改革を完全断行してわずか4ヵ月後の明治4年11月12日(1871年12月22日)、横浜の波止場は朝からたいへんなにぎわいだった。

何台もの馬車によってつぎつぎと荷物の箱が運び込まれ、渡航する大物たちを乗せて、波止場に到着した。遣欧米特命全権大使岩倉具視の一行48人と、それに同行する華族、士族の有志留学生59人の出発日だったのである。

メンバーは岩倉具視(右大臣、46歳)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96

をトップに、

木戸孝允(参議、38歳)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81

大久保利通(大蔵卿、41歳)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A

伊藤博文(工部大輔、30歳)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

山口尚芳(佐憲出身、外務少輔、29歳)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%B0%9A%E8%8A%B3

の四者を副使とする一行総勢48人は、そのほか留学生のなかには中江兆民

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E5%85%86%E6%B0%91

、金子堅太郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E

団琢磨、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E7%90%A2%E7%A3%A8

牧野伸顕

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95

もいた。

なかでは、稚児髷(ちごまげ)に振袖の山川捨松

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E6%8D%A8%E6%9D%BE

永井繁子

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/10576/1/shigaku_50_ikuta.pdf

ら女子留学生五人の姿が人目をひいたが、最年少の7歳の少女・津田梅子

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%AD%90

などは、父親から肩に赤いショールをかけてもらい、お人形をいれた鞄をかかえていた幼女だった。

この他にも、使節団の記録係として幕末外交のヴェテラン田辺太一

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%A4%AA%E4%B8%80

を筆頭に、塩田三郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%94%B0%E4%B8%89%E9%83%8E

何礼之

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E7%A4%BC%E4%B9%8B

福地源一郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E

渡辺洪基、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B4%AA%E5%9F%BA

林董(はやし ただす)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%91%A3

川路寛堂

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E5%AF%9B%E5%A0%82

など、ほとんどが旧幕府系である西洋通、洋行経験者を各等書記官として配属し、さらに各省から派遣の法・工・経・教・軍の専門理事官7名がまたそれぞれ部下をともなって随行した。

『政府首脳のなかばをあげて国外にでる』それはたしかに「勇敢といえば勇敢、軽率といえば軽率(三宅雪嶺『同時代史』)と評されるにあたいする、おどろくべく大胆な措置だった。

この「遣欧米岩倉使節団」こそ明治政府が海外におくった最初にして最大の外交・文化使節団だった。

近代的国家建設への一歩をふみだしたばかりの新興小国・日本の空前の壮挙、大航海だったといえる。1492年のコロンブスのアメリカ発見と比較するのは少し大げさかもしれないが、新しい国造りの新地図を発見しようとした新興国の意気としてこれほどの知的情熱を燃やした国、政治集団があったろうか。残念ながら、ほかの国には筆者の浅見からはないと思うし、この知的探求心、国家改造力、ベンチャー精神こそが『明治の奇跡』を生んだのである。

このとき一行全員に与えた太政大臣三条実美の「送別の辞」は

明治期を代表する「国家戦略立案」の一文である。

「外国ノ交際ハ国ノ安危(安全保障)ニ関シ、使節ノ能否(成功失敗)ハ国ノ栄辱二係ル。今ヤ大政維新(明治維新)、海外各国ト並立ヲ図ル時ニ方(あたり)リ、使命ヲ絶域万里(世界中)ニ奉ズ。外交内治(外交、内政)、前途ノ大業(大計画)、其成其否実ニ此挙ニ在リ(その成功、または失敗するかはこの使節団の行動にかかっている。

豈大任ニアラズヤ(まさしく大任である)。大使天然ノ英資ヲ抱キ(岩倉大使は英才でり)、中興ノ元勲タリ。所謂、諸卿皆国家ノ柱石、而テ所率ノ官員、亦是一時ノ俊秀。各欽旨ヲ奉ジ、同心協力以テ其職ヲ奉ジ。我其必ズ奏功ノ遠カラザルヲ知ル。行ケヤ、海二火輪ヲ転ジ、陸二汽車ヲメグラシ、万里馳駆(ちく)、英名ヲ四方二宣揚シ、無恙(つつが)なく帰朝ヲ祈ル」

芳賀徹は「大世界史㉑、明治100年の序幕」(文芸春秋社、1969年)、日本海海戦の参謀秋山真之の電文「敵艦見ユトノ警報ニ接シ……」、明治天皇の「五ヵ条の御誓文」とならんで、この送別の辞を「知識ヲ世界二求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」とする明治ナシナリズム高揚の一ピーグとみなしているが、正鵠を得ている。

ではなぜ、大使節団を派遣したのか、その理由、目的は何であったのか。

  •  旧幕府が結んだ不平等条約の改正通告期限(1872年(明治5)7月とせまってきたこと。このため、領事裁判権の廃止と関税自主権の奪還の二点を中心に改正をもとめる動きが、政府内で高まってきたこと。
  • 明治三年秋には外務省に条約改正取調係が設置され、欧米各国間諸条約の翻訳と研究を行った。その結論として岩倉外務卿に提出された諮問書(明治4年9月)によれば、「列国公法」(国際法)に依拠して現行条約を改正し「独立不羈ノ体裁ヲ定」めなければならない。
  • だが、国内従前の諸法制に「列国公法」に背反し齟齬するものがあるままで改正交渉にでれば、相手側にそこをつかれ、利用され、かえって旧来以上に国権をうしなう恐れがある。

それゆえ、1872年の条約改正期限をとらえて、むしろわが方から「先発」として列強に条約改正の暫時延期を申し出、その間に国内の諸法制・諸制度を列強にならって改革し整備することが肝要である、「改正」よりも「改革」が先決問題であるとしたのだ。

芳賀徹は「大世界史㉑、明治100年の序幕」(文芸春秋社、1969年、220-221P)

との結論であった。

 - 人物研究, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
『地球環境大異変の時代③』ー「ホットハウス・アース」(温室と化した地球)★『 日本だけではなく世界中で、災害は忘れたころではなく、毎年、毎月、毎日やってくる時代に』突入!?』

  『災害は忘れたころではなく、毎年やってくる時代に』         …

no image
日本メルトダウン脱出法(673)「日本のために中国と対決したくはない ー米国の本音」●「脱添加物!海外企業はここまでやっているー日本の「安全」は世界の「危険」かもしれない」

日本メルトダウン脱出法(673) 日本のために中国と対決したくはない ー新ガイド …

130年に1度の三浦半島2大霊場大開張奉修(4/29) ー『浄楽寺』(横須賀市芦名)の運慶作の国宝『阿弥陀仏三尊』に感動す。(動画2本あり)』●『5月28日まで公開中、お宝拝観にでかけよう』

130年に1度の三浦半島2大霊場大開張奉修(4/29) ー浄楽寺の運慶作の国宝『 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史]』(23)記事再録/日本リーダーパワー史(76)辛亥革命百年(14)中国革命の生みの親・孫文を純粋に助けたのは宮崎滔天

    2010/07/20 /日本リーダーパワー …

no image
日本メルトダウン脱出法(609)『ロシア経済危機、世界経済や日本への影響は」●『コラム:2015年の中国は変われるか」

              日本メルトダウン脱出法 …

『欲望・利益最優先資本主義から公益資本主義へチェンジする講座』★『百年以上前に<企業利益>よりも<社会貢献>する企業をめざせ、と唱えた公益資本主義の先駆者』ー渋沢栄一(日本資本主義の父)、大原孫三郎(クラレ創業者)、伊庭貞剛(住友財閥中興の祖)の公益資本主義の先駆者に学ぶ』

     2019/01/09日本興亡学入門⑩記事 …

no image
小倉志郎(元・原発技術者)のレポート『「原発の安全」とは?-普通の市民の感覚で』考えよう

 2013.03.01   「原発の安全」とは?-普通の市民 …

no image
知的巨人の百歳学(142)明治維新/国難突破力NO1―勝海舟(75歳)の健康・長寿・修行・鍛錬10ヵ条」★『人間、長寿の法などはない』★『余裕綽綽(しゃくしゃく)として、物事に執着せず、拘泥せず、円転・豁達(かったつ)の妙境に入りさえすれば、運動も食物もあったものではないのさ』

明治維新/国難突破力NO1―勝海舟(75)の健康・長寿・修行・鍛錬10ヵ条」 ① …

no image
池田龍夫のマスコミ時評(49)『米兵を異常犯罪に走らせたTBI(外傷性脳損傷)』★『格納容器,排気塔にフィルター無し』

 池田龍夫のマスコミ時評(49)   ●『米兵を異常犯罪に走らせたTB …

『リーダーシップの日本近現代史』(318)★『日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ㉑ [ 日清戦争は明治天皇は反対だったが、川上操六、陸奥宗光の戦争であった」★「 戦争は避けることばかりを考えているとますます不利になる」(マッキャベリ)★『「チャンスは刻々と過ぎて行く、だから「兵は拙速を尊び、リーダーは速断を尊ぶ」(孫子)』

    2015/12/22 /日本リーダーパワー …