日本リーダーパワー史(639) 『日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(32)田中義一はロシア国内を偵察・諜報旅行して、革命家・レーニン、スターリンに接触(?)したのか③
2016/09/13
日本リーダーパワー史(639)
日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(32)
<田中義一はロシア国内を偵察・諜報旅行して,
革命家・レーニン、スターリンに接触(?)した
といわれる③
前坂俊之(ジャーナリスト)
以下は石上良平「原敬没後」(中央公論社、1960年)の「田中義一の部分」の概略である。
田中は約4年間、ロシアでの情報収集と日露戦争の場合の戦略を練ってきて明治35年(1902年)4月にペテルブルグを発ち、東京に帰着したのは6月末であった。
田中はロシャ語に熟達し、連隊入り、貴族階級に接近し、各地を旅行し、帰途はシベリヤを経て来た。もともと彼が派遣されたのは、「情報将校」的な目的のためであったから、その使命を立派に果したのであった。
彼のロシア生活はどうであったのか、『田中義一伝記』上巻に詳細に語られている。中でも興味ふかいのは、被がスターリン等の革命家と接触していたという話である。それは次のような彼の後年の談話からみてとれる。
『労働者になって革命運動をやつても良いと思ったのは、その運動をやつちよる奴と随分と懇意になったから、相当な事が出来る自信があったからじゃ、隊付きになるまでは決まった仕事がなかったので、手当り放題に気の向く所へ、何処へでも旅行した。特に一年程たって言葉が上手になってからは、方々へ出掛けた。もちろん軍隊の駐屯地がおもだつたが、みんな今はエテクなっているのでのう。どうもこんな話はあんまり人にしゃべれんでのう・・』
右の談の中の「労働者になって云々」というのは、彼がロシア入りをしてから三年目の1931年(明治34)12月、同郷の大先輩伊藤博文がペテルブルグに来たときに面会して、即時対ロシア開戦を主張して口論となり、いっそのこと退役してロシアの革命運動に身を投じようとしたことをさしている。
このとき、彼は実際に退役願を出した。これを引き止めたのは珍田拾巳公使であった。田中が首都の歩兵第百四十五聯隊の隊付将校となったのは明治33年(1900年)5月であって、それまでに彼はロシア各地を旅行した。もっともその後もあちこちを旅行したことは、『伝記』所収の日記で書かれている。
田中の伝記には明治32年(1899年1月29日から同年7月30日に至る日記が収められているが、これによると田中は6月2日にペテルブルグを出発して大旅行をして7月30日に帰着している。
この2カ月の旅程を見ると、モスクワからカザンに行き、ヴォルガ河を下ってサラトフ、ツァーリツゥイ(今のスターリングラード)を経て、カスピ海の港アストラハンにでた。この辺で「日本の間諜(スパイ)の如く」思われて、「厭うべき人物(公安警察)」につきまとわれた、という。
それからカスピ海を渡ってカフカーズに入り、7月には「本日出発ウランカフカーズ」に入るとあり、同月12日にはバツームに到着している。それからノブロシースク、ヤルタ、セバストポール、オデッサ、キエフ、モスクワを通ってって首都に帰って来た。
このような田中少佐の動きから、この伝記の編者は、この年に彼が「あいはブスコフに落ち着いたレ―二ンを同志の紹介で訪ねたのではないか」、カフカーズ方面ではスターリン1派とも連絡をしたのではないかと推測している(田中伝(上)167P)
さらに編者は、
『レーニンもスターリンも同様であるが、その革命運動の労苦と成功とは、主義主張を強烈に投げつけル扇動文章の起草と、それの配布にあったのである。
少佐も後年、在郷里人会を組織してからは、執拗に手紙を書いて聯隊区司令官や師団長に機関雑誌の購読な強く要望し、雑誌の上でも自ら筆をとって、これを訴え、中途軍人会の組織を変更して編集部中心の運営を図っているが、恐らくこの頃のレーニン、スターリらの活躍が身にしみて感得されていたからであろう。
文章を書いた政治家はたくさんあるが、これだけ雑誌の部数増加に傾尽した政治家は恐らく類を見ないだろう。
況んや雑誌を売るという事柄を蔑視しやすいい軍人から見れば、寧ろ苦々しく感じられた程の執拗な購読勧誘は、この革命運動に探大したことからの所産である。と述べている。(田中伝(上)167-7P)
レーニンがシベリヤ流刑からロシアに帰ったのは1900(明治33)年の初めで、その秋に『イスクラ』の発行のため外国に出るまでは、彼はたしかにロシャにいた。1900年の秋から翌年にかけてパツーム、チフリス、バクー等の都市で労働運動が発達し、これには若き日のスターリンも参加していたことは彼の伝記の伝えるところだから、田中が彼らと接触する機会が無かつたと断定することはできない。
しかし前掲の彼の日記は-もちろん「軍事探偵」(スパイ)的な彼の日記をそのまま信用することもできない。
この編者の推測は、要するに推測の範囲を出ない。但し、彼が当時のロシア国内における革命運動ないし労働運動に注目したことだけは確かである。それは戦略上からも、彼の軍事探偵としての任務の上からも、必要なことであったからである。
スターリンの名が出たついでに、スターリンの『ソヴエート同盟共産党史』から、田中の滞在当時の同国の騒然たる状況をみてみよう。まず、一九〇一年にはペテルブルグにおけるオブホフ軍需工場のメーデー・ストライキは、労働者と軍隊との流血の衝突に終った。
「オブホフ防衛」と呼ばれたこの英雄的な闘争は、ロシャの労働者に深刻な影響を与え、彼らの間に同情の波を巻き起した。一九〇二年三月には、バツーム社会民主党委員会によって組織された、バツームの労働者の大ストラィキとデモンストレーションが行われた。これは、裏コーカサスの労働者、農民大衆を西軍させた。
同年にはまた、ドン河畔のロストフに一大ストライキが起った。初め鉄道従業員がストライキに立ち上り、間もなく多くの工場労働者がこれに参加した。政府は附近の都市から軍隊を出動してやっこのストライキを鎮圧することができた。
翌一九〇三年に勃発したストライキはもつと大規模のものであった。すなわち、この年に裏カフカーズとウクライナの大都市(オデッサ、キエフ、エカテリノスラフ)をも巻き込んで、南部で大衆的ストライキが起った。
こうしてロシャの労働者階級は、ツァー権力に対する闘争に、次第に立ち上って行ったが、このような労働者の運動は、農民の間に影響を与えた。一九〇二年の春と夏には、ウクライナとヴォルガ流域とに農民運動がひろがった。蜂起した農民に対し軍隊が急派され、農民は射殺され、一網打尽に逮捕され、指導者と糾織者とは投獄された。
田中がロシャに滞在していた期間において、この国の革命的労働運動はこのように発展しっつあった。彼はこのような運動と政府のこれに対する弾圧とを身近かに見聞したに違いない。しかも彼はこれを自己自身にとって重要な問題として受け取ったであろう。何故ならば、彼はロシャの国情を調査、諜報すべき重要な任務をおびて派遣されたからである。
したがって、彼はこのようなロシャの国情を、軍事的な見地から正に「ロシア討つべき秋」という結論を出したのであろう。
田中が明治三34年暮れに伊藤博文と口論したのも、伊藤の定評ある対露協調論に対して即時開戦論を突きつけたからに他なるまい。
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