片野勧の衝撃レポート(68) 戦後70年-原発と国家<1957~60>封印された核の真実 「戦後も大政翼賛会は生きていた,「逆コース」へ方向転換(上)
片野勧の衝撃レポート(68)
戦後70年-原発と国家<1957~60> 封印された核の真実
「戦後も大政翼賛会は生きていた」-「逆コース」へ方向転換(上)
片野勧(ジャーナリスト)
占領軍のジープが永田町の官房長官公邸の玄関先に入ってきた。男は車から降りると、護衛官に向かって尋ねた。「佐藤はいるか」。1948年12月24日――。A級戦犯容疑者として東条英機、板垣征四郎ら7名が処刑されたその翌日である。
男の名はのちに首相となる岸信介。岸は他の18名のA級戦犯容疑者とともに獄窓から放たれたのである。52歳だった。当時、官房長官であった佐藤栄作は岸の実弟。岸は佐藤の差し出すライターでタバコに火をつけ、うまそうに紫煙をくゆらせていた。
この日、釈放されたなかには戦中、東条内閣の国務大臣を務め、A級戦犯を解かれた後藤文夫や上海で戦略物資を海軍に納めて大儲けした児玉誉士夫もいた。当然、太平洋戦争の開戦時、軍の中枢にいた岸や後藤、児玉は起訴されるものと思われていた。
しかし、岸も後藤も児玉も不起訴になった。なぜなのか。当初、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は日本の民主化を最優先に軍国の根を断ち切ることを目標にしていた。しかし、ソ連の国力増強に直面し、「逆コース」へと方向転換したのである。
つまり、ソ連を封じ込めるために、GHQはアメリカに協力的な軍国官僚や軍人を“反共の防波堤”として利用したのである。岸らの「不起訴」は、まさにアメリカの対日占領政策の変更と結びついていたのだ。
日米関係に詳しい国際政治専門の原彬(よし)久(ひさ)氏(東京国際大学名誉教授)のインタビューに岸は、こう答えている。
「冷戦の推移は巣鴨でのわれわれの唯一の頼みだった。これが悪くなってくれれば、首を絞められずに済むだろうと思った。したがって、米ソ(関係)の推移は非常に関心が強かったですよ」(『岸信介証言録』毎日新聞社)
岸や後藤、児玉らの釈放は、日本の戦後体制を決定づけたといっていいだろう。原発推進の国策も、この「逆コース」を抜きにして語れないからだ。
■CIAが民社党結党を演出
近年、米国の外交文書の公開が進み、CIA(米中央情報局)が1950年から60年代半ばにかけ、日本の左派勢力の弱体化を図り、保守政権を安定化させるために、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者に対し秘密資金工作をしていたことが明るみに出た。その中でCIAは旧社会党の分裂を狙って59年以降、同党右派を財政支援し、旧民社党結党を演出していた実態も判明した(『毎日新聞』夕刊2006/7・19付)。
またニューヨーク・タイムズの記者、ティム・ワイナーの著書『CIA秘録(上)』(文藝春秋)によると、1958年から68年までの間、「アメリカ政府は、日本の政治の方向性に影響を与えようとする4件の秘密計画を承認していた」という。
その4件目の秘密計画とは岸信介と戦時中、大蔵大臣を務めていた賀屋(かや)興宣(おきのり)に対する支援である。賀屋は戦犯として有罪となったが、1955年に保釈され、58年に赦免された。親米保守政治家として秘密工作の対象にされていた岸も賀屋もアメリカにとって、なくてはならない人物とみられていたのだろう。
ワイナーは書いている。
「日本人はCIAの支援で作られた政治システムを『構造汚職』と呼ぶようになった。CIAの買収工作は1970年代まで続いていた。日本の政界における腐敗の構造はその後も長く残った」
CIAの東京支局長を務めたホーレス・フェルドマンの述懐。
「マッカーサー元帥は元帥なりのやり方でやった。われわれはわれわれなりの別のやり方でやった」(前掲書)
■原発情報と戦犯容疑者たち
このように、アメリカ政府は重要な親米保守政治家に対して一定限度の秘密資金援助を承認していたのだ。しかし、ここで見逃してならないのは戦後、最も早い段階で米国初の原子力発電の情報を電力界にもたらしたのは、これら戦犯容疑者たちだったということ。
なかでも、近衛文麿のブレーンとして「大政翼賛会」の事務総長や副総裁を歴任し、ファシズム体制の確立に関与した後藤は巣鴨プリズンに収監中、英字紙で原子力発電を読み漁っていた。
釈放後、後藤は自分の元秘書官・橋本清之助に会い、原子力のことを話す。橋本は、のちに原子力産業会議(原子力産業協会の前身)の代表常任理事に就任。橋本は語る。
「私が原子力のことをはじめて知ったのは、二十三年十二月二十四日、後藤文夫先生が岸信介氏などといっしょに、巣鴨プリズンから出てきたその日の夕方のことだ。スガモの中で向こうの新聞を読んでいたら、あっちでは、原爆をつかって電力にかえる研究をしているそうですよ、というちょっとした立話が、最初のヒントでした」(山岡淳一郎『原発と権力』ちくま新書)
「原子力発電の父」正力松太郎に原子力の知識を授けたのは橋本と言われているが、橋本は日本の“陰の原子力委員長”“原子力産業の育ての親”とも呼ばれている。
1951年に電力を国家管理する統制法人「日本発送電株式会社」が9電力会社に分割・民営化され、最後の総裁だった小坂順造(信越化学、長野電気などの創業者)が財団法人「電力経済研究所」を創設すると、橋本は常務理事に就任。後藤文夫を顧問に据えた。
■国家総動員体制と原子力ネットワーク
このように戦中の国家総動員体制をつくった人たちが、戦後も原子力ネットワークの基礎を築いたのである。戦時体制ならぬ原発体制――。政府、官僚、経団連、学者、マスコミが一体となって作り上げた“原子力ムラ”の源流は、ここにあったのかもしれない。
少年時代から政治家志望であった岸は東京大学卒業と同時に農商務省(のちの商工省)に入る。そこで16年間、国家の産業開発に辣腕を振るう。岸が商工省工務局長から満州国実業部総務司長へ転身したのは昭和11年(1936)、広田弘(こう)毅(き)内閣の時である。
満州国の産業開発5カ年計画は、ほかならぬ岸によって実行された。この在満3年の間に岸は国家社会主義・大アジア主義を背負って、権力と人脈を大きく広げた。
当時、満州で頭をそろえた人として、総務庁長官の星野直樹、関東軍参謀長の東条英機、満州鉄道総裁の松岡洋右(ようすけ)、日産創業者の鮎川義(よし)介(すけ)らそうそうたるメンバーがいた。革新官僚として岸が政界への足がかりをつかんだのは、これら満州人脈が大きく左右したと言われている。
満州から帰国した岸に重要なポストが用意された。1941年の東条英機内閣の商工大臣である。もちろん、商工相として日米開戦の詔書に署名した。戦時体制下、商工相として岸が目指したのは生産増強だった。戦時中の軍需産業や物資調達を取り仕切ったのである。
終戦後はA級戦犯として3年間、巣鴨拘置所などに収監されたが、起訴を免れ、昭和28年(1953)の「バカヤロー解散」(衆院予算委員会で吉田茂首相が右派社会党の西村栄一の質問に対してバカヤローと暴言を吐き、これをきっかけに解散となった)による総選挙で初当選した。
岸が真っ先に取り組んだのは「保守結集」である。1955年の民主党と自由党の保守合同の「自由民主党」(現・自民党)という名の保守単一政権を生み出し、自民党初代幹事長になった。保守(自民党)と革新(日本社会党)の二大政党の対立という、いわゆる「55年体制」の始まりである。
政権交代を可能にする「二大政党制」を夢見ていた岸の狙いは、ひとまず成功したかに見えた。しかし、「政権交代」は幻に終わった。1993年の細川護熙(もりよし)「非自民」連立内閣誕生までの38年間、自民党は単独政権を保持し続けた。
それどころか、「55年体制」の一方の当事者・日本社会党は90年代半ばに戦後政治史の舞台から事実上、その姿を消した。しかし、自民党は「55年体制」崩壊後も他の小党を抱き込みながら国家権力を握っているのは、戦後史の一つの皮肉といえる。
■岸信介の自衛核武装合憲論
岸は1956年(昭和31年)12月に発足した石橋湛山内閣の副総理・外務大臣として入閣。ところが、病に倒れ、3カ月足らずの短命に終わった石橋の後継首班に指名され、1957年(昭和32年)2月、岸が首相に就任した。公職追放解除(1952年4月)からわずか4年10カ月だった。
現在の首相・安倍晋三の祖父。再軍備論者だった岸の首相としての初の国会審議。1957年5月7日の参院内閣委員会で、「核兵器の保有が戦後の平和憲法に触れるのか」との野党(秋山長造・社会党議員)の質問にこう答えた。
「核兵器と名前がつけば、いかなるものもこれは憲法違反と、こういう法律的解釈につきましては…(中略)…その自衛力の本来の本質に反せない性格を持っているものならば、原子力を用いましても私は差しつかえないのじゃないか、かように考えております」
自衛のための核保有なら「合憲」という考え方だった。戦後の首相が公の場で核保有に言及したのは初めてだったという(中日新聞社会部編『日米同盟と原発』中日新聞社)。
政界を揺さぶった「核保有合憲」発言から1カ月後の57年6月、岸は米大統領アイゼンハワーと日米首脳会談を行った。最大のテーマは日米安保条約の改定。この首脳会談に先立って行われた岸・ダレス会談の岸の回想。
「日米対等の関係において主権の平等、相互的利益、協力をつくり上げるといいながら、現行安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに日本が占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか、というのがダレスに対する私の主張でした」(前掲『岸信介証言録』)
1960年、岸が求めた新安保条約は日米両国が対等の立場で助け合う「相互防衛」を目指すものだった。
■歴史の証言者として
私は本稿を書くために、『アメリカに使い捨てられる日本』『脱アメリカで日本は必ず甦る』(ともに日本文芸社)などの著書がある人を訪ねた。
「どうぞ、いらっしゃい」
その人は普段着姿で待っていた。森田実さん(83)という。2015年9月4日――。時計の針はちょうど午後2時を指していた。東京・港区白金台の、とあるマンション2階の居宅の書斎。私はさっそく、参上の趣旨を述べた。
目的は2つある。その1つは歴史の証言者としての原水爆禁止運動について。いま1つは原子力の平和利用について、ということだった。私はICレコーダーとビデオカメラを回すために準備した。すると、
「ビデオで撮るなら、和服に着替えますね」
こう言って、森田さんは席を立たれた。しばらくして席に戻られた、その姿はいつもの森田スタイルの和服姿だった。
――正力松太郎(読売新聞社主)の後押しで開かれた「原子力平和利用博覧会」(1955年11月開催)をみましたか。森田さんは話を始めた。
「みていません。そのころまだ学生でした。サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月に大学に入り、学生運動に飛び込んでいましたから」
80歳を超えて発する声量はなお豊かであり、言の葉は明瞭。記憶力も衰えていない。さらに話を続ける。
「当時の首相は吉田茂で破壊活動防止法の提案で国会は荒れに荒れていました。これは戦前の治安維持法の復活だという論理で何度も国会に突入し、警官隊と衝突しました。我々は警察の棍棒(こんぼう)でボコボコにやられました」
柔らかな物言いと物腰――。激動の時代を生き、常に権力と対峙してきた政治ジャーナリスト。「こわもて像」をイメージしていた不明に恥じ入った。
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