太平洋海戦敗戦秘史ー山本五十六、井上成美「反戦大将コンビ」のインテリジェンスー「米軍がレーダーを開発し、海軍の暗号を解読していたことを知らなかった」
太平洋海戦敗戦秘史ー山本五十六、井上成美の
「反戦大将コンビ」のインテリジェンスー
「珊瑚海海戦」での井上中将の指揮は失敗だったのかー
米軍がレーダー開発を開発し、海軍の暗号を解読して
いたことを知らなかった
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
1941年12月のハワイ攻撃など第一次作戦の成功の後、海軍は不敗の態勢を築くため、アメリカとオーストラリアを遮断し、これを阻止しょうと出てくる米空母機動部隊をたたく作戦を練った。ところが、1942年(昭和17年)4月18日、全く予期せぬドーリットル空襲https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB%E7%A9%BA%E8%A5%B2
に山本連合艦隊司令長官は大ショックを受け、「天皇にご心配をおかけした」と大慌てで急遽、ミッドウエー攻略作戦を立てた。
ミッドウエ、アリューシャンを占領して広大な哨戒線を引いて、一大防空圏を作る計画だが、これは余りに戦線を拡大しすぎて、補給や連絡ができなくなると海軍部内からも強い反対があったが、山本は押し切って強行した。
このため、当初から計画されていたポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)は少し遅れた。ポートモレスビーは ニューギニア島最大の都市で、ここを占領して海軍航空隊のあるラバウルを敵の攻撃から守る作戦であった。連合艦隊は第5航空戦隊(改装空母『翔鶴』「瑞鶴」の2隻)と第5戦隊(重巡『妙高』『羽黒』)を向けて、井上成美中将を司令長官とする第4艦隊が作戦の指揮をとることになった。
珊瑚海海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8A%E7%91%9A%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6
十七年一月二十九日、ボルネオ島のラ工、サラモア、ツラギ、ポートモレスビーなどの都市の攻略作戦(MO作戦)が発せられた。南洋部隊は三月八日にラ工、サラモアの攻略に成功したが、その帰途、珊瑚海付近で、米空母機の大規模な反撃を受けて艦船に大きな被害を出した。この修理で、聯合艦隊は作戦完了を五月十日までをのばした。
南洋部隊はツラギに水上機基地を造り、順次、西方に進めて、攻略船団も空母部隊に守られながら珊瑚海北沿いに進撃する計画をたてた。四月二十七日にトラックに一同集結し、作戦準備を完了した。しかし、にわか寄せ集めの部隊であり、短期間での作戦立案、打ち合わせ、意思の疎通が十分図られたものとはいえなかった。
五月三日から作戦は開始され、1発も撃つことなくツラギを占領した。いち早く同地の豪軍は日本側の攻撃を見越して撤退していたのだ。ところが四日朝になって、ツラギは近くに忍び寄ってきた米空母『ヨークタウン』からの空母機の奇襲を受け、攻略部隊の「駆逐艦』1隻、掃海艇2隻が撃沈された。
これを知った柱島にいた連合艦隊の宇垣参謀長は「敵は相当わが情況を察知した後の攻撃と認められる」と日記に記したが、米軍はなぜ日本軍の行動に即対応できたのか。情報が漏れたのではないかとの疑問は思い浮かばなかった。実際には、すでに米側はレーダーを完成させ、日本海軍の暗号をすでに解読し、行動していたのである。
5日になって五航戦を基幹とする機動部隊は敵空母部隊の捕捉に向かったが、すでに『ヨークタウン』『レキシントン』ははるか西方に去っていた。6日早朝、ツラギから飛び立った日本の索敵飛行艇から、ツラギから南南西750キロに敵発見の情報が飛び込み、機動部隊は急行した。夜に入って両軍の機動部隊は150キロまで接近していたが、互いに気づかなかった。
7日朝は一転して、空はくっきり晴れ渡り、一望千里の情況で決戦には最適の気象条件となった。両軍の索敵機はほぼ同時に敵を発見、第5航空戦隊は南方約280キロに、米空母、巡洋艦などを確認、米機動部隊もニューギニア東端約200キロに日本側の空母2隻などを発見し、史上初めての空母機動部隊による決戦となった。
ところが、双方ともこの敵『空母』発見の第一報は誤認情報であった。日本側が発見したのは給油艦「ネオショー」と駆逐艦「シムス」の2隻で、これを攻撃、沈没させたが空母はついに発見できなかった。
一方、米側も輸送船団を空母と見誤っていたが、幸運なことにその背後で護衛していた小型改造空母「祥鳳」を発見して集中攻撃し、魚雷七本、爆弾一三発を命中させて沈没させた。「祥鳳」は太平洋戦争では初の空母の犠牲となった。
日本側の機動部隊は「翔鶴」「瑞鶴」に一旦、引き返した後、装備を整えて夜間帰投を覚悟の上で、「祥鳳」の仇を討つためベテランを選抜し艦爆、雷撃の合計27機が午後4時過ぎから、米空母を追撃して飛び立った。
天候はスコールなどで視界が悪い上に、米側にレーダーで捕捉されたため米戦闘機に逆襲されて、9機が撃ち落された。日が暮れて、敵母艦を発見できなかったため、爆弾を投下して、帰途に就いたが、ここでとんでもないハプニングが起る。
わが母艦とおもって着艦の体制に最初に入った機が、いきなりパッパと閃光が走り銃撃された。米空母を味方と見誤って着艦コースに入ったためで撃墜寸前のところを辛くも、逃げ帰った。
ところが、一難去ってもう一難でやっと母艦にたどり着いたものの夜間に無事着艦できるベテランパイロットは少なかった。結局、6機は何とか着艦できたが、残り11機は失敗して海中に転落する災難となった。この日の戦果はゼロで、第五航戦隊は全くついていなかった。空母決戦は翌日に持ち越された。
ほぼ互角だった第一撃
翌八日朝、空は晴れ渡り、双方の索敵機がほぼ同時に敵艦隊を発見、両軍の距離は約四二〇キロ。日本側はゼロ戦、艦爆、雷撃などの合計六九機、米側は戦闘機、艦爆など合計七三機と機数、編成ともほぼ互角の対決となった。敵の空母の発見、攻撃開始時間(同日午前11時ごろ)もほぼ同時に火蓋が切られた。
幸いは日本側に味方し、攻撃隊が『ヨークタウン』『レキシントン』を発見した際、米戦闘機は前方に三機しかおらず、両母艦に殺到、『レキシントン』 に魚雷二本、爆弾二発をぶち込み、『ヨ-クタウン』には爆弾一発を命中させた。『レキシントン』は撃沈確実に、『ヨークタウン』型は沈没の公算大と判断した。
一方、米攻撃隊も『翔鶴』に襲いかかり急降下爆撃で二発が命中、さらに索敵爆撃機によって一発の命中弾を受けた。飛行甲板に大穴が開き火災を起こしたが、消し止め、航海には支障なく北方に退避した。
第一撃はほぼ互角の相撃ちだった。これは戦後の集計で、戦闘の時点では双方とも敵側のダメージはよくわからないが、日本側には戦闘機24機、艦爆は七機、雷撃機9機が再攻撃可能で、米側は攻撃機37機、戦闘機12機が残った。
『レキシントン』はその後、館内爆発を起こして、同日午後8時ごろに沈没し、米大型空母としては最初の沈没となった。このあと、日米両軍とも第2攻撃を行なわず、引き上げてしまった。
これが珊瑚海海戦の概況だが、リアルタイムの戦闘では現場指揮官と連合艦隊司令部の状況判断と指示、命令は真っ二つになった。同日午後1時ごろ攻撃隊指揮官の高木武雄中将は、可動機飛行機が九機、五戦隊の重巡の燃料残量が半分に低下したことを理由に「第二次攻撃の見込なし」と判断して、反転北上してしまった。
この時、井上指揮の第四艦隊司令部はラバウルに前進していたが、作戦参謀・土肥一夫少佐が追撃命令の起案書を持っていくと、井上長官は即座に「間に合うかね」と聞いた。
「大丈夫です」答えて、決裁をもらって暗号に組んでいる時、攻撃隊から「反転した」との報告が届いた。今から出しても間に合うまいと結局、追撃命令は取り止めになった」(『昭和史の軍人たち』秦郁彦.著、文芸春秋,1982.年)とその間のいきさつを語る。
前線の最高指揮官・井上も機動部隊の反転を追認して、午後1時45分に「攻撃を中止し、北上せよ」との命令を発した。柱島にいた連合艦隊の宇垣参謀長らはこの中止命令に激怒した。
「午前の働きは見事だったが、その後、機動部隊の攻撃行動を止め、北上すべきを命令した。その真意は不可解なので、進撃の必要あるところ、参謀長まで状況を発電するよう督促した。ところが、回答がなく、モレスビーの攻略を無期延期した。
これには参謀連は憤慨して、祥鳳一艦の損失により全く敗戦思想に陥れり」と宇垣は日記「戦藻録」で怒りをぶちまけた。
井上が「攻撃中止、北進」を命じた際、宇垣は「一層、敵に攻撃を加える必要あり。攻撃を実施しない理由を通報せよ」と、きびしく詰問する電報を送った。この後、「ポートモレスビー作戦延期」との電報が井上から届くと、連合艦隊司令部内は非難ごうごう、これを伝え聞いた東京の永野軍令部総長も顔色を変えて怒ったという。
連合艦隊司令部内での電文のやりとりに「バカヤロウ」「弱虫」だなどと、赤エンピツで付記されたものが残っており、司令部内は井上非難で一色となった。それでも怒りの納まらない宇垣参謀長は4時間後、山本司令長官名で追撃命令を出させた。井上はその指示に従って部隊を反転、追撃させたが遅きに失して間に合うはずはなかった。
結局、日本側の被害は改装空母「祥鳳」、駆逐艦「寒月」、小艦艇3隻が沈没、空母「翔鶴」が中破、未帰還機38で、一方、米側は主力空母「レキシントン」沈没、中型空母「ヨークタウン」中破、油槽船「ネオショー」、駆逐艦「シムス」沈没、未帰還機66で、数字的にみれば6対4で日本の勝利であった。
しかし、連合国側からみれば結果的に米豪の分離作戦である「ポートモレスビー攻略作戦」を中止に追い込んだので、緒戦での初めての勝利となったのである。
連合艦隊司令部は井上が中止命令を出さず、宇垣の指示通りに「ヨークタウン」を第2次攻撃でトドメをさせた絶好のチャンスを逃したという怒りである。
確かに、この1ヵ月のミッドウエー海戦で沈めたはずの「ヨークタウン」が真珠湾で修理されて、再び登場して日本側の虎の子の4隻の空母を沈めてしまう大逆転劇を演じたのだから、なおさらである。「あの時に追撃し沈めておけば・・」と、連合艦隊は一層悔しさが募り、井上憎しとなって爆発したのである。
それまで開戦に強く反対していた井上への海軍部内での実践指揮能力への疑問が、これで決定的となり「腰抜け」「またも負けたか四艦隊」「頭がよすぎで戦争下手の井上」など、海軍内でも袋叩きの状態になる。
井上は開戦4ヵ月前の昭和16年8月に、航空本部長から第4艦隊司令長官なったが、この件でわずか1年余で更迭され、同17年10月に海軍兵学校長に左遷されてしまった。しかし、本人は「校長にさせられた時は逆にほっとした気持ちになった」と後年語っている。
もともと、井上の軍政家としての経歴には輝かしいものがあったが、それまでの海上勤務はわずかに「比叡艦長」(約1年8ヵ月)のみで、実戦部隊の指揮の経験はほとんどなかった。その弱みがでたことも事実である。
戦後、井上は珊瑚海海戦について何度も質問されているが、そのたびに「私は戦は下手でした。今日は何百人戦死した、今日は誰々が死んだという報告を連日聞かされた。あんな辛いことはなかった」」と素直に認めながら、こう弁解している。
「機動戦というものはサツと行ってサッと引き返すべきものである。後方には何がいるか解らない。ぐずぐずしてはいけない。(連合艦隊の命令には)今日でもはなはだ不満である。あとから欲を出すな。おなじことを二度と繰り返すことはぜったいに禁物である」と『元海軍大将井上成美談話収録』(財団法人水交会監修)(生出寿著『反戦大将井上成美』徳間書店1984年刊)で、述べている。
もともと、日本の伝統的な戦闘、武道では一本入れば勝負あったで、第2、第3の攻撃を徹底して攻撃は加えることをよしとしない。ハワイ攻撃、スラバヤ沖海戦などこの一閃で斬り捨てサッと引くという戦法であり、井上もこの伝統に従ったという思いである。
井上が指揮の瑞鶴、翔鶴などの第五航空戦隊は、赤城、加賀の第1航空戦隊、飛竜、蒼竜の第2航空戦隊より序列が下で、“メカケの子”などとバカにされていた。
「『またも負けたか四艦隊』と、抜かした連中(南雲艦隊など)がミッドゥエーではあんなザマではないですか。人のことを文句いえた義理か」とかつての教え子の話に、「君もそう思うか」と井上はうなづいていたという。(同書)
結局、ハワイ攻撃以降の連戦連勝で海陸軍、連合艦隊ともそれまでと一転して、米軍をなめきるおごり症候群に陥った。初めての正面からの空母、機動部隊の対決となった珊瑚海海戦の両軍の戦闘、戦力比較、の冷静な分析は行わず、その教訓も生かさなかった。
- このため、なぜいつも日本の作戦海面に米空母が現れるのか、その疑問をもてば背後にあるレーダーの存在、海軍暗号は解読されているのではと気づくチャンスもあったが、見過ごしてしまう。
- 艦爆の爆弾破壊力は日本の二五〇キロ、米は四五〇キロでほぼ倍。このため中破の「ヨークタウン」はわずか1週間ほどで修理され、ミッドウエーに再登場するが、「翔鶴」は3ヵ月もかかった。この破壊力の差に気づかなかった。
- ゼロ戦は格闘性能は抜群だったが、米側はスピードに優れた防御戦闘機が上空で待ち伏せしていて、急降下してゼロ戦は打ち落とす戦術を取った。連合艦隊は米戦術を十分、研究、分析しなかった。
- 何よりも山本長官の戦略そのものに疑問符がついた。補給、連絡体制を大きく超えた広大な防空圏を確保するためのミッドウエー、ポートモレスビー攻略作戦に無理があった。井上もこの作戦には疑問を持っており、それが作戦中止につながった。
しかも、レーダーを欠いて太平洋上の広大な戦いに勝てるわけがなかった。太平洋戦争のいくた海戦のなかでも、珊瑚海海戦は数少ない勝利であり、決して負け戦ではない。ところが、連合艦隊は自らの敗因を井上になすりつけたのでないか。
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