日本リーダーパワー史(597)『安倍・歴史外交への教訓(4)日清、日露戦争での勝利の方程式を作った『空前絶後の名将』川上操六のインテリジェンスに学ぶ-
日本リーダーパワー史(597)
『安倍・歴史外交への教訓(4) 日清、日露戦争の勝利の方程式
を作った『空前絶後の名将』・川上操六参謀総長
のインテリジェンスに学ぶ-
陸軍では長州閥(山口閥)がバッコしたが、川上には、そうした
派閥的観念がほとんどなかった。
川上の目には、国家あれども派閥なく、陸軍あれども情実なく、
真に国家の前途を思って、陸軍の発展、とくに参謀本部の充実
にすべての情熱を傾け、部内の才俊を、藩閥と学閥とを
無視して抜擢起用した。
前坂 俊之(ジャーナリスト)
①安倍内閣は『お友達内閣』『仲良し内閣」といわれる。日本の政治は明治以来、『派閥政治」が今も続いており、明治藩閥政治では長州閥が薩摩閥を退けて、特に長州閥でも、伊藤博文は閥を嫌ったが、政党政治を敵視した山県有朋の『山県閥」が日本陸軍、内務官僚、政治家を壟断、暗闘して、日本沈没の原因を作った。山県亡きあと、その残党たちの昭和軍閥が、暴走して日本はついに「敗戦」にいたり、明治、大正で営々としてで築いてきた国力を全面消失してしまったのである。
⓶安倍首相はこの『長州閥」の歴史的後継者といってよいが、『派閥も情実も一切なく、真に国家、国民の前途のみを念頭』に、広く人材を国内外にもとめて、「適材適所内閣」「有言大実行内閣」へ舵取りしなければならない。
<以下は『日本軍閥の興亡』松下芳男、芙蓉書房(1975年)より>
川上操六の軍令界登場
薩派(薩摩閥、鹿児島閥のこと)の陸将は、西郷隆盛、桐野利秋、篠原国幹、種田政明のなくなったのちといっても、大山巌、西郷従道、高島柄之助、野津鎮雄、野津道貫、樺山資紀、野崎貞澄、今井兼利、黒木為禎らの宿将が残っている以上、その団結さえうまくいけば、長派(長州閥、山口閥)に対立して、必ずしも遜色ない勢力であった。しかるに、これらの諸将のうち、山県に括抗して譲らない一人の謀将をも見ることができない。
薩派は中核体的人物を欠いた。陸軍の西郷従道と樺山資紀とは海軍に去って海軍軍閥の中核体となり、野津鎮雄は早世し、野崎貞澄は中将になり、男爵になったけれども、第六師団長をもって終わり、今井兼利は少将のまま、明治二十三年に没し、高島柄之助は政治家として去り、大山巌は山県と並んで陸軍の大御所にはなったが、茫洋として派閥的意思なく、野津道貫、黒木為槙は戦将であって、軍政の将軍ではなかった。
将軍としての人物は、必ずしも劣るというわけではなく、大将、中将に進んだ者も、十指をもって数えられるけれども、その性格に軍閥をつくる要素に欠けるところがあったということになるのである。しかるにこれらの宿将についで現われた人物こそ、薩派陸軍のホープ川上操六であって、かれこそ陸軍薩閥結晶の中核体に擬せらるべき人物であった。
かれは山県有朋を盟主とする長閥のバッコする陸軍において、これと堂々括抗して下らず、寺内正毅以下の長派はもちろんのこと、山県、桂太郎といえども、かれには一歩を譲っていた。
これはかれの学識、器量、知謀、力量など、当時の軍人中、水際立って優れていたことにもよるが、その眼中には長派も薩派もなく、国家のため陸軍のために、全身全霊を捧げた真剣な態度には、長閥といえども頭を下げざるをえなかったからである。
正義の道を進む者は強い。川上の誠心誠意、献身的努力の前には、長閥もいかんともすることができなかったのである。
西南戦争後退潮を見た陸軍の薩派は、かれを結晶の中核体に擬したであろうが、かれはそういう派閥的観念にとらわれている人物ではなかった。
もしも、かれが立って、その知謀を注いで長閥に対抗する薩閥の結成を図ったならば、薩派は強固な一大団結体となり、山県軍閥にとっては恐るべき強敵となったであろうし、また陸軍における長閥が、あれほどバッコすることができなかったであろう。しかるに川上には、そうした派閥的観念がほとんどなかった。
川上の目には、国家あれども派閥なく、陸軍あれども情実なく、真に国家の前途を思って、陸軍の発展、とくに参謀本部の充実に満腔の情熱を傾け、部内の才俊を、藩閥と学閥とを無視して抜擢起用した。この川上の軍令部門への登場は、陸軍の幸いであったと同時に、その超派閥的態度は、山県軍閥にとっても幸いであったともいえる。
川上は年少薩藩隊に属して、戊辰戦争に従軍、明治四年陸軍中尉に任ぜられて御親兵隊付となり、西南戦争には参謀局出仕であったが、征討の勅命を熊本鏡台司令長官・谷干城に伝えたまま、熊本城に籠城し、歩兵第十三連隊長与倉知実の戦死するや、替わって同連隊を指揮した。戦後中佐に進み、正式に同連隊長に任ぜられたが、やがて歩兵第八連隊長、仙台鎮台参謀長、大佐に進んで近衛歩兵第一連隊長に転じた。
明治十七年二月に陸軍卿大山巌に従い、中将三浦梧楼、少将野津道貫、大佐桂太郎らとともに、兵制視察のため欧州を巡遊し、帰路米国を回わって、十八年一月に帰朝したが、この一行の視察は、わが陸軍軍制の改革に、大きい動
機を与えたのである。この巡遊の間に、「桂の軍政、川上の軍令」 の将来が予想された。
明治十八年五月、少将に進むとともに、参謀本部長山県有朋の下に、その次長となった。このとき山県は内務卿を本職としていたので、川上の次長は重責であって、諸先輩を抜いての抜擢は、部内外の耳目を驚かした。
山県のかれの起用は、薩閥への心づかいでもあろうが、かれの抜群の知謀を無視することができなかったからである。
翌年三月近衛歩兵第二旅団長に転補、この閑職を利用して、ふたたびドイツに遊学、参謀総長モルトケ、次長ワルデーゼについて、親しく用兵作戦の学理をきわめ、一年有半ののちに帰朝した。
明治二十二年三月、かれは参謀総長・有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)の下で、ふたたび参謀次長に就任した。
この前年三月、桂太郎は陸軍大臣大山巌の下で、陸軍次官に就任し、ここに薩長の二大寵児は、予期されたように軍政、軍令の二部門に、くつわを並べて登場したのである。二十三年六月、二人は連れ立って中将に昇進した。
時は日清の風雲ようやく動くの秋、かれは多年の蘊蓄を傾倒して、鋭意参謀本部の充実を図ったが、かれの適材適所の抜擢方針のために、部内の士気は大いに振るい、溌剌たる意気はいやが上にもあがった。そして明日清戦争明治一年前の二十六年三月から六月にかけて、自ら朝鮮から南満州の要地をへて、山海関から天津、北京に入り、さらに上海に出て帰朝したが、かれの対清作戦の計画は、実にこのときにおいて、早くもその脳中に描かれたのであった。
日清戦争が切迫したある日、参謀本部において、陸軍関係の首脳者が相会して、作戦の事を議した。
山県有朋は慎重派であって、「清国軍に対するわが軍の勝算は余りに少ないので、われから進んで戦いを求むることなく、かれのくるのを待つべきである」と主張したに対し、川上は「われに勝算歴々たるものがある。まさに積極作戦をとるべきである」と反駁し、激論数刻に及んだ。
川上ついに怒って大声、「このオヤジ、兵を解せず」と放言した。山県は憤然色をなし、ドアを排して去った。川上は省みるところがあったか、山県を追って陳謝し、ようやくにして議をまとめたという。
事、国家の重大事なるがゆえに、忍んで陳謝したのであろうし、また山県を向うに回わしての激論とても国家のためを思えばこそであろうが、とにかく陸軍の大長老に対して、堂々と論議し、少しも屈しなかった川上の態度には、山県は一目も二目もおいたのであった。また、このことによって陸軍内には声望が一挙に高まった。
右の逸話だけをもって、川上を主戦論者、山県を平和論者と結論することは早計である。右の論争は作戦論であって、戦争論はない。「もしも廟議が開戦に決するならば」の前提に立つものであって、戦争の可否を論じているのではない。
ゆえにこの論争だけで、この二人の戦争論を判断することほできない。けれども他の方面からの史実によれば、川上は最も強硬な主戦論者であり、しかも戦局に対しては、自信に充ち満ちた非常に楽観的な意見をもっていたいう。
そしてここに当時の協調論者、外相陸奥宗光と相対立していたのである。山県は川上ほど強硬な主戦論者でもなかったが、川上の強硬論に引かれて、次第に主戦に傾いたようである。
川上の楽観論は、日清相戦うも、平壌付近の衝突で幕を閉じ、容易に勝利を得るであろうというのであったらしいが、川上ほどの人物が、こういう見解をもったとは意外なことで、あまりにも対清観察が甘く、やはり軍人的眼光というのであろうか。
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