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『ドイモイ』以後のベトナムメディアの変容

   

『ドイモイ』以後のベトナムメディアの変容
前 坂 俊 之
1 はじめに
ベトナムは2000 年にベトナム戦争の終結からちょうど4半世紀目を迎えた。共産党一党独裁
の国として1986 年から市場経済化、対外開放化などを大胆におし進める「ドイモイ」(刷新)政
策を始めてからも15 年が経った。その改革の歩みはどうなのだろうか。大きな変貌をとげつ
つあるベトナムで新聞、テレビなどのメディアを中心にその変化の実態を調査に2000 年8月
に出かけきた。
首都ハノイやホ-チミン市で代表的な新聞社、テレビ局など8社を訪れた。両市でまず驚い
たのは道幅いっぱいにあふれんばかりの日本製のバイクの大洪水。人々が足代わりに乗っ
ており、中には家族4人が乗ったバイクなどが激しい警笛を鳴らしながら縦横無尽に走り回っ
て、街中は驚くほどの喧騒で活況を呈している。
露天商や一般商店にもモノがあふて、市場経済化に向けて大きく踏み出した様子が見て取
れる。特に、旧南ベトナムの首都サイゴンであったホ-チミン市の中心部では高層ビルやア
パ-トがたち並び、一部はバブルの崩壊で建設途中で廃屋化したものもあるが、社会主義国
とは思えない賑わいを見せている。「現在のベトナムは日本の40 年前」と現地の日本人商社
マンは評したが、確かに敗戦からまだ復興していなかった昭和20 年代の日本の風景がダブ
ってきた。
ただし、経済状態はドイモイ以後、GDP(国内総生産)は伸びているもの国民1人当たりで
は374 ドル(1999 年)とASEAN(東南アジア諸国連合)では最下位であり、新聞の普及率も
人口千人当たり4人という世界の最貧国ランクに位置しているが、市場経済への移行の中で、
メディアは大きく変容していた。
2 調査の方法と内容
現地調査は2000 年8月22 日から30 日まで、筆者を含めて4人のメディア研究者がベトナム
を訪れ、ハノイ、ホ-チミン市でメディアを統括する主官庁とベトナムを代表する新聞、テレビ、
ラジオ局の以下の幹部からヒアリングを行った。また、日本の新聞の特派員、ベトナムに進出
している日本の広告代理店からも取材した。本稿では調査期間が短期であり、資料収集にも
限度があるため、インタビュ-での発言を含む第一次情報の提示とその分析を中心にして考
察した。
HA MINH DUC(ハ-・ミン・ドック):ハノイ国立大学ジャ-ナリズム学科 学科長(同大学ベト
ナム文学研究所長),TRAN MAI HANH(チャン・マイ・ハン):ラジオ「ベトナムの声」(VOV)代
表(ベトナム共産党中央委員),VINH TRA(ヴァン・チャ-):ラジオ「ベトナムの声」編成局長,
DUONG XUAN NAM(ズオン・スアン・ナイ):「ティエンフォン(先鋒)」編集長,Dr DAO DUY
QUAT(ダオ・ズイ・クアット):ベトナム共産党思想文化委員会副委員長,NGUYEN VAN
PHUONG(グエン・ヴァン・フオン):「ベトナムテレビ」(VTV)国際部長,DUC LUONG(ドック・
ルオン):ベトナム共産党機関紙「ニャンザン」副編集長(副大臣級),HUYNH VAN NAM(フュ
ン・バン・ナム):「ホ-チミン市テレビ」(HTV)副局長,HUYNH SON PHUOC(フュン・ソン・フォ
ク):「トイチェ」紙副編集長,CAO XUAN PHACH(カオ・スン・ファック):「サイゴン・ザイフォン
(サイゴン解放)」紙編集長,山本純弘:中央宣興ベトナム支店長,牛山隆一:日本経済新聞
ハノイ支局長
3 《国家丸抱えから自立、独立へ》
ベトナムで大きな変化の兆しが現れたのは1986 年12 月の第6回党大会で「ドイモイ」(刷新)
が国家目標と宣言されてからである。市場経済の導入、国営、公営企業以外の民間経済活
動、外資の導入など経済の自由化、対外全面開放、官僚主義の改善など、政治、経済、社会、
思想の全分野の刷新を目ざしたものであり、グラスノスチ(情報公開)でもあった。92 年に「ド
イモイ」は憲法に織り込まれ国是となった。(1)
それまで新聞は国や共産党から交付金や助成金を受けていた「バオカップ」(国家丸がか
え)政策によって、すべてが御用新聞であり、御用放送局でった。新聞は党や国家の主張を
宣伝、称賛しその情報を人民へ一方通行でタレ流すだけで一切の否定的な現象には目をつ
ぶっていた。「プレスは完全な国家統制に従属し、その機能は政府に奉仕することにある」(2)
とする旧ソ連型メディアと全く同じであった。
「ドイモイ」を推進するグエン・バン・リン党書記長は1987 年5月、諸分野の欠点、悪に批判
的メスを入れる言論活動を開始し、新聞もこれに同調して一斉に党、政府の施策や社会の否
定的な現象を摘発、批判する記事を掲載しはじめた。党も汚職、職権乱用、不正行為を告発
し党の指導を強化する道具として新聞を活用した。(3)
「ドイモイ」によって、メディアは刷新政策実行の重要な担い手として、その役割を重視され
ると同時に、メディア自身も大きな変化を強いられた。
それまでの「バオカップ」から、メディアは自立、独立採算へと180 度転換させられた。新聞
界では生き残りをかけて激しい部数競争が起き、大きく部数をのばしたもの、逆に減らしたも
のなど順位の逆転が起こった。(4) 「ドイ・モイ」以前は100 紙に満たなかった新聞、雑誌は、
この15 年間で大幅に増えて今では600 紙を優に上回って百花繚乱の様相を呈している。(5)
ベトナムのメディアはすべて政府や各省、共産党などが発行する国営や官製で、民間の新
聞、テレビはない。450 機関が約600 の新聞、雑誌を発行している。
新聞といえば日刊紙と思われるが、ベトナムでは日刊紙はわずか5紙しかない。「サイゴン・
ザイフォン」(サイゴン解放)=ホ-チミン市党委員会機関紙=13 万部、「ハノイ・モイ」(新しい
ハノイ)」=ハノイ市党委員会機関紙=6万部、「ニャンザン」(人民)=ベトナム共産党機関紙
=4万5000 部、「ティトルン」(市場)2万部、「クアンドイ・ニャンザン」(人民軍隊)=軍機関紙、
1万5000 部(以上の部数はベトナムニ-ルセン調べ)の5紙で、大半の新聞は週2、3、4回
発行から週刊、旬刊、月刊などである。(6)
部数が多く出ているベトナムのトップ10 の新聞は「アンニンティジョイ」(世界安全)=週刊、
「コンアンTP」(公安ホ-チンミン)週刊などで(7)、新聞の大きさはタブイロイド版のものが大
部分で、街角の新聞スタンドには、色とりどりの新聞が派手なカラ-写真やカラフル見出し、
ビジアルな紙面のものが多数売られていた。(8)
4 《ドイモイによるメディアの変化》
「ドイ・モイ」によるメディアの変化についてハン・ミン・ドク・ハノイ大学教授はこう指摘する。
(1)それまでは上からの一方的な情報が相互の情報になった。メディアは人民や外国からも
情報を受け取り、意見をいうことができる「人民のステ-ジ」となった。
(2)人々はメディアによって社会問題を発見できるようになった。以前は批判や、政策への意
見を述べられなかったが、今は改革案を出すことが出来る。
(3)役人の汚職や不正摘発のキャンペ-ンなどをメディアが社会批判の役割を果たすように
なった。省の大臣や副大臣も摘発されている。
新聞、テレビには広告の掲載が認められ、独立採算の経営をとるところも出てきた。こうしたメ
ディアの変化の影響を直接に受けたのは『ニャンザン』(人民)である。同紙は党の公式見解
を伝える中国の「人民日報」、旧ソ連の「プラウダ」に匹敵する新聞で、ドイモイ以前は部数も
最も多く、ロ-カル紙はいずれも「ニャンザンの子新聞」と言われるほどのベトナムを代表する
新聞であった。(9)
ドイモイ以後、「人民のステ-ジ」と新聞を位置づけて、読者の声や意見の欄を設け連日、
市民からの投書や悩みなどを載せるようになった。
ドック・ルオン同紙副編集長は「共産党の宣伝の役割を人民が希望するようにより早く伝え
る。紙面の民主化を進め、党の汚職、腐敗などを批判する人民の声、意見の欄を設けた。ほ
とんど毎日いろんな人の意見を載せている。」と語る。
「紙面のカラ-化、レイアウトなどは10 年前と比べて大きく改善し、中国の『人民日報』は字
が小さいが、ベトナムはお年寄りが多いので活字は大きくしている。以前は社説を毎日載せ
ていた。ドイモイからは必要に応じて掲載し、特に全国的に注意を換起するときだけに載せる
ようになった」
こうした改革によって、97 年から日刊が4ペ-ジから8ペ-ジ、週刊は16 ペ-ジとなった。
「部数は日刊は20 万、週刊は14 万でを発行していおり、合計部数はドイモイの前の15 万か
ら4倍の60 万となった」(同副編集長)というが、実際は人々の共産党離れや、若者の新聞離
れの影響、また報道や紙面つくりでも「党や国のお固い公式発言や、決まりきったことしか書
かない」「党や幹部の汚職、腐敗追及の姿勢がない」(10)「政治色が強くスポ-ツ、文化、娯楽
色が他の新聞と比べて足りない」など人気はがた落ちし、部数を大きく減らした、といわれる。
ニ-ルセン調べでも、日刊は4万5000 部となっており、本当は「もっと少なく2、3万部しか出
ていない」(11)と指摘する人もおり、「クアンドイ・ニャンザン」(人民公安)同様、部数は低迷し
ているのが実情のようだ。(12)
5 《伸びる若者支持の新聞》
逆に、この間大きく部数を伸ばしたのが「トイチエ」(若者)=ホ-チミン市共産青年同盟機関
紙=、「ラオドン」(労働)=労働総連合機関紙=、「ティエンフォン」(先鋒)=共産青年同盟機
関紙=などで、若者に人気の新聞である。
中でも、「トイチェ」はタブロイド版で1975 年に創刊した時は発行部数は1万部。ドイモイの3
年前にベトナムで初めての政府からの助成がない独立経営になり、85 年からは完全に独立
した。
91 年ごろに編集方針を大転換して若者に合わせマンガやイラストをたくさん取り入れて紙面
をビジュアルにし、党幹部の汚職、腐敗、不正を追及するキャンペ-ンを精力的に行った。改
革を大胆に主張し、汚職を徹底的に追及する調査報道では他紙を断然リ-ドして人々から支
持されている。(13)
いわば、改革派の旗手的なメディアで、文化面でも若者好みのポピュラ-ミュ-ジックや映
画、エンタ-テイメントの記事を充実させて、人気随一の新聞に発展した。(14)今では、週4回
(火、木、金、土)発行で28 万7000 部(このうち4万5000 部が注文による印刷)、95 年は16
万だったので、ほぼ5年で倍増だ。来年1月からは日刊化の計画で新しい印刷工場を建設中
だ。(15)
ヒュン・ソン・フォク編集局次長は「ドイモイを実現していくのには困難が伴う。党幹部、役人
の汚職や不正のキャンペ-ンは人民のメディアとして告発している。将来の国を担う若者にと
って汚職の追及は必要なことだ」と語る。
「トイチェ」はホ-チミン市などを中心とした地方紙だが、「ティンエンフォン」(先鋒)は全国紙
で人気が高い。ドイモイ以前は週刊で2万部。独立経営となり、1987 年から週4回(火、木、土、
日)発行になり、部数も15 万、20 万部に急増している。来年からは週6回に増やすという。
スアン・ナム編集長は「ベトナムの青年の声を代表して書いている。若者が一番興味を示す
記事は、農業であれ商売であれ成功物語であり、いかにリッチになるかということだ」といい、
この種のニュ-スを多く取り上げて、汚職の摘発記事もキャンペ-ンしている。
ドイモイ以後の編集については「それまでは政府から資金をもらっていたので政府から依頼
されたものばかりを書いてきた。読者には関心がなかったが、ドイモイ以後は自立しなくては
ならないので、読者が何を望んでいるか読者の立場を真剣に考えるようになった。読者のほ
うを向いた報道をするように記者に教育、指導をしている」とゾオン・スアン・ナイ編集長は答
える。
ベトナム最大の商都・ホ-チミン市(人口約480 万人)にはほとんどの主要新聞が集中、北か
らもたくさんの新聞が進出して現在39 社の新聞が激しい販売戦争を繰り広げている。
ベトナムでは一般的には新聞の配達は郵便局が行っているが、日刊紙で13 万部と最大の
部数の「サイゴン・ザイフォン」は初めてホ-チミン市内に自前の販売店を作って配達している。
各地に代理店を募って午前2時までに新聞を輸送して5、6時に各戸に配達している。郵便局
を通すと手数料を取られ、配達がおそくなるためだ。
同紙はベトナム戦争終結直後の75 年5月に創刊され当初は4ペ-ジ、98 年10 月から8ペ
-ジに、97 年12 月からカラ-化した カオ・スアン・ファック編集長は「ドイモイ政策ををいち早
く支持した。われわれは独立採算で、国からの支援は一切ない。新聞代は月間で1200 ドン、
お金は先払いで長期間の契約のものが多いが、米500 グラムと同じ値段で、貧しいベトナム
人にとって少し高いかもしれない。毎年の収入は900 億ドン(日本円で7億円)、広告、販売は
半分半分だ。自分の印刷工場を持ってる」と語る。
このほか、「コンアン・ニャンザン」は事件、事故などを扱う警察の機関紙であり、庶民に人
気がある。部数的に一番たくさん出ている「コンアン」も事件、犯罪を扱っており、庶民からの
人気は高い。
ダオ・ズイ・クアットベトナム共産党思想文化委員会副委員長は「今では、ほとんどの新聞が
国からの支援を受けずに自立して、国に税金を支払うようにまでなった」と自画自賛する。
6 《報道の自由を厳しく制限》
このように改革・開放路線が進んでいるとはいえ、一方では言論、報道の自由は依然としてき
びしく制限されていることも事実だ。東欧革命で社会主義国が倒れる事態に危機感をもった
政府は1989 年に異例に多くの反対意見を押し切って「マス・メディア法」を制定させた。(16)
同法はマス・メディアの主体をあくまで党、国家機関、各組織の言論機関と規定し、これまで
の事前検閲は廃止したが、事後検閲は容認した。また、「ベトナム社会主義共和国に敵対し、
人民を煽動すること」「暴力の、猥褻、頽廃などの煽動」「国家秘密、軍事、安寧、経済、外交
に関する秘密の漏洩」など幅広く報道禁止条項を設けて、マス・メディアの活動許可書、記者
証の発給権限を国家が独占しきびしく統制、管理する内容になっている。(17)
メディアはすべて文化情報省の統制下にあり、党思想文化委員会は毎週火曜日に一週間
の報道内容を審議して検閲の目を光らせている。
報道の行き過ぎは当局によってチェックされ腐敗、不正の追及は一定の範囲内では認めら
れているが、97 年10 月にも「ドアン・ギエップ(営業)」紙のリン編集長が政府高官がらみの汚
職報道によって逮捕されるなど、見せしめ的な逮捕が毎年のように繰り返されている。(18)
レ・カ・フェ-共産党書記長は「メディアの商業主義は止まるどころか増加傾向にある。商業
主義に侵されたメディアを精査する必要がある」と1998 年10 月のハノイで開かれた報道関係
者会議で強く批判しており、メディアの自己規制は一層強まった。(19)
このような状況の中で、大半のジャ-ナリストは党の路線に忠実で、あるベテラン記者は
『個人の生活や政府内部の論争などの記事は書かない』としている」(20)など、メディアの自
己規制は強まっている。西側諸国の「自由な取材、報道、言論」からはほど遠い状況にあるこ
とも事実である。(21)
ただし、こうした社会主義の宣伝と報道の自由のジレンマが起きていること自体、ドイモイ以
前は宣伝一方だったことを思えば、一歩前進でやっと報道が論議される段階にさしかかった
といえるであろう。
「メディアは絶対的に共産党に従属する」から「事前検閲はなくなったが、事後検閲になった
ので、メディア側は一層自己責任が高まり、余計に自己規制が働く」となり、結果的に「従来に
比べれば、ある程度自由にものが言えるようになった」というのがこの間の変化といえるであ
ろう。(22)
7 《テレビの現状》
一方、放送の状況はどうなのだろうか。放送の主流はラジオからテレビの時代に移りつつあ
る。テレビを所有する世帯はベトナムの全所帯の70%、都市部では90%、ハノイ、ホ-チンミ
ン市では98、96%に達している。ビデオもホ-チミン市では3割が持っているという。(23)
テレビを唯一全国放送をしているのは国営の「ベトナムテレビ」(VTV)で、首相府に直属す
る省レベルの組織で、放送局であると同時に、地方局を監督、指導する監督官庁でもある。V
TV(チャンネル数4)以外に各省や主要都市の人民委員会が管理、運営する地方局が61 局
ある。(24)
VTVは衛星を利用して放送し、VTV1はニュ-ス、情報中心で1日12 時間、VTV2は科学
情報チャンネルで外国語教育の放送が行われている。ロシア語、日本語、英語、中国語など
若者に大変人気で10 時間放送。VTV3は文化、スポ-ツ、映画、娯楽チャンネルで14 時間
放送、VTV4はタイのタイコム3の衛星放送を利用しており、外国人と外国に住んでいるベト
ナム人向けにドイモイの政策、ニュ-スなどを中心にした番組を1日4時間を6回繰り返して
放送している。以上4チャンネル合わせて1日合計42 時間放送を行っている。(25)
自社番組の比率を2000 年までに50%にするという計画があったが、映画部門では外国番
組60%、自社は40%に止まっている。日本からの連続ドラマも95 年に「おしん」を週1回90
分放送して高視聴率を獲得、翌日は「おしん」の話題でもちきりになるほどの大評判をとった。
(26)
その後「いのち」「北の国から」「スチュアーデス物語」と次々と放送したが、「米国、ヨーロッ
パの映画と比べても日本の映画が一番高い。『おしん』は30 万ドルもかかった。中国映画は
高くても2、3万ドルだけです。どうしても中国映画が多く。日本の映画はベトナム人に強い印
象を残したのに残念です」とグエン・ヴァン・フオンVTV国際部長は語る。
VTVにとってドイモイ以後は広告よりも、番組の内容、技術変化が大きい。他の自立、独立
採算に移行したメディアと違って広告収入はすべて政府に収め、経費は国から受け取る仕組
みで、経営は完全に国営の形態である。(27)
VTVは日本からのODAの資金など320 億円をかけ10 年計画で新しい28 階建ての放送セ
ンタ-(17 のスタジオ設備)を目下建設中だ。
一方、ホ-チンミンテレビ(HTV)は2チャンネル、毎日35 時間、日曜日には42 時間放送し
ている。7チャンネルは娯楽、広告で1日に17 時間を放送、9チャンネルは教育、ニュ-ス(広
告なし)などだ。ホ-チンミン市民はHTV、VTVの計5チャンネル見ることができる。(28)
テレビでの広告放送は放送時間の6分の1と定められており、フエン・バン・ナムHTV副局
長は「HTVの経費のうち国からの支援はその3分の1で、残りは全部広告からのもの。ドイモ
イ以降、経済が成長して、広告収入が増えたことによって、マ-ケットの要求と国の要求をう
まくバランスが取れるようになった」という。
スポンサ-の広告の出稿比率を見ると、HTVが60%でVTVの40%を大きく上回っており、
人気のほどがわかる。また、地方局は1から3チャンネルの放送しており、ニュ-スはVTVの
もの、他の番組もVTVや他局や外国から購入したり、自主番組の割合は20%くらいという。
(29)
8 結び-開放と党規律のはざまで-
今回の新聞、テレビ、関係者のヒアリングを通して、ベトナムメディアの発展ぶりとその息吹を
確かに実感した。それはベトナムの新聞業界に市場メカニズムが導入されたことによって、国
から自立への新聞制作の資金源の変化、競争原理が機能し始めて、新聞や放送番組が商
品としての性格を持ってきて、新聞紙数や種類の急増、販売システムの変化などの新しい現
象が現れている、ことである。(30)
しかし、社会主義体制下という強い制約の中で、政治的なイデオロギ-や規範を強化する
姿勢は相変わらず続いており、管理されたメディアの漸進的、ごく部分的な開放でしかない、
ことも事実であろう。 ベトナムのメディアが置かれた状況は改革・開放の「ドイモイ政策」と党
規律の間で大きく揺れている、ベトナムメディア界で現在進行していることは一種の《ねじれ
現象》である、といえるであろう。(31)
それは「脱イデオロギ-」と「党規律」、「経済面での開放」と「政治面での統制」などの対立
概念の中でのゆれ動きであり、緊張関係であり、全体が二局に分裂しているというものでは
ない点に特徴がある。
「党の論理」と「市場の論理」の奇妙な混交であり、社会主義的市場経済という逆説的な政
治・経済体制から必然的にもたらされた現象である。(32)
今後、市場経済化の波はより高まり、マスメディア界の競争はさらに激化して、経営の自己
責任、紙面や放送番組の多様化は一層進であろうが、党、政府からの強い規律ののもとにあ
るベトナムメディアが一挙に改革開放に進ことはないであろう。
しばらくは《ねじれ現象》の中での矛盾、妥協、錯綜した動きが続くとみられる。
〔注〕
(1)坪井善明『ヴェトナム-豊かさへの夜明け』岩波新書(1994 年刊)161-162P
(2)W・シュラム編「マスコミの自由に関する四理論」(東京創元社、内川芳美訳 1973 年刊)
(3)坪井前掲書 164-165P
(4)「ドイモイの風受けつつ民主化には距離」『新聞研究』97 年6月号
(5)ダオ・ズイ・クアットベトナム共産党思想文化委員会副委員長は「ドイモイ以前は120 から
130 の新聞がありました。今は600 近い新聞社があります。印刷の機関は全国で110、人口の
80%に毎日の新聞が配られる」とインタビュ-に答えた。
(6)各新聞の部数、日刊、週刊、旬刊などについては各資料でもバラバラで、信頼性の高い
ものが今回も入手できなかった。発行部数については「ベトナム新聞年鑑」が毎年発行されて
いると聞いているが、今回現地でも手にはいらなかった。「VIETNAM MEDHIA DERECTORY」
(2000 年版)は国会図書館アジア資料室にもあるが、これには各新聞の部数は載っていない。
この日刊紙の新聞、部数は「ベトナム・ニ-ルセン」による調査デ-タである。
(7)「ベトナム・ニ-ルセン」の調査デ-タ
(8)新聞は街角の路上で並べて売られているか、郵便局内が新聞スタンドにもなっている。
(9)「ニャンザン」(共産党中央機関紙)は革命のための新聞としてホ-チンミン首席が1925
年に中国・広州で創刊した「青年」からきている。1951 年に題字を「ニャンザン」と変えたが、こ
の間も何度か題字を変えて発行した。ベトナム戦争中には同新聞の記者が全面的に参加し、
4人の記者が戦死した。ベトナムの革命における「ニャンザン」の果たした役割は大きく高い
評価を得ており、ベトナムを代表する権威ある新聞となっている。2001 年3月31 日に50 周年
記念日となる。
(10)「マスコミとドイモイ」ヴィン・クエン(今村宣勝訳)、アジア読本「ベトナム」(1995 年11 月
発行、河出書房新社)によると、「今や、多くの読者にとっての新聞の魅力は、官僚制や汚職、
社会問題等を提起してこれらの問題に立ち向かおうとする記事にある。逆にこれらの問題を
避けようとする新聞は読者に見はなされることになる。1993 年中に『ニャンザン』紙だけで大
小合わせ100 件以上の問題を提起している」
(11)前掲書「マスコミとドイモイ」によると、「『ニャンザン』は1日2、3万部しか発行されてい
ない。『ラオドン』『トイチェ』など読者の多い新聞も1日の発行部数はわずか8万から12 万部
である」とある。これは93、94 年の部数と推察されるが、新聞社や党が発表する公式の数字
との間には大きな開きがある。今回は客観的な視聴率調査会社「ベトナム・ニ-ルセン」の数
字を優先した。「東南アジア要覧」(1992 年版)では『ニャンザン』の発行部数40 万部とある。
(12)ドック・ルオン「ニャンザン」副編集長は「『ラオドン』『トイチェ』は人気が高いが、その対
抗策は…」との質問に対して、「『ニャンザン』は政府、共産党の声です。必ず載せなければな
らないニュ-スは決まっている。国会の報告、政府の政策は全部載せなければならない。他
の新聞のように部分的というわけにはいかない。もう一つは広告は紙面の広さで10%までし
か載せることができない。『ニャンザン』だけは忠実に守っているが、他の新聞は破っているも
のもある。私たちの役割は特別で宣伝できない」と答えた。
(13)朝日新聞2000 年4月14 日付15P「サイゴン物語」では、最近の「トイチェ」の調査報道と
して、ホ-チミン市の国営旅行会社と国営銀行を舞台にした汚職事件は横領総額3億ドル以
上、77 人の公務員、党員らが起訴され99 年8月、銀行副総裁ら6人に死刑、8人に終身刑の
判決が言い渡された、と報じている。
(14)坪井前掲書143-144P
(15)「トイチェ」と伝統的な「ニャンザン」の紙面建てを比較してみた。ペ-ジ数も、若者に特
化したニュ-ス、エンタ-テェイメントなど質量ともに読まれる内容を「トイチェ」は持っているこ
とがわかる。
「ニャンザン」(8月25 日付) 「トイチェ」(8月24 日)
1面 総合面 1 総合面
2面 経済 2 ニュ-ス
3面 国際 3 ニュ-ス
4面 教育と科学 4 生活、社会
5面 社会 5 生活、社会
6面 文化、文芸、スポ-ツ 6 若者の生活とリズム
7面 国際、スポ-ツ、文化 7 親孝行といい生活の生涯
8面 国際ニュ-ス 8 文化、芸術、パ-ティ、エンタ-テイメント
9 同上
10 教育
11 経済と投資と発展
12 読者と若者
13 体育、スポ-ツ
14 ニュ-ス
15 世界
16 世界
(16)鮎京正訓『ベトナム憲法史』日本評論社(1993 年刊)251P
(17)同上 253-255P
(18)この事件については「アムネスティ-」などの人権団体からも強く批判されたが、リンの
公判は2度延期され1年後の初公判で懲役1年余の実刑判決があり、リンは未決拘留期間に
よって即日釈放された。
(19)89 年には「FEER」誌10 月26 日号でM・ハ-バ-ト記者はベトナム政府の言論界への
姿勢について次のように指摘した。「ベトナムでは率直な発言を行うジャ-ナリストや知識人
に対する締めつけが次第に増大している。中部の文芸2誌が最近、発禁処分にされたほか、
ホ-チンミン市の2大紙の『サイゴン・ザイホン』『トイチェ』が「役人の汚職や無能など社会問
題を鋭くついてきた」ために編集長が交代させられた」。以上は「東南アジア要覧(1990 年版)
社団法人東南アジア調査会編)
(20)「新聞協会報」1998 年10 月13 日付『変容するベトナムの新聞』
(21)ベトナム人編集者で大学教授ドアン・ベト・ホアン氏に対して世界新聞協会は1998 年6
月に報道と出版の自由に最も貢献した人の「自由のための金のペン賞」を贈った。ドアン氏は
米国留学後に南ベトナムに帰り仏教大学副学長になり、サイゴン陥落後、76 年に再教育のた
め逮捕され拘留された。88 年に釈放されたが、「自由フォ-ラム」を設立して機関紙で民主化
を訴えて、90 年に再び逮捕されていた。98 年に9月に同氏は釈放され、米国に向かった。
(22)検閲に対してはドク・ルオン「ニャンザン」副編集長は「編集長は政府に責任を持つ。ベ
トナムのプレス法、編集委員会に責任を持つ。掲載する前に政治局にみせることはない。
1951 年に「ニャンザン」に名前を改名した書記長は編集長を兼ねており、今のところ編集長は
中央委員の一人なので共産党に責任を持つことになっている」カオ・スン・ファック「サイゴン・
ザイフォン」編集長は「編集方針について党と相談するのか」との質問に対して「編集にも紙
面にも責任を持っており、党に相談するようなことはない。共産党から派遣された人が編集し
ているのでそんなことはない。私が責任をもってやっている」と答えている。
(23)フュン・ソン・フォクHTV副局長のインタビュ-より。
(24)VTVの広報資料「VIETNAM TELEVISION」、「アジアの放送事情・ベトナム」(2000 年4
月)などより。
(25)「電波のもたらす文化」今村宣勝、前掲書「ベトナム読本」「『おしん』は今までのホンダ
のバイク、トヨタの自動車などの先進工業国、経済大国の日本のイメージを大きく変えた。日
本の生活習慣、文化、社会について、明治の日本の農村から太平洋戦争、戦後の混乱から
経済発展していく中で展開される『おしん』の人間ドラマとベトナム人は祖国ベトナムと自分た
ちのの発展を重ね合わせてより一層、日本に対して親近感を持つようになった」と指摘してい
る。
(26)アジア経済研究所編『第三世界のマスメディア』,明石書店1995 年12 月刊「ドオイモイ
のマスメディア」
(27)前掲「VIETNAM TELEVISION」
(28)ホ-チミンテレビ(HTV)は1973 年5月にスタ-ト。サイゴン解放の1日後から放送して、
古い設備をそのままもらった。それ以前は2チャンネルで、アメリカ軍人用と親米政府のチャ
ンネルがあったが、これを接収してベトナム政府として放送を開始した。HTVは従業員900 人、
公務員600 人、契約社員300 人、スタジオ2カ所、ニュ-ススタジオ4カ所がある。
(29)前掲書「電波のもたらす文化」
(30)昭和女子大学近代文化研究所「学苑」第722 号(平成12 年7月)所載-渋澤重和「建国
50 年の中国マスメディアの動向」(下)185,186P
(31)「城西国際大学人文学部紀要」第8巻第2号(2000 年3月)所載-柴田寛二「調査報告・
改革・開放化の中国マスメディアの現状と展望」18,19P
柴田はこの中で「中国のマスメディアの動向と現状を分析しているが、同じ社会主義
国もメディアとして、10 年以上遅れて追いかけているベトナムメディアにも適用できるものと思
われる」
(32)同上 19P
(33)日本大学法学部「経済研究」第37 巻第3号(平成12 年12 月)所載-大井信二「ドイモ
イ以後のヴェトナムのメディア政策」143,144P
<本稿は、『静岡県立大学国際関係学部研究紀要』(第13 号、2001年3月刊)に掲載され
た>

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