『有事法制とジャーナリズム』(上) ―メディアがいつか来た道―
『有事法制とジャーナリズム』(上) ―メディアがいつか来た道―
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之
米国によるイラクへの軍事攻撃が2003年初めと目前に迫ってきた中で、政府・与
党は有事法制三法案(武力攻撃事態法案、自衛隊法改正案、安全保障会議設置法
案)と個人情報保護法案について秋の臨時国会では成立を見送る方針(『毎日』9月
22日朝刊)を固めたと言う。これが事実だとすれば、これまで反対してきたメディア各
社には一時的な猶予を与えられたことになる。
先の通常国会に提出された有事法制の審議は政府、野党ともわずか衆、参議院で
百時間というほとんど審議らしいものもない状態で、そのまますんなりと通過する可能
性が高かったが、鈴木宗男、郵政改革、防衛庁の情報公開リスト作成事件などの混
乱とあおりで吹き飛び、かろうじて先送りの形となった。
有事法制に対する通常国会でのあまりの緊張感のない対応、報道ぶりを見ている
と、個人情報保護法などマスコミ規制法案にはあれだけ新聞・テレビ・出版などマスコ
ミ全体で反対運動が盛り上がったのと比べると、温度差がありすぎる。
国民全体を戦争に巻き込み、平和主義国家からの180度度の転換となる戦争準備
法、戦争国民総動員法とも言うべき『有事法制』の影響の大きさ、危険性の認識が政
府・与党、野党、マスコミともにいかに欠如しているか、特にメディア側の有事法制の
危険な本質についての認識が欠けている。
個人情報保護法、人権擁護法案など以上に、有事法制は国民の自由と人権の全般
にわたって恐るべき脅威となるし、マスコミには死刑宣告に等しい言論統制法になる
であろう。
なぜ、今、有事法制(戦争準備法・戦争動員法案)なのか。どこの国が日本に攻めてく
るのか。小泉首相は平時にこそ、「備えあれば憂いなし」を強調し、もし、日本が武力
攻撃された場合、現行法制では、自衛隊が迅速に行動できないし、人権や財産権が
侵害される恐れが大きい。有事の場合には、首相の権限を強め、ある程度の私権の
制限もやむ得ない措置が必要であり、「平時の今こそ、危機対策をとっておくべきだ」
と、提案理由を説明した。
野党もこの点では強く異諭を唱えなかった。大いに論議して日本の平和と安全を高め
ようと言うもので、有事法制の基本は「日本有事」を想定したものだ。
しかし、「なぜ今、有事法制か!」と言う点では、他国からの武力攻撃、日本攻撃、
日本有事の可能性について政府自身が否定した。小泉首相は「わが国に脅威を与え
る特定の国は想定していない」(2月8日)と答弁しており、北朝鮮の脅威にしても、拉
致問題や、不審船などがきっかけで、戦争状態に発展して、日本が武力攻撃を受け
る可能性を否定している。
問題は武力攻撃事態法案の中身で、日本への武力攻撃を三つに分けて想定してお
り、第2条(定義)では「武力攻撃事態」は①武力攻撃(②武力攻撃のおそれのある場
合を含む)が発生した事態、又は③事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事
態をいう、となっている。
この①と②が日本が攻撃されて守る場合、③が日本以外の有事を想定しており、周
辺地域で不穏な動きが起きたり、起きそうになった時の米軍の行動である。
米国のイラクへの軍事行動が差し迫った事態となってきたが、その後には「悪の枢
軸」と名指しした北朝鮮が控えており、有事法制の真のネライはこの米軍による「朝鮮
有事」などを想定したもので、決して「日本有事」なのではない。
なぜ 「日本有事」を基本とする有事法制なのに、「朝鮮有事」で発動できるのか。米
軍が北朝鮮を攻撃すると、北朝鮮は当然反撃に出ることになり、米軍に基地を提供し
ている日本への「武力攻撃の予測事態」が起きる。
この段階で、内閣総理大臣が「予測される事態③」と認定すれば、「なぜか」と問われ
ても「米軍からの高度の機密情報によるもので公表できない」となって、有事に突入す
る。総理は認定後、国会の承認を求めることになってはいるが、結局、事後承認とな
る。
99 年に成立した周辺事態安全確保法では「放置すれば武力攻撃に至るおそれのあ
る事態」 (周辺事態)に、自衛隊が米軍に食糧や水などを後方地域で供給できる法
制を整えた。ところが、有事法制が完備すると、周辺事態と「武力攻撃が予測される
事態」とが重なる。中谷元防衛庁長官は国会答弁では共通すると述べている。
これまで政府は「個別的自衛権(日本有事)は認められるが、集団的自衛権(周辺有
事)は憲法上認められない」との見解だったが、武力攻撃のおそれというあいまいな
概念を導入することによって、個別的自衛権をさらに拡大して、集団的自衛権、周辺
有事まで押し上げをはかったのである。米軍が北朝鮮を攻撃する場合、日本の支援
(兵姑)活動が欠かせない。そのための有事法制が日本にないために、今回の導入
になった。
同案の第三条の「対処の基本理念」には「日米安保条約に基づいてアメリカ合衆国と
の緊密に協力しつ・・・」とあり、「対処措置」には「自衛隊と安保条約に基づく米軍の
行動を円滑かつ効果的に行なわれるために実施する『物品、施設、又は役務の提供
その他の措置』(便宜供与等の措置)などと規定している。
米軍への物品供与は対処措置に含まれているが、米軍の作戦行動は含まれておら
ず、米軍は対処方針や国会承認に拘束されず、自由に作戦展開できる仕組みになっ
ている。この法案の真の目的は、米軍の戦争行動にフリーハンドを与えて自衛隊、国、
国民を総動員して支援することにあるものといえる。
さらに問題なのは法案では、首相に絶大な権限を与えて、地方自治体や政府が指定
する公共機関「日本銀行、日本赤十字、電気、ガス、鉄道、NTT などの通信、空港な
ど輸送など、民間企業にも戦争実施の義務を負わせ、従わない場合は強権を発動で
きる点である。自衛隊法改正案では土地、建物、物資の収容、徴用、徴発などの命令
に拒否、違反した場合など協力しない国民には罰則が盛り込まれており、政府、自治
体、公共機関、民間企業、国民もすべて一体となった戦争協力の総動員体制を作る
内容である。
マスコミ各社も例外ではなく、NHK の指定公共機関以外の民放、新聞などの扱いにつ
いて5月9 日の委員会で、福田康夫官房長官は「 表現の自由や報道を規制する意
図はないが、新聞社がインターネットを使って、また通信社も(緊急事態の伝達など)
その任に当たっていただくことは当然考えられる」(『毎日』5月10 日付朝刊)と語リ、
報道機関全体の協力義務を示唆しており、マスコミ全体が国の強制的な統制機関化
するおそれが大きい。
今回の有事法制は国家権力が国民の私権を全面的に侵害した、かつての「国家総
動員法」とウリ二つである。戦前の十五年戦争への道を振り返ると、一挙に軍国主義
によって、言論の自由が封殺され、マスメディアの国家統制が完成したものではない。
一歩一歩状況が進み、メディアのチェックが弱まり、状況に慣れて、まだまだ大丈夫と
タカをくっていると、いつの間にか、戦時体制から戦争へと突入して、言論の自由は身
動きとれないものとなり、『マスメディアの死んだ日』を迎える。
今回の有事法制、そしてメディア規制法に対するメディア側の対応を見ていると一九
三八(昭和13)年の国家総動員法が公布されるまでの過程はそっくりだ。約六十年
前に起こったことをもう一度振り返ってみることは大いに歴史の教訓となるだろう。
日中戦争が始まり、いよいよ泥沼に入った翌一九三八年(昭和13)二月、長期戦
を戦うには、国家と国民の絶対的な協力が必要である、として陸軍の主導で『国家総
動員法』が議会に提出された。
国家総動員法は「戦時に際し、国防目的達成のため国の全力を発揮できるよう人
的、物的資源を統制運用する」ことを目的に、国民徴用などの労働統制、物資の生産
など物資統制、会社の設立、合併を制限、金融統制などあらゆる分野について、政府
が必要と認めた時は、国会審議など一切行わずに勅令、省令などで 発動できるとい
う広範な統制権を政府に委任するもの。
戦争遂行のために、政府が「白紙一任」で全面的に統制する権限を受け取るもので、
この総動員法がいかに徹底したものだったかは、立案した企画院総裁(第二次近衛
内閣当時)星野直樹が「統制法規として、世界に類例のない徹底したものだ」と述べ
ているほどだ。
この総動員法によって政府に新聞の生殺与奪権を完全に握られた。当初案には「必
要あるときは、勅令に定めるところにより、新聞紙の制限又は禁止や発売、頒布の禁
止、差押えが出来る」「一ヵ月に二回以上、新聞紙の発売、頒布を禁止した場合、そ
の新聞の発行を停止する」という規定が盛り込まれていた。
この内容を知った新聞界は驚いた。もし、これが実施されれば新聞への〝死刑宣告
〃そのもの。新聞の親睦団体「二十一日会」は各新聞のトップが集まり、内務省、企
画院、近衛首相らに①国家総動員法から、新聞、出版関係の条項を削除する②これ
が不可能な場合、少なくとも二回以上の発禁で停止という非常識な条項を削除する
ーなどを要求した。
これが効を奏したのか、国会に提出された総動員法からは「発売、頒布禁止の行政
処分、二回以上受けた新聞や出版物は発行停止」という項目は閣議で急遽削除され、
新聞界はホッと胸をなでおろした。正式の提出法案には「政府は戦時に際し国家総動
員上必要ある時は勅令の定むる所により、新聞紙の他の出版物の掲載について制
限、又は禁止を為すことを得など・・・」(第20条)とあった。
国会に提出された衆議院特別委員会で議員の質問に対して陸軍省の説明員・佐藤
賢了中佐の「黙れ事件」が起きた。国会で議員に対して「黙れ!」とドナリつけたという
前代未聞の事件で、当時の陸軍の横暴ぶりと軍が議会を完全に制圧していたことを
示した事件であった。
結局、「支那事変に直接これを用いるものではない」と近衛首相が言明したため、各
党は賛成に回り、政友会、民政党、唯一の合法無産政党だった社会大衆党までも一
致して、三月十六日に総動員法は全く無修正で可決された。今回の有事法制への野
党側の取り組みの鈍さはダブって見える。
ところで、今次支那事変では発動しないという近衛首相の約束もわずか三カ月後
には廃棄されてしまった。国家総動員法によって突破口が開かれ、学生、生徒の勤
労動員、女子挺身隊、労働者の賃金、労働条件の、労働条件の規制、労組の解散、
「産業報国会」の設立、企業の合併、合同などの戦時体制が実施されていった。
一方、新聞側は当初、言論の自由を規制する法案にばかり目を向け、警戒、批判し
た。政府は総動員法二十条について「これは単に法案を作っただけで必要のない限
り実施をさけたい」と弁明し、「抜かざる伝家の宝刀」と申し開きしていた。そして法案
の一部を早々に引っ込めたのは、別のネライが隠されていた。
問題は二十条ではなく、第十六条三項、第十八条一項の二つに重大な意味があった
が、新聞界はその点に全く気づかなかった。対岸の火事とみていたこの二つの規定
に新聞の企業統制を強制する法的根拠が隠されていた。
【第十六条の三】国家総動員法上必要あるときは‥…・事業の開始、委託、共同経
営、譲渡廃止もしくは休止、法人の目的変更、合併、解散の命令をなすことを得。
【第十八条の一】政府は・・同種もしくは異種の事業の事業主、その団体に対し、当該
事業の統制、統制のためにする団体または会社設立を命ずることを得。
すぐ後の「新聞連盟」や「一県一紙」に追い込まれる新聞の統廃合のキーワードはこ
の中にあったが、新聞は第二十条の「言論の自由」の方に目を奪われ、新聞の企業
体、事業としての生殺与奪をにぎられるこの二点には全く気づかなかった。
政府側から、この提案がなされた時は有無を言わさず統合が決まったのである。戦
争遂行への〝白紙委任状″を受け取った総動員法の新聞への落とし穴は別の所に
隠されていた。
「新聞事業令」による新聞の統廃合は一九四二年(昭和17)から始まった。政府は全
国の新聞社の整理統合方針を一県一紙主義で押し進め、三七年には全国で一〇〇
〇紙以上あった日刊紙が各県一紙に強制的に統合され20分の一の五十紙余りにつ
ぶされた。メディアは口を封じるどころか、殺されてしまったのである。今ある全国紙
五社体制、各県ほぼ地方紙一紙という新聞体制はこの国家総動員法によって出来上
がったものである。
メディアは言論の自由を直接ターゲットにしているマスコミ規制法案ばかりに目を向け
るのではなく、メディア統制にさらに大きい破壊性をもつ有事法制の危険性を見抜く
必要がある。
<『マスコミ市民』2002年10月号に掲載>
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